焚き火の音に、虫の音が混じる。
上限の月が照らす、穏やかな夜だった。
「そう言えば、昔もこうして集まったことがあったよな」
「あぁ、そう言えば。確か、夜を語り明かそうと言いながら、皆すぐに寝ちまったんだっけ」
「言い出しっぺが、一番最初に寝たんだよね」
笑い声が漏れる。
焚き火を囲む皆の表情は笑顔に溢れ、とても穏やかだ。
「そう考えると、大人になったよな俺たち」
「そりゃあ、大人にもなるさ。中身はどうか知らないが」
「確かに。中身はずっと永遠の子供とか、ある意味羨ましい?」
「まさか!成長してないってことだろ」
ぱちり、ぱちりと火の爆ぜる音。
思い出話を肴に、夜がゆっくりと更けていく。
「成長してないって言えばさ、先生も成長したのかな?」
「何かあるとすぐに泣いていたもんな。最終的に生徒の俺たちが宥めることになって」
「んでもって、何でかさらに泣くんだよ。『皆優しい子に育って、先生は酷く感動している!』ってさ」
「似てる!ほんとに毎回泣く先生だった」
「最後にも泣いてさ。目が真っ赤になって、過呼吸でそのまま倒れるんじゃないかってくらいだった」
くすくす、くすり。
不思議と眠気は訪れない。話は益々盛り上がり、夜に賑やかさを添えていた。
「色々あったなぁ。こうやって思い返してみれば、楽しいことばかりだった」
「おぉ!あの頃、毎日のように退屈だと叫んでいたのに、じじいみたいだな」
「うっせ。成長したと言え、成長したと」
「落ち着いた分別のある大人になってから言ってくれ。せめて落ち着いてほしい。もうそれだけでいいから」
「なんだよ。おれ、そんなに落ち着きがないか?」
「落ち着いてたら、学生時代の生傷はほとんどなかっただろうね」
「もう少し考えてから行動できていれば、変わってただろうな」
ふ、と声が途切れた。
炎に揺らぐ表情は笑みを湛えている。それぞれが昔を懐かしみ、思いを馳せているようだった。
不意に、鳥の鳴く声がした。
はっとして見上げた東の空は、いつの間にか白み始めていた。
夜明けだ。長い夜の終わりが訪れた。
「もう朝か」
誰かの呟きが、静かな空気を震わせる。
「あぁ、朝だな」
それに答えれば、炎に照らされた皆の姿がゆらりと揺らぎ出す。
「案外早かったな。秋の夜長って言うくらいだから、もっと話せるかと思ってた」
「そうだね。正直まだ、話し足りないかも」
「久しぶりだったからね。時間がどれだけあっても話はつきないよ」
「まあ、でも。楽しかったな」
楽しかったと、笑う声が朝焼けに解けていく。
炎の揺らぎが小さくなっていく。ゆらりゆらりと名残惜しむかのように揺れて、やがて一筋の白い煙を残して炎は消えた。
「それじゃあ、またな」
「また、なんだ」
「またでいいだろ。嫌なのかよ」
「いいじゃん。さよならよりずっといい」
皆の姿が揺らぎ薄くなる。最後まで笑顔を浮かべ、手を振った。
「――そうだな。また」
笑顔を浮かべ答えると、力強く頷いた皆は朝に解けて消えていった。
ひとりきり。
燻る煙が、いつかの線香のように空へと昇っていった。
「確かにまだ、語り足りないもんな」
一人残されて、立ち上る煙を見つめていた。
陽は昇り、空は澄み切った青が広がり始めている。
ふっと、密かに笑みを浮かべ、立ち上がる。焚き火の後始末を澄ませ、傍らに置いた集合写真を手に取った。
よれて涙の染みが滲む写真。そこに写る皆は揃って笑顔を浮かべていた。
だから皆笑顔だったのだろうか。取り留めのないことを考え、丁寧に写真をしまう。
片付けを終えて朝陽を見ていれば、不意に眠気が襲い始めた。
夜通し起きていたのだから仕方ない。帰る前に一眠りするため、テントに戻る。
寝袋に潜り込めばすぐに意識は沈み、穏やかな微睡みに身を委ねた。
――今度来る時は、先生も連れてこようか。
卒業後も縁のある教師の、小さくなった背を思い浮かべながら笑みを浮かべる。
涙もろいのは変わらないが、彼も随分と穏やかになった。会えば皆驚くだろうか。
ぱちりぱちりと、耳奥で火の爆ぜる音が鳴る。
子守歌のように優しいその音に導かれ、夢の中へと落ちていく。
在りし日の皆と共に、過ぎていった夏を追いかける。
そんな滑稽で優しい夢を見た。
20250911 『ひとりきり』
当てもなく、ただ歩き続けていた。
自分にはもうなにも残されてはいない。行くべき場所はなく、帰る場所は失った。敢えて残るものをあげるとすれば、この体くらいなものだ。
俯きがちに、ふらふらと歩みを進める。
人通りの少ない場所を選んで進み、気づけば見知らぬ場所まで辿り着いた。
不意に足を止めた。
目の前に佇むのは、古びた洋館。本を通してしか見たことのない異国調の建物は、無人なのかひっそりと影を落としていた。
無意識に手が門扉へと伸びる。きぃ、という鈍い音を立てて鉄の扉が開き、小さく肩を震わせた。
慌てて手を下ろし、後退る。何を考えていたのだろう。無人に見えるからといって、中に無断で入ろうなどとは。
頭を振り、洋館に背を向ける。足を踏み出したその時、不意に冷たい風が通り過ぎた。
――きて。
ただ一言。
空耳だったのかもしれない。けれど洋館を振り向けば、窓の端に赤い何かが揺らいでいるのが見えた。
惹かれるように足を踏み出す。
ぎぃと、重苦しい音。
振り返るより先に、背後で門扉が閉じた。
迎えるように開いた玄関扉を抜け、中へと足を踏み入れる。
そこは広い玄関広間だった。
暗がりの奥には、見たこともない大きな階段が伸びている。吹き抜けの高い天井には、煤け鈍く煌めく飾り。確かシャンデリアと言っただろうか。
壁に掛けられたたくさんの肖像画が、こちらを見ている。そんな居心地の悪さに、広間で立ち尽くす。
「――こちらへ」
微かな声がして、視線を向けた。
右手の廊下の奥。閉ざされた扉の隙間から、仄かな灯りと笑い声が漏れていた。
「おいで」
再び声が聞こえ、足が自然と扉へ向かう。取っ手に触れる前に、迎えるように扉はひとりでに開いた。
甘い香りが、鼻腔を擽る。
蝋燭の灯りが揺らぐ。客間らしき中は思いのほか明るく、広々としていた。
深紅の布で覆われた窓。黒檀のように艶やかな床。
広間とは違い壁に掛けられているのは、花々や果実の絵。
それらは重々しさを湛えながらも、どこか華やいだ雰囲気を纏っていた。
部屋の中央には円い卓が据えられ、傍らには優美な椅子が三つ並んでいる。
そこに、三人の女が腰掛けていた。
赤、緑、青――それぞれ色鮮やかなドレスを身に纏い、艶やかな微笑みを浮かべている。
とても美しい人たちだ。あるいは、人ではないのかもしれない。
「ようこそ」
「待っていたわ」
「さあ、こちらへ」
蠱惑的な声音。白くしなやかな指が手招いて、ふらりと体が室内へ入っていく。
三人の前まで歩み寄ると、自然と膝をついた。
赤、緑、青。三色の瞳に見下ろされる。まるで裁きを待つ罪人のようだとぼんやり思いながら、彼女たちの言葉を待った。
「貴女の望みは?」
赤い女が囁く。手を差し伸べ、願いを言えと嗤っている。
「命か、富か、名声か」
緑の女が歌うように言葉を紡ぐ。その甘さに目眩がした。
「さあ、貴女は誰を選ぶのですか?」
静かに青の女が告げる。
差し述べられる三人の手。逡巡し、目を伏せ首を振った。
「何もいらない。望まない」
すべてを失った今、新しい何かを得てもきっと空しいだけだ。
誰の手も取らずにいれば、三人の纏う空気が僅かに変わる。張り詰めた空気に、蜜のような熱が混じった。戸惑いにも似た歓喜が、視線となって肌に絡みつく。そんな錯覚に、密かに息を呑んだ。
立ち上がる気配。顔を上げれば、一瞬蝋燭の揺らぎに合わせて三人の姿が歪んだ気がした。
「それなら、遊びましょう」
赤の女の白い指が、唇に触れる。
その横で緑の女が手を絡め、ほんの僅か爪を立てる。
その瞬間、鈍い痺れが全身に走った。
意識が揺らぎ、思考が定まらない。
促されるままに立ち上がる。ふらつき傾ぐ体を支えられ青の女に凭れれば、頬を包まれ瞼に軽く口づけられた。
意識が、感情が沈んでいく。
心の底で違和感は灯っていたが、表層へ形として浮かべられない。
現実が限りなく薄くなっていく。夢見心地の覚束ない足取りで、三人と共に部屋を出た。
連れられた先は、広い寝室だった。
鏡台を背に椅子に座らされ、緑の女が目の前に膝をつく。
「今よりも美しくしてあげるわ」
妖艶に微笑み、指を重ねる。
鏡台の引き出しを開け、細い瓶を取り出した。
中で揺れる液体は、黒に似た緑色。瓶から筆を引き抜き、手を取って指を広げさせた。
筆が爪先をなぞり、艶やかな暗い緑へと染め上げていく。冷たい感触と草花のような香りの心地良さに、ほぅと吐息が溢れ落ちた。
しかしそれは、次第に緩やかな痺れに変わる。爪先から這い上がり、全身に回り出す。
息苦しさを覚えた瞬間、痺れは鋭い痛みに変わった。
「っ、あ、ぁ……!」
微睡んでいた意識が覚醒する。
沈んでいた感情が、恐怖を伴い警鐘を鳴らし出す。
「や、……め……っ」
だがすでに手遅れだった。
手を引きたくとも、指先ひとつ動かない。
全身を貫く痛みに、呼吸すらままならない。言葉は呻きに変わり、涙として流れ落ちていく。
「苦しいのは最初だけよ。毒が回りきれば、それは極上の甘さになるから」
緑の女が涙を拭い、囁いた。その言葉に従うように、痛みはゆっくりと溶けていく。
激しい痛みは熱となり、体を震わせる。
鼓動が速い。呼吸は荒く、溢れる吐息もまた熱かった。
「綺麗よ。とてもね」
緑に染められた爪が艶やかに煌めく。
体を蝕む痛みはなく、あるのは恍惚とした甘美な熱だけだ。緑の女の言うように、毒が全身に回りきってしまったのだろうか。
霞み始めた意識で爪を見ていれば、緑の女は音もなく立ち上がる。
入れ替わるように青の女が近づいて、体を反転させられ鏡台を向かされた。
白い指が髪を撫でる。
その手には、一本の梳き櫛。静かに髪に差し入れ、梳いていく。
「――あぁ」
髪を梳かれる度に、体を蝕む熱が凪いでいく。痺れが緩やかな眠気に変わり、体が弛緩していくのを感じた。
「良い子ですね……そのままお眠りなさい」
柔らかな声音。密やかな微笑み。
心地良い微睡みに、ゆるりと目を閉じ、そして開いた。
鏡に映るものの変化に、目を見開く。
そこには自分と、三人の女の姿はなかった。
背後の長椅子に腰掛けこちらを見つめる、赤いドレスを纏った骸骨。
その隣で嗤うのは、眼窩に蛇を這わせた緑の女。
髪を梳く青の女の目は縫われ、その肌は死者を思わせる程に青白い。
「――っ」
恐怖に声を上げかけるが、同時に不思議な安堵も込み上げた。
それは、人ならざるものに囚われたことへの諦念だったのかも知れない。
青の女が髪を梳く。
恐怖を、感情を、意識を、先ほどよりも深みへと沈めていく。二度と浮かび上がらないような、奥底へと。
残るのは、穏やかで甘い眠気だけ。
「そう。受け入れなさい。望まぬのならば、貴女のすべてを差し出すのです」
静かな囁き。
閉じた瞼に、口づけを落とされる。
力なく身を委ねれば、褒めるようにそっと髪を撫でられた。
微かな衣擦れの音がする。
肌が外気に触れ、熱を失った体が震え出す。
目を開ければ青の女の姿はなく、赤の女が艶やかな微笑みを浮かべて肩を支えていた。
「おいで」
震える体を赤の女に支えられ、立ち上がる。
爪先が凍てつくように冷えている。だというのに、頬は火照り、溢れる吐息もまた熱を孕んでいた。
「ほら、綺麗になった」
姿見の前まで連れられ、自分の姿を晒される。
気づけば、服が替わっていた。白布を纏ったその身は、まるで死装束のようにも、花嫁衣装のようにも見えた。
そんな自分の肩を抱いて、姿見の中で骸骨が笑う。
自分もまた、その姿を見て笑っていた。
「踊りましょう」
肩を支える手が下り、手を取られる。
冷たい手。熱を求めて震える指先を絡めれば、体は自然に動き出す。
軽やかに床を滑り、舞う。骸骨の腕に抱かれ、旋回する。
いつしか震えは止まり、冷たさも熱も何もかもを感じなくなっていた。
ただ骨の手に導かれるままに、舞い踊る。
外の世界も、過去も、未来も消えていく。
残されたのはただ、死と共に踊り続ける、自分の微笑みだった。
広いダンスホールで、一人舞う。
あれからどれ程の年月が経ったのかは分からない。時折聞こえる誰かの叫びなど、もう気にもならなくなった。
くるり。ステップを踏み、宙を舞う。緑に染められた爪が鮮やかに煌めき、白のドレスがふわりと広がる。
三人の祝福を受けたこの体は、時を刻むことを止めた。朽ちることもなく永遠に留められたままだ。
不意に、ホールの扉が開いた。戻ってきた三人に踊り続ける体を抱き留められる。
「今日の人間はとても酷かったわ。三人すべてを望むのですもの」
緑の女が不快げ眉を寄せ、甘えるように手を取り擦り寄った。
「だからね、一番長く苦しめる毒を与えてあげたわ」
「私は眠りを与えませんでした。最期の時まで、朽ちる自身の体を見ることになりましたね」
青の女が髪を掬い、口づける。表情こそは穏やかだが、その声音は酷く凍てついている。
外の世界では、ここは願いを叶える館として噂になっているらしい。
三人の試練を乗り越え祝福を受ければ、望むものが手に入るのだという。
けれど自分の知る限り、三人から祝福を受けた者はいなかった。三人もまた、誰かに祝福を授けたことはないという。
自分以外には、何も授けてないのだと。
赤の女へと視線を向ける。
変わらず艶やかな微笑みを湛え、こちらを見つめていた。
その姿は次第に揺らぎ、骸骨の姿へと戻る。
気づけば側にいる二人も、本来の姿へと戻っていた。
「踊りましょう」
骸骨が手を差し出す。それにためらいなく手を重ね、笑みを浮かべながら踊り始めた。
音楽などはない。無音のホールで導かれるまま、求められるままに踊り続ける。
骸骨の手を離れ、蛇の手を取る。蛇の牙が首筋を噛み、回り始めた毒の甘美な痺れに酔い痴れた。
蛇の手を離れ、瞼を縫われた女へと凭れかかる。足は止めない。覚束ない足取りで、さらに早くステップを踏み続ける。
タランテラ。終わらない死の舞踏。
瞼に口づけを受けながら、今日もまた死へと至る恍惚を繰り返した。
20250910 『Red,Green,Blue』
小さな背が見えて、駆け寄った。
「畑仕事の帰りか?手伝うよ」
「あ、うん。そうだけど、大丈夫だよ」
彼女の手の中の農具に手を伸ばすが、やんわりと断られてしまう。行き場を失った手が宙を彷徨い、仕方なく彼女の頬についた泥を拭った。
「泥、ついてる」
「え、あ、ありがとう……」
微笑む彼女に、心臓が忙しく動き出す。
「何か、用事?」
首を傾げ、彼女は問う。赤く鳴り出しただろう頬を悟られてしまわぬよう、視線を逸らしながら口を開いた。
「あぁ……あのさ、今夜の祭事。お前も見に来ないか?」
声が上擦るのを抑えられない。期待して、彼女の返答を待った。
「それは……」
「まだ参加させることはできないけどさ、見るだけならいいと思うんだ」
喜んでもらえると思っていた。しかし彼女の反応は予想と異なり、静かに首を降って否を答えた。
「駄目だよ。ちゃんとしきたりは守らないと」
「見てもいけないとは言われてない。きっと大丈夫だ」
「それでも駄目。お父さんとお母さんみたいになっちゃうもの」
「っ……」
一瞬陰った彼女の表情に息を呑む。
あれはただの偶然だ。そう慰めようとするも、言葉は喉に張り付いて音にならなかった。
黙る自分に、彼女は眉を下げる。それに、と舌を出して戯けてみせた。
「夜はいつもすぐに寝ちゃうから、起きていられないかもしれないしね……ごめんね、せっかく誘ってくれたのに」
「いや……そんなこと……」
慌てて首を振る。彼女は悲しく笑ったまま、そう、とだけ呟いて、立ち尽くす自分を置いて帰っていってしまった。
「――振られちゃったわね」
「さすがに祭事は早すぎたんだろうな」
少し離れた場所で様子を見ていた友人たちが、近づきながら好き勝手に話し出す。
相談を持ちかけた時には賛同していたはずなのに、好き勝手言う二人に文句が出かかる。それを呑み込んで、家に戻るために歩き出した。
「祭事に誘うのは駄目ね。あの子の両親のこともあるし」
「あれだけの土砂被害があって、亡くなったのが二人だけなんだ。そりゃあ、しきたりを破ったせいだと思いたくなる」
「そんなわけないだろ」
咄嗟に否定する。
「あいつの両親はちゃんと手順を踏んで、仲間になった。現にその前の祭事では何もなかったんだ」
「だとしても」
ただの不運。それだけだ。
そう続けようとする前に、今まで黙っていた親友が口を開いた。
「彼女の中では線引きがされている。俺たちと、彼女と。いくら手順を踏んで仲間になったと言われた所で、彼女の中では自身はいつまでも余所者のままなんだろう」
その溝は、なくなることはない。最初に余所者だと線を引いた自分たちに、その線を消すことはできない。
そう告げられた気がして、唇を噛みしめる。
しきたりだからと、無邪気に近づいてきた彼女を突き放した幼い頃の思い出。泣くのを耐えて去っていく彼女の姿が浮かんで、あの日の自分を殴りつけたくなった。
「諦めろ。彼女は仲間にはなれない」
後悔が滲むが、今更悔いた所でもう遅い。
仲間になれない寂しさが、いつまでも胸に昏い影の落としていた。
かたり、と戸が揺れる音がして、少女は針仕事の手を止めた。
視線を向ければ、戸の前には幼子が二人。瓜二つのその姿は、二人が双子だと示していた。
「あいにきたよ」
「ふたりできたよ」
「「いっしょにあそぼう?」」
二人の言葉に少女は笑顔で頷き、片付けを始めた。
少女が二人と出会ったのは、彼女が家族と共にこの村に越してきてしばらくしてからのことだった。
同じ年頃の子供たちは皆、少女を余所者と言い遠ざける。
寂しさを抱えながら、一人墓地の奥でひっそりと遊んでいた時に、二人に声をかけられたのだ。
「ないてるの?」
「さみしいの?」
そう言って、二人は少女よりも悲しい顔をする。左右それぞれの手を繋いで、一緒に遊ぼうと誘う。
越してきてから、初めて触れる家族以外の人の優しさ。その温もりに少女は耐えられず、声を上げて泣いた。
「だいじょうぶだよ」
「わたしたちもいっしょだよ」
二人に寄り添われ慰められながら、少女はこの村について様々なことを教えてもらった。
村に伝わるしきたりのこと。排他的な意識が強いこと。
仲間になるための手順も教えてもらったが、仲間になったとしても、さほど扱いに変わりはないとも言われた。
「ちがうものは、きらいなの」
「にすぎているのも、きらいなの」
外から来た人だけでなく、双子なども忌避する対象なのだと二人は言う。
だから二人は捨てられた。名前も与えられず、愛されず。
まるでいらないものを捨てるかのように、森の奥深くに置き去りにされたと二人は語る。
「なかまはずれなの」
「だからいっしょね」
二人は笑う。
笑って少女に手を差し伸べる。
「わたしたち、かぞくになるわ」
「おねえちゃんになるわ」
仲間よりも強い絆。
家族になろう。一緒にいようと誘われて、少女は迷わずその手を取った。
微かに祭囃子の音が聞こえて、少女は窓の外を見た。
気づけば外は、夜の暗闇に沈んでいる。
「かえるじかんなのね」
「きょうはとくべつはやい。さいじがあるものね」
二人は不満げにしながらも、玩具を片付けだす。
家族になったと言えど、二人は常に少女の側にいる訳ではない。
森に捨てられた二人は、森に住まう神の所有物となった。二人が自由を与えられる僅かな時間だけ、こうして少女の元に通っているのだ。
「またあしたね」
「あしたもあそびましょうね」
戸口に立った二人の姿が、ゆらりと揺らぎ消えていく。その姿を見送って、少女は泣くのを堪えて俯いた。
寂しくないと言えば嘘になる。けれど、また明日の約束は、この村の人々よりも信じることができた。
「また、明日」
小さく呟いて、少女は窓の外に視線を向けた。
カーテンを閉めていない窓からは、小さくいくつもの灯が見えている。甲高い笛の音に合わせて、低い太鼓の音が響き始めた。
祭事が始まったのだろう。
一瞬、少女の表情が怒りに歪む。強くカーテンを引いて、窓に背を向けた。
ようやく仲間になれたのだと、喜ぶ両親の顔が脳裏を過ぎる。
仲間になったと嘯いて、その実扱いは変わらなかったことを少女は知っている。
両親は土砂崩れに巻き込まれたが、亡くなった遠因は後回しにされ続けてきたからだ。
助け出された時、両親はまだ生きていた。すぐに治療を受ければ助かった命だったはずなのだ。だが治療を受けれたのは一番最後。その時にはすでに、両親は息をしていなかった。
故に少女は、村の誰にも気を許してはいない。村の仲間になれなくても構わないとすら思っている。
小さく息を吐く。
明日も早い。もう寝てしまわなければ。
祭事に背を向けるように、少女は部屋の電気を落とした。
20250908 『仲間になれなくて』
久しぶりに戻ってきた故郷は、変わらず穏やかさに満ちていた。
「お帰り」
「元気にしてたかい」
道行く人々に笑顔で迎えられ、作り笑顔で会釈をする。
同じような笑顔。まるで一枚の仮面のように、出会う人すべてが揃って同じ笑顔を浮かべている。
それを見る度、返事を返す度に、作り笑いを浮かべた頬が引き攣った。
本当に何一つ変わらない。聞こえるのは人々の笑い声のみで、泣き声や怒声などは僅かにも聞こえることはなかった。
足早に実家へと向かい、挨拶もそこそこに自室に戻る。家を出た身ではあるが、いつ帰省しても自分の部屋は変わらずそこに残っていた。
一人になって、ようやく笑みを消した。ここでは笑顔が当たり前で、それ以外はない。喜怒哀楽の怒と哀を持たない故郷は一部ではしあわせの村と呼ばれ憧れられるほどだ。
その噂を聞く度、それは違うのだと叫びたくなる。見ているのは上澄みだけで、その深部の澱み濁ったものを見ていないだけだ、と。
両親の笑顔を思い浮かべ、目を伏せる。崩れ落ちるように座り込み、そのまま畳に横になった。
ここに生きる人々のどれ程が、笑顔でいられることの理由を正しく認識しているのだろう。
今夜、祭事が執り行われるのだという。
小さく息を吐き、目を閉じる。
それはつまり、どこかの家で狐憑きが出たことを意味していた。
幼い頃、狐憑きの行く末を見た。
笛や太鼓の鳴り響く夜に、白装束を来た狐憑きが縛られながら森の奥へと連れて行かれていた。
思わずその後を追ったのは、狐憑きになったのが友人の姉だったからだ。
憧れ、密かに恋していた彼女。いつもの優しい微笑みはなく、初めて見る表情をして髪を振り乱し、何かを言い続けていたのが強く心に残っている。
友人の姉を連れて行く大人たちに気づかれぬよう、静かに離れて後を追う。そうして辿り着いた山奥には、古ぼけた大きなお堂があった。
扉を開けて、大人たちが友人の姉を連れ入っていく。
中からいくつもの笑い声以外の声が聞こえて、体が震えた。
甲高い笑い声に混じり、強く荒々しい声が響く。弱く掠れた声に、押し殺したような低くくぐもった声が混じる。
泣き声、怒り叫ぶ声、呻く声。
その時に、自分は初めて嬉しさや楽しさ以外に感情があるのだと知った。
その後、どうやって家に帰りついたのか覚えていない。
だが自分はその時から、家を出て外で生きていくことを決めたのだ。
虫の声に声に混じり、笛の音が聞こえ始めた。
目を開けると、辺りは既に薄暗い。いつの間にか少し眠ってしまっていたようだ。
体を起こせば、自然と欠伸が漏れる。緩く頭を振り、固まった体をほぐしていれば、不意に部屋の扉が開けられた。
「久しぶりだな。声くらいかけてくれてもよかっただろうに」
無遠慮に部屋に足を踏み入れた友人が、部屋の電気を点ける。急な眩しさに目を瞬いていると、楽しげに笑う友人が目の前に膝をついた。
「頬に畳の後がついてるぞ。次からはちゃんと布団を敷いておけ」
そう言って、目尻に溜まっていた涙を指先で拭う。腕を引かれて、促されるまま立ち上がった。
そのまま外へと連れ出される。まだぼんやりとする意識では、気を抜くとすぐに瞼が閉じてしまう。
「歩いたまま寝ようとするな……ほら、もう少しで着くから、そうしたら出店で何か食え。奢ってやるから」
「いい。ちゃんと起きてる。寝てないから、一人でも歩ける」
「せめて目を開けてから、話してくれ」
他愛ない話をしながら、祭事の場所へと向かう。
これから行われることを、友人はどこまで知っているのだろう。
視線を向けた友人は、昼間見た他の人々のような笑みを浮かべている。整った笑顔。穏やかな平穏。
そこに波紋を立てる狐憑き。
あの日見た友人の姉の姿が思い浮かぶ。
「どうした?」
視線に気づいた友人が、立ち止まりこちらを見つめた。
変わらない笑顔。けれどもその目はどこか鋭く、こちらを見定めているようだ。
ゆっくりを目を瞬いて、へにゃりと笑みを浮かべてみせる。
そうすれば、友人の視線が幾分か和らいだ。
「祭事、久しぶりだ」
さりげなく視線を逸らし、前を見る。
暗い山の麓に、ぽつりぽつりと明かりが灯っている。はっきりと聞こえ出す笛と太鼓の音と、微かに聞こえる笑い声。
祭はもう始まっているのだろう。
「斜め向かいに住んでいたじいさんが狐に憑かれた。先月、ばあさんが死んで、その隙間に入り込まれたんだろう」
それは狐に憑かれたのではなく、悲しかったからだ。
口にも表情にも出さず、密かに思う。
仲の良い夫婦だった。その喪失に耐えられなかったのだろう。
負の感情が濾過しきれなかったのだ。
そこで、気づく。
ようやく、気づけた。
「賑やかだね。やっぱり久しぶりだからなのか」
「そうだな。もう何年もなかったからな」
作り笑顔を浮かべて、歩き出す。
後でお堂に向かおう。
そう、思った。
祭事が終わった、深夜。
明かりが落ちて、暗い山道を一人足早に進んでいく。
耳が痛いほど虫が鳴いている。風が草木を揺する度に肩を震わせ立ち止まるが、それでも戻るつもりはなかった。
やがて、遠くにぼんやりと建物の影が暗がりに浮かぶ。
駆け出した足は、しかし近づき建物の輪郭をはっきりと捉えた瞬間に止まった。
お堂の前に、誰かがいる。
「やっぱり来たのか」
聞き慣れた声がして、ひゅっと息を呑んだ。
暗がりに薄ぼんやりと明かりがひとつ、灯される。提灯の明かりが揺らめいて、影が足下まで伸びてくる。
伸びた影が足に触れ、逃げようと後退る体を縫い止めた。
立ち尽くし動けない自分の元へ、誰か――友人はゆっくりと歩み寄ってくる。提灯の明かりに照らされ仄かに見える友人は、昏い笑みを湛えていた。
「おいで」
背後から肩に触れ、軽く押される。それだけで体は意思に反して、お堂の前まで歩き出した。
逃げなければと思うのに、足は止まらない。肩に触れる手を払いのけることさえできない。
そのままおとなしく、友人と共に入口の前に立つ。友人が片手で扉を開ければ、途端に声の波が鼓膜を揺らした。
「――あ、あぁ」
目の前の光景から目を逸らせない。
お堂の内部は異様な空気に包まれていた。
板張りの床に打ち込まれた、何本もの人の背ほどの柱。
そこに白装束を着た人々が、縛り付けられていた。
饐えた匂いが湿気と混じり内部を満たしている。その中に鉄さびに似た匂いを感じ、不快さに眉を顰めた。
「やだ、や………いやだいやだいやだ」
「あははっ、あは、は……あぁあああっ……!」
「ゆるさない、たすけてたすけて……ころして」
身を捩り、泣き叫ぶ。
髪を振り乱し、苦悶に顔を歪め、あるいは笑いながら声が響く。
縄が軋む音がする。痛い痛いと喚きながら、それでもここから逃れようと暴れ、あるいは力尽きたかのように項垂れている。
その中に、祭事で連れていかれた老人を認めて、思わず一筋涙が零れ落ちた。
「怖いのか。それとも悲しいのか」
友人の囁きに、肩が大きく跳ねる。
「もしかしてとは思っていた。だからお前の装束と場所は、ちゃんと用意してある」
優しい声音。普段と何一つ変わらない態度でありながら、無慈悲に友人はある一点を指差した。
そこにはただ柱があるのみで、誰も括られてはいない。それの意味する所を知って、体が震え出す。
「お前は姉貴が好きだったからな。側にいられて嬉しいだろう?」
「――え?」
友人の言葉に、柱の隣に視線を向ける。
力なく項垂れた誰か。長い髪、痩せ衰えた身体。
見る影もないが、彼女は――。
「まだ早い。祭事を執り行うとしたら、明日だ」
無意識に踏み出した足は、友人に肩を掴まれたことで止まる。
咄嗟にその手を振りほどいた。自由を取り戻した体に内心驚きながらも、中へと足を踏み入れ。
「まったく……お前は本当に、姉貴が好きだな」
だがすぐに体は動きを止め、友人の元まで戻っていく。
視線を落とすと、影が足に絡みついているのが見えた。
足にいくら力を入れようと、自由が戻る様子はない。諦めきれずに何度も繰り返していれば、不意に何かを摘まんだ指が口を割り開き中へと押し入ってきた。
「撤饌《おさがり》だ。お前、ここに来てから、まだ何も口にしてないだろうからな」
嫌だと首を振ることすらできない。従順な体は、友人が差し入れた何かを受け入れ、飲み込んだ。
仄かに甘い、何か。離れていく指を見ながら、自分の中の変化に気づいた。
「あ……い、や……何でっ……!?」
抜け落ちていく。濾されていく。
目の前の光景への悲しみも、友人に対する怖れも、砂のように溢れ落ちてしまう。
笑いたくもないのに、口元が弧を描き始めた。
「取り込むだけで正常に戻ってきているな……大丈夫だ、馴染めば違和感すら感じなくなる」
背を撫で、友人が穏やかに告げる。
よかったと笑う友人に、同じように笑みを返した。
「さあ、戻ろうか。しばらく俺の家にいればいい。しっかりと馴染ませて……そうすれば、二度と外に出ようなど考えることもないだろう」
扉が閉まっていく。
思わず伸ばしかけた手を疑問に思い始めた自分に、笑いながら意味も分からず泣いた。
「――なぁ」
「ん?」
濾されていく感情の残り滓を掻き集め、声をかける。
「結局……狐憑きとは、何なんだ?」
疑問を口にして、意味がないことを聞いてしまったと笑う。それに友人も可笑しそうに笑いながら、律儀にも答えを返してくれた。
「感情を正しく濾過できなくなった、欠陥品。そして他の奴らのために感情を濾し、濾された感情の新たな受け皿……フィルターみたいなもんだ」
肩を竦める友人に、気のない礼を返す。
よく分からないが、ありがたいことではあるのだろう。
友人と二人家路に就きながら、ふと冷たさを感じて目元を拭う。
指先についた滴に、首を傾げた。
欠伸でもしただろうか。すでに夜も深まり、普段ならとっくに寝ているはずなのだから仕方ないかもしれない。
そもそも自分は何故、友人とこんな所に来ているのか。
酷く記憶が曖昧だが、明日気が向けば友人が教えてくれるだろう。
「おい。歩いたまま、寝るなよ」
「寝てない。目を閉じているだけだ」
「目を閉じて、どうやって歩くつもりなんだ」
他愛ない話をしながら、静かな夜道を歩いていく。
何故だろう。今夜はとても気分がよかった。
20250909 『フィルター』
雨が降ります。雨が降る。
外は土砂降り。傘はなし。
玄関の片隅には、汚れた靴が一足。
靴紐は切れて、これでは外へ行けません。
「千代紙で遊ぼうよ」
わたしによく似た君は、雨でもにこにこ笑っています。
外ばかり見るわたしの手を引いて、今日もきらきら煌めく魔法を見せてくれるのです。
小さな手が、青い千代紙を折ります。
ぱたん、ぱたんとたたんで、それは可愛らしい鳥になりました。
赤い千代紙を折ります。
ぱたん、ころん、とたたんで転がして、それは小さなお船になりました。
花を、星を、そしてやっこさんを折りました。
花を敷き、星を撒きます。やっこさんをお船に乗せて、星の川を渡っていきます。
「楽しいね」
君は笑います。
わたしは小さく頷いて、けれどもやはり、外が気になりました。
ざあざあ、ざあざあ。
外では雨が降っています。
硝子を叩き、大地を煙らせ、激しい雨が降り続いています。
時折稲光が空を走り、遅れてどぉん、と低い雷の音が響きます。
「次はお手玉をしようか」
お船から降ろしたやっこさんを寝かせながら、君はお手玉を取り出しました。
「ひとりでさびし。ふたりでまいりましょう」
ひとつ、ふたつ、みっつ。
桃色、黄色、水色。
口遊む歌と共に、お手玉が宙を舞います。
綺麗な放物線を描き、吸い込まれるようにして手に収まるお手玉。
真似してお手玉を投げてみますが、すぐに落ちて続けられません。
「――ここのつこめや。とおまでまねく」
君の放るお手玉は、最後まで手から落ちず。
歌の終わりと共に、思わず手を叩いていました。
「ふたつなら簡単だよ。もう一度一緒にやってみよう」
誘われて、落ちたお手玉をふたつ、手に取りました。
「ひとりでさびし。ふたりでまいりましょう」
君の歌に合わせて、お手玉を放ります。
お手玉を追って、体があちらこちらに動きます。
しかし、今度は落とさず続いていきます。
「いもとのすきな。むらさきすみれ」
あ、と思った時にはすでに遅く。
お手玉はわたしの手から溢れ落ち、ぽとりと畳に落ちました。
「惜しかったね」
未練がましく落ちたお手玉を見ていれば、君は優しく背を撫でてくれました。
「今度は何をして遊ぼうか?」
小首を傾げる君は、柔らかな笑顔を浮かべていました。
おはじき、けん玉、お絵かき。
いろいろな遊びをしました。たくさんたくさん君と遊びました。
それでも雨は止みません。
ざあざあ、ざあざあ。
屋根を打つ雨の音が聞こえます。閉じた障子の向こうが暗がりに沈んでいます。
ちらりと障子を一瞥して、白い千代紙を一枚取りました。
ぱたん、四角が三角になりました。
ぱたん、ぱたん。
三角が四角に、四角が菱形に、次々と形を変えていきます。
そして出来上がったのは白い鶴。
不格好で草臥れたわたしの鶴を、君の折った黒い鶴の隣に並べます。
こてり。
白い鶴は黒い鶴に凭れ寄りかかりますが、黒い鶴はびくともしません。
それを見て、ふと悪戯心が込み上げました。
「――わっ!?」
こてり。
鶴を真似して、君の肩に凭れます。
小さく驚きの声を上げた君は、それでも倒れる様子はありません。
「驚いたなぁ。もう」
そう言いながら、君は頭を撫でてくれます。
優しく、いい子と言いながら。
ふふ、と小さく笑みが溢れました。
「眠くなっちゃったの?」
君に問われ、首を傾げます。
眠いような、まだ起きていたいような。
目の前には、ふたりで折ったいくつもの千代紙。鮮やかに畳を覆い尽くしています。
それでもまだ足りない。そんな気がして、首を振って体を起こしました。
外はまだ、雨が降っています。
しとしと、しとしと。
絹糸の如く細かな雨が、静かに降り続いています。
傘はなく、靴紐は切れたまま。
外に出ることはできません。
「楽しいね」
それでも君が笑うので。
魔法のように、たくさんの遊びを教えてくれるので。
「うん。とっても楽しい」
わたしは笑顔で君に答えました。
優しい君。わたしの影。
ふたりきり。寂しくはない。
しとしと、さらさら。
外では雨が降っている。
重ね続けた消えない悲しみが、今日も明日も降り続く。
雨が降ります。雨が降る。
20250907 『雨と君』
目の前に広がる光景に、少年は自身の軽率さを悔やんだ。
夏休み明けから、学校ではある噂が密かに広がっている。
――誰もいない教室から、女のすすり泣く声が聞こえる。
ありきたりな怪談話だが、夏休みに部活のあった生徒を中心に信じている生徒は多い。夏休み中に、女のすすり泣く声を聞いた生徒が何人もいたからだ。
部活に入っていない少年は、噂を信じてはいなかった。
何かの音を聞き間違えたのだろう。誰かがこっそり見ていたホラー動画を、偶然聞いてしまったのだろう。
そう思い、数分前に忘れ物に気づいた時には、迷いなく取りに戻ることを選択した。
その選択を、少年は今とても後悔していた。
教室の扉を開けたままの格好で立ち尽す。
扉を開けたその先は、見慣れた教室ではなかった。
鬱蒼と生い茂る森の中。
風ひとつなく静まりかえっていることが、不可解さと相俟って怖ろしさを漂わせている。
その中央に、椅子が一脚置かれていた。
教室にあった椅子だろうか。こちらを向いて置かれている椅子は森の中で馴染まず、酷く浮いていた。
しばらくして、幾分か落ち着いた少年は忘れ物を思い出した。
扉にかけたままの手を離す。ごくりと唾を飲み込んで、少年は一歩、教室の中へと足を踏み入れる。
椅子があるということは、机もあるのかもしれない。僅かな期待を抱いて、少年は辺りを見回した。
忘れ物を見つけて早く帰ろう。その思いで、椅子に視線を向けないようにしながら机を探す。だが見える限りには、椅子以外の教室の名残は見つけられなかった。
溜息を吐く。
草を掻き分けようとして、腕を伸ばした時だった。
「――誰が駒鳥殺したか」
幼い子供の残酷さを孕んだ、高い声が響いた。
弾かれたように椅子へと視線を向ける。
いつの間にか黒い人影が座っていた。移動していた少年に合わせて椅子の向きが変えられていて、影は少年を見据えてこちらを見ていた。
ひっと、喉の奥に張り付いたかのような悲鳴が漏れる。影から視線を逸らせずに、立ち尽くす。
沈黙。目を見開いたまま硬直する少年に、影は僅かに首を傾げた。
「それはわたし 雀が言った」
影が歌うように言葉を紡ぐ。
今度は少年が首を傾げた。影の言葉の意味が分からなかったからだ。
何かの歌だろうか。
駒鳥を殺したのは誰かを聞いて、そしてそれは自分だと雀が答える。
意味が分からない。困惑して眉を寄せたまま何も言えずにいれば、影は再び首を傾げた。
ゆっくりと立ち上がる。少年を見据えたまま、一歩近づいた。
「弓矢で殺した 彼の駒鳥を」
影が言葉を紡げば、静まりかえった森のどこかで雀の鳴く声がした。
「うわあぁぁぁっ!」
もう一歩、影が近づいた瞬間。弾かれたように少年は叫びを上げて教室を飛び出した。
泣きながら必死で外へと向かう。頭の中から声が離れない。追いかけてきている錯覚に、益々涙が溢れてくる。
昇降口に部活終わりだろうクラスメイトの姿を認めて、駆け寄った。
「どうしたんだよ。そんなに慌てて。しかも泣いて」
困惑を目に浮かべたクラスメイトの肩に、少年は手を置く。
荒い息をつきながら、途切れ途切れに見たものを告げた。
「いた……噂、本当だった。女じゃ、ない……森、だった……」
――誰もいない教室は、異界に続いている。
数日後、そんな噂が学校内で広まっていた。
楽しげに新たな噂を話し合うクラスメイトたちに、密やかに息を吐いた。
学校中に広まった噂にはどんどんと尾ひれがついていき、最早何が正しいのか分からない程だ。
――教室にいる人物に声をかけられ答えてしまうと、二度と戻れなくなってしまう。
――異界と繋がった教室のものに触ると呪われる。
――異界の人物と目を合わせてしまえば、気が狂ってしまう。
そろそろ教室に入っただけで、異界に閉じ込められてしまうという噂まで作られそうだ。
痛み出したこめかみを抑えながら、静かに立ち上がる。
声をかけてきたクラスメイトに、体調が悪いとだけ声をかけて、教室を抜け出した。
賑やかな教室から離れ、特別教室のある棟へと向かう。帰りのホームルームの時間前だったからか、辺りはしんと静まりかえっていた。
ある教室の前で立ち止まる。プレートには図書室の文字。
扉に手をかけ、迷いなく開いた。
そこは見慣れた図書室ではなかった。
どこまでも広がる青い空。時が止まったかのように縫い止められ動かない、白い雲と太陽。
明るい陽射しに照らされたそこは、小さな墓地だった。
中央にぽつんと一脚、椅子が置かれている。何も言わずに見ていれば、椅子からじわりと影が滲み出し、小さな人影を形作っていく。
小さく息を吐きながら、後ろ手で扉を閉める。一歩足を踏み出せば、期待を抱いた子供の高い声が響いた。
「ソロモン・グランディ 月曜日に生まれ」
影は行儀よく椅子に座り、こちらの返しを待っている。仕方がないと、歩み寄りながら続きの言葉を口にした。
「火曜日に洗礼を受けた」
影の肩が跳ねた。体を左右に揺すりながら、さらに続く言葉を影は口にする。
「水曜日に結婚し」
「木曜日に病に臥した」
「金曜日に危篤となり」
「土曜日に死んだ」
言葉を続ける度に、影は椅子の上で楽しそうに体を揺する。声は高く上擦って、楽しくて堪らないと喜びに満ちている。
「日曜日には土の中」
影の前に立つ。最後の言葉が紡がれるのを待つ影を、何も言わずにしばらく見つめた。
機嫌良く揺れこちらを見上げていた影が、段々に静かになり俯き出す。
「――ソロモン・グランディ」
か細く続く言葉。
泣くのを堪えるかのようなその響きに、流石に意地悪が過ぎたかと少しばかり反省した。
態とらしく音を出して息を吸い込む。はっとして顔を上げた影に笑って、口を開いた。
「「彼の物語はこれでおしまい」」
声を合わせ、最後の一説を紡ぐ。
きゃあ、と声を上げ、両手を叩いて喜ぶ影に、呆れながらも笑った。
影が落ち着いた頃を見計らい、手を差し出す。何も言わずとも理解したのだろう影は、一冊の本を取り出した。
それを手渡し、霞のように影は周囲に解けていく。何度目かの溜息を吐きながら、裏表紙を捲った。
そこには、昨年度廃校になった隣町の学校の印が押されている。
「寂しがり共め」
誰もいなくなり退屈になった学校の備品たちが、人恋しさで迷い込んだのだろう。
在りし日の学校を思い出して苦笑する。
掛け合いを楽しむ図書室の本。寝落ちした生徒をさりげなく揺すり起こす、机や椅子。
美術室に行けば、肖像画や彫刻が気さくに声をかけてくれるし、音楽室のピアノはたまに音痴になった。
とても賑やかな学校だった。廃校になり、この学校に転校して、あまりの静かさに驚いたほどだ。
本を閉じ表紙を撫でれば、切なさで胸が少しだけ痛んだ。
かたり、と椅子が揺れる。控えめな主張に苦笑して、椅子の背もたれを撫でる。
「分かったよ。週末会いに行くから」
約束すると告げれば、あちらこちらから歓声が上がった。やはり自分には、小さくともあの学校の方が向いている。
約束を口にして、今から週末を楽しみにし出した自分を感じながら、そう思った。
20250906 『誰もいない教室』