「例えばさ。今の私のあなたへの愛情から、あなたと出会って初めて知った私の恋を引いたら、何が残るんだろう?」
穏やかな午後。食後の微睡みに沈みかけていた意識が、彼女の唐突な言葉で一気に覚醒する。
目を瞬いて、彼女を見た。真剣な眼差しで考え込む姿に、何と声をかければいいのかを迷う。
「そもそも愛とか恋とかって、本当にあるのかな?目に見えないし、ただ思い込んでいるだけなのかな」
彼女はいつも、答えのないことを考えている。折角先の見えない死の病から解放されたのだから、もっと幸せに過ごしたらいいだろうに。
そうは思うが、そんな所も可愛いと思ってしまえるのだから、愛とは不思議なものだ。苦笑して、気怠い体を起こして彼女を見た。
「あのさ。答えにはならないかもしれないけれど」
そう前振りをして、彼女の煌めく瞳を見ながら微笑む。
「愛という真心から、恋という下心を引いたら。残るのはさ」
ふと思い浮かぶ、誰かの背。
少しでも伝わればいい。
そんなことを願いながら、思いを口にした。
「それはきっと、祈りだと……そう思うよ」
「祈り?」
彼女は首を傾げ、自身の両手を見た。
手を組んで、目を閉じる。真剣な表情をして、何かを思っている。
ややあって目を開けた時。彼女は一瞬だけ哀しみを目に浮かべ、そっと微笑んだ。
「よく分からなかった」
でも、と彼女は窓の外を見る。目を細めて空を見上げ、呟いた。
「兄さんはきっと……誰かのことを、ただ愛しているんだね」
その言葉に、彼女が何故唐突に愛や恋を語り出したかを理解した。
彼女の兄は、毎日欠かさず社で祈りを捧げている。誰の記憶からも抜け落ちてしまった誰かを、今も思い続けているのだろう。
「この前ね、何を祈っているかを聞いてみたの……あの子が幸せでいてくれますように、だって」
「そっか……」
「あの子は誰なのかは、何も言ってくれなかったけれど」
何も言わず彼女の側に行き、そっとその体を抱き締めた。
愛しい温もりを感じながら、彼女の兄が想い続ける誰かの姿を思い浮かべてみる。けれどそれは人の形を取ることもできず、霞んで解けて何も残らない。
「兄さん、何だか前と変わった気がする。必死で何かに縋ってたのがなくなって、穏やかさというか、静けさが残ったみたいで」
ただ頷いた。
彼の変化には、誰もが気づいている。それだけ彼は必死だった。
溢れ落ちていく記憶の欠片を掻き集めるように駆け回り、社に嘆願した。それを変えてしまったのは、きっと自分だ。
目を見開き、崩れ落ちる彼の姿。
――君だけは、覚えていてくれると思っていた。
微かな呟きを、忘れることはないのだろう。
その時感じた強い憎しみ、怒りにも似た感情も含めて。
「愛から恋を引くって、とても難しいな。私にはきっとできない。相手の幸せだけ願えないもん。二人で幸せになりたい」
「僕も同じだよ。一緒に幸せになりたい」
二人で一緒に。
願いを込めて告げれば、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
ふと、彼女は何かに気づいたように小さく声を上げた。こちらを真っ直ぐに見つめ、腕を伸ばして抱きつく。
「何となく分かった。祈りって、相手の幸せを願うことだ。そこに恋っていう、自分の幸せを願うと、二人の幸せを願う愛になるんだよ」
ふふ、と声を上げて彼女は笑う。
彼女の答えに、目を瞬いた。遅れて言葉の意味を理解し、彼女を強く抱き締め返す。
ただ胸が痛かった。形にならなかった誰かの姿が、一瞬だけ控えめに微笑む、自分によく似た少女の姿を浮かばせた気がした。
彼女を抱き締めながら、その姿を求めて自分の傍らを見る。
そこには誰もいない。浮かんだはずの姿も千々に解けて、何一つ残らない。
「どうしたの?」
不安げに顔を覗き込む彼女に、何でもないと笑ってみせる。
何もない。残ったものは、何もなかった。
込み上げる切なさに泣きたくなるのを誤魔化して、彼女の額に唇を触れさせた。
その夜、夢を見た。
特別な何かがある訳ではない。日常の続きのような、けれどもとても暖かな、幼い頃の夢を。
母と手を繋ぎ、もう片方もまた誰かと繋いでいる。視線を向ければ、その誰かは自分と同じ顔をしていた。
父と手を繋いでいるもう一人の自分が、笑いながら繋いだ手を揺らす。前髪に差したコスモスを模ったピンが、ゆらりと揺れていた。
強く風が吹き抜けて、思わず手を離した。気づけば両親の姿はなく、もう一人の自分とふたりきり。
その顔は影になって、もう見えない。白のスカートを揺らし、こちらに背を向けて去って行く。
「どうして……」
溢れ落ちた言葉に、柔らかな声が返る。
「彼のことが、好きだから。だから祈るの。彼の願いが叶うように」
声が、風に紛れて消えていく。体が端から解けてしまう。
手を伸ばすことも、声をかけることもできずに、ただ見つめていた。
からん、と鈴の音が聞こえた。
目を瞬けば、そこにはもう誰の姿もない。誰かがいたという記憶すら、薄れてなくなっていく。
じわりと白く霞み出す世界に夢の終わりを感じながら、両手を合わせ目を閉じた。
あの子は、献身を形にしたような少女だった。
控えめで、優しくて、暖かい。大切だったはずの半身。
彼女が考えていた愛から恋を引いたその答えは、きっとあの子のことをいうのだろう。
自分には、辿り着けない。彼女を愛してしまった自分は、恋という名の執着を手放せない。
唇が震える。けれどそれは言葉になる前に、微笑む誰かが止めた気がした。
20251015 『愛ー恋=?』
瑞々しい果実の控えめな甘さに、笑みが浮かぶ。
「おいし……」
「そう。なら良かった」
淡々とした声音。表情の変わらない彼女の手が、黙々と梨を切り分けていく。
少しだけ不格好に切られた梨は、どことなく彼女に似ている気がする。思わず溢れた笑いを誤魔化すように、また一つ切られた梨を取り、口をつけた。
「――それで?」
不意に問われて、視線だけを彼女に向けた。
「今度は何を『無』にしたいの?」
彼女の表情は凪いだまま。
責められている訳ではない。それは理解できるのにどこか落ち着かず、視線を逸らしながら梨を囓った。
「何度も言うけれど、全部『無』にはならないわ」
「――分かってる」
呟くも、それがただの虚勢だということは、きっと彼女にはばれてしまっているのだろう。
全部無くしてしまいたい。
噂を頼り、彼女の元を訪れた時に願ったことだ。
それを彼女は無理だと言った。彼女にできるのはほんの僅か、余分な記憶を『無』にすることだけなのだと。
小さな梨は些細な記憶しか、外へ流せないのだと言っていた。
「分かってる。でも『無』にしないと……そうしないと、駄目な気がする」
その理由は、自分でも分からない。ただ漠然と、そうしなければいけないと感じている。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。ただ新しく切り分けた梨を皿に出され、おとなしくそれを口にする。
「おいしい」
しゃり、と口に広がる瑞々しさ。乾きを潤すように全身を満たして、次第に何かが無くなっていく。
「それでおしまいよ。食べたら帰って」
「あ、うん」
頷きながら、梨を囓る。
「――何か、話があった気がするんだけどな」
ぼんやりと形にならない、彼女への要件。梨を食べ終える前に思い出そうと思考を巡らすが、一向に思い出す気配はない。
「思い出したら、また来たら良いわ」
相変わらず彼女は淡々としている。
だが彼女の言葉も尤もだ。仕方がないと、思い出すのを諦め梨の瑞々しさと甘さを堪能することにした。
あれから数日が経ち、再び彼女の元へと訪れた。
「また来たの」
無表情に呟いて、けれど彼女は厭う様子もなく部屋の中へと招き入れられる。
椅子に座り、彼女が梨とナイフを手に戻ってくるのをぼんやりと見つめる。
梨の皮を剥き始める彼女に、きっと何度も繰り返しただろう望みを口にした。
「全部、無くすことはできる?」
「できないわ。この梨の大きさの分だけしか『無』にはならない」
こちらに視線を向けず、手を止めず、彼女は淡々と答える。
不思議と落胆はない。何度も繰り返し望み、断られたからだろうか。
「――全部無くさないと、どこにも行けないのに」
誰にでもなく呟けば、彼女の手が止まった。
彼女の凪いだ瞳が向けられる。何も言わず、その目をただ見返した。
「あなたは……あぁ、そうなのね。逆なんだ」
僅かに見開かれた目を瞬いて、彼女は何かに気づいたように微笑んだ。
「どういうこと?」
首を傾げる。だが彼女はそれ以上何も言わず、再び梨の皮を剥いていく。
くるくると皮が皿に落ちるのを何気なく見ていれば、皮を剥かれた梨をそのまま手渡された。
切り分けられていない、少しだけ歪な丸い果実。戸惑い彼女を見るが、彼女は静かにこちらを見ているだけだ。
そっと梨に口をつけた。しゃり、と音を立てて、瑞々しく甘い果実が口に広がり、喉を潤していく。
「おいしい」
目を細め、甘さを堪能しながら梨を囓る。芯を避けて果肉を食し、丸かった果実は細く痩せていく。
芯だけを残して梨を平らげれば、彼女は静かに歩き出し、扉の前でこちらを振り向いた。
「来て」
ただ一言告げられ、立ち上がり彼女の元へと向かう。残った梨の芯をどうするべきか迷うが、何となく持っていた方が良いような気がした。
彼女の後に続いて、外へと出る。裏に広がる梨畑の一角までくると、彼女はこちらを振り向いた。
「ここに種を植えるの。芯のままでいいから」
頷いて、膝をついた。柔らかな土を掻き適度に穴を掘ると、そこに梨の芯を落とす。
その行為を意味を、疑問には思わなかった。そうすることが正しいのだと、これでもう大丈夫なのだと感じて笑みすら浮かぶ。
穴に入れた梨の芯に土をかければ、不思議と心が穏やかになっていった。
「あなたのその記憶は生きた証。決して『無』にはならない」
「だからここで咲かせるの?」
埋めた芯を見ながら、思い浮かんだ言葉を口にする。彼女に頭を撫でられて、こそばゆさと気恥ずかしさに小さく笑い声を上げた。
「きっと綺麗な花が咲くわ。そして美味しい果実になるの……誰かのために生き続けたあなたの想いは、今度は別の誰かに寄り添い、余分なものを流してくれる」
「そっか……」
自分にとってもう必要ないものでも、誰かの役に立てる。そのことが、何よりも嬉しい。
見つめる先の土が盛り上がり、小さな芽が出た。代わりに自分の中の誰かの姿が消えていく。
自分の中の記憶を糧に、梨が生長していく。無くなっていくかつての自分を感じながら、穏やかな気持ちで微笑んだ。
「ありがとう」
彼女に、そしてかつての自分に感謝の言葉を述べる。
これでもう、自分は先に進める。また新しく始めることができるのだ。
立ち上がり、彼女に深く礼をする。頭を上げれば、優しい顔をした彼女に、もう一度頭を撫でられた。
「前のあなたの生はここに置いていくことになるけれど、あなた自身の本質は変わらないわ。だから次の生も胸を張って生きればいい」
そう言って、彼女は梨畑の先にある一本道を指差した。その先から差し込む光の強さに目を細める。
「変わらないんだ」
密かに安堵しながら、戯けて呟く。そうであるならば、道を踏み外すことはないだろう。
「そうよ。全部『無』にはならないの……さあ、いってらっしゃい」
彼女に見送られ、足を踏み出した。
次に向かうため余分なものをすべて置いていくからか、とても体が軽い。跳ねるような足取りで、道の先へと進んでいく。
光に向かい歩いていく。体が小さく解けていく感じに、微睡みに似た心地良さを感じる。
「いってきます」
誰にでもなく呟いて、目を閉じる。
暖かな水の揺り籠に抱かれる感覚に、身を委ねた。
20251014 『梨』
「La……La La La……」
静かな、それでいてもの悲しい旋律が、夜に解けていく。彼女は一人、穏やかに微笑みを浮かべ、旋律を紡ぎ続けていた。
歌詞のないそれは、祈りの歌。ただ一人に向けて、愛を歌っているのだろう。
想い人には届かない。風が届けても、気にも留められない哀の歌。
「La La La……La La……」
それでもいいのだと、心から微笑む彼女の強さが眩しくて。
胸が、痛かった。
「まだ、続けるの?」
問いかければ、彼女はやはり優しく微笑む。
その笑みを見てしまえば、それ以上何も言えなくなる。視線を逸らし、空を見上げた。
冴え冴えとした白い三日月が浮かんでいる。まるで空を漂う船のように見えて、思わず手を伸ばす。
彼女を連れ去ってくればいいのに。そうすればきっと、この場所や想い人から解放されるはずだ。
しかし地に縛られた自分では空まで手が届くはずもなく、月の船は雲の向こうへその姿を隠してしまった。
手を下ろし、自嘲する。空想に縋るほど何もできない自身の無力さに、いっそ泣いてしまいたかった。
「――ごめんなさいね」
不意に彼女が呟いた。
歌うような優しい声音と共に、そっと頭を撫でられる。
「これは私の我が儘なの。だからあなたが苦しむことはないのよ?」
何も言えずに俯いた。
ただ一人を想い歌い続けることが彼女の我が儘だというなら、彼女を想い無力さに嘆く自分も我が儘なのだろう。
返事の代わりに、彼女にそっと寄り添った。
「優しい子ね。ありがとう」
目を閉じる。再び奏でられる旋律を聞きながら、伝わらない事実をただ思う。
彼女の想い人は、もうどこにもいない。
彼女の想いを継いで生きたその人は、どんな困難にも立ち向かい生き続けた。人を愛し、血を繋げ、そして家族に見守られながら先日往生を遂げた。
彼女が命をかけて産んだ愛し子は、彼女の願う通りに幸せに生きたのだ。
何度伝えても伝わらないこと。
産んだ子に対する未練だけでここにいる彼女の中では、想い人はいつまでも赤子のままだ。きっとこれからも変わらず、彼女はいつまでも旋律を奏で続けるのだろう。
「――あれ?」
不意に風が止まった。視線を巡らせると、遠くから誰かの影が近づいてくるのが見えた。
彼女は気づかない。息を呑んで見ていれば、影は彼女の目の前で膝をつき、両手を包み込んだ。
旋律が途切れる。雲に隠れていた三日月が淡い光を灯し、影の姿を露わにしていく。
「かあさん」
呟かれたその言葉に、彼女は目を瞬き、
「――あぁ」
一筋、涙を溢した。
「還ろう。一緒に」
柔らかく微笑む成長した子の姿に、彼女は声を詰まらせ泣きながらも小さく頷いた。
もう彼女は大丈夫だ。密かに安堵の吐息を溢し、静かに二人から距離を取る。
見上げた空に浮かぶ三日月は、何も語ることはない。ただほんの僅か、微笑んだように見えた。
小さく笑みを浮かべて、二人へと視線を戻す。
寄り添う二人が、ふとこちらに視線を向けた。
泣き腫らした目をした彼女が、息を呑んだ。ようやく気づいてくれたらしい。最後に起こった奇跡に、笑みが深くなる。
同じように二人も微笑んだ。
そっと、手を差し伸べられる。
「姉さんも行こう」
その言葉に、笑みを浮かべたまま首を振った。
「っ、どうして……?」
呆然と呟く彼女に、答えの代わりに歌を口遊む。彼女が奏でた旋律を、同じように紡いでいく。
それだけで、弟には理解できたのだろう。くしゃりと顔を歪めながらも、差し伸べていた手を下ろした。
「La……La La La……」
歌いながら、二人に背を向けた。追い縋ろうと手を伸ばす彼女――母を引き留め、俯く弟の姿が見えたが、振り返ることはしない。
あれだけ想っていた弟が迎えに来てくれたのだ。もうこれ以上、母がここに留まることはない。
ならば次に自分が見守るべきは、弟が残した家族たちだ。
弟を守る。
いつか母と交わした約束は、少しだけ形が変わってしまったが大丈夫だ。
自分は姉なのだから。弟も、弟の子たちも全員見守り続けていく。
この選択に後悔はない。それに、丁寧に祀ってくれているのだから、そのお礼に子孫を守るのは当然のことだ。
自分の向かうべき場所へ、迷いなく足を進めていく。
母のすすり泣く声が遠くなる。それに少しだけ寂しさを感じながら、どうか次こそは最後まで幸せでいて欲しいと願う。
母はずっと寂しさと悲しみを抱えて、今まで一人歌ってきたのだから。悲しい微笑みなど、これ以上は必要ない。
「La La……La……La La La」
母が弟を想い、紡いだ旋律。
別れを悲しみながらも、相手の幸せを願い続けた祈り。
その歌を、今度は弟の家族のために歌い続ける。
ふと、道の先に誰かの影が伸びていた。
立ち止まり、視線を向ける。月明かりを浴びて、白の制服が煌めいて見えた。
写真の中でしか見たことのなかった優しげな微笑みに、じわりと世界が滲む。ふらりと進む足はいつしか駆け出していて、軽く手を広げて待つその人の胸の中へと迷いなく飛び込んだ。
「ありがとう」
穏やかな声音に、泣きながらも笑顔で顔を上げる。
「だって私、お姉ちゃんだもの!弟も、弟の家族も、お母さんも、皆守っていくんだから!」
高らかに告げれば、父は笑って偉いなと頭を撫でてくれた。
20251013 『La La La GoodBye』
この道に終わりはないと、誰かが言っていた。
確かに見える限りに果てはない。一本道はどこまでも真っ直ぐに、朱色の鳥居の先まで伸びている。
その先は禁足地だ。道を一歩でも逸れれば、祟られるのだと言われている。
ごくりと唾を飲み込んだ。引き返すのならば今のうちと、何度も心が警鐘を鳴らしている。
それでも、始まりには必ず終わりがあるように、きっとこの道にも果てがあるだろうから。
それを確かめるため、勇気を出して足を踏み出した。
鳥居を潜ると、空気が変わった。
風が止み、生き物の声が遠ざかる。代わりに常に誰かが見ているような気配がして、何度も足を止めては、周囲を見渡した。
確かにここは正しく禁足地なのだろう。人が気軽に足を踏み入れてはいけない場所。唯一許された道を、自分は今歩いているのだ。
何度も戻ろうと考えた。しかし振り返り歩いてきた道の先が昏く沈んでいるようで、このまま進むしかないのだと思い知らされる。道を逸れないよう、何度も確認しながら前だけを見て歩き続けた。
どれだけ歩き続けただろうか。随分と長く歩いている気がするが、見上げた空に浮かぶ太陽は陰る様子はない。
相変わらず生き物の気配はないのに、何かの視線を感じる。視線に怯えて、立ち止まることはなくなった。ただ何かに急かされるように、足だけが勝手前へと進み続けている。
ふと、目の前に一つの鳥居が現れた。
最初に潜ってきた鳥居とは違い、小さく灰色にくすんでいる。
立ち止まり、鳥居を見つめる。どこか懐かしさに似たものを感じて、胸が苦しくなった。
きっとこの先が、道の果てなんだろう。
訳もなくそう感じながら、鳥居を潜り抜けた。
鳥居を潜ると、その先に小さな祠があった。
苔に覆われた小さな祠の前には、干からびた花が一輪置かれている。
ここが道の果てだった。
祠の前に歩み寄り、静かに膝をつく。胸の前で手を合わせ、目を閉じた。
何故だろうか。そうすることが当然だと、そう思った。
「また、来たのか」
声がした。
目を開け振り返ると、着物を着た男の人が凪いだ眼でこちらを見つめていた。
「また……?」
彼の言葉に首を傾げる。
ここへは初めて来たはずだ。今まで何度も道の果てを気にしながらも、足を踏み出せてはいなかったのだから。
彼は何も言わない。自分もそれ以上何かを問うことはなく、静かな時間が流れていく。
ふと、背中のリュックの存在を思い出した。リュックを下ろして開ける。
中に入っていたのは、タオルやブラシ。そしてバケツなどの掃除用具ばかりだ。
何故こんなものを入れていたのか。疑問に思いながら、リュックから道具を取り出していく。
考えても答えは出ないのだろう。自分が道の果てを気にするのと同じように。
バケツを手に立ち上がると、彼はこちらを一瞥し歩き出す。その後について歩けば、向かう先から水の流れる音がした。
小さな清流。深呼吸をすれば、澄んだ空気に気持ちが凪いでいく。
バケツに水を汲み、再び彼の後について歩く。祠の前まで戻ると、何も言わず祠を覆う苔を落としていく。
何故こんなことをしているのだろう。いくつも疑問が込み上げるが、手は止まることなく黙々と祠を綺麗にしていく。自分の意思とは関係なく動く体に、しかし恐怖はない。
あるのは、微睡みの中にいるような、穏やかで暖かな思いだけだ。
「この祠が祀っているのは、あなたなの?」
祠から目を離さず、手も止めずに問いかければ、答えの代わりに祠の扉が開いた。
中には小さな丸い石が数個。それ以外には何もない。
誰かを祀っているのではない。
ここは祈りの場所なのだと、そう感じた。
扉を閉め、再び祠を綺麗にしていく。屋根や壁を拭いて、周囲の落ち葉を集めていく。彼から渡されたちり取りと箒は、何故か何年も使っていたように、手に馴染んでいた。
最後にと、道具を纏め立ち上がる。振り返れば、彼の手には一輪の花。
「いつもありがとう」
自然と口をついて出た言葉を、もう疑問に思うこともなかった。
手を合わせ、目を閉じる。
たくさんの感謝と願いを込めて、祈り続ける。
しばらくして目を開けると、静かにこちらを見ていた彼と目を合わせた。
聞きたいことはたくさんある。
祠のこと。彼のこと。自分自身のこと。
けれど言葉になったのは、たったひとつだけだった。
「道の果てはあるの?」
その問いに彼は僅かに表情を綻ばせ、答えた。
「人間が祈りを忘れない限り、道はどこまでも続いていく。ここもまた、道の途中だ。人間が祈りを捧げる度に、道は続いていくのだろう」
彼の示す方向には、まだ道が続いている。
途端に込み上げるのは、果てを求める好奇心だ。小さく笑みを浮かべながら、その道へ足を踏み入れる。
「相変わらず可笑しな奴だ。姿を変え、立場を変えたとしても、その在り方は変わらないとは。巡礼者とは皆こうなのか。それともお前が特別なのか」
呆れを滲ませ彼は言う。振り返れば、呆れながらも優しい目をした彼が、微笑みを湛えて告げた。
「良い旅を。此度の生こそ、虐げられず本懐を遂げることができればよいな」
強く頷き、道の先を見据えた。
ゆっくりと歩き出す。
道の果てを目指して。
この祈りの行き着く先を求めて。
誰かが言った。この道に果てはないのだと。
鳥居の先。禁足地に続く道は、どこまでも果てしなく続いているのだと。
そんなことはありえない。そう周囲は口を揃え、その言葉を笑う。
道の先は、隣町に続いている。そもそも鳥居などなく、禁足地など聞いたこともないと。
道は続いている。祈り続ける者にしか認識できない、どこまでも真っ直ぐ続く道は、今もどこかで訪れる者を待っている。
20251012 『どこまでも』
――あと十分。
時計を睨みながら、息を殺してその時を待つ。
深夜の交差点。その端で一人、日付が変わるのを待っていた。
この交差点では、真夜中の十二時ちょうどに中心に立つと、異世界に通じることがあるのだという噂がある。
交差点は境界なのだと誰かが言っていた。そして時間は稀にループするとも言う。
頭から信じている訳ではない。ただ、もしもの世界があるのなら、それを試してもいいのではないかとも思っている。
――あと三分。
時計の針が進んでいく。時間は止まることなく流れていく。
もしもがあるのならば。
そう考えるだけ無駄だと分かっている。過去に戻れたとしても、きっと起こってしまったことは変えられない。
それでも。泡沫の夢だとしても。
あの日、あの時。
家に残っていたのが自分の方だったのならば。
――あと一分。
時計の針を見ながら、交差点に近づく。聞こえないはずの針の音が聞こえた気がして、鼓動が速くなる。
――五、四、三……。
心の中でカウントダウンをしながら、足を踏み出す。
――一……。
時計が十二時を告げたと同時、交差点の中心に立った。
しん、と辺りは静まり返ったまま。風はなく、見える範囲に変化はない。
時計の針は進み続けている。戻る気配は欠片も見られない。
一分が過ぎ、二分が過ぎて。
意味もなく乾いた笑いが漏れた。
「――だよな。結局は、ただの噂か」
静けさを自分の笑い声が乱していく。込み上げる空しさに、拳を握り締めて誤魔化した。
「何やってんだか……早く帰らないと」
「そうだよ。夜更かしなんて、寝坊の元なんだからさ」
独り言に、楽しげな少女の声音が相づちを打った。
はっとして振り返る。そこに立つ懐かしい姿に、目を見張り息を呑んだ。
「ちょっと、化け物でも見たような顔をしないでよ」
「え、あ……」
「本当に情けないなぁ……ほら、いつまでもぼーっとしてないで!」
少女はひとつ溜息を吐くと、こちらに近づき容赦なく背を叩いた。その痛みに、一瞬で呆けていた思考が鮮明になる。
「痛っ!もう少し優しくしてくれてもいいだろ!?」
「優しくする要素なんてどこにもないじゃん」
文句を言えど、けたけた笑うだけで気にかける様子は微塵もみられない。昔から変わらないその態度が、今はただ懐かしい。
「いつも言ってたでしょ?兄貴面がしたいなら、まず私よりもしっかりしてよって」
滲む涙を乱暴に拭えば、少女――妹は溜息を吐きながらも笑った。
「――噂。本当だったんだ」
小さく呟いた言葉に、妹は呆れたように眉を寄せた。
「噂って、異世界に繋がるってやつ?それとも時間が巻き戻るとか?」
黙って俯く。自分と違いしっかり者だった妹を前にして、急に自分の行動が恥ずかしくなった。
妹の言葉の節々から、それがすべて過ちなのだと伝えている。
「そんなお伽噺を信じてるなんて、相変わらずだね……異世界なんかじゃないよ。ちゃんと同じ世界。ただ少しだけ、ズレてるから、普段は見えないだけ」
だから見える人には見えるのだと、妹は告げる。
「まぁ、交差点が境界だっているのは本当だけどね。だから鈍いお兄ちゃんでも、こうして見えている訳だし」
鈍い、という部分を強調されるが、何も言い返せる言葉がない。それでも不満が表情に表れていたのだろう。顔を上げれば、妹は可笑しくて堪らないというように噴き出した。
「本当に情けないなぁ。でもその情けなさがあったから、こうしてお兄ちゃんはここにいてくれるんだから、悪いばかりではないかな」
「そんなこと……!」
咄嗟に声を上げるが、それは妹の人差し指で止められる。
「いい?分かっていると思うけど、起こってしまったことは何も変えられないの。あの日、私たちが喧嘩をしたことも。お兄ちゃんが私の機嫌を取るためにケーキを買いにいったことも。その間に怖い人が来て、何もかも壊しちゃったことも。全部、変わらない」
昔と変わらない声音。僅かな期待すら許さないと事実を突きつけて、妹は唇に当てていた指を静かに引いた。
「だからね。思い出すのは良いけど、振り返るのは止めてよ。いい加減、私の影を探すのを止めて。一人が寂しいなら、誰かいい人探しなよ」
「――うるさい。余計なお世話だ」
再び込み上げてきた涙を拭い、笑われる。
何も変わらない。意地悪な所も、それでいて優しい所も。
ふざけているようで誰よりも真面目だった妹が笑うから、同じように不格好ながらに笑ってみせる。
「じゃあ、もう行くね」
くるりと後ろを向き、妹は歩き出す。
その背を追いかけたくなるのを堪え、必死で笑みを作っていた。
「――あぁ、そうだ」
不意に、妹が立ち止まる。
こちらを向いて、腰に手を当て指を差した。
「境界がズレてるから見えないけどさ、ちゃんと側にいるから。お兄ちゃんがこの先、本当の意味で私の手を離せるまでは、一緒にいてあげるよ」
にやりとした、不敵な笑み。息を呑む自分の前で、指を差した手を振った。
「それって――」
言いかけて、急に強い目眩を感じた。
世界が揺れている。無理矢理繋がったものが正しく別れていく。そんなことを思いながら、目眩に耐えきれず目を閉じる。
次に目を開けた時には、すでに妹の姿はどこにもなかった。
時計を見れば、交差点の中心に立ってから十分ほどしか立っていなかった。
しんと静まりかえった周囲を見渡す。誰の姿もなく、何の変化も見られない。
夢だったのかもしれない。優しくて残酷な幻。
小さく息を吐き、家に帰るために歩き出す。
交差点を振り返ることはない。振り返らないと、この交差点に来る前から決めていた。
街灯の明かりに伸びる影が揺れている。
一瞬だけ、影が誰かと手を繋いでいるのが見えて、笑みを浮かべた。
もう大丈夫。
夢見心地な気分で、誰にでもなく呟いた。
20251011 『未知の交差点』