「例えばさ。今の私のあなたへの愛情から、あなたと出会って初めて知った私の恋を引いたら、何が残るんだろう?」
穏やかな午後。食後の微睡みに沈みかけていた意識が、彼女の唐突な言葉で一気に覚醒する。
目を瞬いて、彼女を見た。真剣な眼差しで考え込む姿に、何と声をかければいいのかを迷う。
「そもそも愛とか恋とかって、本当にあるのかな?目に見えないし、ただ思い込んでいるだけなのかな」
彼女はいつも、答えのないことを考えている。折角先の見えない死の病から解放されたのだから、もっと幸せに過ごしたらいいだろうに。
そうは思うが、そんな所も可愛いと思ってしまえるのだから、愛とは不思議なものだ。苦笑して、気怠い体を起こして彼女を見た。
「あのさ。答えにはならないかもしれないけれど」
そう前振りをして、彼女の煌めく瞳を見ながら微笑む。
「愛という真心から、恋という下心を引いたら。残るのはさ」
ふと思い浮かぶ、誰かの背。
少しでも伝わればいい。
そんなことを願いながら、思いを口にした。
「それはきっと、祈りだと……そう思うよ」
「祈り?」
彼女は首を傾げ、自身の両手を見た。
手を組んで、目を閉じる。真剣な表情をして、何かを思っている。
ややあって目を開けた時。彼女は一瞬だけ哀しみを目に浮かべ、そっと微笑んだ。
「よく分からなかった」
でも、と彼女は窓の外を見る。目を細めて空を見上げ、呟いた。
「兄さんはきっと……誰かのことを、ただ愛しているんだね」
その言葉に、彼女が何故唐突に愛や恋を語り出したかを理解した。
彼女の兄は、毎日欠かさず社で祈りを捧げている。誰の記憶からも抜け落ちてしまった誰かを、今も思い続けているのだろう。
「この前ね、何を祈っているかを聞いてみたの……あの子が幸せでいてくれますように、だって」
「そっか……」
「あの子は誰なのかは、何も言ってくれなかったけれど」
何も言わず彼女の側に行き、そっとその体を抱き締めた。
愛しい温もりを感じながら、彼女の兄が想い続ける誰かの姿を思い浮かべてみる。けれどそれは人の形を取ることもできず、霞んで解けて何も残らない。
「兄さん、何だか前と変わった気がする。必死で何かに縋ってたのがなくなって、穏やかさというか、静けさが残ったみたいで」
ただ頷いた。
彼の変化には、誰もが気づいている。それだけ彼は必死だった。
溢れ落ちていく記憶の欠片を掻き集めるように駆け回り、社に嘆願した。それを変えてしまったのは、きっと自分だ。
目を見開き、崩れ落ちる彼の姿。
――君だけは、覚えていてくれると思っていた。
微かな呟きを、忘れることはないのだろう。
その時感じた強い憎しみ、怒りにも似た感情も含めて。
「愛から恋を引くって、とても難しいな。私にはきっとできない。相手の幸せだけ願えないもん。二人で幸せになりたい」
「僕も同じだよ。一緒に幸せになりたい」
二人で一緒に。
願いを込めて告げれば、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
ふと、彼女は何かに気づいたように小さく声を上げた。こちらを真っ直ぐに見つめ、腕を伸ばして抱きつく。
「何となく分かった。祈りって、相手の幸せを願うことだ。そこに恋っていう、自分の幸せを願うと、二人の幸せを願う愛になるんだよ」
ふふ、と声を上げて彼女は笑う。
彼女の答えに、目を瞬いた。遅れて言葉の意味を理解し、彼女を強く抱き締め返す。
ただ胸が痛かった。形にならなかった誰かの姿が、一瞬だけ控えめに微笑む、自分によく似た少女の姿を浮かばせた気がした。
彼女を抱き締めながら、その姿を求めて自分の傍らを見る。
そこには誰もいない。浮かんだはずの姿も千々に解けて、何一つ残らない。
「どうしたの?」
不安げに顔を覗き込む彼女に、何でもないと笑ってみせる。
何もない。残ったものは、何もなかった。
込み上げる切なさに泣きたくなるのを誤魔化して、彼女の額に唇を触れさせた。
その夜、夢を見た。
特別な何かがある訳ではない。日常の続きのような、けれどもとても暖かな、幼い頃の夢を。
母と手を繋ぎ、もう片方もまた誰かと繋いでいる。視線を向ければ、その誰かは自分と同じ顔をしていた。
父と手を繋いでいるもう一人の自分が、笑いながら繋いだ手を揺らす。前髪に差したコスモスを模ったピンが、ゆらりと揺れていた。
強く風が吹き抜けて、思わず手を離した。気づけば両親の姿はなく、もう一人の自分とふたりきり。
その顔は影になって、もう見えない。白のスカートを揺らし、こちらに背を向けて去って行く。
「どうして……」
溢れ落ちた言葉に、柔らかな声が返る。
「彼のことが、好きだから。だから祈るの。彼の願いが叶うように」
声が、風に紛れて消えていく。体が端から解けてしまう。
手を伸ばすことも、声をかけることもできずに、ただ見つめていた。
からん、と鈴の音が聞こえた。
目を瞬けば、そこにはもう誰の姿もない。誰かがいたという記憶すら、薄れてなくなっていく。
じわりと白く霞み出す世界に夢の終わりを感じながら、両手を合わせ目を閉じた。
あの子は、献身を形にしたような少女だった。
控えめで、優しくて、暖かい。大切だったはずの半身。
彼女が考えていた愛から恋を引いたその答えは、きっとあの子のことをいうのだろう。
自分には、辿り着けない。彼女を愛してしまった自分は、恋という名の執着を手放せない。
唇が震える。けれどそれは言葉になる前に、微笑む誰かが止めた気がした。
20251015 『愛ー恋=?』
10/16/2025, 9:58:16 AM