sairo

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目の前が見えないほど深い霧の中を、当てもなく歩き続けている。
一体どれだけの時間が経ったのだろうか。変わらぬ景色からは、時間の流れを察することはできない。
立ち止まり、息を吐く。胸に手を当てると、とくとくと暖かな鼓動が感じられ、密かに安堵した。
まだ生きている。まだ歩き続けることができる。
顔を上げる。再び足を踏み出せば、霧の向こうが僅かに揺れた気がした。
初めて見る変化に、そちらに向けて歩き出す。ゆらゆらと揺れる何かが輪郭を纏い、誰かの影を形作っていく。

不意に、強い光が差した。
突然の光に目を細めながらも、影を見続ける。
正確には、目を逸らせなかった。
光によって大きく、濃くなった誰かの影。

その頭には、二本の角が生えていた。



「――という、夢を見ました」

両手で持ったマグカップに息を吹きかけながら、少女はそう締め括った。

「そうか……」

何とも言えない表情で相づちを打つ男に、少女は咎めるような視線を向ける。期待していた答えではないだろうことは少女の表情が物語っている。だが突然家に押しかけられ、前触れもなく夢の話をされた男としては、それ以外に言えるはずもない。

「ちゃんと人の話を聞いてました?」
「聞いてた。聞いてて、それしか言葉が出てこないんだよ」

男の言葉に少女は頬を膨らませるが、何も言わずにマグカップに口をつけた。すっかり機嫌を損ねてしまった少女に、男は疲れたように溜息を吐いた。

「所詮は夢の話だろう?何をそんなに気にする必要があるんだ」
「だって夢の中で見た影は、誰かに似ている気がしたんです」

問いかければ、少女は膨れながらも呟いた。
視線だけを男に向ける。その目は、表情とは裏腹に酷く凪いでいた。

「――叔父さんに、似ていました」

小さな声に、男は目を瞬いた。
遅れてその言葉の意味を理解して、男の眉が僅かに寄る。それを気にすることなく、少女は静かに言葉を続けた。

「叔父さんだと思ったから、手を伸ばしたんです。なのに影は逃げていってしまった。まるで、霧の中から外に出ることに怯えているみたいに」

ゆらりと立ち上る湯気に、少女は視線を向けた。
夢の中の霧よりも、遙かに薄いその湯気をぼんやりと見つめながら、少女はふっと息を吐く。
息で湯気が散り、再び立ち上る。それを繰り返す少女の表情は凪いでしまって、何を思っているのか察することができない。

「所詮は、夢の話だろう」
「そうですね。夢の話です」

そう言って、少女は男を見た。湯気越しに男の姿が揺らぎ、一瞬だけ二本の角が現れた。
少女は、それを見ても表情を変えない。ただ真っ直ぐに男を見つめ、だから、と呟いた。

「ただの独り言だと思って、忘れてもらっていいんですけど……全部から隠れる必要はないと思うんです。周りと姿形が少し違うから、在り方が違うからといっても、それは恥ずかしいことじゃない。人は違うものを怖れて排除しようとする生き物だけど、人類すべてがそうだという訳でもない……最初から全部怖がって引きこもっているのは、とても勿体ないことですよ、叔父さん」

息を吐き湯気を散らして、少女はマグカップの中身を飲み干した。途端に顔を顰めて、舌を出す。どうやら舌を火傷したらしい。
男は詰めていた息を吐いて。静かに立ち上がった。台所へ向かい、コップを手に冷凍庫を開ける。氷を入れ、今度は冷蔵庫からミネラルウォーターを出してコップに注ぎ、部屋へと戻る。
未だ顔を顰めている少女にコップを手渡すと、ついでとばかりに頭を強く撫でた。

「ちょっと!髪の毛ぐしゃぐしゃになったじゃない」
「別に結わえてる訳じゃなし、すぐ戻るだろうが……相変わらず、変な奴だな」

男の言葉に少女は顔を背け、コップに口をつけた。氷を口に含み、転がしながら舌を冷やす。
互いに何も言わず、沈黙が場を満たす。時折、かりと少女が氷に歯を立てる音が、やけに大きく聞こえた。

「――所詮夢だから、話半分に聞き流せばいいが」

不意に男が呟いた。少女は何も言わず、視線だけを男に向ける。

「別に引きこもってる訳じゃあない。お節介な誰かさんが煩いから、その場を離れただけだ」
「随分と失礼な言い方」
「事実だろう。どこへ行こうが、いつまでも着いてくるんだから……たまには一人でゆっくり過ごしたい時もある」

そうは言うものの、男の表情は先ほどよりも穏やかだ。少女はそんな男を一瞥して、コップの中の氷を口に含んでは噛み砕いていく。
拗ねた子供の仕草に、男は笑う。それに一層眉を寄せ、少女は無言でコップの中身を飲み干して、

「帰る」

態とらしく頬を膨らませながら、立ち上がった。





目の前が見えないほど深い霧の中、一人その場に佇んでいる。
辺りには何の気配もない。腕に抱いていたはずの幼子も、風に攫われ土に還ってしまった。
胸に手を当てる。どくどくとした無機質な鼓動に、顔を顰めた。
まだ死なない。まだ動き続けなければいけない。
嘆息して俯いた。幼子の温もりを思い出すように自身の手を見つめていれば、不意に音が聞こえてきた。
誰かの足音。軽い足取りで、こちらに近づいてくる。
顔を上げ、目を細める。静かに後退りながら、それ以上近づくなと願っていた。

不意に、強い光が差した。
自身の影が霧に浮かぶ。角の生えた異形の姿。
足音が止まった。影に恐れを成したのか、それ以上近づいてくる様子はない。だが立ち去る気配もなかった。

「大丈夫だよ」

声がした。霧の向こう側から白い手が伸ばされる。
思わず手から距離を取るように数歩、後退る。見つめる先の手は差し出されたまま、取られるのをただ待っているようだった。

「大丈夫」

声が繰り返す。感情の凪いだ、それでいて柔らかな声音。
それはいなくなった幼子を思わせて、一歩前に足を踏み出した。
そっと手を伸ばす。差し出されたままの手に、自身の手を重ね握った。
懐かしい温もりを感じて、気づけばその手を引き、華奢な体を抱き寄せていた。

「ちょっと……!」

言いかけた言葉ごと、胸の中に閉じ込める。
忘れかけていた温もり。
ようやく、帰ってきた。

「――おかえり」

そっと囁く。その言葉に、顔を上げた少女は目を瞬いて。

「ただいま!」

柔らかな微笑みを浮かべて、声を上げた。



20251018 『光と霧の狭間で』

10/20/2025, 9:44:06 AM