sairo

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小さな背が見えて、駆け寄った。

「畑仕事の帰りか?手伝うよ」
「あ、うん。そうだけど、大丈夫だよ」

彼女の手の中の農具に手を伸ばすが、やんわりと断られてしまう。行き場を失った手が宙を彷徨い、仕方なく彼女の頬についた泥を拭った。

「泥、ついてる」
「え、あ、ありがとう……」

微笑む彼女に、心臓が忙しく動き出す。

「何か、用事?」

首を傾げ、彼女は問う。赤く鳴り出しただろう頬を悟られてしまわぬよう、視線を逸らしながら口を開いた。

「あぁ……あのさ、今夜の祭事。お前も見に来ないか?」

声が上擦るのを抑えられない。期待して、彼女の返答を待った。

「それは……」
「まだ参加させることはできないけどさ、見るだけならいいと思うんだ」

喜んでもらえると思っていた。しかし彼女の反応は予想と異なり、静かに首を降って否を答えた。

「駄目だよ。ちゃんとしきたりは守らないと」
「見てもいけないとは言われてない。きっと大丈夫だ」
「それでも駄目。お父さんとお母さんみたいになっちゃうもの」
「っ……」

一瞬陰った彼女の表情に息を呑む。
あれはただの偶然だ。そう慰めようとするも、言葉は喉に張り付いて音にならなかった。
黙る自分に、彼女は眉を下げる。それに、と舌を出して戯けてみせた。

「夜はいつもすぐに寝ちゃうから、起きていられないかもしれないしね……ごめんね、せっかく誘ってくれたのに」
「いや……そんなこと……」

慌てて首を振る。彼女は悲しく笑ったまま、そう、とだけ呟いて、立ち尽くす自分を置いて帰っていってしまった。


「――振られちゃったわね」
「さすがに祭事は早すぎたんだろうな」

少し離れた場所で様子を見ていた友人たちが、近づきながら好き勝手に話し出す。
相談を持ちかけた時には賛同していたはずなのに、好き勝手言う二人に文句が出かかる。それを呑み込んで、家に戻るために歩き出した。

「祭事に誘うのは駄目ね。あの子の両親のこともあるし」
「あれだけの土砂被害があって、亡くなったのが二人だけなんだ。そりゃあ、しきたりを破ったせいだと思いたくなる」
「そんなわけないだろ」

咄嗟に否定する。

「あいつの両親はちゃんと手順を踏んで、仲間になった。現にその前の祭事では何もなかったんだ」
「だとしても」

ただの不運。それだけだ。
そう続けようとする前に、今まで黙っていた親友が口を開いた。

「彼女の中では線引きがされている。俺たちと、彼女と。いくら手順を踏んで仲間になったと言われた所で、彼女の中では自身はいつまでも余所者のままなんだろう」

その溝は、なくなることはない。最初に余所者だと線を引いた自分たちに、その線を消すことはできない。
そう告げられた気がして、唇を噛みしめる。
しきたりだからと、無邪気に近づいてきた彼女を突き放した幼い頃の思い出。泣くのを耐えて去っていく彼女の姿が浮かんで、あの日の自分を殴りつけたくなった。

「諦めろ。彼女は仲間にはなれない」

後悔が滲むが、今更悔いた所でもう遅い。
仲間になれない寂しさが、いつまでも胸に昏い影の落としていた。





かたり、と戸が揺れる音がして、少女は針仕事の手を止めた。
視線を向ければ、戸の前には幼子が二人。瓜二つのその姿は、二人が双子だと示していた。

「あいにきたよ」
「ふたりできたよ」
「「いっしょにあそぼう?」」

二人の言葉に少女は笑顔で頷き、片付けを始めた。



少女が二人と出会ったのは、彼女が家族と共にこの村に越してきてしばらくしてからのことだった。
同じ年頃の子供たちは皆、少女を余所者と言い遠ざける。
寂しさを抱えながら、一人墓地の奥でひっそりと遊んでいた時に、二人に声をかけられたのだ。

「ないてるの?」
「さみしいの?」

そう言って、二人は少女よりも悲しい顔をする。左右それぞれの手を繋いで、一緒に遊ぼうと誘う。
越してきてから、初めて触れる家族以外の人の優しさ。その温もりに少女は耐えられず、声を上げて泣いた。

「だいじょうぶだよ」
「わたしたちもいっしょだよ」

二人に寄り添われ慰められながら、少女はこの村について様々なことを教えてもらった。
村に伝わるしきたりのこと。排他的な意識が強いこと。
仲間になるための手順も教えてもらったが、仲間になったとしても、さほど扱いに変わりはないとも言われた。

「ちがうものは、きらいなの」
「にすぎているのも、きらいなの」

外から来た人だけでなく、双子なども忌避する対象なのだと二人は言う。
だから二人は捨てられた。名前も与えられず、愛されず。
まるでいらないものを捨てるかのように、森の奥深くに置き去りにされたと二人は語る。

「なかまはずれなの」
「だからいっしょね」

二人は笑う。
笑って少女に手を差し伸べる。

「わたしたち、かぞくになるわ」
「おねえちゃんになるわ」

仲間よりも強い絆。
家族になろう。一緒にいようと誘われて、少女は迷わずその手を取った。



微かに祭囃子の音が聞こえて、少女は窓の外を見た。
気づけば外は、夜の暗闇に沈んでいる。

「かえるじかんなのね」
「きょうはとくべつはやい。さいじがあるものね」

二人は不満げにしながらも、玩具を片付けだす。
家族になったと言えど、二人は常に少女の側にいる訳ではない。
森に捨てられた二人は、森に住まう神の所有物となった。二人が自由を与えられる僅かな時間だけ、こうして少女の元に通っているのだ。

「またあしたね」
「あしたもあそびましょうね」

戸口に立った二人の姿が、ゆらりと揺らぎ消えていく。その姿を見送って、少女は泣くのを堪えて俯いた。
寂しくないと言えば嘘になる。けれど、また明日の約束は、この村の人々よりも信じることができた。

「また、明日」

小さく呟いて、少女は窓の外に視線を向けた。
カーテンを閉めていない窓からは、小さくいくつもの灯が見えている。甲高い笛の音に合わせて、低い太鼓の音が響き始めた。
祭事が始まったのだろう。
一瞬、少女の表情が怒りに歪む。強くカーテンを引いて、窓に背を向けた。

ようやく仲間になれたのだと、喜ぶ両親の顔が脳裏を過ぎる。
仲間になったと嘯いて、その実扱いは変わらなかったことを少女は知っている。
両親は土砂崩れに巻き込まれたが、亡くなった遠因は後回しにされ続けてきたからだ。
助け出された時、両親はまだ生きていた。すぐに治療を受ければ助かった命だったはずなのだ。だが治療を受けれたのは一番最後。その時にはすでに、両親は息をしていなかった。
故に少女は、村の誰にも気を許してはいない。村の仲間になれなくても構わないとすら思っている。
小さく息を吐く。
明日も早い。もう寝てしまわなければ。

祭事に背を向けるように、少女は部屋の電気を落とした。



20250908 『仲間になれなくて』









久しぶりに戻ってきた故郷は、変わらず穏やかさに満ちていた。

「お帰り」
「元気にしてたかい」

道行く人々に笑顔で迎えられ、作り笑顔で会釈をする。
同じような笑顔。まるで一枚の仮面のように、出会う人すべてが揃って同じ笑顔を浮かべている。
それを見る度、返事を返す度に、作り笑いを浮かべた頬が引き攣った。
本当に何一つ変わらない。聞こえるのは人々の笑い声のみで、泣き声や怒声などは僅かにも聞こえることはなかった。
足早に実家へと向かい、挨拶もそこそこに自室に戻る。家を出た身ではあるが、いつ帰省しても自分の部屋は変わらずそこに残っていた。
一人になって、ようやく笑みを消した。ここでは笑顔が当たり前で、それ以外はない。喜怒哀楽の怒と哀を持たない故郷は一部ではしあわせの村と呼ばれ憧れられるほどだ。
その噂を聞く度、それは違うのだと叫びたくなる。見ているのは上澄みだけで、その深部の澱み濁ったものを見ていないだけだ、と。
両親の笑顔を思い浮かべ、目を伏せる。崩れ落ちるように座り込み、そのまま畳に横になった。
ここに生きる人々のどれ程が、笑顔でいられることの理由を正しく認識しているのだろう。
今夜、祭事が執り行われるのだという。
小さく息を吐き、目を閉じる。

それはつまり、どこかの家で狐憑きが出たことを意味していた。



幼い頃、狐憑きの行く末を見た。
笛や太鼓の鳴り響く夜に、白装束を来た狐憑きが縛られながら森の奥へと連れて行かれていた。
思わずその後を追ったのは、狐憑きになったのが友人の姉だったからだ。
憧れ、密かに恋していた彼女。いつもの優しい微笑みはなく、初めて見る表情をして髪を振り乱し、何かを言い続けていたのが強く心に残っている。
友人の姉を連れて行く大人たちに気づかれぬよう、静かに離れて後を追う。そうして辿り着いた山奥には、古ぼけた大きなお堂があった。
扉を開けて、大人たちが友人の姉を連れ入っていく。
中からいくつもの笑い声以外の声が聞こえて、体が震えた。
甲高い笑い声に混じり、強く荒々しい声が響く。弱く掠れた声に、押し殺したような低くくぐもった声が混じる。
泣き声、怒り叫ぶ声、呻く声。
その時に、自分は初めて嬉しさや楽しさ以外に感情があるのだと知った。

その後、どうやって家に帰りついたのか覚えていない。
だが自分はその時から、家を出て外で生きていくことを決めたのだ。



虫の声に声に混じり、笛の音が聞こえ始めた。
目を開けると、辺りは既に薄暗い。いつの間にか少し眠ってしまっていたようだ。
体を起こせば、自然と欠伸が漏れる。緩く頭を振り、固まった体をほぐしていれば、不意に部屋の扉が開けられた。

「久しぶりだな。声くらいかけてくれてもよかっただろうに」

無遠慮に部屋に足を踏み入れた友人が、部屋の電気を点ける。急な眩しさに目を瞬いていると、楽しげに笑う友人が目の前に膝をついた。

「頬に畳の後がついてるぞ。次からはちゃんと布団を敷いておけ」

そう言って、目尻に溜まっていた涙を指先で拭う。腕を引かれて、促されるまま立ち上がった。
そのまま外へと連れ出される。まだぼんやりとする意識では、気を抜くとすぐに瞼が閉じてしまう。

「歩いたまま寝ようとするな……ほら、もう少しで着くから、そうしたら出店で何か食え。奢ってやるから」
「いい。ちゃんと起きてる。寝てないから、一人でも歩ける」
「せめて目を開けてから、話してくれ」

他愛ない話をしながら、祭事の場所へと向かう。
これから行われることを、友人はどこまで知っているのだろう。
視線を向けた友人は、昼間見た他の人々のような笑みを浮かべている。整った笑顔。穏やかな平穏。
そこに波紋を立てる狐憑き。
あの日見た友人の姉の姿が思い浮かぶ。

「どうした?」

視線に気づいた友人が、立ち止まりこちらを見つめた。
変わらない笑顔。けれどもその目はどこか鋭く、こちらを見定めているようだ。
ゆっくりを目を瞬いて、へにゃりと笑みを浮かべてみせる。
そうすれば、友人の視線が幾分か和らいだ。

「祭事、久しぶりだ」

さりげなく視線を逸らし、前を見る。
暗い山の麓に、ぽつりぽつりと明かりが灯っている。はっきりと聞こえ出す笛と太鼓の音と、微かに聞こえる笑い声。
祭はもう始まっているのだろう。

「斜め向かいに住んでいたじいさんが狐に憑かれた。先月、ばあさんが死んで、その隙間に入り込まれたんだろう」

それは狐に憑かれたのではなく、悲しかったからだ。
口にも表情にも出さず、密かに思う。
仲の良い夫婦だった。その喪失に耐えられなかったのだろう。
負の感情が濾過しきれなかったのだ。
そこで、気づく。
ようやく、気づけた。

「賑やかだね。やっぱり久しぶりだからなのか」
「そうだな。もう何年もなかったからな」

作り笑顔を浮かべて、歩き出す。
後でお堂に向かおう。
そう、思った。





祭事が終わった、深夜。
明かりが落ちて、暗い山道を一人足早に進んでいく。
耳が痛いほど虫が鳴いている。風が草木を揺する度に肩を震わせ立ち止まるが、それでも戻るつもりはなかった。

やがて、遠くにぼんやりと建物の影が暗がりに浮かぶ。
駆け出した足は、しかし近づき建物の輪郭をはっきりと捉えた瞬間に止まった。

お堂の前に、誰かがいる。

「やっぱり来たのか」

聞き慣れた声がして、ひゅっと息を呑んだ。
暗がりに薄ぼんやりと明かりがひとつ、灯される。提灯の明かりが揺らめいて、影が足下まで伸びてくる。
伸びた影が足に触れ、逃げようと後退る体を縫い止めた。
立ち尽くし動けない自分の元へ、誰か――友人はゆっくりと歩み寄ってくる。提灯の明かりに照らされ仄かに見える友人は、昏い笑みを湛えていた。

「おいで」

背後から肩に触れ、軽く押される。それだけで体は意思に反して、お堂の前まで歩き出した。
逃げなければと思うのに、足は止まらない。肩に触れる手を払いのけることさえできない。
そのままおとなしく、友人と共に入口の前に立つ。友人が片手で扉を開ければ、途端に声の波が鼓膜を揺らした。

「――あ、あぁ」

目の前の光景から目を逸らせない。
お堂の内部は異様な空気に包まれていた。
板張りの床に打ち込まれた、何本もの人の背ほどの柱。
そこに白装束を着た人々が、縛り付けられていた。
饐えた匂いが湿気と混じり内部を満たしている。その中に鉄さびに似た匂いを感じ、不快さに眉を顰めた。

「やだ、や………いやだいやだいやだ」
「あははっ、あは、は……あぁあああっ……!」
「ゆるさない、たすけてたすけて……ころして」

身を捩り、泣き叫ぶ。
髪を振り乱し、苦悶に顔を歪め、あるいは笑いながら声が響く。
縄が軋む音がする。痛い痛いと喚きながら、それでもここから逃れようと暴れ、あるいは力尽きたかのように項垂れている。
その中に、祭事で連れていかれた老人を認めて、思わず一筋涙が零れ落ちた。

「怖いのか。それとも悲しいのか」

友人の囁きに、肩が大きく跳ねる。

「もしかしてとは思っていた。だからお前の装束と場所は、ちゃんと用意してある」

優しい声音。普段と何一つ変わらない態度でありながら、無慈悲に友人はある一点を指差した。
そこにはただ柱があるのみで、誰も括られてはいない。それの意味する所を知って、体が震え出す。

「お前は姉貴が好きだったからな。側にいられて嬉しいだろう?」
「――え?」

友人の言葉に、柱の隣に視線を向ける。
力なく項垂れた誰か。長い髪、痩せ衰えた身体。
見る影もないが、彼女は――。

「まだ早い。祭事を執り行うとしたら、明日だ」

無意識に踏み出した足は、友人に肩を掴まれたことで止まる。
咄嗟にその手を振りほどいた。自由を取り戻した体に内心驚きながらも、中へと足を踏み入れ。

「まったく……お前は本当に、姉貴が好きだな」

だがすぐに体は動きを止め、友人の元まで戻っていく。
視線を落とすと、影が足に絡みついているのが見えた。
足にいくら力を入れようと、自由が戻る様子はない。諦めきれずに何度も繰り返していれば、不意に何かを摘まんだ指が口を割り開き中へと押し入ってきた。

「撤饌《おさがり》だ。お前、ここに来てから、まだ何も口にしてないだろうからな」

嫌だと首を振ることすらできない。従順な体は、友人が差し入れた何かを受け入れ、飲み込んだ。
仄かに甘い、何か。離れていく指を見ながら、自分の中の変化に気づいた。

「あ……い、や……何でっ……!?」

抜け落ちていく。濾されていく。
目の前の光景への悲しみも、友人に対する怖れも、砂のように溢れ落ちてしまう。
笑いたくもないのに、口元が弧を描き始めた。

「取り込むだけで正常に戻ってきているな……大丈夫だ、馴染めば違和感すら感じなくなる」

背を撫で、友人が穏やかに告げる。
よかったと笑う友人に、同じように笑みを返した。

「さあ、戻ろうか。しばらく俺の家にいればいい。しっかりと馴染ませて……そうすれば、二度と外に出ようなど考えることもないだろう」

扉が閉まっていく。
思わず伸ばしかけた手を疑問に思い始めた自分に、笑いながら意味も分からず泣いた。

「――なぁ」
「ん?」

濾されていく感情の残り滓を掻き集め、声をかける。

「結局……狐憑きとは、何なんだ?」

疑問を口にして、意味がないことを聞いてしまったと笑う。それに友人も可笑しそうに笑いながら、律儀にも答えを返してくれた。

「感情を正しく濾過できなくなった、欠陥品。そして他の奴らのために感情を濾し、濾された感情の新たな受け皿……フィルターみたいなもんだ」

肩を竦める友人に、気のない礼を返す。
よく分からないが、ありがたいことではあるのだろう。

友人と二人家路に就きながら、ふと冷たさを感じて目元を拭う。
指先についた滴に、首を傾げた。
欠伸でもしただろうか。すでに夜も深まり、普段ならとっくに寝ているはずなのだから仕方ないかもしれない。
そもそも自分は何故、友人とこんな所に来ているのか。
酷く記憶が曖昧だが、明日気が向けば友人が教えてくれるだろう。

「おい。歩いたまま、寝るなよ」
「寝てない。目を閉じているだけだ」
「目を閉じて、どうやって歩くつもりなんだ」

他愛ない話をしながら、静かな夜道を歩いていく。
何故だろう。今夜はとても気分がよかった。



20250909 『フィルター』

9/10/2025, 9:56:32 AM