sairo

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「よぉ!久しぶりだな!」

玄関を開けた瞬間に、視界が真っ暗になった。
風が吹き抜け、髪や服を揺らす。ふわりと辺りに潮の匂いが満ちていく。
内心げんなりしながらも、彼の胸を叩いて息苦しいだけの抱擁から抜け出した。彼の故郷ではこれが親しい者に対する挨拶だというが、慣れない身としては困惑するばかりだ。

「また大きくなったか?以前はこんなに小さかったのにな」

ぐしゃぐしゃと、頭ごと髪を掻き回されて視界が回る。楽しそうに親指と人差し指で隙間を作り小ささを表現する彼に、耐えきれず溜息が漏れた。

「そんなに小さいわけない。これから出かけるんだから、さっさとどっか行って」
「酷いな。俺とお前の仲だろう?そんなに冷たいことを言わないでくれよ」

笑みを崩さず擦り寄る彼に、顔を顰めてみせる。

またこの時期が来てしまった。
秋の暮れから春の始まりまでの間だけ現れる彼は、自分以外には見えないらしい。そのため彼はここにいる間の殆どを、自分の家や周りで過ごす。
溜息を吐く。また春の別れに苦しまなければならないのか。
胸に巣食う痛みが、強くなった気がした。



「なんでそんな、腹に溜まらないものを食ってるんだ」

呆れた声と共に、背後から伸びた彼の手が朝食を取り上げた。
振り返り文句を言うよりも早く、机の上に何かが置かれる。見ればそれは、皮の剥かれた果物が盛り付けられた皿だった。

「食うなら、こっちにすればいい。美味いぞ」

彼の指が葡萄を一粒摘まみ、口に押し当てられる。
眉を寄せ、首を振る。取られた朝食に手を伸ばせば、彼は肩を竦め溜息を溢した。

「こんなどろどろしたものなんて、美味くないだろうに」

口元に押し当てられていた葡萄を食べながら、朝食を机に戻す。不満げな表情をする彼から視線を逸らし、少しばかり冷めてしまった朝食を口にした。
味など関係ない。夏を迎える前に、味覚は感じられなくなっていた。
原因は分からない。春が訪れ、彼と別れてしばらくしてから、この体は原因不明の病に冒され衰弱していっている。もう固形物は、葡萄一粒さえ受け付けないのだ。
彼には何も告げてはいないが、おそらくは気づいているのだろう。感情の読めない彼の目が、こちらを見つめていることが増えていた。

「なぁ、俺たちの関係は何だ?」

不意に問われ、首を傾げる。
意味が分からず視線を向けるが、彼はやはり感情の読めない目をしてこちらの答えを待っていた。
自分たちの関係など、彼が一番良く知っているはずだ。ただの気まぐれか、それとも意味があるのか分からない。だが答えを待つ彼を見て、仕方がないと小さく息を吐き、口を開いた。

「友達」

friend。彼が普段から口にする言葉だ。

「そうだ。Friends are meant to be together always.だからお前は、俺が来ると家に招き入れ、もてなしてくれるんだろう?」

違うと否定しかけた言葉を呑み込む。
彼を招く理由は、自分でも分からない。ただ毎年訪れを待ちわびるほどには、彼に好意を抱いているのは確かだった。
彼の手が頭を撫でる。その優しさに何も告げられず、誤魔化すように俯いた。



冷たい風が、部屋の中を吹き抜けた。
胸の痛みを覚えて、ベッドの中で背を丸め、声を殺して耐える。
ベッドが軋み、布団の上から大きな手が背を撫でた。痛みや息苦しさが次第に引いて、詰めていた息を吐く。
布団から顔を出せば、いつものように表情の読めない目をして彼がこちらを見つめていた。

「どうしたの?」

問いかける声は、酷く掠れている。彼は僅かに目を細めただけで、何も言わず頭を撫でた。
かたかたと窓が音を立てる。外では風が吹き荒れているらしい。
冬が訪れようとしている。きっと自分は冬を越せないのだろう。
彼に告げなければ。そうは思うのに、彼の目を見ると言葉が紡げない。

「Friends are meant to be together always. Isn't that right?」

不意に彼が呟いた。けれど何を言っているのかは、よく分からない。
酷く疲れている。瞼を開けていられず、ゆっくりと目を閉じた。
彼の手が、頭から閉じた瞼を伝っていく。頬をなぞり、唇に触れた。
窓ががたがたと鳴っている。過ぎていく風を感じて、外ではなく家の中で風が吹き荒れていることに気づいた。

「お前のために、とびきり美味いものを用意したんだ」

彼が笑う気配がする。ぎしりとベッドが軋んで、指が唇を割った。

「――あ」

感じたのは冷たさ。そしてとろけるような甘さ。
唇を割り、差し入れられた何かを促されるままに飲み込む。
渇きを潤す瑞々しさを感じながらうっすらと目を開けると、彼は笑みを浮かべて囁いた。

「美味しかっただろう?もっと食べるか?」

布団を剥ぎ、体を起こされる。
彼の手には、皮が剥かれた葡萄が一粒。唇に押し当てられれば、自然とそれを受け入れてしまう。
瑞々しい果肉が口の中に広がって、くらくらするほどの甘さが喉を通り過ぎていく。
体が熱い。それなのに震えが止まらない。

「See? Now we're friends. We'll always be」

彼の言葉が、頭の中で反響する。彼の国の言葉が揺らいで、自分の国の言葉に変わっていく。

「分かるか?これで友達になった。これからずっとな」

次々と与えられる果実を食み、その度に体が熱を持つ。
次第に体から力が抜けて、彼に凭れかかった。差し出される果実をもう受け入れられない。
ぼんやりと果実を見つめていれば、褒めるように頭を撫でられた。

「――どうして?」

微かに呟けば、彼は瞼に唇を触れさせながら笑う。

「何度も言っただろ?友達というのは、常に一緒にいなければ……お前はそれを否定しなかった」

そう言えばと、ぼんやりと霞む記憶を辿る。
彼は時折何かを言っていた。聞き流していたが、それを彼は同意だと捉えてしまったのか。

「若い体を弱らせるのに時間がかかったが、ようやく連れて行ける。俺と同じになり、ひとつになるんだ」

彼の指が胸に触れる。弱い鼓動を楽しみ、そしてとどめを刺すように、指を沈めていく。

「――っ!」

悲鳴は喉の奥に張り付いて、言葉にはならない。
彼は胸の中に沈んだ指が脈打つ命を掴み、

「これで、ずっと一緒だ」

ぞっとするほど優しく囁いて、掴んだ命を引き抜いた。





時を止めた自分の体を、ただ見つめていた。

「そろそろ行くぞ」

腕を引かれ、視線を向ける。
そこには誰もいない。腕を掴まれたと思ったが、本当に腕を掴まれているのかも、定かではない。
体が軽かった。輪郭が朧気で、自分が本当にここにいるのかも、分からなくなってくる。
思考が定まらない。自分という意思が、なくなってしまったかのように。

「さて、最初はどこに行こうか」

彼の声がする。言葉と引かれる感覚に、部屋の外へと歩いていく。
床を踏み締める感覚も曖昧だった。歩いているつもりで、宙を漂っているのかもしれない。
暖かな熱に包まれている感覚がする。彼の輪郭と自分の輪郭が重なって、一つになっているようで落ち着かない。

「俺たちは一緒だ。friends《友達》は個じゃなくて、複数だからな」

くすくすと笑う声がすぐ隣で聞こえた。あるいはそれは自分の口から発せられたのかもしれない。

「すぐに慣れるさ。人間というひ弱な生き物よりも、強くて自由なモノになったんだ。嬉しいだろう?」

外に出て、空を見上げた。遠いはずの青空が、とても近く感じる。
一筋溢れたと思った涙は、気のせいだったのだろうか。
見えない手を伸ばす。その手を熱が包み込む。

吹き上げる風に乗るように、手を引かれ導かれるままに。

空高く舞い上がった。



20251020 『friends』

10/22/2025, 9:16:47 AM