目の前に広がる光景に、少年は自身の軽率さを悔やんだ。
夏休み明けから、学校ではある噂が密かに広がっている。
――誰もいない教室から、女のすすり泣く声が聞こえる。
ありきたりな怪談話だが、夏休みに部活のあった生徒を中心に信じている生徒は多い。夏休み中に、女のすすり泣く声を聞いた生徒が何人もいたからだ。
部活に入っていない少年は、噂を信じてはいなかった。
何かの音を聞き間違えたのだろう。誰かがこっそり見ていたホラー動画を、偶然聞いてしまったのだろう。
そう思い、数分前に忘れ物に気づいた時には、迷いなく取りに戻ることを選択した。
その選択を、少年は今とても後悔していた。
教室の扉を開けたままの格好で立ち尽す。
扉を開けたその先は、見慣れた教室ではなかった。
鬱蒼と生い茂る森の中。
風ひとつなく静まりかえっていることが、不可解さと相俟って怖ろしさを漂わせている。
その中央に、椅子が一脚置かれていた。
教室にあった椅子だろうか。こちらを向いて置かれている椅子は森の中で馴染まず、酷く浮いていた。
しばらくして、幾分か落ち着いた少年は忘れ物を思い出した。
扉にかけたままの手を離す。ごくりと唾を飲み込んで、少年は一歩、教室の中へと足を踏み入れる。
椅子があるということは、机もあるのかもしれない。僅かな期待を抱いて、少年は辺りを見回した。
忘れ物を見つけて早く帰ろう。その思いで、椅子に視線を向けないようにしながら机を探す。だが見える限りには、椅子以外の教室の名残は見つけられなかった。
溜息を吐く。
草を掻き分けようとして、腕を伸ばした時だった。
「――誰が駒鳥殺したか」
幼い子供の残酷さを孕んだ、高い声が響いた。
弾かれたように椅子へと視線を向ける。
いつの間にか黒い人影が座っていた。移動していた少年に合わせて椅子の向きが変えられていて、影は少年を見据えてこちらを見ていた。
ひっと、喉の奥に張り付いたかのような悲鳴が漏れる。影から視線を逸らせずに、立ち尽くす。
沈黙。目を見開いたまま硬直する少年に、影は僅かに首を傾げた。
「それはわたし 雀が言った」
影が歌うように言葉を紡ぐ。
今度は少年が首を傾げた。影の言葉の意味が分からなかったからだ。
何かの歌だろうか。
駒鳥を殺したのは誰かを聞いて、そしてそれは自分だと雀が答える。
意味が分からない。困惑して眉を寄せたまま何も言えずにいれば、影は再び首を傾げた。
ゆっくりと立ち上がる。少年を見据えたまま、一歩近づいた。
「弓矢で殺した 彼の駒鳥を」
影が言葉を紡げば、静まりかえった森のどこかで雀の鳴く声がした。
「うわあぁぁぁっ!」
もう一歩、影が近づいた瞬間。弾かれたように少年は叫びを上げて教室を飛び出した。
泣きながら必死で外へと向かう。頭の中から声が離れない。追いかけてきている錯覚に、益々涙が溢れてくる。
昇降口に部活終わりだろうクラスメイトの姿を認めて、駆け寄った。
「どうしたんだよ。そんなに慌てて。しかも泣いて」
困惑を目に浮かべたクラスメイトの肩に、少年は手を置く。
荒い息をつきながら、途切れ途切れに見たものを告げた。
「いた……噂、本当だった。女じゃ、ない……森、だった……」
――誰もいない教室は、異界に続いている。
数日後、そんな噂が学校内で広まっていた。
楽しげに新たな噂を話し合うクラスメイトたちに、密やかに息を吐いた。
学校中に広まった噂にはどんどんと尾ひれがついていき、最早何が正しいのか分からない程だ。
――教室にいる人物に声をかけられ答えてしまうと、二度と戻れなくなってしまう。
――異界と繋がった教室のものに触ると呪われる。
――異界の人物と目を合わせてしまえば、気が狂ってしまう。
そろそろ教室に入っただけで、異界に閉じ込められてしまうという噂まで作られそうだ。
痛み出したこめかみを抑えながら、静かに立ち上がる。
声をかけてきたクラスメイトに、体調が悪いとだけ声をかけて、教室を抜け出した。
賑やかな教室から離れ、特別教室のある棟へと向かう。帰りのホームルームの時間前だったからか、辺りはしんと静まりかえっていた。
ある教室の前で立ち止まる。プレートには図書室の文字。
扉に手をかけ、迷いなく開いた。
そこは見慣れた図書室ではなかった。
どこまでも広がる青い空。時が止まったかのように縫い止められ動かない、白い雲と太陽。
明るい陽射しに照らされたそこは、小さな墓地だった。
中央にぽつんと一脚、椅子が置かれている。何も言わずに見ていれば、椅子からじわりと影が滲み出し、小さな人影を形作っていく。
小さく息を吐きながら、後ろ手で扉を閉める。一歩足を踏み出せば、期待を抱いた子供の高い声が響いた。
「ソロモン・グランディ 月曜日に生まれ」
影は行儀よく椅子に座り、こちらの返しを待っている。仕方がないと、歩み寄りながら続きの言葉を口にした。
「火曜日に洗礼を受けた」
影の肩が跳ねた。体を左右に揺すりながら、さらに続く言葉を影は口にする。
「水曜日に結婚し」
「木曜日に病に臥した」
「金曜日に危篤となり」
「土曜日に死んだ」
言葉を続ける度に、影は椅子の上で楽しそうに体を揺する。声は高く上擦って、楽しくて堪らないと喜びに満ちている。
「日曜日には土の中」
影の前に立つ。最後の言葉が紡がれるのを待つ影を、何も言わずにしばらく見つめた。
機嫌良く揺れこちらを見上げていた影が、段々に静かになり俯き出す。
「――ソロモン・グランディ」
か細く続く言葉。
泣くのを堪えるかのようなその響きに、流石に意地悪が過ぎたかと少しばかり反省した。
態とらしく音を出して息を吸い込む。はっとして顔を上げた影に笑って、口を開いた。
「「彼の物語はこれでおしまい」」
声を合わせ、最後の一説を紡ぐ。
きゃあ、と声を上げ、両手を叩いて喜ぶ影に、呆れながらも笑った。
影が落ち着いた頃を見計らい、手を差し出す。何も言わずとも理解したのだろう影は、一冊の本を取り出した。
それを手渡し、霞のように影は周囲に解けていく。何度目かの溜息を吐きながら、裏表紙を捲った。
そこには、昨年度廃校になった隣町の学校の印が押されている。
「寂しがり共め」
誰もいなくなり退屈になった学校の備品たちが、人恋しさで迷い込んだのだろう。
在りし日の学校を思い出して苦笑する。
掛け合いを楽しむ図書室の本。寝落ちした生徒をさりげなく揺すり起こす、机や椅子。
美術室に行けば、肖像画や彫刻が気さくに声をかけてくれるし、音楽室のピアノはたまに音痴になった。
とても賑やかな学校だった。廃校になり、この学校に転校して、あまりの静かさに驚いたほどだ。
本を閉じ表紙を撫でれば、切なさで胸が少しだけ痛んだ。
かたり、と椅子が揺れる。控えめな主張に苦笑して、椅子の背もたれを撫でる。
「分かったよ。週末会いに行くから」
約束すると告げれば、あちらこちらから歓声が上がった。やはり自分には、小さくともあの学校の方が向いている。
約束を口にして、今から週末を楽しみにし出した自分を感じながら、そう思った。
20250906 『誰もいない教室』
9/8/2025, 3:37:44 AM