――あと十分。
時計を睨みながら、息を殺してその時を待つ。
深夜の交差点。その端で一人、日付が変わるのを待っていた。
この交差点では、真夜中の十二時ちょうどに中心に立つと、異世界に通じることがあるのだという噂がある。
交差点は境界なのだと誰かが言っていた。そして時間は稀にループするとも言う。
頭から信じている訳ではない。ただ、もしもの世界があるのなら、それを試してもいいのではないかとも思っている。
――あと三分。
時計の針が進んでいく。時間は止まることなく流れていく。
もしもがあるのならば。
そう考えるだけ無駄だと分かっている。過去に戻れたとしても、きっと起こってしまったことは変えられない。
それでも。泡沫の夢だとしても。
あの日、あの時。
家に残っていたのが自分の方だったのならば。
――あと一分。
時計の針を見ながら、交差点に近づく。聞こえないはずの針の音が聞こえた気がして、鼓動が速くなる。
――五、四、三……。
心の中でカウントダウンをしながら、足を踏み出す。
――一……。
時計が十二時を告げたと同時、交差点の中心に立った。
しん、と辺りは静まり返ったまま。風はなく、見える範囲に変化はない。
時計の針は進み続けている。戻る気配は欠片も見られない。
一分が過ぎ、二分が過ぎて。
意味もなく乾いた笑いが漏れた。
「――だよな。結局は、ただの噂か」
静けさを自分の笑い声が乱していく。込み上げる空しさに、拳を握り締めて誤魔化した。
「何やってんだか……早く帰らないと」
「そうだよ。夜更かしなんて、寝坊の元なんだからさ」
独り言に、楽しげな少女の声音が相づちを打った。
はっとして振り返る。そこに立つ懐かしい姿に、目を見張り息を呑んだ。
「ちょっと、化け物でも見たような顔をしないでよ」
「え、あ……」
「本当に情けないなぁ……ほら、いつまでもぼーっとしてないで!」
少女はひとつ溜息を吐くと、こちらに近づき容赦なく背を叩いた。その痛みに、一瞬で呆けていた思考が鮮明になる。
「痛っ!もう少し優しくしてくれてもいいだろ!?」
「優しくする要素なんてどこにもないじゃん」
文句を言えど、けたけた笑うだけで気にかける様子は微塵もみられない。昔から変わらないその態度が、今はただ懐かしい。
「いつも言ってたでしょ?兄貴面がしたいなら、まず私よりもしっかりしてよって」
滲む涙を乱暴に拭えば、少女――妹は溜息を吐きながらも笑った。
「――噂。本当だったんだ」
小さく呟いた言葉に、妹は呆れたように眉を寄せた。
「噂って、異世界に繋がるってやつ?それとも時間が巻き戻るとか?」
黙って俯く。自分と違いしっかり者だった妹を前にして、急に自分の行動が恥ずかしくなった。
妹の言葉の節々から、それがすべて過ちなのだと伝えている。
「そんなお伽噺を信じてるなんて、相変わらずだね……異世界なんかじゃないよ。ちゃんと同じ世界。ただ少しだけ、ズレてるから、普段は見えないだけ」
だから見える人には見えるのだと、妹は告げる。
「まぁ、交差点が境界だっているのは本当だけどね。だから鈍いお兄ちゃんでも、こうして見えている訳だし」
鈍い、という部分を強調されるが、何も言い返せる言葉がない。それでも不満が表情に表れていたのだろう。顔を上げれば、妹は可笑しくて堪らないというように噴き出した。
「本当に情けないなぁ。でもその情けなさがあったから、こうしてお兄ちゃんはここにいてくれるんだから、悪いばかりではないかな」
「そんなこと……!」
咄嗟に声を上げるが、それは妹の人差し指で止められる。
「いい?分かっていると思うけど、起こってしまったことは何も変えられないの。あの日、私たちが喧嘩をしたことも。お兄ちゃんが私の機嫌を取るためにケーキを買いにいったことも。その間に怖い人が来て、何もかも壊しちゃったことも。全部、変わらない」
昔と変わらない声音。僅かな期待すら許さないと事実を突きつけて、妹は唇に当てていた指を静かに引いた。
「だからね。思い出すのは良いけど、振り返るのは止めてよ。いい加減、私の影を探すのを止めて。一人が寂しいなら、誰かいい人探しなよ」
「――うるさい。余計なお世話だ」
再び込み上げてきた涙を拭い、笑われる。
何も変わらない。意地悪な所も、それでいて優しい所も。
ふざけているようで誰よりも真面目だった妹が笑うから、同じように不格好ながらに笑ってみせる。
「じゃあ、もう行くね」
くるりと後ろを向き、妹は歩き出す。
その背を追いかけたくなるのを堪え、必死で笑みを作っていた。
「――あぁ、そうだ」
不意に、妹が立ち止まる。
こちらを向いて、腰に手を当て指を差した。
「境界がズレてるから見えないけどさ、ちゃんと側にいるから。お兄ちゃんがこの先、本当の意味で私の手を離せるまでは、一緒にいてあげるよ」
にやりとした、不敵な笑み。息を呑む自分の前で、指を差した手を振った。
「それって――」
言いかけて、急に強い目眩を感じた。
世界が揺れている。無理矢理繋がったものが正しく別れていく。そんなことを思いながら、目眩に耐えきれず目を閉じる。
次に目を開けた時には、すでに妹の姿はどこにもなかった。
時計を見れば、交差点の中心に立ってから十分ほどしか立っていなかった。
しんと静まりかえった周囲を見渡す。誰の姿もなく、何の変化も見られない。
夢だったのかもしれない。優しくて残酷な幻。
小さく息を吐き、家に帰るために歩き出す。
交差点を振り返ることはない。振り返らないと、この交差点に来る前から決めていた。
街灯の明かりに伸びる影が揺れている。
一瞬だけ、影が誰かと手を繋いでいるのが見えて、笑みを浮かべた。
もう大丈夫。
夢見心地な気分で、誰にでもなく呟いた。
20251011 『未知の交差点』
10/13/2025, 9:14:59 AM