sairo

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蜜を煮詰めたような色をした、大きな満月が浮かんでいた。
周囲の空を白く染め上げ、時折赤くも見える月。見る者の心を奪っていくような、そんな怪しい美しさに、少女の唇からほぅと吐息が溢れ落ちる。

「――月が、綺麗ですね」

呟く言葉に、隣を歩く男は激しく咳き込んだ。

「えっ、先生?」
「お前……ここで、それを言うか」

少女に背をさすられながら、恨めしげに男は少女に視線を向ける。
遅れて、言葉の意味する所に気づいたのだろう。少女の頬が微かに朱に染まった。

「というか、なんで先生呼びなんだ。普通に呼べばいいだろうに」
「だって、皆先生って呼んでるから」

小説家として生業を立てている男を名で呼ぶ者はほどんどいない。家族、親族も両親を亡くしてからは、いつしか殆ど交流を持たなくなった。家を継いだ弟から、時折手紙が来る程度だ。

「気にせず呼べばいいだろうが」
「気が向いたらね」

少女の微笑みに、男の眉が寄る。
それに気づいていながらも、少女は何も言わず男から離れ、再び月を見上げた。

「でも、本当に綺麗。変な意味はなく、純粋に」
「分かってる。そんなに強調するな」
「いつまでも独り身だから、変な想像をするんだよ」

少女の指摘に男の眉が益々寄り、皺を刻み始める。その理由を知っているだろうに敢えて指摘する少女の残酷さに、溜息を吐いた。
男は今まで、深い間柄になるほどの相手を作らなかった。そしてこれからも、それは変わらない。
男の家には、人ならざるモノたちが住んでいる。妖と呼ばれる彼らと共に生きることを選択し、俗世から離れた。
それだけが理由ではない。だがそれを男は少女に告げることを良しとしなかった。
優しさからではない。男の矜持がそうさせた。
男を置いていってしまった少女に対する、せめてもの意地だった。

「――確かに、月が綺麗だな」

少女の隣で、男は月を見上げ呟いた。
人を惑わすほど美しい月。子供のころに少女と見上げた月を重ね、しかしあの日の月はより美しかったと密かに思う。

「どうかした?」
「別に、何もない……お前こそどうした。彼岸はまだ先だろう」
「ん。ちょっとね。とっても月が綺麗だったからかな」

そう言って、少女はくるりと回ってみせた。くるり、くるりと月明かりを浴びて、華麗に舞う。
いつか舞台に立つのが夢だと言っていた少女の動きは、あの日から変わらない。
声も、姿も。月明かりに伸びる影がないこと以外は、何一つ。

「――あ。お迎えがきたよ」

不意に少女の動きが止まる。
遠く小さな丸い灯りを認めて、目を細めた。

「お別れだ。じゃあ、元気でね」
「あぁ」

静寂。虫の音すら聞こえない、ただ二人の空間。
近づき、ぼんやりと輪郭を浮かばせた灯りに、男は足を向けた。ゆっくりと歩き出す。少女を振り返ることはない。

ふと、男の足が止まった。

「どうしたの?」

少女の問いに、男は何も答えない。ただ月を見上げ、呟いた。

「本当に、月が綺麗だ」

穏やかな声に、少女もまた月を見上げ。

「そうね。綺麗な月を一緒に見れて……死んでもいいわ、って思うわ」

少女の返しに、男は盛大に咳き込んだ。

「ふふ。じゃ、今度こそ本当にさよならね」
「おい。逃げるなっ」

振り返る男の視界の先には、すでに誰の姿もない。
ひとつ息を吐く。月を一瞥して、男は今度こそ灯りの下へと歩いていった。



「どうかしたんですかい?」

迎えにきた子供に、男は何もないと首を振る。

「満月に惹かれて、変な幻を見ただけだ」
「幻?」

首を傾げ、子供は手にした提灯を男がいた場所へと向ける。
誰もいない場所をしばし見つめ、何かに気づき子供は笑う。

「あぁ、ようやく先生にも見えたんですねぃ」
「何の話だ?」
「先生は、罪作りなお方だって話で御座いやすよぅ」

それ以上を語らず、子供は提灯を掲げて先導し、家路に向かう。
眉を寄せる男は、けれど何も言わずにその後に続いて歩き出した。

二人の間に会話はない。
聞こえるのは虫の声。そして一人分の足音。
月明かりに伸びる影も一人だけ。

ふと男が呟いた。

「――月が綺麗ですね」
「なんです?」

足を止めず、振り返りもせず子供が問う。
穏やかに響く声は、聞かずとも答えを知っているように感じられた。

「ある文豪が、異国の愛の言葉を訳したものと言われている。本当かどうかは分からん。それを確かめる術もない」

男もまた足を止めることはない。ただ目を細め、口元には緩やかな笑みが浮かんでいた。
まるで、過ぎ去った日々を懐かしむように。

「例え泡沫の夢だろうと、その意味が偽りだろうと。言葉が届いた……そんな夜だったというだけだ」

先を行く子供の足が止まる。
遅れて男も立ち止まる。

提灯の灯りと月の光に照らされ、男の影が揺れた。

「先生は、本当に罪作りなお方だ」

ゆっくりと子供が振り返る。手にした提灯が揺れ、隠れていた影が浮かぶ。

「幻なんかじゃあ、ありやせん。ずっと側におりやすよ……ちゃんと言葉を受け取って、返してもらったのですからねぃ」

影を追って振り返る男の目が、くるりと回る少女の影を認めた。
くるり、くるりと回る。立ち尽くす男の影に近づいて止まり、手を繋いで消えていった。

「――死んでもいいわ、ですかい。随分と熱烈だ」

笑う子供の言葉に、男は眉を寄せる。影が繋いだ手を目の前に掲げ、重苦しい溜息を吐いた。

「本当に死んでどうする……それに、その言葉を使うなら、せめて逢い引きを申し込んでからにするべきだ。何も言わなければ、伝わるものも伝わらん」
「おや、手厳しい」
「当たり前だ。そもそもあれは、あなたの、あるいはあなたのものだと言う意味であって、返しの言葉ではない……だが、まあ……これを見る限りは、間違ってはいない、のか?」

首を傾げ考え込みだした男に、子供は声を上げて笑う。
笑いながら男に近づき、もう片方の手に自らの手を繋いだ。

「――なんだ」
「そろそろ帰りやしょう。早く寝て、起きて……溜まっている原稿を仕上げてしまいやしょうねぇ」

途端に視線を逸らす男の手を引いて、子供は歩き出す。
男もまた、抵抗することなく歩き出した。

蜜を煮詰めたような色をした満月が浮かぶ、明るい夜。
虫の声が響く。一人分の足音に、手を繋いだ三人の影が伸びていく。
手を引かれて歩く男は何も言わず、ふてくされた子供のような表情で月を見上げた。

「――月が、綺麗だ」

思わず呟く。
どこかで、誰かの笑い声がした。


美しく、妖しい月が浮かぶ、そんな夜だった。



20250914 『君と見上げる月…』

9/16/2025, 9:47:08 AM