誰もいない駅のベンチに座り、ぼんやりと空を見上げていた。
電車は来ない。それは分かっている。
先日の大雨で、線路が土砂で埋まってしまったのだ。元々何年も前の天災で壊れた駅と線路を直したばかりだというのに、今回の災害である。利用者も多くはなく、このまま廃線にしてはどうかという意見も出てきていた。
溜息を吐く。憂鬱な気分と相俟って、何もする気が起きない。
意味もなく流れていく雲を目で追いかけていれば、不意に視界が暗くなる。
「だーれだ?」
戯けた声がした。
「――先輩?」
子供じみた行動に、戸惑いつつ怖ず怖ずと呼びかけた。
視界を覆う手が外されて、にんまりと彼女は笑う。
「正解!」
くすくす笑いながら、ココアを手渡される。受け取る缶の暖かさに、ささくれだった心が落ち着いていくようだ。両手で缶を包み、ほぅと息を吐く。
「さて、何があったか聞いてもいいやつかな?それとも、何も言わないで黙って隣にいる方がいい?」
隣に座りながらそう言われ、視線を彷徨わせる。
特に聞かれたくない話という訳ではない。ただどう切り出せばいいのか分からず、彼女の視線から逃げるように空を見上げた。
「皆で駅を綺麗にしたのに、このまま使われなくなるのは寂しいなって……」
「そうだね。頑張ったもんね」
「電車がこの駅に入ってきたのを見て、なんだかドキドキして……すごく嬉しかったのに……バスなんかよりずっと早く街に出られるって思ったのに……」
「うんうん。バスよりもずっと簡単に街にいけるもんね」
「そうしたら……きっと……」
じわりと視界が滲む。彼女に優しく頭を撫でられて、何を言いたいのか分からなくなってきた。
浮かぶのは、大好きだった彼から送られた最後のメッセージ。
――ごめん。
たった一言。何に対する謝罪なのかも分からないまま、それきり連絡は途絶えてしまった。
「なんでって、聞きたかった……なんでごめんなんだろうって……謝らなきゃいけないのはわたしなのに。わたし、ずっと酷いことをしてたから……ずっと、車掌さんを重ねて見てたから……」
「車掌さん?それが初恋?」
目を瞬く。溜まっていた涙が落ちて、少しだけ世界が輪郭を取り戻した。
どう答えるべきかを迷う。記憶を辿るように目を細め、昔たった一度だけ見た夢のような一瞬の出会いを思う。
「小さい頃、家族と喧嘩をして、家出をしたことがあって。夜にこうして駅のベンチに座っていたら、電車が来たんです……不思議な電車で、乗客も人じゃなかったりしてたけど、怖くはなかった。駅に止まって、でも乗客は誰も降りなくて……ぼんやり電車を見てたら、その時……」
「車掌さんが降りてきたんだ?」
小さく頷いた。
電車から降りた車掌は、真っ直ぐにこちらに近づいて、目の前で膝をついた。黒のハンカチを取り出して、涙でぐしゃぐしゃになっていたわたしの顔を拭い、頭を撫でてくれたのだ。
「何も言わなかったけど、頭を撫でられたら嫌な気持ちが全部なくなった。帰りたくなかったはずなのに、帰りたいって思えるようになった」
「その時に、好きになっちゃったんだ」
何も言えずに俯いた。
好きなのかは分からない。憧れに近いのだろうとは思う。
けれど今もまだ忘れず、彼に車掌を重ねて見るくらいには想っていた。
「そっかそっか……じゃあ、こうしよう。列車に乗って旅に出よう!」
「――え?」
突然の言葉に、首を傾げて彼女を見る。
電車は来ない。それは彼女もよく知っているはずだ。
「車窓からの景色を見たり、乗客と会話をしたりしてたら、嫌な気持ちもなくなるよ。知らない駅で降りてみてもいいし、食べ歩きなんてのも悪くない……よし、そうしよう」
「え、いや、その……」
立ち上がり、笑顔で歩き出す彼女に困惑しかできない。そのまま何も言えずにいれば、プラットホームの白線まで向かい、彼女はくるりとこちらを振り返った。
「ほら、早く!そろそろ列車が来るよ」
「いや、だから……っ!?」
手招く彼女に声をかけようとして、遠くで警笛の音がした。
立ち上がり、彼女の元へと向かう。プラットホームの端から線路の先を見れば、見知らぬ電車の姿が小さく見えた。
「どういう、こと……?」
電車から視線を逸らせない。その電車に見覚えはないはずなのに、何故か懐かしい気持ちが込み上げてくる。
ずっと待っていた。そんな気がして、答えを求めて彼女を見た。
「まずはどこへ行こうか。海もいいけれど、今の時期は山かな。山全体が色づいて、とても綺麗だから」
彼女は笑う。言いたいことは察しているだろうに敢えて答えないのが、意地悪だけれど好きな所のひとつだった。
ふと考える。彼女を先輩と言ったけれども、部活の先輩に彼女はいなかった。
彼女は、誰なのだろう。
「――ほら、列車が来た。これでもう寂しくないよ。ごめんね」
「え?」
何故謝られたのか分からない。視線の先の彼女は、電車を見たままそれ以上何も言わない。
問いかけようとして、けれどその前に電車が駅に到着した。
一両だけの電車。とても古めかしく感じられるのに、傷や錆びはなく綺麗な姿をしていた。乗客は誰もいない。ドアが開くも、何の気配もしなかった。
「――あ」
前のドアから車掌が降りてくる。彼によく似た、あの夜出会った車掌だった。
車掌がゆっくりとこちらに歩み寄る。目深に被った帽子のせいで、その表情はよく見えない。
そのまま目の前で立ち止まり、帽子に手をかける。彼女が車掌の隣に立ち、楽しそうに手を振った。
「二人旅、楽しもうね。変な勘違いをして悲しい思いをさせてた分だけ、笑顔にしてあげる」
笑う彼女の姿が黒に染まる。突然の出来事に呆然としていれば、彼女は姿を黒く薄く変えて、車掌の影になってしまった。
それと同時に、車掌が帽子を取る。露わになった顔を見て動けない体を車掌は引き寄せ、強く抱き締められた。
「ごめん」
耳元で、聞き馴染んだ声が囁く。
懐かしい香り。顔も声も、間違えるはずはない。
会いたくて溜まらなかった彼が、そこにいた。
「下らない嫉妬をして、でもそれは俺が人間じゃないからなんだって、勝手に諦めようとした……結局諦められなくて、強引に隠そうとも考えてた……本当にごめん」
「嫉妬?」
「あの夜初めて出会ってから、ずっと好きだったんだ」
次々と紡がれる彼の言葉に、理解が追いつかない。少しだけ待って欲しいのに、震える声と、抱き締める腕の強さに、何も言えなくなってしまう。
「ごめんな。これからは、もう悲しい思いをさせたりなんてしないから。絶対に幸せにするから」
「あ、あのっ!」
勇気を出して制服を掴み、少しだけ体を離して彼を見上げる。泣きそうな彼の目を見て、同じように泣きそうになりながらも声を上げた。
「わたしこそ、ごめんなさい。ずっと車掌さんと重ねて見てて。たくさん傷つけて……本当に、ごめんなさい!」
ずっと思っていたことを告げると、彼は目を瞬かせてふわりと笑う。抱き締める腕を離して、代わりに頬を包まれた。
「全部知った今は、嬉しいだけだよ。最初から両思いだって分かったから……好きだよ」
そう言って、額に唇が触れた。
それだけで真っ赤になるわたしに彼は楽しそうに笑う。
再び唇が近づいて、しかしそれは警笛の音に止まった。
「続きは旅の途中にしようか。一緒に色々な所に行こう」
肩を抱かれて、電車の中へと彼と共に足を踏み入れる。
前の席に座らされて、彼はその向かいに座った。
少しだけ落ち着かない。額の熱と彼の視線の熱が混じり合い、じわりと全身に回って、くらくらする。
「行きたい所、見たいものがあったら何でも言ってくれ。どこでも連れて行く」
そう言われても、何も思いつかない。
彼と一緒なら、どこに行ってもいい。そんなことを考えてながら、そっと彼に手を伸ばした。
「どうした?」
首を傾げた彼が手を取る。軽く引けば、心得たように頷いて、向かいではなく隣に座り直した。
肩を抱かれて、その温もりに目を細める。さっきまでの憂鬱な気分がすっかり消えて、幸せだけが残っていた。
「どこでもいいの。一緒にこうしていられるなら、海でも山でも、どこでもいい。あのね……」
彼を見上げる。顔を寄せる彼の耳元で、内緒話をするように、思いを口にする。
「大好き」
顔を離せば、耳を赤くした彼が、卑怯だと呟いた。
「俺も、好きだ。愛してる」
引き寄せられて、頬を包まれる。
思いのすべてを伝えるように、そっと熱い唇が触れた。
20250915 『センチメンタル・ジャーニー』
蜜を煮詰めたような色をした、大きな満月が浮かんでいた。
周囲の空を白く染め上げ、時折赤くも見える月。見る者の心を奪っていくような、そんな怪しい美しさに、少女の唇からほぅと吐息が溢れ落ちる。
「――月が、綺麗ですね」
呟く言葉に、隣を歩く男は激しく咳き込んだ。
「えっ、先生?」
「お前……ここで、それを言うか」
少女に背をさすられながら、恨めしげに男は少女に視線を向ける。
遅れて、言葉の意味する所に気づいたのだろう。少女の頬が微かに朱に染まった。
「というか、なんで先生呼びなんだ。普通に呼べばいいだろうに」
「だって、皆先生って呼んでるから」
小説家として生業を立てている男を名で呼ぶ者はほどんどいない。家族、親族も両親を亡くしてからは、いつしか殆ど交流を持たなくなった。家を継いだ弟から、時折手紙が来る程度だ。
「気にせず呼べばいいだろうが」
「気が向いたらね」
少女の微笑みに、男の眉が寄る。
それに気づいていながらも、少女は何も言わず男から離れ、再び月を見上げた。
「でも、本当に綺麗。変な意味はなく、純粋に」
「分かってる。そんなに強調するな」
「いつまでも独り身だから、変な想像をするんだよ」
少女の指摘に男の眉が益々寄り、皺を刻み始める。その理由を知っているだろうに敢えて指摘する少女の残酷さに、溜息を吐いた。
男は今まで、深い間柄になるほどの相手を作らなかった。そしてこれからも、それは変わらない。
男の家には、人ならざるモノたちが住んでいる。妖と呼ばれる彼らと共に生きることを選択し、俗世から離れた。
それだけが理由ではない。だがそれを男は少女に告げることを良しとしなかった。
優しさからではない。男の矜持がそうさせた。
男を置いていってしまった少女に対する、せめてもの意地だった。
「――確かに、月が綺麗だな」
少女の隣で、男は月を見上げ呟いた。
人を惑わすほど美しい月。子供のころに少女と見上げた月を重ね、しかしあの日の月はより美しかったと密かに思う。
「どうかした?」
「別に、何もない……お前こそどうした。彼岸はまだ先だろう」
「ん。ちょっとね。とっても月が綺麗だったからかな」
そう言って、少女はくるりと回ってみせた。くるり、くるりと月明かりを浴びて、華麗に舞う。
いつか舞台に立つのが夢だと言っていた少女の動きは、あの日から変わらない。
声も、姿も。月明かりに伸びる影がないこと以外は、何一つ。
「――あ。お迎えがきたよ」
不意に少女の動きが止まる。
遠く小さな丸い灯りを認めて、目を細めた。
「お別れだ。じゃあ、元気でね」
「あぁ」
静寂。虫の音すら聞こえない、ただ二人の空間。
近づき、ぼんやりと輪郭を浮かばせた灯りに、男は足を向けた。ゆっくりと歩き出す。少女を振り返ることはない。
ふと、男の足が止まった。
「どうしたの?」
少女の問いに、男は何も答えない。ただ月を見上げ、呟いた。
「本当に、月が綺麗だ」
穏やかな声に、少女もまた月を見上げ。
「そうね。綺麗な月を一緒に見れて……死んでもいいわ、って思うわ」
少女の返しに、男は盛大に咳き込んだ。
「ふふ。じゃ、今度こそ本当にさよならね」
「おい。逃げるなっ」
振り返る男の視界の先には、すでに誰の姿もない。
ひとつ息を吐く。月を一瞥して、男は今度こそ灯りの下へと歩いていった。
「どうかしたんですかい?」
迎えにきた子供に、男は何もないと首を振る。
「満月に惹かれて、変な幻を見ただけだ」
「幻?」
首を傾げ、子供は手にした提灯を男がいた場所へと向ける。
誰もいない場所をしばし見つめ、何かに気づき子供は笑う。
「あぁ、ようやく先生にも見えたんですねぃ」
「何の話だ?」
「先生は、罪作りなお方だって話で御座いやすよぅ」
それ以上を語らず、子供は提灯を掲げて先導し、家路に向かう。
眉を寄せる男は、けれど何も言わずにその後に続いて歩き出した。
二人の間に会話はない。
聞こえるのは虫の声。そして一人分の足音。
月明かりに伸びる影も一人だけ。
ふと男が呟いた。
「――月が綺麗ですね」
「なんです?」
足を止めず、振り返りもせず子供が問う。
穏やかに響く声は、聞かずとも答えを知っているように感じられた。
「ある文豪が、異国の愛の言葉を訳したものと言われている。本当かどうかは分からん。それを確かめる術もない」
男もまた足を止めることはない。ただ目を細め、口元には緩やかな笑みが浮かんでいた。
まるで、過ぎ去った日々を懐かしむように。
「例え泡沫の夢だろうと、その意味が偽りだろうと。言葉が届いた……そんな夜だったというだけだ」
先を行く子供の足が止まる。
遅れて男も立ち止まる。
提灯の灯りと月の光に照らされ、男の影が揺れた。
「先生は、本当に罪作りなお方だ」
ゆっくりと子供が振り返る。手にした提灯が揺れ、隠れていた影が浮かぶ。
「幻なんかじゃあ、ありやせん。ずっと側におりやすよ……ちゃんと言葉を受け取って、返してもらったのですからねぃ」
影を追って振り返る男の目が、くるりと回る少女の影を認めた。
くるり、くるりと回る。立ち尽くす男の影に近づいて止まり、手を繋いで消えていった。
「――死んでもいいわ、ですかい。随分と熱烈だ」
笑う子供の言葉に、男は眉を寄せる。影が繋いだ手を目の前に掲げ、重苦しい溜息を吐いた。
「本当に死んでどうする……それに、その言葉を使うなら、せめて逢い引きを申し込んでからにするべきだ。何も言わなければ、伝わるものも伝わらん」
「おや、手厳しい」
「当たり前だ。そもそもあれは、あなたの、あるいはあなたのものだと言う意味であって、返しの言葉ではない……だが、まあ……これを見る限りは、間違ってはいない、のか?」
首を傾げ考え込みだした男に、子供は声を上げて笑う。
笑いながら男に近づき、もう片方の手に自らの手を繋いだ。
「――なんだ」
「そろそろ帰りやしょう。早く寝て、起きて……溜まっている原稿を仕上げてしまいやしょうねぇ」
途端に視線を逸らす男の手を引いて、子供は歩き出す。
男もまた、抵抗することなく歩き出した。
蜜を煮詰めたような色をした満月が浮かぶ、明るい夜。
虫の声が響く。一人分の足音に、手を繋いだ三人の影が伸びていく。
手を引かれて歩く男は何も言わず、ふてくされた子供のような表情で月を見上げた。
「――月が、綺麗だ」
思わず呟く。
どこかで、誰かの笑い声がした。
美しく、妖しい月が浮かぶ、そんな夜だった。
20250914 『君と見上げる月…』
気づけば、陽が暮れかけていた。
まただ。記憶を辿れど思い出せない空白に眉が寄る。
「どうした?しかめっ面なんかして」
不意に顔を覗き込まれ、問いかけられる。
「また、気づいたら一日が終わろうとしている」
ぽつりと呟けば、呆れた笑い声が響いた。
「お前、いっつもぼんやりしてるからなぁ」
「どうしたの?何か楽しそうなことでもあった?」
「こいつが、ぼんやりして一日が終わったことが大層不服らしい」
「なんだ。そんなことかよ」
友人たちに笑われて、益々眉が寄っていく。刻み始めた眉間に皺を、ごめんと笑顔で謝られながら伸ばされた。
頭を、背を撫でられる。子供扱いは、文句が溢れ落ちそうになるが、いつものことだと言葉になる前に呑み込んだ。
「一日が穏やかに過ぎたってことじゃねぇか。いい事だよ」
「そうだな。平穏無事に今日が終えられるのだから、問題はないだろう」
「気にするなら、明日はもっと楽しいことをしようよ。ぼんやりする暇がないくらいの、素敵なことを」
仕方がない。慰める友人たちのためにも、切り替えなければ。
溜息をひとつ吐いて、立ち上がる。
見上げた空は朱く、烏も鳴きながら山の向こうに帰っていく。
もう、帰る時間なのだ。
「帰ろうか」
誰かの言葉に頷いて、皆揃って歩き出す。
込み上げる不安は、見ない振りをした。
所々で感じる空白を笑うように、穏やかな日々は続いていく。
「見て!綺麗でしょ」
そう言って、友人がくるりと回して見せた小さな葉は、美しい紅色色づいていた。
「今日は紅葉狩りに行こうよ」
「ん。いいんじゃないかな」
赤に目を奪われながら頷けば、手を取られて歩き出す。
今すぐなのか。気の早い友人に、思わず苦笑した。
遅れて着いてくる他の友人を気にも留めず、楽しげな鼻歌が隣から聞こえる。
余程楽しみなのだろう。そう思うと、こちらも楽しみになってきた。
何気なく見上げた空は、澄み切った青が広がっている。
そよぐ風が心地好い。穏やかな気持ちで、目を瞬いた。
「――あれ?」
「どうしたの?」
溢れた言葉に、友人が反応する。
「今、紅葉狩りに向かっていたような……」
見上げる空は、変わらない青。けれども直前まで歩いていたはずの散策路ではない。
近くの堤防。草原に座り、広場で野球の真似事をしている友人たちを見下ろしていた。
どくり、と心臓が嫌な音を立てる。
「昨日のことね。結構歩いたから、疲れて忘れちゃったかな」
「だとしても……これは……」
「どうした?」
自分たちの様子が気になったのだろう。遊びを止めた友人たちが、こちらに歩み寄ってくる。
「また、覚えてないって」
「あぁ……でも、どこも調子が悪い訳じゃないんだし、気にしなくてもいいんじゃないか」
「気にしすぎる方が、余計に悪くなるぞ」
慰める言葉に、それでも不安は消えることはない。
何かがある。病気か、何か。
「そうかな……なら、気にし過ぎないようにする」
大丈夫だと笑ってみせながら、心の内でそんなはずはないと友人の言葉を否定する。
一度、病院に行こう。
密かに決めて、談笑する友人たちの輪に加わった。
ぱちん。
何かが弾けた音がして、目を開けた。
空は青く、澄んでいる。いつも見る空と何も変わらない。
「――なん、で」
空の下。広がる光景に、目を見張った。
ひしゃげた信号や標識。崩れ、壊れた家々。
土に埋まる故郷の成れの果てに、空白が埋まり出していく。
雨が。水が流れて――。
「駄目だっ!」
強い言葉と共に、目を塞がれた。
「何も見てない。お前は少し悪夢を見ただけだよ」
後ろから抱き竦められ、言い聞かせられる。
「忘れろ。泣くことすらできないほどに苦しいものは、全部忘れちまえ」
右手を取られ、包み込むように握られる。
「ごめんね。これしかできなくて。何もしてあげられなくてごめんなさい」
左手を掬われ、優しく抱き締められた。
「どうして……?」
呟きに、返る言葉はない。答えを期待した訳でもなかった。
友人たちに触れられた部分から感じる熱が、じわりと自分の中に溶け込んでいく。暖かなそれは、歪な空白をそっと埋めていく。
「――ありがとう」
そっと囁く。
泣けない自分の代わりに泣く優しい友人たちに微笑んで、埋まりきらない空白に背を向けた。
「眠い」
「あれだけ寝てたのに、まだ寝る気か」
穏やかな日々。変わらない景色。
「こう暖かいと、確かに眠たくなるよね」
「じゃ、昼寝すっか」
友人たち以外に誰もいない町。
来ることのない、本当の明日。
「おやすみ」
「はやっ!?」
「おやすみなさい」
「お前もか」
すべてを空白の中に押し込んで、友人たちに囲まれ穏やかに笑う。
自分の中の空白は、もう気にならない。
優しい友人たちが側にいる。
心の傷が広がらないように作り出された暖かな空白を、知ろうとする必要はないのだから。
20250913 『空白』
長かった夜が、台風を連れて去っていった。
空を見上げれば、昨日の重苦しい灰色の雲は欠片もない。どこまでも澄み切った青空が、何も知らない顔をして朝の訪れを告げていた。
視線を下ろし、目の前の庭を見渡す。澄んだ青空とは真逆の惨状に、思わず溜息を吐いた。
折れた枝と泥にまみれた葉が一面を覆い、屋根瓦が数枚、割れて転がっている。どこからか飛ばされてきたのだろうバケツやじょうろが葉に埋まり、隅には見覚えのない看板までもが泥に突き刺さっていた。
庭木が持ちこたえているのが、奇跡だと言えるだろう。周囲の花の茎の殆どが無残に折れてしまっている。
壊れ、折れ、ゴミが散乱している光景は、昨夜の狂気の爪痕を生々しく残していた。
思わず目を逸らしたくなるほどの惨状。だが目を逸らした所で何も変わらないと、手にした袋を開きながら庭に降り立った。
無心でゴミをより分けていく。
瓦、植木鉢、バケツ。
袋に入れられないものは、取りあえず突き刺さっている看板の側に集めた。
木の枝、葉。折れた花。
終わりの見えない作業に、幾度となく気が遠くなりながらも、袋の山を気づいていく。
ビニール袋、猫、チラシ。
「――ん?」
手を止めた。
今、何か違うものが混じっていたような――。
ゴミを入れたばかりの袋を開ける。チラシを掻き分けていけば、しっとりと濡れた真白い猫が現れた。
体を持ち上げて袋から出し、無言で見つめ合う。
随分と綺麗な猫だ。濡れてはいるが毛並みは雪のように白く、青い瞳は空を映したように煌めいている。
飼い猫だろうか。首輪はないが、こんなにも綺麗な猫だ。きっと飼い主がいるに違いない。
それにしても、随分とおとなしい。人慣れをしているにしても、少しは反応があってもよさそうだが。
「そろそろ助ける気になってもらいたいのだが」
声がした。
随分と低く、渋い声だ。それは目の前の綺麗な猫から聞こえた気がした。
目を瞬く。
猫がしゃべるはずはない。気のせいだと思いながら、確認のために口を開いた。
「えっと……今、しゃべらなかった?」
「話したさ。このずぶ濡れで哀れな身を見ても、まったく気にかける様子がないのだから……いい加減に、風邪を引いてしまう」
愚痴を溢し、猫は溜息を吐く。
猫が、しゃべった。
その衝撃に、十秒経って悲鳴を上げかけた時。
「――くしゅんっ!」
猫が大きくくしゃみをした。
渋い声には似合わない程、可愛らしいくしゃみだった。
「いいか。片付けで、疲労が溜まっているだろうことは理解できる。だとしてもだ。ずぶ濡れの哀れな小動物を、あろうことかゴミに捨てるとは、どういう了見なんだい」
「――大変、申し訳ありません」
その後、慌てて家に戻り、タオルとドライヤーを取り出し猫を乾かした。
バスタオル二枚と、三十分以上のドライヤーをかけ、ようやく猫の毛が乾いた後。何故か今、こうして猫にくどくどと文句を言われている。
言っていることは間違いではないため、何も言い返せないのがもどかしい。だとしても、人をさも極悪人か何かのように語るのは如何なものだろうか。
「本当に反省しているのかい?一晩寝たら、忘れてしまうのではないだろうね」
「滅相もございません」
ソファに座る猫とは対照的に、その前で正座をしているのも可笑しいのではないだろうか。
そもそも、人の庭に紛れ込んだのは猫の方で、それを助けた自分は何の非もない気がする。
いくつも込み上げる疑問や不満が顔に出ていたのだろう。
猫は疲れたように溜息を吐いて、やれやれと首を振ってみせる。
「まあいい。どんな仕打ちを受けたとして、最終的に助けてもらったことは事実だ……何か礼をしなくては、いけないな」
「お礼……?」
猫の恩返し。
どこかで聞いたことのある言葉が、脳裏を過ぎていく。
「さて、何が欲しい?金か、能力か、はたまたすべてか……欲深いのは、人間の特徴だからな。欲しいと願うものを言えば良い」
「いや、私は別に……」
何だか、生臭い話しになってきた。
綺麗な外見からは想像もつかないほど、猫の言葉は毒々しい。渋い声も相俟って、そのギャップに目眩がしそうだ。
「謙遜するな。己の本能にただ従えばいいのだよ」
本能に従うのなら、お礼は良いから早く出て行って貰いたい。そうは思うものの、青の瞳に見つめられるとその思いは一言も言葉にはならなかった。
願い事。何か言えば、帰って貰えるだろうか。何かあるかと、必死で思考を巡らせる。
「――あ」
「ようやく、決まったかね」
数分悩んで、思い浮かんだのは外の惨状だった。
「あの……庭の、片付けを……お願いしたい、です」
恐る恐る切り出せば、猫はきょとりと目を瞬かせた。
その表情は大変可愛らしい。思わず抱き締めたくなり、必死で衝動を押さえ込んだ。
とは言え、渋い声を思い出せば、一瞬で衝動は萎んで消えたのだが。
「そんなことでいいのかね?」
訝しげに聞かれ、何度も頭を縦に振る。
庭の片付けに困っているのは確かだ。欲を言えば壊れたものも直して欲しいが、あまり望み過ぎるのはよくないだろう。
したん、と尾が大きく揺れた。
「――明日の朝には、すべて片付けるようにしておこう」
ややあって口を開いた猫は、随分と穏やかな声音でそれだけを告げると、軽く伸びをしてソファから飛び降りた。
しなやかな足取りで玄関へと歩いて行く。慌ててその後を追い、玄関扉を開けた。
「ついでに、昨日の風雨で壊れたものも直しておこう。さーびすというやつだ」
開いた扉から外へ出て、猫は一度だけ振り返る。優しく微笑まれた気がして、息を呑む。
「では、またな」
何か声をかけようとして、それを遮るように猫は告げる。
え、と思った瞬間には、猫はすでに庭の向こう側へと消えていった。
「――また、って言った……?」
呆然と呟く。
猫が再びやってくる。そう思うと、どっと疲れが滲み出て、肩を落とし扉を閉める。
夢だ。きっとそうに違いない。
現実逃避をしつつかけた鍵の音が、やけに大きく聞こえた気がした。
次の日。台風が過ぎ去った後とは思えないほど、元の状態を取り戻した庭と、
「ここは客を、もてなすこともしらんのか」
当然のように部屋のソファでくつろぐ猫を見て、
「やだぁあああっ!」
力の限り叫んだのは、仕方がないことだった。
20250912 『台風が過ぎ去って』