sairo

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眠りについたはずだった。
眠る前の記憶はある。ベッドに入っても中々寝付けず、だらだらとスマホで動画を見ていたはずだ。
だとしたら、これは夢の中なのだろうか。
裸足の足に纏わり付く、じっとりと湿った土。辺りは深い霧が立ち込めて、伸ばした手の先も見えはしなかった。
見上げた空は厚い雲に覆われて、太陽の姿が欠片も見えない。暑くもなく、寒くもない。けれどどこか落ち着かない空間に、ふるりと肩を震わせた。
耳を澄ませても、何も聞こえない。

いや、微かに何かが聞こえていた。
泣き声、だろうか。しゃくり上げるような、子供の声。
繰り返し何かを言っているようだが、はっきりとは聞こえなかった。

「――っ」

ごくりと唾を飲み込み、声の聞こえる方へと歩き出す。
足に触れる土の湿った柔らかさも、纏わり付く霧の濡れた感触や匂いも、この場のすべてがやけにリアルだ。
夢のはずだと思いながらも、込み上げる不安に心臓が痛いくらいに動いていた。



声がはっきり聞こえるようになるにつれ、辺りの霧が薄くなっていく。
周囲に何があるのかは、まだ見えない。けれど歩く先に、蹲る小さな影が揺らいでいるのが見えて、何故か足を止めた。
霧が晴れていく。正しくは、自分と影の間の霧が薄くなっていく。はっきりと見えた影は、蹲る幼い子供の姿をしていた。
周りの景色は一切見えず、ただ子供の姿だけがはっきりと見える状況に困惑する。背筋に冷たいものが走り、これ以上足を進めることができない。
立ち尽くし、無言で子供の姿を見る。

「ほどけない……なんでっ、どうして……」

蹲る子供は、どうやら靴の紐を解こうとしているらしい。小さな手が紐を掴むが、硬く結ばれているようで少しも解ける様子はない。

「おねがい、ほどけて……いたい……いたいよぅ……」

しゃくり上げながら、必死に紐を掴む。離れたここからでも分かるほど、靴は子供の足のサイズと合っていなかった。
まるで拘束具のように小さな靴は、子供の足を締め付けている。靴紐がさらに強くきつく結ばれているせいで、痛みが生じているのだろう。

「いたい……ほどけて……だれか……」

助けて。
泣きながら靴紐を掴み、助けを求める子供。

ふと、ポケットの中に、裁ち鋏が入っていることを思い出した。
我が家で使われている、古い裁ち鋏。
普段は、母の裁縫道具の中に入っているそれが、都合良く、しかもポケットの中に入っているはずがない。
そう思いズボンのポケットに触れれば、服の上からも分かる鋏の感触。

これなら、靴紐を切れる。
でも、本当に切ってしまっていいのだろうか。

正反対の思考に眉が寄る。
見ている先の子供の様子を見る限り、切って解放してあげた方が明らかにいいだろう。靴紐を解かぬ限り子供は苦痛から解放されないのに、解ける様子はまったくない。
それでも、不安が込み上げる。
一度切ってしまえば、二度と元には戻らない。ふたつになったものをひとつに結んでも完全にひとつにはならず、その結び目もいつか解けてしまうだろう。

切るべきか、切らないべきか。

目の前では、まだ子供が泣いている。痛い痛いとしゃくり上げ、解けぬ靴紐を掴んでいる。

悩みながらも、一歩だけ子供に近づいた。

「だめ」

知らない声が聞こえた。
後ろから手を引かれ、蹈鞴を踏む。

「あれは切ってはいけない」

振り返る。しかし霧が濃くて、何も見えなかった。
背筋に冷たいものが走る。見えない誰かに対する恐怖より、切ってはいけない、その事実が怖ろしかった。

「言葉を交わしても、触れることもいけない。あれは、あの子自身が結んだ罪なのだから」

子供の泣き声はまだ聞こえる。泣きながら靴紐を、縄を解こうと必死になっている。
罪。縄。言われた言葉と、思い浮かんだ言葉に、掠れた悲鳴が喉に張り付いた。
そっと子供に視線を向ける。見つめる先で、蹲り泣いているその姿が形を変えていく。
幼い子供の姿から、大人の姿に。だが靴から伸びた紐が全身に絡みつき、男か女かの区別すらつかない。
縄だ。赤黒い縄が、幾重にも巻き付き締め上げているのだ。

「あそこまで酷いものは、始めてみる。どれだけ業を築き上げたら、全身を覆うほどの罪になるのか」

静かな声が淡々と響く。
その声音には同情や憐憫はなく、嘲笑も侮蔑もない。事実だけを述べる色のない無機質さに、今も縄に締められ苦しむ誰かの業の深さを知った気がした。

不意に、泣き声が途切れた。ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、蹲っていた誰かが顔を上げる。

「見るな。走れ!」

顔すら縄に巻かれているのに、何故か目が合ってしまうと感じた。だがその前に、手を引かれ走り出す。

「――ホドイテ」

歪に割れた声を残して、深い霧の中へと飛び込んだ。



前も見えぬほど深い霧の中を走り続け、ようやく解放された時には足はふらつき、立ち上がれないほど疲弊していた。
地面に崩れ落ち、荒い息を整える。汗で滲む視界を拭い顔を上げると、解けるように霧が晴れていく。
そこは見慣れた神社の鳥居の前だった。横を見れば咲き終わったはずの藤が咲き乱れ、風に揺れて柔らかな音を立てている。

「いやぁ。危ないところだった」

声がして、振り返る。

「――え?」

思わず呆けた声を上げ、目を瞬いた。
石畳の中心に立つその姿は、自分と変わらぬ背丈で、同じ顔をしていた。
異なるのは、白い着物姿であることと、肩で切りそろえた黒髪くらいだろうか。
まるで市松人形のようだ。無表情な黒目が鳥居の向こう側から逸れ、こちらを向く。

「まじヤバってやつ?」
「――は?」

にひひ、と笑う市松人形に、再び間抜けな声が漏れた。

「にしても、何あれ。何股してんの?ちょーウケるぅ。ね、そう思うっしょ?」

同意を求められているのだろうが、理解が追いつかない。
自分と同じ顔の市松人形のような少女が、ギャルのような言葉で話している。
何が起こっているのだろうか。夢だから、仕方ないことなのだろうか。

「聞いてんの?おーい?……え、マジ?目ぇ、開けたまま寝てんの?ヤバくね?」
「いや、起きてる……けど」

目の前で手を振られ、何とかそれだけを告げる。

「何だ。起きてんじゃん。びっくりさせないでよねー」
「びっくりしてるのは、こっちというか……え?」

意味が分からず、一歩少女から距離を取る。きょとりと目を瞬かせた少女は、首を傾げて自身の姿を見下ろした。

「え?そんな引く?この格好、可愛いっしょ?……あ、あれか。まだ言葉が堅苦しいのか。可愛いって、マジむずいな」

多分、問題はそこではない。いや、一部そこもあるだろうけれど。

「あなた、誰?さっきのは何?」

気になることはたくさんあるが、気になる二つを聞いてみる。
しかし足は後ろに下げたまま。いつでも逃げ出せるように、警戒しながら。
問いかけに、少女は再びこてりと首を傾げた。不思議そうな顔が、次第に笑みを形作っていく。

「――ひみつ」

人差し指を唇に押し当て、にやりと笑う。

次の瞬間、強く風が吹き抜けた。目も開けていられぬほど、強い風。顔を手で覆い、目を閉じる。

「次会えたら、教えてあげてもいいよー?じゃねー」

笑う声が遠くなる。瞼の向こう側が暗くなり、意識が沈んでいく。
遠くで恨めしげに泣く声が風に掻き消され、後には何も聞こえなくなっていた。



次に目を開けた時、そこは自室のベッドの上だった。
体を起こす。窓に視線を向ければ、カーテン越しに朝の柔らかな光が溢れていた。
大きく伸びをして、ベッドから抜け出す。
変な夢を見た気がした。目覚めてしまった今となっては少しも思い出せない、そんな夢。
欠伸を噛み殺し、部屋を出るため歩き出す。

「――?」

何かが落ちた感覚に立ち止まり、足下を見た。
紐の切れた神社のお守り。厄除けと書かれたそれを拾い上げ首を傾げる。
鞄に下げていたはずだが、いつの間にポケットの中に入れていたのだろうか。
思い出せない記憶に、溜息を吐いてお守りをポケットにねじ込んだ。
それよりも早く準備をしなければ。折角の休みが無駄になってしまう。
急いで洗面台へと向かう。身支度を調え、パンを頬張り、出かける準備を澄ませていく。

「いってきます」

いつものように家を出る。
その時にはもう、夢のことも、お守りのことも忘れていた。



20250917 『靴紐』

9/19/2025, 9:25:30 AM