「いかないでぇ!」
泣きながら、大きな背にしがみつく。
出発の朝。この瞬間が何よりも嫌いだ。
「ちゃんと帰ってくるよ」
眉を下げて、兄は困ったように微笑う。
「ほら、お兄ちゃんを困らせないの」
溜息を吐きながら、母が無理矢理に引き離す。温もりがなくなって、益々寂しさが込み上げた。
脇目も振らずに泣きじゃくる。上手く呼吸ができずにくらくらする頭で、それでも兄に向けて必死に手を伸ばした。
「困ったね」
優しい声が囁いた。伸ばす手を包まれ、しゃくり上げながら兄を見つめる。
行かないでくれるのだろうか。期待を込めて、兄の言葉の続きを待った。
「一週間したら帰ってくるよ。約束する。ちゃんと帰ってきて、誕生日をお祝いするから、良い子で待てるよね?」
涙を拭われ、視線を合わせて兄は言う。期待とは真逆の言葉。でも、差し出す小指に仕方なく指を絡めた。
「指切りげんまん――」
絡めた小指を軽く揺すられて、ふてくされながらも約束を交わす。
兄は約束を絶対に破らない。今までもそうだった。だから今度の約束も守られると信じて、指を切る。
「うそついたら、おにいちゃんと口をきかないからね!」
「それは嫌だなぁ……だから絶対に帰るよ」
指切りをした手が頭を撫でる。
一週間。七日。
遠い先を思い、また涙が溢れてくる。涙を拭おうとする手から逃げるように、母の背中に隠れて兄を見送った。
「いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
「――いってらっしゃい」
遠ざかる兄の背中が見えなくなるまで、見えなくなってからもしばらく玄関で立ち尽くす。
兄はちゃんと帰ってくる。帰って来て、誕生日を祝ってくれる。
そう信じて、兄の無事の帰りを神に祈った。
けれど――。
一週間が過ぎても、一ヶ月が過ぎても、兄は帰ってはこなかった。
沖で嵐があったらしい。兄の乗った船も、戻ることはなかった。
その知らせを正しく理解できたのは、何年も経ってからだった。
昨日から降り続く雨は、風を引き連れ勢いを増している。
きぃ、と音が聞こえて、溜息を吐いた。
重怠い体で、勝手口へと向かう。
「いい加減、直せばいいのに」
愚痴を溢しながら、風に揺れ雨を室内に招き入れている勝手口の扉を固く閉めた。古い扉は随分と前から鍵が壊れ、閉め方が甘いとこうしてすぐに開いてしまう。その度に直したいと両親は言うものの、直される様子はない。
古い家だ。直すべき所は多くあり、ひとつひとつ直してなどいられないのだろう。
「雨なんか嫌いだ」
小さく呟いた。
正確には、雨も風も嫌いだ。晴れ渡る空も、朝も海も、何もかもが嫌いだった。
溜息を吐きながら、部屋に戻るため歩き出す。
台所を出た瞬間、不意に何か音が聞こえた気がした。
「――何?」
辺りを見渡しても、音の出所は分からない。耳を澄ませても、打ち付ける雨風に紛れてよく聞こえない。
だが微かに何か聞こえる。無機質な、電子音。電話の切れた音にも似ている、そんな低めの音。
「何なの。まったく……」
頭を振って、足早に部屋に戻る。
電話も嫌いだ。耳を澄ませてまで聞いていたくない。
部屋の中。ベッドに入り、シーツを頭まで被る。
耳を塞いで、目を閉じた。
世界は嫌いなものばかりだ。
眉間の皺は刻まれたまま、消えることはない。
段々と落ちていく意識の外側で、微かに音が聞こえ続けていた。
次の日になっても、音は消えることはなかった。
正確には、昨日よりも音は強く聞こえている。ツーという音と、トンという音。どこか聞き覚えのあるそれは、思い出せそうで思い出せない。
「――あぁ、もう!嫌になる」
頭を振るが音は消えない。思い出せない歯がゆさに、眉間の皺が深くなる。
ざぁっと外で音がした。弱まっていた雨が、また強さを取り戻したようだ。
窓に近づき、打ち付ける大粒の滴を一瞥してカーテンを閉める。
体が重い。気圧の影響か、痛み始めたこめかみを押さえながらベッドに倒れ込んだ。
音が聞こえる。舌打ちして耳を塞ぐも、音は止まない。
頭の中で響いているのだ。ふとそんなことが思い浮かぶ。
やはり、世界は嫌いなもので溢れかえっている。
苛立つ気持ちのまま、その日はよく眠れなかった。
音が響く。
はっきりと聞こえるようになり、あることに気づいた。
音はある一定の規則で繰り返されている。
「――あ」
そこでようやく思い出した。
まだ兄がいた幼い頃、勉強の傍らに教えてもらったもの。
「モールス信号だ」
呟いて、ベッドから体を起こす。ふらつきながらも、奥の部屋へと向かった。
そこは、兄の部屋だ。兄が出て行ったままの状態で残された部屋は寒々としていて、ここ数年足を踏み入れていなかった。
定期的に母が掃除する以外に、誰も足を踏み入れない場所。何年も経つのに、潮の匂いがふわりと漂う。
「確か、本棚に……」
兄の気配はまだ色濃く残っている。けれども兄はいない。そのことから思考を逸らすように、本棚へと向かう。綺麗に整頓されていたため、目的の本はすぐに見つかった。
本を取り、足早に部屋を出る。自室に戻り、聞こえる音を当てはめていく。
「・-・・、-・---、-・--・……か、え、る?」
首を傾げた。
「かえる」と繰り返す音。帰るなのか、それとも返るなのかは分からない。
何故頭の中に響いているのかも分からなかった。
眉間に皺が寄る。本を片付ける気にもならず、ベッドへと倒れ込んだ。
目を閉じる。聞こえるのは、頭の中の信号と、雨風の音。
そして、戸を叩く音。
「――誰?こんな時間に」
諦めるだろうと思い待っていたが、音が止む気配はない。
溜息を吐いて、体を起こす。軋む体と痛む頭に顔を顰めながら、ゆっくりと玄関へと歩いていく。
「誰ですか」
何故呼び鈴を鳴らさないのか。そう思ったが、数ヶ月前から音が鳴らなくなったことを思い出す。
声をかけても、戸を叩く音は止まない。雨風の音で聞こえていないのだろうか。
舌打ちをして、玄関戸に近づく。鍵を開けようとして、ふと違和感に気づいた。
ドン、ザー、ドン、ドン。
聞き覚えのあるリズム。頭の中のそれと重なり、音が大きく聞こえ出す。
戸を叩いているのではない。信号を打っているのだ。
「――誰、ですか」
ゆっくりと後退りながら、もう一度声をかける。
音は止まない。声は返らない。
頭が痛い。さらに重くなる体を引き摺るように、玄関から離れていく。
戸の鍵は閉まったままだ。声をかけてしまったが、反応はなかった。このまま部屋に戻って、朝が来るまで待っていれば、いずれ止むのかもしれない。
そう思い、もう一歩後退った時だった。
背中に何かが当たる。冷たく、濡れた自分よりも大きな何か。
振り返るよりも先に、背後から伸びた腕に抱き竦められた。
「――ただいま」
ひび割れた声。でも聞き間違えるはずなどない。
体を抱く腕に視線を落とす。濡れた服の裾からぽたぽたと滴が落ちている。
その服に見覚えがあった。思わず呻きにも似た声が上がる。
「お……にい、ちゃん……」
掠れた声で呼べば、返事の代わりに抱き竦める腕に力が込められた。
いつの間にか、戸や頭の中で響く信号は聞こえなくなっている。ならば、あの信号を打ったのは、兄なのだろう。
どうして、と静かになった戸を見ながら考える。戸に鍵はかかっている。目の前で開いてもいない。
風の音に紛れて、小さくきぃ、という音が聞こえた。鍵の壊れた、勝手口の扉。それが答えだった。
強い潮の匂いに目眩がする。今更何故、兄が帰って来たのか。それを尋ねたくても、もう何も言葉が出てこない。
「――とう」
不意に兄が何かを呟いた。雨風に掻き消されるほど、微かな声音。耳を澄まして、兄の声を拾い上げる。
「お誕生日、おめでとう」
ひゅっと息を呑む。
それは遠い日の約束。帰って来て誕生日を祝う。
待ち続けて、結局叶わなかった願いだ。
息が苦しい。しゃくり上げる度に、呼吸が上手くできなくなる。
兄の濡れた体に体温を奪われ、体が震え出す。体に力が入らず、崩れ落ちる体を包むように抱き寄せられた。
昔、寒さに震えていた時には、こうして兄が抱き締めてくれていた。かつては温もりを感じていたはずなのに、兄からは冷たさしか感じない。
それが悲しくて、そうまでして帰ってきてくれたことが嬉しくて堪らない。霞み出した思考で、ぼんやりと思った。
世界は嫌なものばかり。痛くて、苦しくて、悲しい。
ふと、先ほどまで響いていた信号を思い出す。
トン、ツー、トン、トン。
ツー、トン、ツー、ツー、ツー。
ツー、トン、ツー、ツー、トン。
頭の中で繰り返して、無意識に口を開いた。
「――還る」
呟いたとほぼ同時に、兄の手が視界を覆う。真っ暗な世界に何故か安堵して、体の力を抜いた。
目を開ける。
知らない場所。仄暗く、冷たいここは、どこかの船の中のようだった。
「おいで」
辺りを見渡していれば、兄が来て手を引かれた。
おとなしくついて行く。歩いているというより、漂っているような感覚が落ち着かない。
「ここだよ」
兄に連れられて入ったのは、どこかの小部屋。本の中で見たことのあるモールス信号を打つ機械に、ここが兄の仕事場だったのかとようやく気づいた。
手を離した兄が、机に近づき引き出しを開ける。中に入っていた、四角い封筒を取り出し、渡される。
促されて封を開ける。中から取り出したカードを見て、じわりと涙が込み上げる。
「ずっと渡せなかったからね。最期に渡せてよかった」
可愛らしい犬や猫の絵柄が描かれたバースディカード。開くと、電子音がバースディソングを奏で出す。
止められなくなった涙を拭われる。眉間に寄ったままの皺を指で伸ばして、兄は微笑む。
「よく頑張ったね。偉いよ」
出せない声の代わりに何度も頷いた。
そうだ。頑張ったのだ。ずっと、嫌いなもので溢れかえる世界の中で一人耐えてきたのだ。
気づけば、ずっと感じていた体の重さも頭の痛みも感じなかった。兄に伸ばされた眉間の皺が、再び刻まれることもない。
腕を伸ばせば、兄が優しく抱き締めてくれる。昔のような大きな体。自分の体が幼くなっていく。
「もういいよ……おやすみ」
そっと囁かれて、兄に凭れ目を閉じる。
何年も浮かべることのなかった笑顔が、自然と浮かんだ。
赤い目をしながら、それでも女は気丈に訪れる弔問客に挨拶を返す。
「この度は、力及ばず申し訳ありません」
そう言って香典袋を渡す男に、女は僅かに顔を綻ばせた。
「先生。来て下さってありがとうございます」
「いえ。私は娘さんに何もできなかった。本当に申し訳ない」
頭を下げる男に、女は慌てて両手を振る。
顔を上げてほしいと頼み込まれ、男は静かに頭を上げる。
「先生には感謝しています。先生がいなければ、あの子はここまで生きることができませんでしたから」
「ですがそれは、ただ苦しみを長引かせるだけだった……あの子には本当に酷いことをした。きっと恨んでいるでしょうね」
そう言って男は悲しく笑う。
とんでもないと首を振る女は、目に涙を浮かべながら黒と白の鯨幕の向こう側を見つめる。
その向こう側では、喪主である夫が弔問客の相手をしていることだろう。泣きたいのを堪え娘の遺影の前で、女のように気丈に振る舞っているのだ。
顰めた顔で映る娘の遺影を思い出し、先生、と女はぽつりと呟いた。
「先生。あの子は確かに、苦しんだのでしょう。ですが最期はとても穏やかだった。眉間の皺が消えて、微笑んで眠るあの子を見たのは、本当に久しぶりでした」
穏やかに語る女とは対照的に、男の表情は曇り出す。
「正直、あの最期は不可解なことばかりなのです。娘さんの状態は安定していたはずだった。来月には退院できるはずだったのです」
娘の状態を思い出しながら、男は告げる。
娘は僅かな時間で息を引き取った。バイタルに変化はなく、巡回していた看護師も変わりはないと証言している。
一瞬のことだ。酸素飽和度を示す値が、九十五から一気に一桁へと下がった。遅れて心電図が心停止を告げ、男が駆けつけた時には既に何をしても手遅れの状態だったのだ。
「そう、でしたね……えぇ、そうでした。苦しそうなあの子を見ていたから忘れていたけど、状態はよかったのでしたっけ」
それならばきっと。
女は一筋涙を溢す。口元は淡く微笑みを湛えて、何かを思うように、遠く見える海を見つめて呟いた。
「あの子の苦しみを見かねて、あの子の兄が連れていったのかもしれません……お兄ちゃんは一回り以上年の離れたあの子のことを、私たち以上に愛し、大切にしていましたから」
微かに船の汽笛が聞こえる。
その音を聞きながら、女は深々と男に頭を下げた。
20250905 『信号』
あれからいくつか季節が過ぎた。
彼との関係は変わらない。社で過ごす穏やかな時間も、夢の中での甘い時間も、変わらず続いている。
彼の悲しみに、気づかない振りをしながら。
知ってはいけない。正体を口にしてはいけない。
彼は何度も懇願する。共にいるために、別れの時が訪れることのないように。
けれど同時に、彼は悲しげに空を舞う黒い影を見つめる。社から見える外に視線を向けて、切なげに目を細めている。
故郷を、そして仲間を思う彼を見る度、このままでいいのかと自分の中の何かが囁く。
彼を縛っているのは、社ではなく本当は自分ではないだろうか。告げることのできないこの思いが、彼に何も知るなと言わせているのではないか。
「どうかこのまま。何も知らないままで、私と共にいてください」
背後から抱き締められながら繰り返される言葉に、何も言わずに空を見上げた。
遠く、茜色の空を優雅に飛び交ういくつもの影。
抱き締める腕に力が籠もっていくのを感じながら、今日もまた何も言い出せずに目を伏せた。
それを見つけたのは、彼と出会った日のような秋の初め、雨上がりのことだった。
濡れる石畳の脇、茂る草に覆い隠されるようにして、何かが見えている。気になって草を掻き分け覗くと、それは小さな石碑のようだった。
苔むし朽ちかけた石碑に触れながら、読める文字を探して目を凝らす。汚れを指で拭えばその瞬間、脳裏をいくつもの言葉が過ぎていく。
異国から訪れたモノ。
破壊の化身。それは巨大で、禍々しく、怖ろしい。
多くの人々が命を賭して、社に封じた。
その名を呼べば封は解かれ、再び災厄が訪れる。
過ぎる一つの名前に、息を呑んだ。
石碑から手を離し、頭を抑えた。
頭が痛い。いくつもの言葉が、渦を巻いているようだ。
ふらつきながら家路に就く。ゆっくりと石段を降りながら、思うのは彼のことだった。
夢の中。
いつものように彼に抱かれながら、草原に二人立ち尽くす。
見上げる空には、いつもと同じいくつもの影。
異なるのは、草原の先。遠くに空を飛ぶ影と同じ大きな影がひとつ、こちらを静かに見据えていた。
「――Procella」
震える声。影の名らしきものを紡ぎ、微かに嗚咽が溢れ落ちる。
それは石碑から流れ込んだあの名前の響きに、どこか似ている気がした。
「何も聞かないでください。どうか……」
振り返ろうとする体を強く抱き竦め、彼は願う。
その声の響きはとても悲しい。呼んだ影への恋しさに揺れている。
何も言えない自分の中の何かが囁いた。
彼を解放すべきだ。彼は自分の思いに縛られている。
昼間見た石碑を思い出す。
異国。破壊。災厄。
今の彼からは想像もつかない。しかし、違うとはっきり言葉にできないくらいには、自分は彼を知らなすぎた。
ならばこのままでいいのではないだろうか。自分のためだけではなく、人々のために。
言い訳のように、囁く言葉を否定する。
「どうか、許してください」
嗚咽に紛れ、呟かれた彼の言葉に肩を震わせた。
それは誰への謝罪なのだろうか。草原の先にいる影にか。それとも、彼自身にか。
懺悔にも似た響きに、自分の浅はかさを恥ずかしく思う。
彼と共にいるための理由を並べ立て、彼の思いなど見て見ぬ振りをして。
何かが嘲りを含んで、さらに囁いた。
彼を苦しめているのは自分の存在だ。自分がいるから彼は一人きりで縛られ続ける。故郷にも帰れず、仲間や愛しいモノにも会えず。
彼を悲しませているのは、他でもない自分自身なのだ、と。
唇を噛みしめ、俯いた。
囁きを否定できず、それでも何も言い出すことはできなかった。
澄み切った青空に薄い雲が流れていく、そんな秋晴れの午後。
いつものように社の中へと入り、彼の前に座る。緩やかに金色の眼を細めた彼が何かを言う前に、話があるのだと告げる。
「どのようなお話でしょうか」
金色が陰る。穏やかでありながら悲しみを帯びた声音に、決意が揺らぎそうになる。
「ずっと言い出せなかったことがあるの」
両手を握り締め、彼の眼を見据えた。逸らしてはいけない。逸らした瞬間に、きっと何も言えなくなってしまうから。
少しの沈黙。静かに息を吸って、微笑みを浮かべる。
「私、あなたのことが好き」
彼の眼が見開かれ、息を呑む音が聞こえた。
「あなたを、愛している」
ここで口を閉ざせば、まだ彼と一緒にいられる。
弱い自分がそっと囁いた。聞こえない振りをして、さらにきつく両手を握り締める。
「だから、あなたには自由でいてほしい。私に縛られていてほしくないの」
「っ、それは」
「――あびどす」
Avidus。
正しい言葉の響きではないだろう。けれど彼には伝わったようだ。
「どうして……何故、その名を……!」
「遠い異国の空を舞う竜。どうか故郷へお帰りください」
ざわり。社の中で風が渦を巻いた。
彼の見開かれた眼が歪む。ばきり、ばきりと、何かの音がして、彼の姿が膨れ大きくなっていく。
彼の大きさに耐えられなくなった社が崩れていく。割れた壁の隙間から光が差し込み、彼の姿を露わにしていく。
鈍く煌めく鱗。鋭い牙や爪。長い尾と、大きな翼。
何度も夢で見た、あの茜空よりも赤い色をした竜が、そこにいた。
大地を振動させるような、力強い咆哮。がらがらと音を立てて、彼を縛り付けていた社は跡形もなく崩壊した。
「愚かな人間。愛を囁いた唇で別れを告げるなど、許せるものか」
怒りを宿した金色の眼に見据えられ、思わず肩が震える。
竜の腕に体を掴まれる。今までの彼からは想像もつかないほどに荒々しく、乱暴に。
爪先が肌に食い込み、その痛みに顔を顰める。それを彼は酷薄に嗤った。
「哀れだな。俺を解放すると言いながら、解放されたかったのか?だが、貴様は俺のものだ」
彼の顔が近づく。爪が食い込み滲む血の匂いを嗅ぎ、舌先が傷口を抉る。痛みに声を上げれば、彼はさも愉快だと言わんばかりに眼を細めた。
「――あぁ、そうだ」
不意に、彼が顔を上げる。その視線が街の方角へと向けられていることに、背筋が粟立った。
「俺を封じた忌々しい人間共に、報いなければな」
「駄目っ!」
彼の言葉を遮るように声を上げた。身を捩ったことでさらに深く爪が食い込むが、止まる訳にはいかない。
「俺に指図するつもりか」
苛立ちを隠そうともしない冷たい声音。
以前の彼との差異に苦しさを覚えながらも、その金色の瞳を見返した。
「あなたに、人を傷つけることはさせない」
「貴様に何ができる。この手の中から、どうやって俺を止めると?」
鼻で笑いながら、彼は握る手に力を込めた。
骨が軋むような痛みに、声が上がる。滲み出す視界で、それでも彼を見続けた。
確かに彼の言う通りだ。こうして彼の手の中で、痛みに泣くことしかできない自分にできることなどないのだろう。
それでも言葉を交わせば、彼は理解してくれるのかもしれない。そう期待してしまうほどには、穏やかで優しい彼を信じていた。
「お願い。人を傷つけるのは止めて。このままあなたの故郷に帰って」
どうか、と願いを込めて告げれば、彼の眼が鋭さを増した。長い尾が地面を強く打つ。感じる振動に、思わず身を強張らせた。
「気に入らんな」
彼の声はどこまでも冷たい。
「貴様は俺のものだ。俺以外を思うことは、一時でも許しはしない」
体が宙に浮く。体を掴む彼の手が持ち上がったからだ。
彼の眼前まで持ち上げられ、不快に歪む眼が強く自分を睨む。牙を剥き出しにして、怒りを露わにする。
「俺のことだけを考えろ。この体も、命も、貴様を構成するすべてが俺の所有物だと理解するんだ」
溢れ落ちた涙を、彼の舌が拭う。吐息が頬にかかり、その熱さに眼を閉じた。
「この結末は、貴様が招いたことだ。精々己の軽率さを恨めばいい」
残酷なほど甘い声が頭の中に響く。
その声を最後に、意識は黒く塗り潰された。
次に目覚めた時、そこは闇の中だった。
目を開けているのか閉じているのか。それすらも分からなくなりそうな、真っ暗闇。触れる壁は湿った生暖かさを孕み、鼓動を刻むように微かに振動しているのが感じられた。
「――?」
彼を呼ぼうとして口を開くが、声は出ない。喉に手を当て何度か試したが、吐息一つ音にはならなかった。
込み上げる不安に、彼を探して手探りで歩く。泥の中のような粘ついた地面に何度も足を取られ、体がふらつく。嫌な場所だ。早くここから出て、彼に会いたい。
とても静かだ。足音一つ聞こえず、辺りは塗り潰したかのように少しの輪郭も浮かばせない。
自分は今、どこにいるのだろうか。
彼は近くにいるのだろうか。
いくつもの疑問が浮かび、答えが出せぬままに過ぎていく。何も見えず、聞こえないこの状況に、可笑しくなってしまいそうだ。
不意に、足を掴まれたような感覚がして、そのまま地面に倒れ込む。
痛みはない。弾力のある柔らかな地面は、しかし次の瞬間に音もなくうねり出した。
「――!」
四肢を絡め取られ、地面の中へと呑み込まれていく。いくら暴れても、抜け出すことはできない。ゆっくりと、だが確実に体が沈み込んでいく。
肌に触れる地面の感触に顔を顰めた。夢の中で、彼に背後から抱き竦められている時に感じたそれよりも高い熱。じわりと体の内側に入り込み、すべてを解かしていく錯覚に恐怖を感じて体が震え出す。
「――っ!」
無駄だと知りながらも、何度も声の出せない喉で彼を呼び続けた。
彼の姿が見えない。声が聞こえない。
彼のいない絶望に、心が壊れていく音が聞こえた気がした。
泣きながら名を呼び続ける女の声を聞きながら、竜は恍惚とした笑みを浮かべた。
「そうだ、それでいい。俺のことだけを思い、泣き叫べ」
そっと自らの腹を撫でさする。
先ほどまでの激情は凪ぎ、あるのは女への愛しさと、望郷の思いだけだ。
見上げる空は、青から赤へと色を変え始めている。
翼を広げ、風を起こす。それは荒れ狂う風となって、社の残骸や周囲の木々をなぎ倒した。
竜の動きが伝わったのだろう。か細い女の悲鳴に、竜は再び宥めるように腹を撫でる。次第にすすり泣きに変わっていく声に愛を囁きかけ、だがそれが言葉になる前に竜は静かに口を閉ざした。
竜の眼が僅かに陰る。
女にはもう、竜の言葉は届かない。終ぞ思いを伝えられなかったことに気づき、竜は密かに嘆息した。
「俺を手放す貴様が悪い」
愛の代わりに口をついて出た言葉は、子供の言い訳のように空しく響く。
後悔はない。
元々本能が強い種ではあるが、竜は一際欲が強かった。
貪欲であり、常に何かを渇望する。封じられたことで穏やかになってはいたが、その本質は変わらない。
永い時を孤独に縛られていたある日、訪れた一筋の光。優しく暖かく照らすそれを竜は心から愛し、欲しいと願った。
「愛などと、見え透いた嘘で俺を騙そうなどと」
女の言葉を思い出し、竜の眼に仄暗い光が灯る。
女に愛を告げられた時、竜は歓喜に胸が震えた。だがそれは女の続く言葉に、憎悪にも似た怒りに塗り潰されてしまった。
竜は本能で生きるモノだ。弱肉強食。弱きにかける慈悲などはない。
故に、竜には女の献身が理解できなかった。
ただ女が愛を告げた時に、言葉を返していたのなら。叶わないもしもを、竜は思う。
もしも己も愛していると告げたのならば。夢の中ではなく現実で、正面から女を抱けていたのだろうか。苦痛に歪む顔ではなく、女の微笑みが見られたのだろうか。
「今更だ。どんな過程を得たにしろ、貴様は俺のものなのだから」
自嘲染みた笑みを浮かべる。
もう一度腹を撫でてから、空を見上げた。遠い故郷へ帰るために、大きく羽ばたく。
「――Procella」
愛しげに名を呼ぶ。
それは故郷の空を舞う同胞の名か。
それとも、名も知らぬ女のための新たな名か。
風が巻き起こる。周囲を薙ぐ風が竜の翼を震わせる。一際大きく羽ばたいて、竜の体は空高く舞い上がった。
故郷を目指し、竜は雄々しく飛んでいく。
その眼から蕩々と流れ落ちる涙に、竜は気づくことはなかった。
20250904 『言い出せなかった「」』
「――あれ?」
見慣れぬ鳥居を前にして、思わは戻る前に、雨に降られてしまうだろう。
眉を寄せて目の前の鳥居を見つめた。石段を上がった先を覗うことはできないが、社か何か雨を凌げる建物があるかもしれない。
僅かな期待を胸に、雨から逃げるように鳥居を潜り抜け、石段を駆け上がった。
石段を上がった先には小さな社があった。
長く手入れをされていないのだろう。朽ちかけた社に、足が止まる。
ぽつり。肩に触れた冷たい感覚に、はっとして空を見上げた。
ぽつりぽつりと、灰色の空から振る雨が顔を濡らす。
「仕方ない、か」
幸いなことに、雨の勢いはそれほど強くはない。朽ちかけてはいても、雨を凌ぐことはできるだろう。
そう判断して早足で社に近づくと、暗い中へと足を踏み入れた。
「――おや、珍しい」
入口に座り止まない雨を見ていると、不意に奥から声が聞こえた。
ぎくり、と体が強張る。こんな朽ちかけの社に自分以外の存在がいることが信じられず、怖ろしさに肩を震わせた。
「あぁ、そう警戒なさらないでください。私はただの抜け殻。社に縛られ、外に出ることの叶わぬモノです。ここに足を踏み入れた者を害したことは、一度もありません」
振り返れば、奥の暗がりに金色の光が二つ煌めいていた。時折瞬くそれが声をかけた誰かの瞳だと気づき、狼狽える。
「そこにいては、吹き込む風と雨で体が冷えてしまうでしょう……どうぞこちらへ。雨が上がるまでの間、お休みください」
穏やかな声音に、強張る体から力が抜けていく。
そろり、と奥へと足を踏み出した。明かりのない社は薄暗い。外から見た時には、中も荒れているのかと思っていたが、不思議と雨漏りも床の痛みもみられなかった。
暗がりの灯る誰かの金色の瞳を前に、腰を下ろす。聞きたいことはあるが、瞳を見ていると言葉が何一つ出てこない。
雨の音が社に響く。
目の前の誰かも何も言わず、けれどその沈黙に何故か心地良さを感じていた。
低い声からして、目の前にいるのは男の人だろう。彼は一体何者なのか。縛られているとはどういう意味か。
雨の音を聞きながら、いくつもの疑問が込み上げるが、相変わらず言葉は出てこない。
「何も、知ろうとなさらないで下さい」
その疑問を見透かしたように、彼は言う。
「どうか何も知らずに……雨が上がるまでの僅かな時を、共に過ごさせてください」
「寂しいの?」
憂いを帯びた彼の声音に、自然と声が出た。灯る瞳が驚いたように見開かれ、そして静かに細められていく。
「――えぇ、そうですね。永い間、ここにひとりきりでおりました。それも運命と受け入れておりましたが、私は寂しいのでしょうね」
自嘲するような吐息。
すべてを諦めているような、静かな声だった。
ふと、雨の音が消えていることに気づく。入口を見れば、僅かに見える空に青空が見え始めていた。
「雨が上がりましたね。お気を付けてお帰りなさい」
「えっと……ありがとう」
促されて、彼に背を向けて外へと向かう。
見上げる空に、もう少し雨が続いてくれればと、八つ当たりじみたことを思った。
「こちらこそ。久方振りに楽しい時間を過ごせました」
優しい声に振り返る。
金色の瞳は、変わらず仄かに瞬いている。社に縛られているという彼は、その場から動けないのだろうか。
「――また、会いに来るから」
思わず口をついて出た言葉に、彼だけでなく自分も驚いた。
しかし、嫌ではない。彼と過ごした時間はとても穏やかで、離れがたいと思ったことも事実だった。
「それは――」
彼が何かを言う前に外へと駆け出す。
ふわふわとした、夢見心地がいつまでも続いていた。
不思議な出会いの後、言葉通り数日おきにあの社の元へ通っていた。
彼について、変わらず何も分からない。知らないでくれと願われて、敢えて知ろうともしなかった。
ただ、何も語らずその静寂を楽しみ、時折いくつかの言葉を交わす。それだけで満たされた気持ちになった。
彼について知りたい気持ちはある。しかし知ってしまうことで、二度と会えなくなるのは嫌だった。
彼といつまでも一緒にいたい。
いつしか自分は、彼に淡い想いを抱くようになっていた。
ある夜。不思議な夢を見た。
茜空の下、どこまでも広がる草原を歩いていた。
隣には彼がいる。視線を向けなくても、気配で感じられた。
風が流れ、雲が過ぎていく。影が伸びて、見えたものに息を呑んだ。
自分と彼と。二人分の人影。しかし彼の影は時折揺らぎ、別の姿を形作る。
長い尾。大きな翼。
不意に影が差し、空を見上げた。
茜空をいくつもの巨大な何かが飛び交っている。
鳥ではない。物語の中にだけ存在するはずのそれは――。
「言ってはいけません」
口にしかけた言葉は、背後から伸びた指に止められる。
「私の正体を口にすれば、私はあの社から解放される……ですがそれは、あなたとの別れを意味しています。どうかこれ以上、知ろうとなさらないでください」
彼の人差し指が触れたままの唇で、どうしてと声なく呟いた。
解放されるのならば、彼にとってそれは喜ぶべきことだろう。なのに何故、そんなにも悲しい声音で何も言うな、知るなと懇願するのか。
「あなたとの穏やかな時間を、このまま楽しんでいたいのです……故郷への思いを捨てた訳ではない。同胞を忘れた訳でもない……ですが、どうか」
震える声に、口を閉ざす。
彼と共にいたいのは、自分も同じだった。
唇に触れた指が静かに離れ、代わりにそっと抱き締められる。彼に触れられたのは初めてだ。
彼から伝わる体温と鼓動に、次第に頬が熱を持つ。早くなる鼓動を彼に知られるのが恥ずかしくて、今すぐに離れてしまいたい。けれどこのままずっとこうして彼の熱を感じていたい。
相反する感情に、くらりと甘い目眩がした。
伸びた人影は二人分。重なったひとつが、広い草原に伸びていく。
気づけば空を飛んでいた影は見えず、世界に二人だけが取り残されたような気持ちになる。
彼は何も言わない。自分も何も言う気はなかった。
口にしてはいけない、彼の秘密。誰にも知らせることのできない、彼との関係。
きっとこの気持ちは、彼にすら伝えられない。
日が暮れていく。紺に染まり出す空を見ながら、この時が永遠に続いてほしいという願いを、そっと心の奥底に隠した。
20250903 『secret love』
一冊のノートを前に、悩んでいた。
部屋の掃除をしている時に、偶然見つけたノート。どこにでも売られているようなそれ、いなくなった友人が最後に会った時に読んでいたものだ。
真剣な眼差しで、時に笑みを見せながら読んでいた友人を思い出す。何が書いてあるのか尋ねても、教えてはくれなかった。
ノートの表紙を指でなぞり、気持ちを落ち着かせるため深呼吸をする。
友人はいない。このノートを読んでいた次の日に、いなくなってしまった。
何故いなくなったのか、どこに行ったのか。誰も知らず、手がかりもない。
時間が経つにつれて、誰の記憶からも友人が消えていく。一ヶ月経つ今、覚えているのは自分だけだった。
「――よし」
覚悟を決めて、表紙に手をかけた。
このノートを読めば何か分かるかもしれない。期待と不安を胸に、ゆっくりと表紙をめくった。
――今日から新しい一年が始まる。あの子と行った神社でした願い事は、今年も二人一緒にいられますように、だ。
丁寧な字で書かれた文章は、誰かの日記のようだった。
誰の日記なのだろうか。少し後ろめたい気持ちになりながら、ページをめくった。
ノートにはささやかな思い出が、大切に愛おしむように書かれている。
日記の主は、あの子のことがとても好きなのだろう。文章から察せられるくらい、あの子との思い出が書き連ねられている。
雪遊び。花見。夏祭り。紅葉狩り。
一年を通して、いつも一緒にいた。そのひとつひとつの思い出を閉じ込めるようにして、日記は綴られていた。
これは友人の日記だ。読んでいる途中から、ふと気づく。
日記に書かれているいくつかの思い出の中に、記憶を掠めるものがあった。
例えば、暑い日に買ったアイスを、袋から開けてしまった時に落として泣いていたあの子。代わりに日記の主が持っていたアイスをあげようとするも断られ、最後には二人で一緒に食べたこと。
幼い頃、日記に書かれているように、友人と買ったアイスを落としてしまったことがあった。優しい友人はアイスをくれようとしたけれど、それは嫌だと受け取らなかった。
だから一口ずつ、半分こにしながら一緒に食べたのを覚えている。
思い出して、途端に胸が苦しくなった。
今ここにいない友人を思い出して寂しくなりながら、またページをめくった。
最初は日々の温かな思い出を書き綴っていた日記は、次第に様相を変えていく。
――あの子が他の誰かと遊びに行ってしまった。いつもの場所でずっと待っていたのに、あの子は結局来なかった。
――あの子が知らない誰かと笑っている。私のことには、少しも気づいてくれない。
成長し、距離ができたことを悲しく思う気持ちが書き連ねられている。
少しも気づかなかった。友人は何も言わなかったから。
約束をしていなかった時も、友人はずっと自分のことを待ってくれていたのか。
――私の世界にはあの子だけなのに、あの子の世界はどんどん広がっていく。私以外を受け入れてしまう。いつか私はあの子の世界から追い出されて、そのまま消えてしまうのかもしれない。
これが友人がいなくなった原因なのだろうか。
そんなつもりはなかった。友人を忘れることなんて一度もなかったはずなのに。
――その前に、ずっと一緒にいられる方法を見つけないと。
息を呑んだ。
そのページの最後に書かれた文字は、それまで書かれていた文字よりも力強く歪だ。
この先を読むのが怖い。ここでノートを閉じて、他の皆のように忘れてしまいたい。
込み上げた思いに、慌てて首を振る。
友人に寂しい思いをさせて、それに気づかないでいたのは自分だ。そして友人を覚えているのも、自分だけ。
このまま忘れてしまったら、自分が友人を消してしまうことになる。
そう自分に言い聞かせて、震える指でページをめくった。
頭が痛い。
文字を読み進める度、友人の歪さが自分の中に入り込んでくる錯覚に、目眩がする。
――永遠が見つからない。
――あの子を閉じ込めるだけでは、永遠にならない。
――離れないように互いを繋いでも、生きている限り終わりは必ずくる。
――永遠を見つけないと。
今すぐにノートを閉じてしまいたい。これ以上読み進めたくないのに、視線はノートの文字から逸らせない。
見たくない文字を読み進め、その内容を脳が受け入れていく。ページをめくる手は止まらず、友人の狂気はどんどんと歪に膨らんでいく。
――何を犠牲にしたら、あの子の世界は私だけになる?
――あの子と遊んだ誰か。話した誰か。家族もぜんぶいなくなれば、あの子の側にいるのは私だけ。
――あの子と私以外が全部なくなれば、世界は二人だけになる。
日記は終わらない。ページをいくらめくっても、終わりが見えてこない。
自分の意思とは無関係に、また指がページをめくる。
そこに書かれた文に、ひっと張り付いた悲鳴が上がった。
――ようやく見つけた。これで永遠が完成する。
――あとは、あの子がこれを最後まで読んでくれるだけ。
指が次のページをめくろうと動きだす。
これ以上は駄目だ。本当に戻れなくなってしまう。
必死に力を入れれば、指はページに触れたまま動きを止めた。それに少しだけ安堵して、ページから指を離そうとさらに力を込める。
「駄目だよ」
不意に後ろから声が聞こえた。
「ページをめくって。ちゃんと最後まで読み終えて」
優しい声音で友人が耳元で囁く。
それに従うように、指がページにかけられた。
「や……いや。お願い……許してっ……!」
どんなに力を入れても、止まらない。
ゆっくりとページがめくられていく。
最後のページ。
滲む視界の中でも、その短い文ははっきりと見えた。
――これで、ずっといっしょ。
その意味を理解した瞬間。文字が蠢きだした。
知らない文字を、模様を描き、淡い光を放ち出す。模様の中心が水面のように揺らめいて、何かを映し始めた。
「さあ、行こう」
友人に促され、揺らぐ模様の中心に手を触れさせた。
「――あぁ」
嫌だと拒む意識が、薄れていく。
友人以外のすべてが消える。今まで築き上げていた世界が、音もなく崩れ去ってしまう。
溢れ落ちる涙を、後ろから伸びた指が拭う。くすくすと笑う声が鼓膜を揺する。
そっと目を伏せた。ノートに触れる手が端から解け、文字となって沈んでいくのを、これ以上見ていたくはなかった。
どうすればよかったのだろう。僅かに残された意識で考える。
友人の変化に気づいていたら、何か変わっていたのか。それとも友人から遠く離れていれば、このノートを読もうと思わなければ。
「これでいつまでも一緒にいられる。めでたしめでたし、だね」
けれど何を思おうと、すべて手遅れ。
「そうだね。ずっと一緒にいよう……今までごめん」
呟いて、体の力を抜いた。
四肢が、胴が、解けていく。すべて文字になってノートに揺らぐ水面を漂い、深く沈んでいく。
どんな形であれ、友人と一緒にいられるなら、それはとても幸せなことじゃないか。
微笑んだ瞬間。自分の体はすべて文字になり、ノートの底へと沈んでいく。
そして、一人の狂気を綴ったノートは音もなく閉じ、そのまま解けるように消えていった。
20250902 『ページをめくる』
ベッドの中。サイドテーブルの時計を手に、頭までタオルケットをかぶり秒針を眺めていた。
こちこちと、秒針が時を刻んでいく。心の中でその数を数えながら、息を潜めて時を待った。
五十七、五十八、五十九。
――六十。
その瞬間に、遠くで聞こえていたたくさんの声が遠ざかる。薫っていた線香の匂いが薄くなり、消えていく。
そして何も聞こえなくなって、ようやくタオルケットの中から顔を出し、ひとつ息を吐いた。
手の中の時計は、午前零時を過ぎている。
ようやく、長かった八月が終わったのだ。
朝目が覚めて、カーテンを開け外を見た。
庭に祖母の姿はない。少しだけそれを寂しく思いながら、窓から離れ身支度を整えていく。
九月になって、見えていた死者はまた見えなくなった。死者のいるべき場所に戻ったのか、それとも見えなくなっただけなのかは分からない。
そもそも何故、夏の間だけ死者が見えているのか、それすらも分からなかった。
唯一分かるのは、その切っ掛けが彼だということ。
五年前に亡くなった、五歳年上の幼馴染み。梅雨明けの、暑い日に彼を見たのが最初だった。
緩く頭を振って、意識を切り替える。
今日から九月になったのだ。彼もまた見えなくなってしまったはずだ。
そう思うと、胸がつきりと痛んだ。五年経ち、変わり果てた姿を見ても、私の彼へ対する思いは消えてなくならない。
泣きたくなって、慌ててさっきよりも強く頭を振った。
忘れなければ。彼と違い、わたしは生きているのだから。
夏の間現れる彼に惑わされてはいけない。記憶の中の彼とはまったく異なる言動を取る死者の形をした何かは、おそらく彼ではないのだ。
強く、何度も自分自身に言い聞かせる。それでも胸の痛みはなくならない。
諦めて、息を吐く。
俯きがちに部屋を出た。
学校が終わったら、あの場所に行こう。
今年もまた、同じように過ごすことを決めた。
夕暮れ時。薄暗い街外れの道を一人歩いていく。
その先の、長く廃墟となっている家の前で足を止めた。
閉じた門扉越しに中を見る。
門から玄関までの途中で、彼は亡くなっていたらしい。
手を合わせて目を閉じる。こうして九月になり、彼の亡くなった場所の前で手を合わせるのも、今年で四回目だ。
彼の墓はない。葬式を済ませた後、彼の骨は海に撒かれたらしい。
だから墓参りの代わりに、彼の最期の場所で手を合わせる。彼が見えなくなった後、寂しくなって来てしまう。
また来年も、同じなのだろう。夏が連れてくる彼に会って、彼を拒んで。
それでいて彼が見えなくなったら、この場所で彼を偲ぶ。
不毛だな、と自嘲する。いつになれば、彼を諦められるのだろうか。
不意に、遠くで夕焼け小焼けの音楽が流れ出す。
五時を告げるチャイムだ。そろそろ帰らなければいけない。
名残惜しさに気づかない振りをして目を開ける。最後にもう一度門扉の向こうに視線を向けて、踵を返した。
「まだ帰るなよ。駄目だろ、チャイムが終わるまでここにいないと」
耳元で彼の声がした。それと同時に背後から伸びた手に腕を掴まれ、強く引かれた。
「――え。なん、で……どうして……?」
体制を崩し、門扉に倒れ込んだ体を抱き留められる。背後から回された青白い腕に、息を呑んだ。
かたかたと体が震える。引き剥がそうとしても、腰に回った腕の力は少しも緩まない。
踠く度にがちゃがちゃと、背中にあたる門が耳障りな音を立てる。
門の向こう側に、彼がいる。
「やっと来てくれた。俺が死んだ日、死んだ時間。そして死んだ場所に、お前が来た」
「そんなっ……違う、だって……今日は九月で……!」
そんなはずはない。彼が死んだ日は今日ではないと、首を振る。
彼が死んだのは五年前。八月三十一日の午後五時だ。
他でもない、彼がそう言っていた。
赤い女。背中の痛み。引き摺られた先の廃墟の姿。
遠くで聞こえるチャイムの音が、彼が聞いた最後の音だと、夏の間に現れる彼が、何度も語っていたはずなのに。
「本当に?」
後ろの彼が、くつくつと喉を鳴らして嗤う。
楽しげに、嬉しくて堪らないといったように、高揚した声が耳を擽る。
「鞄の中。スマホがあるだろ?……確認すればいい」
優しく促されて、震える指で鞄を開ける。中から、スマホを取りだして、その画面に映し出されたものに目を見張った。
――八月三十一日、午後五時。
力が抜ける。手にしていた鞄やスマホを地面に落としても、それを気にする余裕などなかった。
「なんで……そんな、嘘……」
確かに今日は九月のはずだった。
学校に行き、授業を受けた。その日見た日付は、いつだって九月一日を示していた。
それなのに。
「お袋がさ。ようやく折れてくれたんだ」
腰に絡みつく腕が静かに離れていく。
逃げるならば今だと思うのに、体に力が入らない。
腕を離されて、支えを失った体が崩れ落ちていく。そのまま動けずにいる後ろで、きぃと門が開く軋んだ音がした。
背後から伸ばされた指が、溢れる涙を拭う。そして伸ばされた腕に強く抱き締められた。
「夏の間、何度もお袋の夢枕にたったんだけど、中々頷いてくれなくて、時間がかかっちまった。でもお前に年を越される前に、間に合って本当によかった」
彼は何を言っているのだろう。
少しも理解できない内容。今が八月三十一日に戻っている理由。
頭がくらくらする。
「すぐに連れ出してもよかった。でもせっかくならお前から来てほしかったから、少し細工をしてみたんだ」
驚いただろ、と彼は笑う。悪意のある笑い方ではない。昔の、生きてた頃の彼のような無邪気さで、背後から耳元に唇を寄せた。
「正直、来るかどうかは賭けだったけど、やっぱりお前は来てくれた……お前だけが、俺を思って手を合わせてくれる」
抱き着く腕が強くなる。
「俺にはお前だけだ。だからお袋に何度も頼み込んで、絵馬を描いてもらった……お前と永遠に一緒にいられるように願いを込めた、特別な絵馬を」
「なに……意味、分かんない……やめて、お願い……」
首を振る。
一緒にいられるはずはない。それを、彼は一番よく知っているのに。
これ以上は聞きたくない。彼の言う特別な絵馬がなんなのか知ってしまったら、もう二度と戻れない。
そんな恐怖に、ただやめてほしいと何度も懇願した。
「やめない。やめたところで、もう後戻りもできない。だって、これからは、夏だけじゃない。いつまでも一緒にいるんだから」
彼に腕を引かれ、立ち上がる。けれど足が震えて、すぐに崩れ落ちそうになった。
「あぁ、驚きすぎて腰が抜けちゃったのか。可愛い」
支えられ、そのまま抱き上げられる。
視線が交わる。虚ろで白濁した、死者の目ではない。生きていた頃と変わらない柔らかな、それでいてその奥に昏い何かを宿した目。
まるで獲物を前にした獣のよう。
視線を逸らすことも、瞬くことも忘れて、その目をただ見つめていた。
「あなたは……」
掠れた声で呟いた。
首を傾げて、彼が顔を寄せる。近くなる目に呑み込まれそうな気がして、呼吸が上手くできない。
「あなたは、何……?」
視界が端から、じわじわと黒く染まっていく。
遠くなる意識で喘ぐように尋ねれば、彼はきょとんと目を瞬いた。
唇の端が上がる。強い目を歪めて彼は笑う。
「――執着」
静かに囁いて、歩き出す。
廃墟から、街から遠ざかり、赤く染まった暗がりを進んでいく。
遠くで聞こえる、歪んだ夕焼け小焼けのメロディー。何度も繰り返され、終わりのない午後五時を告げている。
「お前の、俺を思って流した涙。それを見ていた俺の、触れたいっていう欲。気づいてほしい気持ちが膨れて歪んで、それがお前への執着になった。あの廃墟はそういう場所なんだ……お前が欲しくて堪らなくなって、報われない苦しさから解放してほしくて……冥婚っていう卑怯な方法まで使って手に入れた……後悔なんてしてないし、俺は今、すごく幸せだけどさ……ごめんな」
彼は笑う。
その顔は笑っているはずなのに、泣いているように見えた。
20250831 『8月31日、午後5時』
河原で楽しそうに弟妹たちが遊んでいる。
弟妹が生まれて、三月が過ぎた。最初は目も開いていなかった小さな狸は、今では時々狸の耳と尾をつけた人らしき姿を取れるまで成長している。
母はまだ、部屋から出られない。元々人だった母が三匹の狸を産むのは体への負担が強いのだと、父が言っていた。
だからこうして弟妹の面倒を見るのは、姉であるわたしの役目だ。遊び相手から食事の世話まで、大変なことは多い。それでも、屋敷の皆と協力しながらやんちゃな三匹の相手をするのは、それ以上に楽しく幸せなことだった。
少し離れた場所に座り、遊ぶ弟妹を眺める。
弟妹の世話をするのに、ひとつも不満はない。けれどこうして離れて一人でいると、考えてしまうのは彼女のことだ。
学校でできた、初めての大切な友達。夏休みが始まる直前に学校を休んでから、ずっと会えていない。
彼女は今何をしているのだろう。作った秘密を守り通せば彼女の秘密も教えてくれるという約束を、まだ覚えてくれているだろうか。
それともわたしのことなど、すっかり忘れてしまっているのだろうか。
込み上げる不安に、耳と尾が下がる。父は当分学校に行くなというけれど、それは夏休みが明けても続くのだろうか。
あと三日で夏休みが終わる。屋敷の誰かが取ってきてくれた夏休みの宿題は、すでに終わってしまっている。ただ、それを持って学校に行けるのか、それは分からない。
「ねぇねっ!」
末の弟に呼ばれて、はっとして顔を上げた。
弟妹のいる方へ視線を向けると、三匹の狸に混じって何かがいる。
白い狐。四本の尾を持つ、美しい神使。
思わず息を呑んだ。
「え?なんで……」
四本の尾で弟妹をあやしながら、神使がこちらに視線を向ける。すべて見透かすような金の眼に見つめられ、体が硬直する。
きゃっきゃと、はしゃぐ弟妹の声が遠い。罰当たりだ、止めさせなければと思うのに、体は少しも言うことを聞いてくれない。
こちらを見据えたまま、神使が一歩距離を詰める。長い尾が揺れ、弟妹が楽しそうに笑う。
もう一歩。神使が近づいて――。
後ろから伸びた腕に、眼を塞がれ抱きかかえられた。
「それ以上、オレの娘に近づくな」
険を帯びた父の声。安心すると同時に、疑問が込み上げる。
父が神使を警戒する理由が分からない。
「ととさま?」
「少し黙ってろ、常盤《ときわ》」
ぴしゃりと、固い声で言われ、毛並みが逆立つ。
「若苗《わかなえ》、若葉《わかば》、若芽《わかめ》。戻ってこい」
父の言葉に、弟妹から不満の声が上がる。それでも父の様子に、おとなしく三匹が近づいてくる音がした。
「ここはオレの縄張りだ。神使といえどこれ以上理由なく、この地に留まることは許さない」
父が声を上げる。ぴりついた空気に呑まれ、落ち着かない。
弟妹の泣く声が聞こえた。父の纏う空気が怖いのだろう。けどいつもならば一番に気づいてくれるはずの父は、一向に弟妹の泣き声に気づこうとしない。
今日の父は、やはりどこかおかしい。
「――刑部《ぎょうぶ》」
涼やかな声がした。
聞き馴染んだ、静かな声音。
どうして、と思うより早く、人の姿になって父の腕から抜け出した。
「常盤っ!」
「どうして?……え、どういうこと?」
父の伸ばす手をすり抜けて、神使がいた場所に佇む彼女の元へ駆け寄りそのまま抱きついた。
「え?神使は?なんでいるの?わたしのこと覚えてくれてたの?」
「取りあえず落ち着こうか。ちゃんと答えてあげるから、まずは刑部を何とかしないと、君の弟妹が可哀想だ」
背を撫でられながらそう言われ、慌てて振り返る。
怖い顔をしている父。その父の足下で、怯えて縮こまる小さな狸が三匹。
どうしようかと悩んでいれば、彼女がそっと耳打ちした。
その内容に目を瞬く。大丈夫なのかと彼女を見るも、それ以上は何も言わずに頷くだけ。
不安はあるものの父に向き直り、彼女に教えられた言葉を告げた。
「弟妹をいじめるととさまなんて大嫌い!わたし、もう二度とととさまと口をきかないからっ!」
父の表情が変わる。驚きと焦りで目が見開かれ、くしゃりと歪んで、泣きそうな顔になった。
「わたし、将来は狸以外と結婚して、家を出ていく。そして――」
「と、常盤……それ以上は止めてくれ。父様が悪かったから、な?父様、もう怒ったりしないし、神使のことも許すから。だから大嫌いとか、口をきかないとか、家を出て行くとか、酷いことを言わないでくれ……!」
父の懇願に、目を瞬く。
本当に効果があるとは思っていなかった。
彼女を見ると、困ったような笑っているような表情で、肩を竦められる。背を押されて、父の元へ近寄った。
「ねぇねっ!」
「こわかったよぅ!」
「ととさま、こわい。ねぇね、ととさま、やだ」
「うん。怖かったね。大丈夫だからね」
途端に駆け寄る弟妹を宥めながら、父を睨み上げる。うっと言葉に詰まった父は、泣きじゃくる弟妹を見つめて、すまんと小さく呟いた。
「刑部。すぐにかっとなるのは、悪いことだ。しばらくは子供たちから避けられても、仕方がないよ」
「っ、元はと言えば、オマエのせいだろうが……!」
忌々しいと言わんばかりに、父は彼女を睨み付ける。
今日の父は、本当に変だ。
「ととさまは、神使に怒ってたんじゃないの?というか、彼女と知り合いなの?」
疑問を口にすれば、眉を寄せた父が驚いた顔をする。彼女を一瞥し、わたしを見て、益々眉を寄せた。
「気づいていないのか。コレはあの神使だぞ」
「――え?」
驚き彼女がいた方を見れば、そこには彼女ではなく神使の姿。
呆然と見つめているわたしの目の前で、神使の姿が揺らいで一瞬で彼女の姿になる。
「これが、とっておきの秘密。弟妹ができたって秘密を守ってみせたから、特別に教えてあげる」
くすり、と彼女が微笑む。
秘密。彼女の言葉に、一呼吸遅れて鼓動が高鳴った。
秘密を守れたこと。秘密を教えてもらったこと。嬉しくて、気恥ずかしい。
落ち着かなくて狸の姿に戻ると、意味もなくその場をぐるぐると回り出した。
「要件はそれだけか。なら、さっさと帰れ」
「相変わらずだね。刑部」
機嫌の悪い父が、追い払うように彼女を手で払う仕草をする。それに何かを言う前に、彼女は苦笑して何かを取り出すと、父に向かって放り投げた。
「贄の子、産後の肥立ちが悪いんだろう?それを飲んで栄養のあるものを食べれば、一月しない内に回復するよ」
「贄じゃねぇ。オレの妻だ…………だが、感謝する」
盛大に顔を顰める父の姿は、初めて見る。
お互い知り合いのような雰囲気があるから、昔何かあったのかもしれない。
少しだけ不安になるけれど、最初の張り詰めた空気は感じない。
ならば大丈夫かと、もう一度くるりとその場で回る。ようやく落ち着きだして座れば、不意に体が宙に浮いた。
「それじゃ、行こうか」
振り返れば、わたしを抱き上げて彼女が告げる。どこに、とは思うけれど、彼女と一緒にいられるならそれでもいいやと、身を預けた。
「おい待て。オレの娘を連れ去ろうとするんじゃねぇ」
低く唸り声を上げる父に、大丈夫だと尾を揺らして答える。
彼女はわたしの大切な友達だ。昔、父と何があったのかは分からないけれど、攫われる訳ではない。
「心配性だね。別に取って食べる訳じゃないんだから……君じゃあるまいに」
「うるせぇよ……常盤、戻ってこい。神使だとしても、狐なんて所詮は性悪な奴らばかりだ。傷つく前に、ソイツとは縁を切れ」
離れろと手を伸ばす父をするりと交わし、彼女は呆れたように息を吐く。
「そろそろ子離れしたらどうかな。いつまでも娘にべったりは、嫌われる原因になりやすいよ」
「余計なお世話だ。それに、常盤はまだ二つになったばかりだぞ。半分は人間の血が入っているんだから、まだまだ独り立ちできる年じゃないだろうが」
「――え?」
父の言葉に、彼女の目を瞬かせてこちらを見る。
それに尾を振って本当だと伝えれば、何かを考えるように悩んで、再び歩き出した。
「それなら、余計に外に出ないと。夏はもう終わるけど、忘れていったものも多い。それを探しに行こう……刑部。学校が始まるまでこの子を預かるから、君は子育てに専念するといい。このままずっと避けられるのは、君だって嫌だろう?」
追いかけようとする父が、彼女の言葉に止まる。確かに弟妹たちは、父を怖がっていた。このままだと、ずっと離ればなれになってしまうかもしれない。
現に今、近づこうとする父に、弟妹は皆怯えて毛が逆立っている。それに傷ついて慌てて機嫌を取り始めた父を見ながら、彼女に問いかける。
「夏の忘れ物って何?」
「それを探しに行くんだよ。蝉。向日葵。太陽……たくさんある。この三日間。楽しめなかった夏を目一杯楽しもう」
ね、と彼女に言われ、尾を振り大きく頷いた。
夏の忘れ物を探しに、彼女と一緒に三日間を楽しむ。
心躍る響きに、胸が高鳴る。
待ちきれなくて、急かすように彼女の腕に顔を擦り寄せた。
20250901 『夏の忘れ物を探しに』