sairo

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10/21/2025, 9:32:44 AM

歌が聞こえていた。
いつからか聞こえるようになった歌。優しく穏やかで、どこか切ないその歌を、誰が歌っているのかは分からない。
けれど眠れない夜にそっと囁くような歌声は、自分の日常の一部になっていた。
例えば、友達と喧嘩をして一人泣いた夜。歌声はすぐ側で、静かに優しい旋律を奏でてくれた。試験の前日。緊張で眠れないでいれば、穏やかな歌声が柔らかく響いていた。
悲しい時も、嬉しい時も、夜に歌声は響いている。その歌と共に、自分は大人になった。

窓辺に寄り、カーテンを開ける。煌びやかな街の灯りが強すぎるのか、空に星を見ることはできなかった。
遠くに小さく浮かぶ白い三日月が、どこか寂しげに見えた。
窓を開ける。耳を澄ませ、街の喧騒の中から歌声を探す。
微かに聞こえる歌に聞き入りながら、小さく笑みを浮かべた。

「君は、誰なんだろうね」

そっと呟く。
答えがないことは知っている。何度問いかけても、歌声以外に、言葉は返らなかった。
歌声の主が誰であろうと、怖れる気持ちはない。それほど長く、歌声と共に過ごしていた。
知らなくとも構わない。だが知りたいと思ってしまうのは、純粋に言葉を交わしたいと願っているからだ。
側にいてくれたことへの感謝を、直接伝えたかった。

「いつも歌ってくれて、ありがとう。とても素敵な歌だよ」

返事が返らなくとも気にせず、いつものように空へ向けて言葉を紡ぐ。見上げる小さな三日月が、静かに微笑んだ気がした。

「どう致しまして。こちらこそ、いつも褒めてくれてありがとう」

不意に声がした。
弾かれたように、振り返る。薄暗い部屋の中、視線を巡らせれば、ソファで小さな影が揺れていた。

「君は……」

声をかければ揺れる影は動きを止め、首を傾げた。

「あら?私が見えているの?」

心底不思議そうな声音。影はソファから立ち上がり、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
近くで見ても、影は影のまま。その表情は僅かにも見えはなしない。
不思議と怖いとは思わなかった。寧ろ暖かで優しい気配を感じ、自然と笑みが浮かんでくる。

「君が、いつも歌ってくれていたの?」

そう尋ねれば、影は誇らしげに胸を張ったように見えた。

「そうよ。あなたはいつも夜更かしをするんだもの。寝かせるのが大変だったわ」

態とらしく溜息を吐いてみせ、影は笑う。子供のような無邪気さに、苦笑しながらも眉が下がる。

「ごめんね。君の歌声に気づいてから、歌を聴くために起きていたんだ」
「でしょうね。あなたはいつも、私の歌を褒めてくれたもの」

くすくすと、影が笑う。
楽しそうに窓辺でくるりと回る影が月明かりを浴びて、一瞬だけ少女の姿を浮かばせた。

「私の母から継いだ歌なのよ。相手の幸せを祈って歌うの」

そう言って、影は歌を口遊む。その輪郭はぼやけ、夜に滲んでいる。

街の灯りが強すぎるのだろう。星のように、灯りが影の姿を掻き消してしまうのだ。
何故かそんなことが思い浮かび、寂しくなった。

「大丈夫よ」

俯く自分に、影は優しく囁いた。

「私がこれからも見守っていてあげるから。だから胸を張って生きればいい……大丈夫。眠れない夜には、また歌ってあげるから」
「どうして……?」

疑問が湧き上がる。
影が歌う理由。見守る理由。
影が誰なのかも、自分は何一つ知らなかった。
思わず口に出せば、影は首を傾げた。

「どうしてって……当然じゃない」

腰に手を当て、影は胸を張る。
どこか誇らしげに、影は告げた。

「だって私、お姉ちゃんだもの!」

不意に、周囲が暗くなった。
窓の外を見れば、いつの間にか周囲には深い霧が立ちこめていた。
不思議なことに霧は街の灯りを覆い隠すだけで、見上げた空は晴れ渡っている。煌々と輝く三日月が、瞬く星々の中心に浮かんでいた。

「そろそろ寝なさい。夜更かしは体に悪いのよ」

優しい声に促されて、おとなしくベッドに向かい横になる。
頭を撫で、歌を紡ぐ少女の姿が月上かりに照らされる。その姿は、彼女のいうように姉のように優しく穏やかだ。
どこかで見たことのある、その姿。微睡む意識の中で、ふと思い出す。

曾祖父の遺影の隣に飾られていた、女性の写真。月明かりに見えた少女と、その女性の面差しが重なった。
その女性について子供の頃、両親に尋ねたことがあった。
曾祖父の姉だという、写真の女性。彼女は亡くなった母親の代わりに曾祖父を育て、守り続けたのだと言う。
曾祖父の結納の次の朝に静かに亡くなった彼女は、正しく姉であり母であったのだろう。

「おやすみなさい。良い夢が見れるように歌っていてあげるわ」

静かな旋律が、意識をさらに沈めていく。
暖かな歌だ。幸せを願う、祈りの歌。

彼女の願うように、沈む意識の先で優しい夢を見る。
両親と、弟と、青空の下で笑い合っている。
日常の一場面。他愛もない話をして、笑い、歌う。そんな些細なことに、幸せを感じる。
母の歌を口遊む。旋律に言葉を乗せて、紡いでいく。
歌えることが嬉しかった。
誰かのために祈れる幸福を、初めて知った。

10/20/2025, 9:44:06 AM

長い夢を見ていた。

目の前が見えないほど深い霧の中、あてもなく歩き続けている。
一体どれだけの時間が経ったのだろうか。変わらぬ景色からは、時間の流れを察することはできない。
立ち止まり、息を吐く。胸に手を当てると、とくとくと暖かな鼓動が感じられ、密かに安堵した。
まだ生きている。まだ歩き続けることができる。
顔を上げる。再び足を踏み出せば、霧の向こうが僅かに揺れた気がした。
初めて見る変化に、そちらに向けて歩き出す。ゆらゆらと揺れる何が輪郭を纏い、誰かの影を形作っていく。

不意に、強い光が差した。
突然の光に目を細めながらも、影を見続ける。
正確には、目を逸らせなかった。
光によって大きく、濃くなった誰かの影。

その頭には、2本の角が生えていた。

10/19/2025, 8:33:14 AM

さらさらと、音が聞こえる。
落ちていく砂の音。普段ならば、気にも留めないような微かな音。
小さく咳き込めば、忽ち掻き消えてしまう。耳を澄ませても、もう聞こえはしなかった。
どこから聞こえてきたのか、聞こえなくなった今では知りようがない。だが何故だろうか。それがどこから聞こえていたのか、分かるような気がした。

――胸の中。

あれはきっと、自分の命の音だった。



「おはよう」

穏やかな声に、目を開ける。

「――おはよう」

小さく言葉を返せば彼は淡く微笑んで、部屋のカーテンを開けた。
差し込む陽の光の眩しさに、思わず目を細める。開けた窓から入り込む風が運ぶ、冷たく澄んだ秋の空気吸い込んだ。

「調子はどうだ?」
「とても良いよ。ここ最近は、ずっと苦しくない」

胸に手を当てれば、とくとくと規則正しく刻む鼓動を感じる。暖かく、優しい。この鼓動を刻んでいた、本来の主のように。
込み上げてくる涙を、きつく目を閉じることで耐える。
いつまでも泣くのはいなくなった彼女を否定するようで、無理矢理に笑みを作ってみせる。

「無理はするな。泣きたいなら、泣いていい」

彼に頭を撫でられる。髪の毛を乱すような雑さは、きっと彼なりの優しさなのだろう。作ったものではない笑みが溢れて、けれど涙も溢れ出してしまう。

「どうして……」

呟きかけた言葉を、唇を噛みしめることで呑み込んだ。
言葉にしてしまえば、止まらなくなってしまう。もう二度と届かない暖かな手を追ってしまいたい衝動を、只管に耐えていた。

「どうしてだろうな」

頭を撫でながら、彼も同じように呟いた。

「いつもそうだった。誰かのために迷わず手を差し伸べる。お人好しというか、考えなしというか……あいつは最後まで、助けた子供ばかりを心配していたな」

微笑む彼女の姿が思い浮かんで、涙が止まらない。
彼に縋り付き、声を上げて泣いた。どうしてと、寂しいと口にして、いなくなった彼女を只管に呼び続ける。

「本当に馬鹿だよ、あいつは。置いていかれる誰かの苦しみには、最後まで気づこうとしなかったのだから」

泣く自分とは対照的に、彼の声音は凪いだ海のようにとても静かだった。



さらさらと、音が聞こえた。
目を開ける。灯りの消えた室内は、ひっそりと静まりかえっている。
見える範囲には、音を立てる何かはない。体を起こして、音の在処を探す気もなかった。
ただ耳を澄ます。微かに聞こえる砂の音は決して止まることなく、急ぐこともない。それに彼女を感じて、途端に込み上げる苦しさに目を閉じた。


不意に、頭を撫でられた。
優しく繊細なその手つきに、息を呑む。

「泣かないで」

柔らかな声音。離れたくなくて、頭を撫でる手を取り目を開けた。

「――え?」

そこは暗い部屋の中ではなかった。
ざざ、と波の音がする。目の前で波が寄せては返していく。
見上げた空には青白い月が浮かび、無数の星々が煌めいていた。
夜の海辺で一人、座っている。
手の温もりはあるのに、そこには誰もいない。

「どうして……」
「泣かないで」

込み上げる涙を、見えない手が拭う。掴んでいた温もりがするりと消えて、代わりに抱き締められる腕の温もりを感じた。

「大丈夫。ちゃんとここにいるよ」

そっと囁かれる言葉と共に、さらさらと音が聞こえた。
砂の落ちる音。波の音と混じり合い、夜に解けていく。
見えない彼女に凭れながら、耳を澄ませた。砂の音は彼女からは聞こえない。それが悲しくて、涙が零れ落ちていく。

「――どうして、助けたの?」

子供を。そして私を。
自身を犠牲にしてまで誰かを助けるその行為を、理解できない。分かるのは、その献身で残される側の哀しみだけだ。

「それが私の本質だから、かな」
「本質?」

小さく笑う声がした。波のように静かに、穏やかに、彼女は言う。

「変わることのない根っこの部分。どんなに姿形が変わっても、周りが変わっても同じなのよ」

慰めるように、彼女が背を撫でる。昔から変わらない、その手の温もり。
別れは仕方がないことだと彼女は言う。その言葉一つで、すべてを受け入れられる程、大人にはなれなかった。
見えない彼女にしがみつき、嗚咽を溢す。離れたくないのだと手に力を込めれば、背を撫でる手がさらに優しくなった気がした。

「泣かないで」

静かな声が告げる。
泣きながら首を振る自分に、見えない彼女の手がそっと胸に触れた。

「私はここにいる。ちゃんと側にいるから」

彼女の手越しに、そこに触れる。緩やかな鼓動と、落ちていく砂の音を感じて、次第に意識が微睡んでいく。

「私の砂と、あなたの砂。二つが混じって、ひとつになった……ここにいるから、自由に生きて」

目を閉じて、小さく頷いた。
閉じた瞼の裏側に微笑む彼女を見て、涙と共に笑みを溢す。
鼓動の音と、砂の音。そして波の音が混じり合っていく。重なり合い、ひとつになって、小さな形を作っていく。

月明かりを浴びた波のような煌めく砂で満たされた、真白い砂時計。
さらさらと砂が落ちていく。落ちた砂は弾けて煌めき、波に攫われ海に還っていく。

「――おやすみなさい」

波のような彼女の声を聞きながら、意識が落ちていく。
寂しさも哀しみも感じない。
あるのは、揺り籠に揺られているような穏やかさだけだった。



目を覚ますと、そこはいつもの部屋の中だった。
体を起こし、そっとベッドから起き上がる。息苦しさは感じない。確かめるようにゆっくりと呼吸をした。
一歩、足を踏み出した。床の冷たさが素足から伝わり、意識が鮮明になっていく。
ゆっくりと窓へと歩いて行く。不思議な高揚感に、鼓動が跳ねた。
手を伸ばす。カーテンを引けば、途端に差し込む眩い光に、一瞬だけ目が眩んだ。
窓を開けて、外の空気を取り込む。見上げる空は、雲一つない快晴。暖かな陽射しに、笑みが浮かぶ。

「もう起きてたのか」

聞こえた彼の声に、振り返る。少しだけ驚いた表情をした彼の元へ歩み寄る。

「おはよう」
「おはよう。歩いて大丈夫なのか?」

彼の言葉に、笑って頷いた。

「お願いがあるの」
「なんだ?」

首を傾げる彼に、窓の外を指差した。
今日はきっと、出かけるのに良い日だろうから。

「海を見に行きたいの」

遠く聞こえる波の音を聞きながら願う。
すぐ側で、彼女が穏やかに笑っている気がした。



20251017 『砂時計の音』

10/17/2025, 10:00:48 AM

見上げる夜空の一角。四角く切り取られたかのように、星のない場所があった。
きつく睨みつけても、星が戻ることはない。それでもしばらく見つめていたが、やがてその行為の無意味さに空しくなって、目を逸らした。

先日、代々伝わる、祖先が書き残した星図の一枚が姿を消した。その一枚が記していた空から星が消えたと伝えた家の者は、数日後、忽然と姿を消してしまった。
まるで星のようだ。誰も何も言わなかったが
皆思うことは同じだった。

このまま、星図が戻らなければどうなるのか。
そもそも、星図はどこへ行ったのか。

何も分からない。分からないからこそ、探しに行かなければ。
きつく手を握り締める。最後にもう一度空を見上げ、祖先が星図を描いていたという、かつての屋敷に向かい歩き出した。



最低限の手入れだけはされている屋敷は、不気味な静けさを湛えていた。
息を殺して、鍵穴に鍵を差し込む。誰もいないのだから気配を殺す必要はないと思うものの、屋敷の空気がそうさせた。
鍵を開け、戸を開く。からからと戸が開く音が、やけに大きく聞こえて途端に落ち着かなくなった。
玄関に入り、戸を閉める。靴を脱いで上がった時、廊下の先で何かが動いたような気がした。        咄嗟に出かかる悲鳴を噛み殺す。視線を向けるも、そこには何の気配もない。
深く深呼吸をして、ゆっくりと足を踏み出す。
何か手がかりが見つかるかもしれない。そんな思いで、恐怖に耐えながら廊下の奥を目指した。



「あなたが来たのですね」

奥座敷の障子戸を開けた瞬間に聞こえた声に、思わず肩が震えた。
視線を向ける。暗い部屋の中心で、座る誰かが真っ直ぐにこちらを見ていた。

「これは僥倖。一族の中で、あなただけが我らの祈りを継ぐことができるのだから」

不意に、誰も触れていない行灯の明かりが点いた。座る誰かの姿が露わになり、小さく息を呑む。
彼は先日姿を消した、星図が消えたと告げた者だった。

「――兄様」

呟きながら、その言葉の違和感に眉が寄る。彼は兄ではない。目の前にいる彼のことを、自分は見たこともなかった。
だというのに、体は躊躇いなく彼の元へと歩き出す。立ち上がる彼に寄り添い、促されて屋敷のさらに奥へと向かっていく。
どこへ行くのだろうか。その疑問に答えるように、自分の中の何かが離れへと向かうのだと告げている。
離れで、再び星図を描き直すのだと。

「星図に描かれている星を、理解していますか?」

不意に問われ、彼を見る。何かが告げるその答えを、言葉として紡いでいく。

「神様」
「そうです。我らが畏れ、奉ってきた神々。陽であり、雨であり、そして人でもある」

静かに頷いた。時の流れと共に忘れ去られてしまっていたことを、何かが語る。
ようやく思い出せた。不思議に安堵感を覚えて、小さく息を吐く。

気づけば、離れの一番奥の部屋の前まで来ていた。
彼が障子戸に手をかける。
音もなく開かれた戸の先に、星空が広がっていた。

「祈りを忘れ、存在を忘れた神々を、あなたの手でもう一度描くのです」

彼の指差す部屋の中央には、一枚の紙と、硯と筆が置いてあった。
消えてしまった星図だ。神々のために、描かなければ。
部屋の中へと、一歩足を踏み出す。しかし手を掴まれて、それ以上は足を進めることができなくなった。

「兄様?」

手を掴む彼に視線を向ける。
無意識だったのだろうか。その表情は自身の咄嗟の行為に、困惑しているように見えた。

「兄様」

声をかけると彼は唇を噛みしめ、俯いた。震える手が静かに離れていくのを、何故か寂しいと感じてしまう。
これは自分の感情なのか、それとも誰かの感情を感じているのか、区別がつかない。部屋の中の星空はどこまでも広がっていて、自分と自分以外の境界が酷く曖昧になっている気がした。
微睡むように、意識が揺らぐ。けれどもどんなに離れがたく感じても、行かなくてはいけない。その意思だけは強くあった。

「――我が妹よ」

凪いだ声音が呼ぶ。顔を上げた彼の顔もまた、先ほどの乱れはない。
彼は穏やかに微笑みを浮かべる。持ち上げた手にそっと髪を梳かれ、目を細めた。

「忘れ去られ、地に落ちたことを悲しく思う。だが、愛しいお前に再び逢えて、とても嬉しいよ」
「私もです。兄様」

髪を梳く手を取り、頬を寄せる。そして名残惜しさを感じながらも、その手を離した。

「行ってまいります」
「あぁ、行っておいで。私はいつまでも、この場から柱となったお前たちを想い続けていよう」

彼は今度は引き留める様子はない。微笑んで、部屋の中へと足を踏み入れる。
部屋の中央。紙と硯の前で座り、筆を取る。
空を見上げずとも、星の位置が分かる。まるで導かれるように、墨を吸わせた筆で星を描いていく。
不思議な感覚だった。一つ星を描く毎に、自分の中の何かが抜け落ちていく。それを怖ろしいと感じるのに、手は少しも澱まず星図を描き続けている。

不意に、声が聞こえた気がした。
風や星、空が囁いている。それは祈りの詞となって、描いた星図を煌めかせる。

星図は、名もなき神々を描いている。

描き終わった星図を前にして、急に畏れが込み上げた。
筆を置き、手を合わせる。
目を閉じれば、悠久の時の流れに乗って、恋しいと詠う声が聞こえた。





夜が明けた。
屋敷の中には誰もいない。静謐に満たされた屋敷は、まるで眠っているかのようにも見えた。

不意に、どこからか風が入り込んできた。
風は迷うことなく奥へと向かい、離れの一室へと吹き抜けていく。
その部屋の中央に、一枚の古ぼけた星図があった。風は星図を舞い上げて、外へと駆け抜けていく。
外で色づく葉のように、星図が揺らめきながら落ちていく。音も立てず畳に落ちた星図は静かに煌めき、霞み解けていく。
残るものは何もない。

遠くでかたり、と音がした。玄関の戸が開き、外から誰かが屋敷に入ってくる。
板張りの廊下を軋ませ、奥へと進む。離れの一室の前で止まり、障子戸を開いた。
陽を連れて、小さな影が部屋へと足を踏み入れる。その中央で足を止め、膝をついた。
手を合わせ、目を閉じる。
陽を浴びて伸びる影に、いくつもの星が煌めいていた。



20251016 『消えた星図』

10/16/2025, 9:58:16 AM

「例えばさ。今の私のあなたへの愛情から、あなたと出会って初めて知った私の恋を引いたら、何が残るんだろう?」

穏やかな午後。食後の微睡みに沈みかけていた意識が、彼女の唐突な言葉で一気に覚醒する。
目を瞬いて、彼女を見た。真剣な眼差しで考え込む姿に、何と声をかければいいのかを迷う。

「そもそも愛とか恋とかって、本当にあるのかな?目に見えないし、ただ思い込んでいるだけなのかな」

彼女はいつも、答えのないことを考えている。折角先の見えない死の病から解放されたのだから、もっと幸せに過ごしたらいいだろうに。
そうは思うが、そんな所も可愛いと思ってしまえるのだから、愛とは不思議なものだ。苦笑して、気怠い体を起こして彼女を見た。

「あのさ。答えにはならないかもしれないけれど」

そう前振りをして、彼女の煌めく瞳を見ながら微笑む。

「愛という真心から、恋という下心を引いたら。残るのはさ」

ふと思い浮かぶ、誰かの背。
少しでも伝わればいい。
そんなことを願いながら、思いを口にした。

「それはきっと、祈りだと……そう思うよ」
「祈り?」

彼女は首を傾げ、自身の両手を見た。
手を組んで、目を閉じる。真剣な表情をして、何かを思っている。
ややあって目を開けた時。彼女は一瞬だけ哀しみを目に浮かべ、そっと微笑んだ。

「よく分からなかった」

でも、と彼女は窓の外を見る。目を細めて空を見上げ、呟いた。

「兄さんはきっと……誰かのことを、ただ愛しているんだね」

その言葉に、彼女が何故唐突に愛や恋を語り出したかを理解した。
彼女の兄は、毎日欠かさず社で祈りを捧げている。誰の記憶からも抜け落ちてしまった誰かを、今も思い続けているのだろう。

「この前ね、何を祈っているかを聞いてみたの……あの子が幸せでいてくれますように、だって」
「そっか……」
「あの子は誰なのかは、何も言ってくれなかったけれど」

何も言わず彼女の側に行き、そっとその体を抱き締めた。
愛しい温もりを感じながら、彼女の兄が想い続ける誰かの姿を思い浮かべてみる。けれどそれは人の形を取ることもできず、霞んで解けて何も残らない。

「兄さん、何だか前と変わった気がする。必死で何かに縋ってたのがなくなって、穏やかさというか、静けさが残ったみたいで」

ただ頷いた。
彼の変化には、誰もが気づいている。それだけ彼は必死だった。
溢れ落ちていく記憶の欠片を掻き集めるように駆け回り、社に嘆願した。それを変えてしまったのは、きっと自分だ。

目を見開き、崩れ落ちる彼の姿。

――君だけは、覚えていてくれると思っていた。

微かな呟きを、忘れることはないのだろう。
その時感じた強い憎しみ、怒りにも似た感情も含めて。

「愛から恋を引くって、とても難しいな。私にはきっとできない。相手の幸せだけ願えないもん。二人で幸せになりたい」
「僕も同じだよ。一緒に幸せになりたい」

二人で一緒に。
願いを込めて告げれば、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
ふと、彼女は何かに気づいたように小さく声を上げた。こちらを真っ直ぐに見つめ、腕を伸ばして抱きつく。

「何となく分かった。祈りって、相手の幸せを願うことだ。そこに恋っていう、自分の幸せを願うと、二人の幸せを願う愛になるんだよ」

ふふ、と声を上げて彼女は笑う。
彼女の答えに、目を瞬いた。遅れて言葉の意味を理解し、彼女を強く抱き締め返す。
ただ胸が痛かった。形にならなかった誰かの姿が、一瞬だけ控えめに微笑む、自分によく似た少女の姿を浮かばせた気がした。
彼女を抱き締めながら、その姿を求めて自分の傍らを見る。
そこには誰もいない。浮かんだはずの姿も千々に解けて、何一つ残らない。

「どうしたの?」

不安げに顔を覗き込む彼女に、何でもないと笑ってみせる。
何もない。残ったものは、何もなかった。
込み上げる切なさに泣きたくなるのを誤魔化して、彼女の額に唇を触れさせた。



その夜、夢を見た。
特別な何かがある訳ではない。日常の続きのような、けれどもとても暖かな、幼い頃の夢を。
母と手を繋ぎ、もう片方もまた誰かと繋いでいる。視線を向ければ、その誰かは自分と同じ顔をしていた。
父と手を繋いでいるもう一人の自分が、笑いながら繋いだ手を揺らす。前髪に差したコスモスを模ったピンが、ゆらりと揺れていた。
強く風が吹き抜けて、思わず手を離した。気づけば両親の姿はなく、もう一人の自分とふたりきり。
その顔は影になって、もう見えない。白のスカートを揺らし、こちらに背を向けて去って行く。

「どうして……」

溢れ落ちた言葉に、柔らかな声が返る。

「彼のことが、好きだから。だから祈るの。彼の願いが叶うように」

声が、風に紛れて消えていく。体が端から解けてしまう。
手を伸ばすことも、声をかけることもできずに、ただ見つめていた。

からん、と鈴の音が聞こえた。
目を瞬けば、そこにはもう誰の姿もない。誰かがいたという記憶すら、薄れてなくなっていく。

じわりと白く霞み出す世界に夢の終わりを感じながら、両手を合わせ目を閉じた。
あの子は、献身を形にしたような少女だった。
控えめで、優しくて、暖かい。大切だったはずの半身。
彼女が考えていた愛から恋を引いたその答えは、きっとあの子のことをいうのだろう。
自分には、辿り着けない。彼女を愛してしまった自分は、恋という名の執着を手放せない。

唇が震える。けれどそれは言葉になる前に、微笑む誰かが止めた気がした。



20251015 『愛ー恋=?』

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