sairo

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「La……La La La……」

静かな、それでいてもの悲しい旋律が、夜に解けていく。彼女は一人、穏やかに微笑みを浮かべ、旋律を紡ぎ続けていた。
歌詞のないそれは、祈りの歌。ただ一人に向けて、愛を歌っているのだろう。
想い人には届かない。風が届けても、気にも留められない哀の歌。

「La La La……La La……」

それでもいいのだと、心から微笑む彼女の強さが眩しくて。
胸が、痛かった。

「まだ、続けるの?」

問いかければ、彼女はやはり優しく微笑む。
その笑みを見てしまえば、それ以上何も言えなくなる。視線を逸らし、空を見上げた。
冴え冴えとした白い三日月が浮かんでいる。まるで空を漂う船のように見えて、思わず手を伸ばす。
彼女を連れ去ってくればいいのに。そうすればきっと、この場所や想い人から解放されるはずだ。
しかし地に縛られた自分では空まで手が届くはずもなく、月の船は雲の向こうへその姿を隠してしまった。
手を下ろし、自嘲する。空想に縋るほど何もできない自身の無力さに、いっそ泣いてしまいたかった。

「――ごめんなさいね」

不意に彼女が呟いた。
歌うような優しい声音と共に、そっと頭を撫でられる。

「これは私の我が儘なの。だからあなたが苦しむことはないのよ?」

何も言えずに俯いた。
ただ一人を想い歌い続けることが彼女の我が儘だというなら、彼女を想い無力さに嘆く自分も我が儘なのだろう。
返事の代わりに、彼女にそっと寄り添った。

「優しい子ね。ありがとう」

目を閉じる。再び奏でられる旋律を聞きながら、伝わらない事実をただ思う。

彼女の想い人は、もうどこにもいない。
彼女の想いを継いで生きたその人は、どんな困難にも立ち向かい生き続けた。人を愛し、血を繋げ、そして家族に見守られながら先日往生を遂げた。
彼女が命をかけて産んだ愛し子は、彼女の願う通りに幸せに生きたのだ。

何度伝えても伝わらないこと。
産んだ子に対する未練だけでここにいる彼女の中では、想い人はいつまでも赤子のままだ。きっとこれからも変わらず、彼女はいつまでも旋律を奏で続けるのだろう。


「――あれ?」

不意に風が止まった。視線を巡らせると、遠くから誰かの影が近づいてくるのが見えた。
彼女は気づかない。息を呑んで見ていれば、影は彼女の目の前で膝をつき、両手を包み込んだ。
旋律が途切れる。雲に隠れていた三日月が淡い光を灯し、影の姿を露わにしていく。

「かあさん」

呟かれたその言葉に、彼女は目を瞬き、

「――あぁ」

一筋、涙を溢した。



「還ろう。一緒に」

柔らかく微笑む成長した子の姿に、彼女は声を詰まらせ泣きながらも小さく頷いた。
もう彼女は大丈夫だ。密かに安堵の吐息を溢し、静かに二人から距離を取る。
見上げた空に浮かぶ三日月は、何も語ることはない。ただほんの僅か、微笑んだように見えた。
小さく笑みを浮かべて、二人へと視線を戻す。
寄り添う二人が、ふとこちらに視線を向けた。
泣き腫らした目をした彼女が、息を呑んだ。ようやく気づいてくれたらしい。最後に起こった奇跡に、笑みが深くなる。
同じように二人も微笑んだ。
そっと、手を差し伸べられる。

「姉さんも行こう」

その言葉に、笑みを浮かべたまま首を振った。

「っ、どうして……?」

呆然と呟く彼女に、答えの代わりに歌を口遊む。彼女が奏でた旋律を、同じように紡いでいく。
それだけで、弟には理解できたのだろう。くしゃりと顔を歪めながらも、差し伸べていた手を下ろした。

「La……La La La……」

歌いながら、二人に背を向けた。追い縋ろうと手を伸ばす彼女――母を引き留め、俯く弟の姿が見えたが、振り返ることはしない。
あれだけ想っていた弟が迎えに来てくれたのだ。もうこれ以上、母がここに留まることはない。
ならば次に自分が見守るべきは、弟が残した家族たちだ。

弟を守る。
いつか母と交わした約束は、少しだけ形が変わってしまったが大丈夫だ。
自分は姉なのだから。弟も、弟の子たちも全員見守り続けていく。
この選択に後悔はない。それに、丁寧に祀ってくれているのだから、そのお礼に子孫を守るのは当然のことだ。
自分の向かうべき場所へ、迷いなく足を進めていく。
母のすすり泣く声が遠くなる。それに少しだけ寂しさを感じながら、どうか次こそは最後まで幸せでいて欲しいと願う。
母はずっと寂しさと悲しみを抱えて、今まで一人歌ってきたのだから。悲しい微笑みなど、これ以上は必要ない。

「La La……La……La La La」

母が弟を想い、紡いだ旋律。
別れを悲しみながらも、相手の幸せを願い続けた祈り。
その歌を、今度は弟の家族のために歌い続ける。

ふと、道の先に誰かの影が伸びていた。
立ち止まり、視線を向ける。月明かりを浴びて、白の制服が煌めいて見えた。
写真の中でしか見たことのなかった優しげな微笑みに、じわりと世界が滲む。ふらりと進む足はいつしか駆け出していて、軽く手を広げて待つその人の胸の中へと迷いなく飛び込んだ。

「ありがとう」

穏やかな声音に、泣きながらも笑顔で顔を上げる。

「だって私、お姉ちゃんだもの!弟も、弟の家族も、お母さんも、皆守っていくんだから!」

高らかに告げれば、父は笑って偉いなと頭を撫でてくれた。



20251013 『La La La GoodBye』

10/15/2025, 9:13:48 AM