sairo

Open App

歌が聞こえていた。
いつからか聞こえるようになった歌。優しく穏やかで、どこか切ないその歌を、誰が歌っているのかは分からない。
けれど眠れない夜にそっと囁くような歌声は、自分の日常の一部になっていた。
例えば、友達と喧嘩をして一人泣いた夜。歌声はすぐ側で、静かに優しい旋律を奏でてくれた。試験の前日。緊張で眠れないでいれば、穏やかな歌声が柔らかく響いていた。
悲しい時も、嬉しい時も、夜に歌声は響いている。その歌と共に、自分は大人になった。

窓辺に寄り、カーテンを開ける。煌びやかな街の灯りが強すぎるのか、空に星を見ることはできなかった。
遠くに小さく浮かぶ白い三日月が、どこか寂しげに見えた。
窓を開ける。耳を澄ませ、街の喧騒の中から歌声を探す。
微かに聞こえる歌に聞き入りながら、小さく笑みを浮かべた。

「君は、誰なんだろうね」

そっと呟く。
答えがないことは知っている。何度問いかけても、歌声以外に、言葉は返らなかった。
歌声の主が誰であろうと、怖れる気持ちはない。それほど長く、歌声と共に過ごしていた。
知らなくとも構わない。だが知りたいと思ってしまうのは、純粋に言葉を交わしたいと願っているからだ。
側にいてくれたことへの感謝を、直接伝えたかった。

「いつも歌ってくれて、ありがとう。とても素敵な歌だよ」

返事が返らなくとも気にせず、いつものように空へ向けて言葉を紡ぐ。見上げる小さな三日月が、静かに微笑んだ気がした。

「どう致しまして。こちらこそ、いつも褒めてくれてありがとう」

不意に声がした。
弾かれたように、振り返る。薄暗い部屋の中、視線を巡らせれば、ソファで小さな影が揺れていた。

「君は……」

声をかければ揺れる影は動きを止め、首を傾げた。

「あら?私が見えているの?」

心底不思議そうな声音。影はソファから立ち上がり、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
近くで見ても、影は影のまま。その表情は僅かにも見えはなしない。
不思議と怖いとは思わなかった。寧ろ暖かで優しい気配を感じ、自然と笑みが浮かんでくる。

「君が、いつも歌ってくれていたの?」

そう尋ねれば、影は誇らしげに胸を張ったように見えた。

「そうよ。あなたはいつも夜更かしをするんだもの。寝かせるのが大変だったわ」

態とらしく溜息を吐いてみせ、影は笑う。子供のような無邪気さに、苦笑しながらも眉が下がる。

「ごめんね。君の歌声に気づいてから、歌を聴くために起きていたんだ」
「でしょうね。あなたはいつも、私の歌を褒めてくれたもの」

くすくすと、影が笑う。
楽しそうに窓辺でくるりと回る影が月明かりを浴びて、一瞬だけ少女の姿を浮かばせた。

「私の母から継いだ歌なのよ。相手の幸せを祈って歌うの」

そう言って、影は歌を口遊む。その輪郭はぼやけ、夜に滲んでいる。

街の灯りが強すぎるのだろう。星のように、灯りが影の姿を掻き消してしまうのだ。
何故かそんなことが思い浮かび、寂しくなった。

「大丈夫よ」

俯く自分に、影は優しく囁いた。

「私がこれからも見守っていてあげるから。だから胸を張って生きればいい……大丈夫。眠れない夜には、また歌ってあげるから」
「どうして……?」

疑問が湧き上がる。
影が歌う理由。見守る理由。
影が誰なのかも、自分は何一つ知らなかった。
思わず口に出せば、影は首を傾げた。

「どうしてって……当然じゃない」

腰に手を当て、影は胸を張る。
どこか誇らしげに、影は告げた。

「だって私、お姉ちゃんだもの!」

不意に、周囲が暗くなった。
窓の外を見れば、いつの間にか周囲には深い霧が立ちこめていた。
不思議なことに霧は街の灯りを覆い隠すだけで、見上げた空は晴れ渡っている。煌々と輝く三日月が、瞬く星々の中心に浮かんでいた。

「そろそろ寝なさい。夜更かしは体に悪いのよ」

優しい声に促されて、おとなしくベッドに向かい横になる。
頭を撫で、歌を紡ぐ少女の姿が月上かりに照らされる。その姿は、彼女のいうように姉のように優しく穏やかだ。
どこかで見たことのある、その姿。微睡む意識の中で、ふと思い出す。

曾祖父の遺影の隣に飾られていた、女性の写真。月明かりに見えた少女と、その女性の面差しが重なった。
その女性について子供の頃、両親に尋ねたことがあった。
曾祖父の姉だという、写真の女性。彼女は亡くなった母親の代わりに曾祖父を育て、守り続けたのだと言う。
曾祖父の結納の次の朝に静かに亡くなった彼女は、正しく姉であり母であったのだろう。

「おやすみなさい。良い夢が見れるように歌っていてあげるわ」

静かな旋律が、意識をさらに沈めていく。
暖かな歌だ。幸せを願う、祈りの歌。

彼女の願うように、沈む意識の先で優しい夢を見る。
両親と、弟と、青空の下で笑い合っている。
日常の一場面。他愛もない話をして、笑い、歌う。そんな些細なことに、幸せを感じる。
母の歌を口遊む。旋律に言葉を乗せて、紡いでいく。
歌えることが嬉しかった。
誰かのために祈れる幸福を、初めて知った。

10/21/2025, 9:32:44 AM