前触れもなく振った雨は、やはり何の前触れもなく上がり、空に大きな虹だけを残して去っていった。
指で四角を作り、その中に虹を閉じ込めてみる。淡い色彩の虹は酷くぼんやりとして、四角の中で空に輪郭を溶かしていた。
「何してるんだ?」
「んー?虹を閉じ込めてる」
虹を閉じ込めたまま、不思議そうに問いかけてきた彼に答える。
小さな溜息。大きな手に頭を乱暴に撫でられて、視界が回る。
「ちょっと!」
「課題サボってる方が悪い」
そう言われると何も言えない。恨めしげに彼を見ながら、四角を解いて乱れた髪を手ぐしで整えた。
見上げる彼の目の奥が揺れている。呆れた顔をしながらも隠し切れない怯えが見えて、視線を逸らして気づかない振りをした。
「そういえば昔、虹の向こう側から来たって言ってたな」
ぽつりと、彼が呟いた。
「俺を幸せにするために来たんだって。大真面目な顔をして……変な奴だって、そう思ってた」
後ろから、そっと抱き締められる。
暖かな腕が震えている。もぞもぞと向きを変えて、正面から彼を抱き締め返した。
「俺が幸せになったら、お前は虹の向こうに帰るのか?」
「どうだろうね。幸せの形によるんじゃないかな」
大きな背を撫でる。優しく、けれど確かにここにいるのだと伝えられるように、しっかりと。
「幸せの中に私がいないなら、いつかは帰るのかもしれない。でも君の幸せの中に私がいるのなら、ずっとここにいるよ」
「――なら、ずっといろ。俺の側に」
願う言葉も、微かに震えている。
「親父やお袋のように……俺を置いていかないでくれ」
答えの代わりに、背中を強く抱き締めた。
幼馴染みである彼の両親が亡くなった時、彼はまだ十にも満たない小さな子供だった。
両親に連れられて訪れた葬儀場。鼻をつく焼香の匂い。たくさんの花に囲まれ飾られている、彼の両親の遺影。喪服を着た大人たちが行き交う広間の片隅で、呆然と座ってそれを見ている彼をはっきりと覚えている。
側に寄っても、彼は何の反応も見せなかった。包帯を巻かれた手は冷たく、表情の抜け落ちた白い顔も凍り付いたまま。
「――ねえちゃんが、助けてくれた」
式が始まっても彼の側を離れずにいると、微かに彼が呟いた。
「僕をかばってくれた。よかった、って笑って……ねえちゃんも、いなくなっちゃうのかな」
膝の上で握られた手が震えている。
年の離れた彼女に、彼は一方的に苦手意識を持っていた。それでも彼女がいなくなることを彼は怖れた。最後に残された家族を失うかもしれない不安に、彼は一筋涙を流していた。
「大丈夫」
震える手に、自分の手を重ねて囁く。
込み上げるのは、知らないはずの記憶の断片。本当の意味で幸せにできなかった彼に対する後悔。
「大丈夫だよ。幸せにするために、ここにいるんだから……だから、いなくなったりしないよ」
根拠はない。でも彼女もきっと、自分と同じなのだと感じた。
彼のために、求める言葉一つ紡げなかった自分。
彼を笑顔にするための方法を間違った彼女。
知らない記憶が過ぎて、体が自然と動き出す。震える手を包み、引き寄せる。
「笑顔になれるおまじないだよ」
そっと手の甲に唇を触れる。驚く彼に笑ってみせれば、彼もまた赤い目をしながらほんの僅かに口角を持ち上げた。
「今度こそ、ちゃんと幸せにしてみせるからね」
「――何か言ったか?」
何でもないと首を振り、体を離して彼を見上げた。
背に回していた手を伸ばし、頬に触れる。
「置いていかないから、笑ってよ」
そう願えば、彼は態とらしく眉を顰めてみせた。けれど表情とは裏腹に、目は意地悪く揺れていた。
「おまじないがあれば、笑えるかもな」
「仕方ないなぁ」
嘯く彼に、自分も態とらしく溜息を吐いてみせる。
頬をなぞり背伸びをして、そっとそこへ唇を寄せた。
顔を離して彼を見る。眉間の皺が消えて、穏やかに笑っていた。
優しい顔が近づいて、額に熱が触れる。少しかさついた彼の唇の感覚に、自然と笑みが浮かんだ。
頭を撫でられれば、それだけで見えない尾を振りたくなってしまう。
「お前が言ったんだから、ちゃんと俺を幸せにしてくれよ」
「分かってる。絶対に幸せにするよ」
「なら、サボらず課題を終わらせてくれ。その後、試験勉強もあるんだからな」
小さく呻いて、視線を逸らす。
無言の圧力に、項垂れておとなしく机に向かった。
幸せにするという行為は、その実とても難しい。
ふと、何気なく窓の外へと視線を向けた。青空に溶けていく虹を一瞥して、彼を見つめる。
虹の架け橋を渡る必要はもうない。
彼の隣で言葉を交わし、手を伸ばして触れることが幸せになるというのなら、還る意味はないのだから。
「そんなに見ていても、助けてやらないぞ」
「べ、別に、そんなつもりじゃない」
意地の悪い顔をして揶揄う彼から、慌てて顔を背ける。唸りながら課題に取り組み始めれば、宥めるように頭を撫でられた。
「それが終わったら、気分転換に散歩に行こう」
だから早く終わらせろと、穏やかに彼は告げる。
途端にやる気を出す自分に、耐えきれなかったらしい笑い声が彼の口から溢れ落ちた。
「お前、何か犬みたいだな。時々、垂れた耳と揺れるしっぽが見える気がする」
頭を撫でながら、彼は目を細めて笑う。
その笑顔はとても綺麗で、胸の中が暖かくなっていく。
彼が幸せだと、自分も幸せになれる。
「――わん」
見えない尾を振りながら、笑顔を浮かべ鳴いてみせた。
20250921 『虹の架け橋』
「また見てるの?」
「ごめんね」
「別に謝ることじゃないけど……でも、そうやって見てても変わらないと思うよ」
「うん……」
「他になにかやりたいことない?行きたいとこでもいいし」
「ここでいいの。ありがとう」
「――しょうがないなぁ」
「ごめんね……分かってるけど、まだ見ていたいの」
そう言って、彼女は幸せそうに微笑んで、手の中の古ぼけたスマホを抱き締めた。
夜。ベッドの中で密かに息を吐いた。
この家に来てから、彼女はずっとスマホの画面を見つめている。既読がつかない最後のメッセージを指でなぞり、目を細めて微笑んでいる。
寝返りを打つ。手を伸ばして、ベッドサイドの上のスマホと取った。
電源を入れ、ロックを解除する。
そのまま指は滑るようにメッセージアプリを立ち上げた。
彼女から送られたメッセージの一番下。文字化けして読めない、短い文を見て目を細める。
――あいたい
たった四文字。彼女は送ったのだという。
送れた、と言った方が正しい。彼女のスマホはとっくの昔に解約されて、部屋の片隅に転がっていたのだから。
「ごめんね。でも来てくれて……連れ出してくれてうれしかった」
スマホを抱き締め、窓辺で空を見上げていた彼女がぽつりと呟いた。
「私こそごめん。もっと早く、行動していればよかった」
横になったまま、彼女に視線を向ける。開けたカーテンから差し込む月明かりが、彼女に影を与えないことが寂しかった。
「気づいてたって、言えばよかった。家に縛られないで自由になっていいんだって言えたなら、きっと苦しむことはなかったのに」
鴨居の下で揺れている彼女が脳裏を過ぎる。家に縛られ続けた彼女の苦しみに気づいていて、何も言えなかった。自分の弱さがただ憎かった。
視線をメッセージへと戻す。彼女が送ったメッセージの下、最後に自分が送ったメッセージを、そっと指でなぞった。
――すぐ行く。
たった一文。決して既読がつかないメッセージに、きっと彼女は気づいていない。
「明日、外に行かない?」
無駄だと思いながら、声をかける。
今までどんなに誘っても、彼女はここから動こうとはしなかった。家に縛られすぎていたためなのか、彼女のスマホがここにあるからなのかは分からない。
いつ訪れるか分からない別れ。せめてその前に、一つでも思い出を作っておきたかった。
「――お願い。もう優しくしないで」
予想とは違う言葉に飛び起きた。
視線を向けた先の彼女は、穏やかに笑っている。スマホを窓枠に置き、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
手にしたままのスマホに触れる。彼女の視線が、既読のつかないたった一言のメッセージに注がれる。
「届くなんて思ってなかった……でも、届いた。読めないのに、メッセージを返してくれた」
慈しむように、彼女の指先が画面に触れる。
「気づいてたの?」
「幼馴染みで、親友だもの」
くすくすと彼女は笑う。笑いながら頬を滴が伝い、差し込む月明かりを反射して煌めいた。
まるで宝石のようだ。儚い美しさに、何故か目頭が熱くなる。
「息を切らせて駆け込んで来てくれて、届いたんだって思った。繋がったから、私はあの家じゃなくてあなたの側にいられる」
透ける彼女の手が頬に触れた。熱のない、冷たい手。でも彼女は確かにここにいるんだと、その冷たさが教えてくれる。
「繋がったのが嬉しいの。それだけで十分幸せなの」
彼女の指が目尻をなぞる。
気がつけば、自分もまた彼女のように泣いていた。
「けどね、どんどん我が儘になりそうなの。声をかけてくれて、誘ってくれて……ずっとこの時が続けばいいのにって思う。外の世界を見て、思い知らされて……いつか離れてしまうことが、怖ろしくて堪らなくなる」
ごめんね、と彼女が言った。
「お願い、優しくしないで。私を我が儘にしないで……あなたを、これ以上私で縛らせないで」
幸せそうで、悲しそうな微笑み。
離れていく手を咄嗟に掴み、両手で包んで彼女を見た。
「縛っていい。我が儘になっていい……私だって、我が儘になるから」
包んだ手に額を押し当てる。息を呑む彼女に届いてほしいと、願いを込めて目を閉じた。
「じゃあ、一緒にいて。ずっと一緒に……離れたくないよ。離れるくらいならいっそ、私も連れて行って」
吐き出す言葉は、祈りのように切なく、呪いのように昏く沈んで部屋に響き渡る。
大切な幼馴染み。一番の親友。
別れを受け入れられるほど、自分は強くはなかった。
「――明日はきっと、晴れになるわ」
不意に彼女が囁いた。
顔を上げる。彼女の視線を追って、窓の外の明るい月を見上げた。
「二人だけになれる所ならいいな。誰かに邪魔をされない、そんな静かな場所。昔みたいに手を繋いで、ただ歩いて行くの」
「っ、そうだね。色々な話をしよう。子供の時みたいに、日が暮れるまでたくさん遊んで……日が沈んでも、二人でいよう」
滲む月が揺れる。
そっと彼女の手が離れていく。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
涙を拭いて笑い合う。
不意に、ベッドに投げ出されていたスマホが点いた。
ロックが解除され、メッセージ画面が表示される。
「――あ」
一番下。
既読がつかないはずのメッセージに、既読がついた。
20250921 『既読がつかないメッセージ』
きらきらとした木漏れ日の下で、くるりと回る。
赤や黄色、緑に茶色。極彩色に囲まれて、自然と口角が持ち上がる。
とん、と跳ねて、そのまま後ろに倒れ込む。舞い上がる紅葉にひとりくすくすと笑った。
秋は好きだ。木漏れ日の光は柔らかく、鮮やかに色づく葉は、何よりも美しい。
手足をばたつかせ、紅葉を巻き上げる。舞い落ちる赤や黄色の鮮やかさを、目を細めて堪能した。
冷たい雨が降り頻る中、彼女は傘もささずに一人空を見上げていた。
雨粒が彼女の体を打ちつける。頬を伝う滴は雨なのか、それとも彼女の涙なのかはもう分からない。
時折走る稲光。遅れて轟く雷鳴にも、彼女は微動だにしない。まるで、彼女だけ時が止まってしまったかのように。
唇を噛み締め、泣くのを耐える。泣きたいのは彼女であって、自分ではないからだ。深く息を吸い込んで、静かに吐き出す。顔を上げ、傘の柄を強く握りしめて、ゆっくりと彼女の元へと歩き出す。
何も言わずに、傘を差し掛ける。灰色の空から彼女の目を奪い、雨から切り離す。
「……ねぇ」
それでも彼女は見えない空を向いたまま。
「もしも世界が終わるなら、きっと今日みたいな空なんだろうね」
淡々と紡がれる言葉が、雨に解けていく。
それに返せる言葉を持たないことが、苦しかった。
眠りについたはずだった。
眠る前の記憶はある。ベッドに入っても中々寝付けず、だらだらとスマホで動画を見ていたはずだ。
だとしたら、これは夢の中なのだろうか。
裸足の足に纏わり付く、じっとりと湿った土。辺りは深い霧が立ち込めて、伸ばした手の先も見えはしなかった。
見上げた空は厚い雲に覆われて、太陽の姿が欠片も見えない。暑くもなく、寒くもない。けれどどこか落ち着かない空間に、ふるりと肩を震わせた。
耳を澄ませても、何も聞こえない。
いや、微かに何かが聞こえていた。
泣き声、だろうか。しゃくり上げるような、子供の声。
繰り返し何かを言っているようだが、はっきりとは聞こえなかった。
「――っ」
ごくりと唾を飲み込み、声の聞こえる方へと歩き出す。
足に触れる土の湿った柔らかさも、纏わり付く霧の濡れた感触や匂いも、この場のすべてがやけにリアルだ。
夢のはずだと思いながらも、込み上げる不安に心臓が痛いくらいに動いていた。
声がはっきり聞こえるようになるにつれ、辺りの霧が薄くなっていく。
周囲に何があるのかは、まだ見えない。けれど歩く先に、蹲る小さな影が揺らいでいるのが見えて、何故か足を止めた。
霧が晴れていく。正しくは、自分と影の間の霧が薄くなっていく。はっきりと見えた影は、蹲る幼い子供の姿をしていた。
周りの景色は一切見えず、ただ子供の姿だけがはっきりと見える状況に困惑する。背筋に冷たいものが走り、これ以上足を進めることができない。
立ち尽くし、無言で子供の姿を見る。
「ほどけない……なんでっ、どうして……」
蹲る子供は、どうやら靴の紐を解こうとしているらしい。小さな手が紐を掴むが、硬く結ばれているようで少しも解ける様子はない。
「おねがい、ほどけて……いたい……いたいよぅ……」
しゃくり上げながら、必死に紐を掴む。離れたここからでも分かるほど、靴は子供の足のサイズと合っていなかった。
まるで拘束具のように小さな靴は、子供の足を締め付けている。靴紐がさらに強くきつく結ばれているせいで、痛みが生じているのだろう。
「いたい……ほどけて……だれか……」
助けて。
泣きながら靴紐を掴み、助けを求める子供。
ふと、ポケットの中に、裁ち鋏が入っていることを思い出した。
我が家で使われている、古い裁ち鋏。
普段は、母の裁縫道具の中に入っているそれが、都合良く、しかもポケットの中に入っているはずがない。
そう思いズボンのポケットに触れれば、服の上からも分かる鋏の感触。
これなら、靴紐を切れる。
でも、本当に切ってしまっていいのだろうか。
正反対の思考に眉が寄る。
見ている先の子供の様子を見る限り、切って解放してあげた方が明らかにいいだろう。靴紐を解かぬ限り子供は苦痛から解放されないのに、解ける様子はまったくない。
それでも、不安が込み上げる。
一度切ってしまえば、二度と元には戻らない。ふたつになったものをひとつに結んでも完全にひとつにはならず、その結び目もいつか解けてしまうだろう。
切るべきか、切らないべきか。
目の前では、まだ子供が泣いている。痛い痛いとしゃくり上げ、解けぬ靴紐を掴んでいる。
悩みながらも、一歩だけ子供に近づいた。
「だめ」
知らない声が聞こえた。
後ろから手を引かれ、蹈鞴を踏む。
「あれは切ってはいけない」
振り返る。しかし霧が濃くて、何も見えなかった。
背筋に冷たいものが走る。見えない誰かに対する恐怖より、切ってはいけない、その事実が怖ろしかった。
「言葉を交わしても、触れることもいけない。あれは、あの子自身が結んだ罪なのだから」
子供の泣き声はまだ聞こえる。泣きながら靴紐を、縄を解こうと必死になっている。
罪。縄。言われた言葉と、思い浮かんだ言葉に、掠れた悲鳴が喉に張り付いた。
そっと子供に視線を向ける。見つめる先で、蹲り泣いているその姿が形を変えていく。
幼い子供の姿から、大人の姿に。だが靴から伸びた紐が全身に絡みつき、男か女かの区別すらつかない。
縄だ。赤黒い縄が、幾重にも巻き付き締め上げているのだ。
「あそこまで酷いものは、始めてみる。どれだけ業を築き上げたら、全身を覆うほどの罪になるのか」
静かな声が淡々と響く。
その声音には同情や憐憫はなく、嘲笑も侮蔑もない。事実だけを述べる色のない無機質さに、今も縄に締められ苦しむ誰かの業の深さを知った気がした。
不意に、泣き声が途切れた。ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、蹲っていた誰かが顔を上げる。
「見るな。走れ!」
顔すら縄に巻かれているのに、何故か目が合ってしまうと感じた。だがその前に、手を引かれ走り出す。
「――ホドイテ」
歪に割れた声を残して、深い霧の中へと飛び込んだ。
前も見えぬほど深い霧の中を走り続け、ようやく解放された時には足はふらつき、立ち上がれないほど疲弊していた。
地面に崩れ落ち、荒い息を整える。汗で滲む視界を拭い顔を上げると、解けるように霧が晴れていく。
そこは見慣れた神社の鳥居の前だった。横を見れば咲き終わったはずの藤が咲き乱れ、風に揺れて柔らかな音を立てている。
「いやぁ。危ないところだった」
声がして、振り返る。
「――え?」
思わず呆けた声を上げ、目を瞬いた。
石畳の中心に立つその姿は、自分と変わらぬ背丈で、同じ顔をしていた。
異なるのは、白い着物姿であることと、肩で切りそろえた黒髪くらいだろうか。
まるで市松人形のようだ。無表情な黒目が鳥居の向こう側から逸れ、こちらを向く。
「まじヤバってやつ?」
「――は?」
にひひ、と笑う市松人形に、再び間抜けな声が漏れた。
「にしても、何あれ。何股してんの?ちょーウケるぅ。ね、そう思うっしょ?」
同意を求められているのだろうが、理解が追いつかない。
自分と同じ顔の市松人形のような少女が、ギャルのような言葉で話している。
何が起こっているのだろうか。夢だから、仕方ないことなのだろうか。
「聞いてんの?おーい?……え、マジ?目ぇ、開けたまま寝てんの?ヤバくね?」
「いや、起きてる……けど」
目の前で手を振られ、何とかそれだけを告げる。
「何だ。起きてんじゃん。びっくりさせないでよねー」
「びっくりしてるのは、こっちというか……え?」
意味が分からず、一歩少女から距離を取る。きょとりと目を瞬かせた少女は、首を傾げて自身の姿を見下ろした。
「え?そんな引く?この格好、可愛いっしょ?……あ、あれか。まだ言葉が堅苦しいのか。可愛いって、マジむずいな」
多分、問題はそこではない。いや、一部そこもあるだろうけれど。
「あなた、誰?さっきのは何?」
気になることはたくさんあるが、気になる二つを聞いてみる。
しかし足は後ろに下げたまま。いつでも逃げ出せるように、警戒しながら。
問いかけに、少女は再びこてりと首を傾げた。不思議そうな顔が、次第に笑みを形作っていく。
「――ひみつ」
人差し指を唇に押し当て、にやりと笑う。
次の瞬間、強く風が吹き抜けた。目も開けていられぬほど、強い風。顔を手で覆い、目を閉じる。
「次会えたら、教えてあげてもいいよー?じゃねー」
笑う声が遠くなる。瞼の向こう側が暗くなり、意識が沈んでいく。
遠くで恨めしげに泣く声が風に掻き消され、後には何も聞こえなくなっていた。
次に目を開けた時、そこは自室のベッドの上だった。
体を起こす。窓に視線を向ければ、カーテン越しに朝の柔らかな光が溢れていた。
大きく伸びをして、ベッドから抜け出す。
変な夢を見た気がした。目覚めてしまった今となっては少しも思い出せない、そんな夢。
欠伸を噛み殺し、部屋を出るため歩き出す。
「――?」
何かが落ちた感覚に立ち止まり、足下を見た。
紐の切れた神社のお守り。厄除けと書かれたそれを拾い上げ首を傾げる。
鞄に下げていたはずだが、いつの間にポケットの中に入れていたのだろうか。
思い出せない記憶に、溜息を吐いてお守りをポケットにねじ込んだ。
それよりも早く準備をしなければ。折角の休みが無駄になってしまう。
急いで洗面台へと向かう。身支度を調え、パンを頬張り、出かける準備を澄ませていく。
「いってきます」
いつものように家を出る。
その時にはもう、夢のことも、お守りのことも忘れていた。
20250917 『靴紐』