「はいどうぞ」
渡された缶コーヒーは温かく、収まり始めていた涙腺を再び刺激した。
ずび、と鼻を啜る。缶の温もりを抱きしめ、涙を溢す。
「相変わらず、泣き虫さんだねぇ」
くすくすと笑われる。
仕方がないだろう。分かっているというのにあえて指摘するなど、タチが悪い。
涙目で睨みつけながら、缶の蓋を開けた。ぷしゅと音を立てて、コーヒーの苦い香りが漂い始める。
「まあ、いいや。とりあえず、コーヒーが冷めないうちに飲んでしまいなさい。話はそれからにしよう」
そう言われ、おとなしく缶に口をつけた。ほろ苦い味が今の自分のようで、苦さを嚥下しながらまた泣いた。
鏡の向こうに、幸せな世界を見た。
姿見に映る自分は眠たげな目をして身支度を整え、その後ろでは彼女が忙しなく準備を整えている。
ありきたりな日々の一コマ。けれどそれが、今は何より煌めいて見える。
爪が食い込むほど強く手を握り締め、唇を噛んで視線を逸らす。
これ以上は見ていたくない。
有り得たかもしれないもしもの世界など、心の傷を抉るだけで、慰めにもならないのだから。
かちり、と時計の針の音が聞こえた気がした。
歪んだメロディーが流れ始める。顔を上げずとも、時計盤が回転し、中の人形たちが踊り始めているのが分かる。
――また、止められなかった。
傷つき疲れ果てた体は、指先すら動かない。
このまま、何度目かの始まりに戻るのだろうか。沈んでいく意識の中、そう思った。
あの子はこの繰り返しが無意味なことだと、いつ気づいてくれるのだろうか。
どうか、この体が朽ちる前までに気づいてほしい。残された時間は僅かしかなく、その後にはあの子自身の時間を消費することになるのだから。
気づいて。声には出さず、呟いた。
巻き戻り始めた時間を感じながら、ただそれだけを思っていた。
人の絶えたアーケード街の片隅。アーケードを跨ぐように、天井から吊り下げられた大時計がある。
時計の針は動かず、文字盤の周囲に並ぶ小さな扉は固く閉ざされたまま。
かつては街のシンボルとして時を人々に告げていた時計は、アーケードの廃れと共に、何年も前からその役目を終えていた。
いつからだろうか。誰が広めたのか、とある噂が囁かれるようになった。
――日付の切り替わる、午前0時。壊れた時計が時を刻み、中のからくりが動き出す。その時に願ったことは叶えられる、と。
噂を確かめに、何人もの人々が時計の元へと訪れた。様々な願いを胸に時計が動くのを待ち続け、去って行った。
何人もの人々の落胆が噂をただの作り話だと告げていたが、それでも噂は消えず囁かれ続けている。
そして彼女もまた、噂に縋り、時計が動くのを待つ一人だった。
「どうか、彼を救って……」
動かない時計の下で、願いを口にし続ける。
帰らなかった彼女の思い人の帰還を、奇跡を求めて祈っていた。
奇跡、あるいは悪夢が始まったのは、彼女が時計の下に通い続けた百日目のことだった。
かちり。かちり。
音を立てて文字盤の針が動き、十二時ちょうどに針が重なった。
もの悲しいメロディーが流れ始め、文字盤がゆっくりと回転し始める。
表から裏へ。船を模した人形がゆらゆらと揺れている。
文字盤の右。扉が開いて人形が現れた。修道僧を模した人形が、小さな鐘を鳴らしている。旅立ちを告げる鐘がメロディーに合わせて鳴り響く。
鐘の音と共に、文字盤の下の扉が開き始めた。松明を掲げた少年少女の人形が導の光を灯し、くるくると舞っている。
その動きに合わせて、文字盤の左の扉が開かれた。供物を掲げた人々が揺れ動き、その後から杖をついた老人が現れる。老人は文字盤の上を見上げ、人形たちは動きを止めた。
そして、文字盤の上。一際大きな扉が開かれ、中から巡礼者の人形が現れる。白の衣を纏い、手を胸の前で組んで祈りを捧げている。膝をつき、目を閉じたその姿は、微動だにしない。
他の人形たちは長い年月を経て劣化が進んで色はくすみ、所々塗装の剥げた部分もある。だが、巡礼者の人形は年月を感じさせない清廉な白を纏っていた。
不意に音楽が止まる。錆び付いた音を立てながら、巡礼者以外の人形は中へと戻り、扉が閉まっていく。文字盤が再び回転し、裏が表へと戻っていく。
その時、祈りを捧げていた人形の目が開かれた。無機質な黒の瞳が、こちらを見下ろしている。赤い唇が僅かに動き、時計の針が逆回転を始めた。
ぞわりとした、異様な空気。きゅるきゅると螺子を巻くような、何かを巻き戻しているかのような歪な音が響く。
強い目眩に襲われ、膝をつく。無機質な視線を感じながら、隣で同じように膝をついて目を閉じている彼女に視線を向けた。
刹那、感じたのは胸を焦がすような嫌な予感だった。震える膝に力を入れ起き上がり、人形の目から隠すように彼女の前に立ち塞がる。襲う目眩に顔を歪めながらも、人形の目を見据えた。
「お願いします。どうか」
背後で譫言のように、彼女が呟く。その言葉が届いたのか、人形の目が僅かに細められた。
音楽が鳴り響く。歪な、逆回転した不協和音が辺りを覆う。
巻き戻る時計の針が再び十二時で重なり。
気づけば、時間が巻き戻っていた。
荒い呼吸を繰り返しながら、目を開ける。
自分の部屋。巻き戻ってしまったことに、密かに嘆息した。
体が鉛のように重い。声を出そうにも、喉は震えず微かな吐息だけが溢れ落ちるだけだった。
これではもう、彼女を止められない。彼女が自力で気づかない限り、この結末の変わらない繰り返しは続くのだろう。
自分の命が終わった後、彼女の命を消費しながら。
静かに目を閉じる。彼女はきっと、いつものように旅立つ思い人の元へと向かうのだろう。思い人を引き留め、けれど最後には変わらない結末に怯えながら、束の間の安らぎを得るのだろう。
結末は変わらない。旅立ちを止め、どんなに危険を遠ざけた所で、思い人は彼女の前から去ってしまう。人の身で、過去を変えられなど不可能なのだ。
不意に、扉の開けられる音が聞こえた。重い瞼をこじ開けて、視線を向ける。
「――なんで」
微かな呟き。覚束ない足取りで、こちらへと向かう。
「何、これ……どうして、こんな。こんなことって……っ」
震える手が、頬に触れる。僅かな温もりを感じて、目を細めた。
「ごめんなさい……お姉ちゃん」
彼女の頬を伝い落ちる滴に、間に合ったのだと理解して、そっと吐息を溢した。
人の絶えたアーケード街の片隅に、壊れたからくり時計があった。
巡礼者の旅の軌跡を描いたその時計。過去の想いを未来へ紡ぐ直線上の祈りは、時計という円環に組み込まれている。誰かの命を消費して、ほんの僅か時間を戻すのだという。
夢幻のようなものだ。ある人はそう言った。
過去は変わらない。ある人は嘆いた。
悪魔が作ったのだろう。人々はいつしか、そう囁いた。
その時計はもう存在しない。
20250924 『時計の針が重なって』
「一緒にいてよ。僕と一緒にここで遊ぼう?」
少年が笑って手を差し伸べる。
少女は俯き、ただ首を振った。
夕暮れに染まる教室には、二人以外に姿はない。
誰の声もしない。何の音もない。
二人だけの空間。
「ここにいて。僕と一緒に、ずっと」
少年は笑う。少女は俯いたまま。
二人の視線が合うことはない。
その日も、普段と何も変わらない朝だった。
穏やかな秋晴れの青空。暖かな陽射しと、冷えた空気。
何も変わらない。強いて言えば、その日の風はやけに湿っていたように感じられたことくらいだ。
「おはよう!」
「おはよう」
笑顔で駆け寄る少女に、少年ははにかんで答える。
両親が親友同士で家も近い二人は、気づけばいつも一緒にいた。
それが当たり前だった。そしてそれはこの先も変わらず続いていくのだと、当たり前のように信じていた。
「ねぇ、宿題やった?」
「終わってるけど……また忘れたの?」
「ごめん!だって難しくて」
両手を合わせ拝む少女に少年は、溜息を吐きながらも笑う。
いつもの光景。何も変わらない一幕だった。
「次はちゃんと一人で終わらせるから」
「はいはい。そういって毎回終わらないのは誰だっけ?」
「――わたしです」
しゅんと項垂れる少女の頭を、少年は優しく撫でる。
頭を上げた少女に笑いかけ、その手を引いて歩き出した。
「じゃあ、早く学校に行かないとね」
「やったぁ!ありがとう」
「どういたしまして」
笑い合いながら学校に向かう二人の背を、道行く人が微笑ましく見守る。
悲しいほどに。笑顔の溢れるような朝だった。
その日。何があったのか。少年は自身の身に起きたことを、正しく理解できなかった。
轟音。振動。悲鳴。混乱と痛み。
気づけば、辺りは土と瓦礫に埋もれ、黒い煙が充満していた。倒れ伏す少女の側で、土の中から突き出た手が少年自身のものであると気づいた時、彼は自分が死んだことに気づいた。
恐る恐る近づいた少女が胸が僅かに上下しているのを見て、安堵する。だが充満する黒い煙と遠くで見えだした赤い炎が、ここに留まることの危険さを告げている。少女を連れて逃げようにも、少年の透ける手は少女をすり抜けて届くことはなかった。
辺りに生者の気配はない。絶望的な状況に少年が唇を噛みしめた時、少女の瞼が僅かに震えた。
ゆっくりと少女の瞼が開かれていく。少年の見守る前で、ぼんやりとした目が次第に焦点を結び、その目が驚愕で見開かれた。
「あ……あ……」
少女の目は一点に注がれている。土の中から突き出た少年の腕。まるで少女を突き飛ばした後、土砂に埋もれたようなそれを見続けたまま、微動だにしない。
近づく炎に焦りを覚えて、少年が少女の肩に手を伸ばす。
その手はやはりすり抜けたが、その思いが通じたのか、少女はふらつきながらも立ち上がった。
辺りを見回す。教室の惨状を認めて、少女の目から光が消えていく。
ぱりん、と。
儚い音を立てて、少女の心が砕けた音が聞こえた気がした。
その後、助けられた少女は、しかし目覚める様子はなく眠り続けている。
体には異常はみられない。おそらく心の問題だろうと医者は言う。
無理もない。誰しもがそう思った。
前触れもなく土砂崩れが起きた。山を切り開いて建っていた少女たちの通う学校は、殆どが土砂で埋まってしまった。生徒や教師の殆どが土砂に埋まり、無事だったのはほんの僅か。当時校庭で授業を受けていた数人の生徒と教師、そして少女だけだった。
管に繋がれ、眠り続ける少女の頬に少年は触れる。すり抜ける手と沈んでいく意識。
次に目を開けた時、少年は少女の夢の中にいた。
割れた硝子。ひしゃげた柱。
赤く染まる土に埋まる教室の中。
少女は今も、あの日の悪夢に囚われている。
「ねぇ」
土の中から突き出た手を隠すように、少年は少女に前に立ち微笑んだ。
虚ろに座り込み、首に巻き付く紐を引いていた少女の目が僅かに開かれる。
紐から手を離し、少年から逃れるように俯いた。
「遊ぼうよ」
少女の肩が震えている。はらりと落ちた紐が跡形もなく消え、少女の周りがほんの僅かに在りし日の教室の姿を取り戻す。
変わりに少年の周りは一層赤黒く染まり、どろりとした何かが足下を埋め尽くした。
静かに燃え上がる炎が、空を夕焼けに変えていく。
あの日の悪夢の再現が、少女と少女を閉じ込める怪異の構図に成り代わった。
少女は、正しく少年を認識できていない。俯いた視線は少年の顔を見ず、だからこそこの均衡が保たれている。
すべてを正しく認識してしまえば、少女は今度こそ躊躇わず首の紐を引くのだろう。
「一緒にいてよ。僕と一緒にここで遊ぼう?」
少年が笑って手を差し伸べる。
少女は俯き、ただ首を振った。
夕暮れに染まる教室には、二人以外に姿はない。
誰の声もしない。何の音もない。
二人だけの空間。
「ここにいて。僕と一緒に、ずっと」
少年は笑う。少女は俯いたまま。
二人の視線が合うことはない。
どうかそのまま。少年は笑顔の裏で、只管に願う。
顔を上げないで。気づかないで。
炎が空を赤く染める、時が止まったままの教室。
生きているものの気配がない世界。
少女が顔を上げない限り、夕陽を模した炎よりも赤く染まった教室に気づかない限り、それが崩れることはない。
どうか顔を上げないでと、心の内で繰り返す。
「このままずっと、二人だけで」
少女を怯えさせることに苦しみながらも、彼女のために少年は、怪異を演じ続ける。
20250923 『僕と一緒に』
厚い雲が覆う空を見上げ、溜息を吐く。
雨が降りそうで降らない。どっちつかずな天気に、気分が重くなる。
もう一度溜息を吐いてから、鞄の中に折りたたみ傘を入れ、外へ出た。
じっとりと湿った空気が肌に纏わり付く。振り払うように足を速めれば、道の先に黒い影が佇んでいるのが見えた。あぁ、まただ。何度目かの邂逅に、密かに息を呑む。俯き少しだけ足を緩めながら、その横を通り過ぎようとした。
「――水瓶」
聞こえた声に、思わず立ち止まる。
見たくはないと思うのに、体は意思に反して顔を上げる。擦り切れた、黒のローブを纏った誰かが指を差す方向へと視線を向けた。
厚く黒い雲が広がる中で、一カ所だけが妙に明るい。
太陽が近いからなのか、まるでスクリーンのようなのっぺりとした白の雲の中心。何かを模ったような雲があった。
水瓶。誰かが告げた言葉が浮かぶ。
水瓶が傾き、中の水が零れていく。受け止めるはずの水瓶はなく、地面に零れ落ちていく。
もう戻せない。受け入れて先に進まなければ。何故かそう思った。
「均整は崩れた。嘆きは意味を持たず、振り返ることはただの愚行だ」
無機質な声音が告げる。抽象的な言葉に意味を求めて視線を向ければ、すでにその姿はどこにもない。
もう一度見上げた空にも水瓶の形は見えず、仕方がないと眉を寄せて歩き出した。
あれが一体誰なのか、全く分からない。
曇りの日に現れる、黒いローブを纏った人物。誰かといる時には姿を見せない、人なのかも分からない何か。
最初は、占いめいた言葉を話した。どうすればいいのか、何をしてはいけないかを、抽象的な言葉で語っていた。
最初はただ戸惑うばかりで、指差す先に何も見えなかった。
それが変わったのは、一ヶ月が過ぎた辺りだ。
指差す先に、形が見えた。それは段々と形を明確にし、告げる言葉と同じものが見えるようになっていった。
その頃から、紡ぐ言葉が少なくなった。ただ事実を述べている。それが何を意味しているのか、どうすればいいのか、分からなくなった。
しかし、次第に頭の中に言葉が浮かぶようになった。雲を見て、直感的に言葉が浮かぶ。それに呼応するかのように、紡がれる言葉は益々少なく、抽象的になっていった。
まるで言葉を通して自分の中に入り込み、解けてしまっているようだ。
薄ら寒いものを感じて、肩を震わせる。
言葉は本当になる。従えば危機を逃れ、幸運を得ることができる。それに喜ぶよりも、恐怖が勝った。
会いたくない。聞きたくないと思っても、あのローブの人物は曇りの日に現れる。一人になるほんの僅かな瞬間に、雲を差し示し言葉を紡いでいく。
見たくない、聞きたくないと思うのに、足を止め指し示す方向を見上げる自分自身が、とても怖ろしかった。
気づけば、知らない場所でひとり、立ち尽くしていた。
目の前には砂漠が広がっている。人の気配はない。
立ち尽くす自分の横を、乾いた風が通り過ぎる。砂を巻き上げ、すべてを砂の下に覆い隠そうとしている。
ふと、気づく。自分の足もとに、何かがあった。
膝をつき、砂を払う。切り出された石の残骸。硝子の破片。
かつてそこに、人の営みがあったのだという名残が残っていた。
「――あぁ」
その瞬間、理解した。故郷は失われたのだと。
空を仰ぐ。煌めく陽が雲に覆われ始めているのが見えた。
――死神の鎌。
振り下ろされる鎌がもたらす終焉。永遠など、どこにも存在しない。
「終焉があり、再生がある。故郷を失い流浪の身となれど、言葉まで失われた訳ではない」
振り返れば、そこに黒いローブを纏った誰かがいた。
目深に被ったフードを外す。褐色の肌。強い意思を秘めた瞳。
気づけば、膝を折っていた。
「我らの血を継ぐ者。空に吉凶を視る力を宿す子。力を怖れず、驕らず、言葉を紡ぎ続けよ」
「でも……」
言い淀む。求められていない未来を紡ぐことに、意味はあるのだろうか。不用意に告げて、疎まれるのは怖かった。
「沈黙し、静観することは悪ではない。だがその結果を悔やむな。後悔に意味はなく、自身の根源を歪ませかねない」
静かな声が告げる。
唇を噛みしめ、強く手を握り締めた。
何も知らないままでいたかったという思いを見透かされているようで、視線から逃れて俯いた。
「絶えず注がれる水を受け止める瓶は溢れ、意味を成さなくなった。己が運命を受け入れよ。立ち止まらず、進み続けろ」
どうして自分なのかと、嘆いた所で何も変わらない。
分かっていても、進めない。目を瞑り、耳を塞いで、何も知らない振りをしていたかった。
臆病な自分の頭に、そっと何かが触れる。
顔を上げれば、暖かな手が頭を撫でていく。額に触れる手が恐怖を溶かしていくようで、小さく息を吐いた。
「我らの血は、故郷が失われたことで広がった。この先出会うこともあるだろう」
同じように、吉凶を視ることができる者に。
不意に、意識が揺らいだ。力が抜けて、瞼が閉じていく。
地面の感覚が曖昧になり、触れる熱が解けていく。
「我らは共に在る。いかなる時も、その影に宿る」
意識が沈んで、何も聞こえなくなった。
曇りの空に、緩やかに回転を続ける車輪を視た。
何かが新しく始まる予感に、強く手を握り締める。
「大丈夫。悪い感じじゃない」
確かめるように影を見れば、穏やかに揺れている。それに安堵して、前を向いた。
立ち止まらずに歩く。振り返ることもしない。
血に刻まれた遠い故郷を思いながら、ただ前に進み続けた。
20250922 『cloudy』