sairo

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9/1/2025, 9:27:39 AM

――ずっと一緒。

朱く染まる空の下。伸びた影が指を切る。

――指切りげんまん。嘘ついたら……。

繋いだ小指が、楽しげに揺れて離れていく。
また明日。手を離してひとつがふたりになり。手を振って、影は互いの家路に就いていく。

ざわり。二人の消えた場所を、風が通り抜けていく。
忘れられた木の実がひとつ、風を追いかけ転がった。

幼い頃のささやかな思い出。
笑いながら交わした約束。

あの子の顔が思い出せない。





夏の終わり。
誰もいなくなった生まれ故郷に戻ってきた。
先日。最後の住人がここを出た。人の絶えた故郷は、遠くない先に山に呑み込まれてしまうのだろう。
故郷へ戻ってきた理由は特にはない。強いて言うならば、懐かしい夢を見たからだ。

夕暮れ時。ずっと一緒と指切りを交わした。
相手の顔は影になって、はっきりと見ることができない。指切りげんまんと歌う声も、目覚めた後には残っていなかった。
生い茂る雑草を掻き分け、幼い頃に遊んだ広場へと向かう。
あの子は誰なのだろう。遊ぶ時はいつも二人一緒だった。
一番中の良かった友達。それなのに、思い出せるのは僅かな欠片だけ。
シロツメクサで編んだ花冠。沢で捕れたザリガニ。虫取り網を持って追いかけ回したチョウやトンボ。手や頬を赤くしながら作った雪だるま。
いつも隣にあの子がいた。二人で日が暮れるまで遊び尽くした。
それなのに、思い出せない。思い出せるのは、手を繋いでひとつになった影ばかり。
ここにあの子はいない。それは分かっている。
ただ思い出の場所を回れば、もう少し思い出せるものがあるのではないかと。
そんな淡い期待を胸に、記憶を頼りに思い出の場所を巡った。


広間。沢。雑木林や神社の裏手。
人の手が加えられなくなったことで荒れた場所は、面影ひとつ残ってはいない。
落胆に、思わず溜息が出る。
緩く首を振って、踵を返した。
もうすぐ日が暮れる。寄るが来る前には、戻らなければ。
かなかなと、蜩が鳴いている。影が伸びて、影が濃くなっていく。
空を仰げば、夢で見たような朱く染まった空が広がっていた。

「ずっと一緒」

不意に声がした。幼さの残る子供の声。
立ち止まり辺りを見渡すが、周りに誰かの姿はない。

「約束だよ」

声が笑う。
くすくすと、楽しげな声音が耳元で囁く。

「でも、忘れてもいいよ……君が忘れても、僕は覚えているから。いつまでも、いつまでも……」

動けない指が何かに触れた。冷たい何かが手を繋ぎ、軽く揺すられる。
小さな手。視界の隅で、幼い子供の影が自分の影と重なっているのが見えた。

「――あぁ」

繋いだ手から、只管に懐かしさが込み上げる。欠けていた記憶に真っ黒な影のピースが嵌り、無理矢理完成されていく。

「約束通り、これで一緒だよ」

傾く陽が、影を伸ばす。
幼い頃のように、ふたりの影が手を繋いでひとつになっているのが見えた。

「――ずっと、一緒」

今までも、これからも。
微かに残った思考が、あの子はここにいたのだと告げる。約束通り、ずっと一緒。
離れることは、永遠にない。

「そろそろ帰ろうか。暗くなってしまうと大変だ」

影が繋いだ手を揺する。
それだけで固まっていた体が、ゆっくりと動き出した。
家に帰るのは、自分一人。

けれど。


伸びた影は、ふたりぶん。





「指切りげんまん……」

幼い子供の声が聞こえ、女は視線を向けた。
夕暮れの公園。楽しそうに笑う少女はひとりきり。
だが少女の伸びた影は不自然に歪んで、そこに手を繋ぐもう一人を作り出していた。
急いで視線を逸らす。気づいたことに、気づかれてはいけない。

夏も終わりに近づく頃。女の周囲では、不思議な噂が広がっていた。

――夕暮れに、一人でいる誰かの影が二人分になっていることがある。手を繋いだひとつの影に気づいたことを気づかれれば、自分の影も増えてしまう。

ただの噂だと思っていた。女の周りも、誰一人信じている様子はなかった。
その認識が変わったのは、女の友人の影を見てしまったからだ。

別の友人と話しながら、何気なく視線を向けた先。遠くに見えた友人の影が、不自然に増えていた。
一人でいるのに、影は二人分。手を繋いで、一つになった影が夕暮れに揺らいでいた。


「ずっと一緒だよ」

少女の声が聞こえる。一人きりの少女が、見えない誰かと指切りを交わしているのだろう。

――ずっと一緒。

増えた影を見てしまってから、よく聞くようになった言葉。
幼い少女が、年老いた男が、見えない何かときまって同じ約束を交わしている。
以前は気にも留めなかった他人の会話が、増えた影に気づいた日から気になり始めた。
一緒、と声がする度に体が強張る。周囲の影が、声が女を追い詰めていた。

早くこの場を離れよう。
そう思い、女は少女に背を向け一歩足を踏み出した。

「約束だよ」

不意に誰かの声がした。
すぐ近く。耳元で囁かれた声に、女は硬直する。

「ずっと一緒……君が忘れても、僕はいつまでも覚えていてあげる」

右手に何かが触れる感覚に、女の肩が微かに震えた。
実際には何も触れてはいない。しかしその瞬間から、女の思考がじわりと黒く染まり出していく。
夕陽に伸びた影が揺らぐ。誰かと手を繋いだひとつの影を認めて、女の目から一筋、涙が溢れ落ちた。
だがそれきり。

「――ずっと、一緒だね」

女の唇が歪に弧を描く。
一人、右手を軽く振って、歩いていく。

女はひとりきり。
けれど夕陽に伸びたその影は。


誰かと手を繋いで、ふたりぶん。



20250830 『ふたり』

8/31/2025, 9:49:26 AM

歪む鏡面の向こう側で、静かに夜が広がっていく。
青白い上弦の月。星々の仄かな煌めき。
風が草木を揺すり、駆け抜ける。音はない。静謐が暗い夜を支配し、その神秘さを彩っていた。
小さな木の下で、何かが揺らいだ。ゆっくりと立ち上がり歩き出すその人影は、長い髪を下ろした小柄な女性のもののようであった。
淡い月明かりを頼りに、その人影は丘の上まで進んでいく。その髪を、足下の草を風が気まぐれに揺らしていく。
不意に、遠くから小さな影が駆けてくるのが見えた。丘の上で足を止めた人影の元へと、一心不乱に向かっていく。
その影に気づいて、女性の人影が駆け寄る影へと視線を向けた。風に遊ばれる長い髪を片手で抑え、その訪れを待つ。
そして駆け寄る小さな影は、女性の人影へとその勢いのままで抱きついた。二度と離れたくないとでもいうかのように、強くしがみつく。
その影を、女性の人影はそっと抱きしめ返す。優しく、慈しむように。

星が煌めき、流れていく。
星の降る丘で、二人はいつまでも抱き締めあっていた。



小さく溜息を吐き、鏡から視線を逸らした。
また誰かが、覚めない眠りについたのだろう。その誰かが最期に見る夢、心の中の風景をこうして鏡を通して見てしまうのはいつものことだ。
悪い夢ではなかっただけ良かったのだろう。だがそれでも、他人の心の内を覗き見ていることに落ち着かず、無意識に眉が寄る。
俯きながら少しだけ雑に手を洗い、水を止める。顔を上げた時には、鏡の中に夜の風景が広がっていなかった。
鏡に映ったさえない顔をした自分を見て、溜息が出る。タオルで手を拭きながら、足早に洗面台を離れた。



「眉間に皺が寄ってるな。また誰かの心の覗いたのか」

部屋に戻ればベッドを占領する従兄弟に、にやりと笑みを浮かべながら視線を向けられた。

「――好きで覗いているわけじゃない」

溜息を吐きながらそう愚痴を溢せば、従兄弟は声を上げて笑った。
揶揄い混じりの表情をしながら身を起こし、傍らのペットボトルを投げて寄越す。それを受け取りながら、ベッドを背もたれに座り込んだ。
蓋を開けて、ペッドボトルに口をつける。冷たい水が喉を通り過ぎ、もう一度深く溜息を吐いて項垂れた。

「今度はどんな風景だったんだ?」

問われて、一瞬だけ答えに詰まる。誤魔化すようにペットボトルに口を付け、ぼそりと呟いた。

「夜の……どっかの丘の上で、母子っぽい影だ抱き合ってる場面……駆け寄ってきた子供は、まだ小さかった」
「子供……ってことは、この前運ばれてきた坊主か。母親と違って、一時は持ち直したんだが」

どこか遠くを見つめ、従兄弟は独りごちる。その表情に笑みはない。
無言で見つめていると、視線に気づいた従兄弟がこちらを向いて苦く笑う。腕を伸ばし、乱雑に髪を掻き回した。

「また見えたら教えてくれ。できれば、その夜の風景を朝に変える方法も見つけてくれればいいんだが」

茶化すような口調だが、それが従兄弟の本心なのだろう。

街では今、奇妙な病気が蔓延している。
一言で言えば、眠り続ける病。
ある日を境に眠っている時間が長くなり、最後には何をしても目覚めない。
原因は不明。眠っている以外、体に変化はない。
そんな患者を、従兄弟はずっと診てきた。

「――帰るわ」

小さく呟いて、従兄弟はベッドから降りた。軽く手を振り、外へと向かう。

「久しぶりの休日じゃなかったの?」
「仕方がない。ただでさえ今は人手が足りないんだ」

肩を竦めながらも、従兄弟は部屋を出て行く。
一人残されて、遣る瀬なさに何度目かの溜息を吐いた。





鏡面が歪み、夜が広がっていく。
白い三日月。煌めく無数の星々。
河原で一人立ち尽くす人影は、じっと暗い川の底を見つめている。
またか、と思いながらも、視線は逸らさない。人影や河原、川の中に手がかりを求めて、視線を巡らせていく。
従兄弟のためではないと、誰にでもなく言い訳をする。これ以上、眠り続ける人が増えるのは良くないことだ。それに、何故自分が鏡を通して心の風景を覗き見ることができるのか知りたいというのもある。
しかしどんなに目を凝らしても、分かるものは何もない。
少し迷って、そっと手を鏡面に触れさせた。

「――え?」

指先が、鏡面を越えて沈み込んでいく。水の中に手を入れるような、生ぬるい感覚。抵抗なく手が鏡面に呑み込まれ、その異様な光景に不安が込み上げ手を引いた。

――はずだった。

一瞬の暗転。
何も見えず、目を瞬きながら辺りを見渡した。
腕を伸ばしても、何も触れない。恐る恐る踏み出した足は、洗面台にぶつかることはなかった。
代わりに足の裏に感じたのは、いくつもの固い石の感覚。
虫の声がした。さらさらと水の流れる音がする。
風が冷えた空気を運ぶ。風に乗って、夜の匂いがした。
空を仰ぐ。強く目を閉じ、ゆっくり三数えてから目を開けた。
遠くに霞む三日月。瞬き、時折流れていく星々。
視線を下ろして、前を見た。鏡面を通して見た人影は、変わらず水面を見つめている。
一度深く呼吸をして、足を踏み出した。
ゆっくりと人影に近づいていく。足の裏で、大小様々な石が、からんと音を立てた。

「何を、見ているんですか?」

立ち尽くす影に声をかける。
反応はない。
無駄なことかと、少しだけ落胆しながら、もう一度声をかけてみるかと口を開いた時だった。

「――妻とね、よくこの川に来ていたんだ」

低い男の声が、静かに答えた。

「妻?」
「あぁ。可愛らしくて、しっかりした女性でね。妻としても、母としても立派な……私には勿体ないくらいの、できた人だった」

川を見つめたまま、影は語る。
愛しさの滲む、そんな声音だった。

「盆を過ぎれば、還ってしまうのは分かっていたんだ。そのために精霊馬も用意して、送り火も焚いた……だけどね、やはり寂しくなってしまって。牛の足なら、追いかければ間に合うんじゃないかと……そう思ってしまったんだよ」

乾いた笑い声が響く。
俯く人影から、ぽたりと滴が溢れ落ちたように見えた。

「結局追いつけなくて……それで未練がましく、彼女との思い出に浸りながら、こうして川を見ていたんだ」

そう言って、影は顔を上げた。
かけるべき言葉が見つからない。
影は心から妻を愛していたのだろう。一人残されて、寂しかった。
僅かな逢瀬の時間では物足りず、思わず追いかけてしまうほどに。
胸が痛い。何を言っても気休めにもならないことが、苦しくて堪らない。
痛む胸を押さえながら無言で見つめていれば、影はゆっくりとこちらを振り向いた。

「声をかけてくれてありがとう。おかげで戻ろうという気持ちになれた」

穏やかな声音で影は礼を述べる。立ち尽くす自分の横を通り過ぎ、歩いていく。
帰るのだろうか。目覚めるのかもしれない。

「――あぁ、そうだ」

去って行く背を見送っていれば、不意に影は立ち止まる。
振り返る様子はない。それでもどこか固さの滲んだ声で、一つの忠告を残した。

「声をかけてもらった私が言うことではないのだろうが、君の負担になるなら目を逸らすことも大事だよ。私達のような悲しみを、無関係な君が引き受ける必要はないのだから」

影の言葉の意味が分からず、首を傾げる。
問いかけようとした瞬間。また視界が暗転した。
何も見えない。聞こえない。
風や足下の石の感覚もしなくなり、自分が今立っているのか横になっているのかさえも分からない。
目を閉じる。伸ばした手には、何も触れない。

けれど。
遠くで、誰かが呼んでいる。そんな気がした。





閉じた瞼の向こう側に光を感じて目を開ける。
視界に入るのは、白い天井とカーテン。

「――あれ?」

目を瞬いて、視線を巡らせる。
視線を下ろせば、ベッドに横たわっている自分の体。
その腕に刺さるチューブを見て、混乱する。
腕を伸ばして、ベッドのリモコンを手に取った。リクライニングボタンを押して、状態を起こす。
自分は何故、病院にいるのだろうか。

不意に扉が開けられる音がした。
視線を向ければ、仏頂面をした従兄弟と目が合った。

「起きたか」

つかつかとこちらに歩み寄る従兄弟の目はとても険しい。
淡々とバイタルの確認をし終えると、僅かにではるものの張り詰めた空気が緩んだ。

「お前が洗面所で倒れたとここに運ばれて、かれこれ一週間が経つが……倒れる前に何を見た?」

鋭い目に見据えられ、その迫力に思わずたじろぐ。
倒れて一週間。聞きたいことはあるが、従兄弟の雰囲気が質問に答える以外を許しそうにない。
意味もなく視線を彷徨わせ、覚えている限りを口にした。

「えっと……いつものように、鏡に夜の河原の風景が映って……それで、鏡に触れようとして、そしたら何故か、その夜の河原にいた……?」
「そこで何をした?」
「え?別に……ただちょっと、川を見ている影に……声を、かけただけで……」

しどろもどろになりながら従兄弟に伝えると、従兄弟は重苦しい溜息を吐いた。
乱雑に髪を掻き回され、最後に頭を軽く叩かれる。

「まったく……無茶をするな」

安堵の滲む声音に従兄弟を見れば、その表情には穏やかさが戻っていた。
張り詰めた雰囲気もなくなり、小さく息を吐く。今ならば、何があったのか聞けそうだと口を開きかけるが、従兄弟の手がそれを制した。

「一週間前。お前は洗面台の前で昏睡状態に陥っていた。お前のお袋さんが発見してここに運ばれたが、今まで一度も目覚めることはなかった。眠っている間、バイタルに変化はなかったが……お前はずっと泣いていたな」

従兄弟に目元を拭われ、その指についた滴に目を瞬いた。泣いている。実感がないが、目元に触れれば指先がほんの僅かに濡れる感覚があった。

「あまり深入りをするんじゃない。お前はただでさえ、他人の思いに引き摺られやすいんだ。下手をすれば、二度と戻れなくなるぞ」
「――分かってる」

呆れたように、だが真剣な眼差しで告げられ、気まずさに視線を逸らす。
無茶をした自覚はない。影が何を見ているのかを聞いて、そのまま思い出話を聞いていただけ。
そういえば、と影の言葉を思い出す。
戻ると言っていた。それならば、今頃目覚めているのだろうか。

「ねえ」

逸らしていた視線を戻せば、従兄弟は感情の読めない目をしてこちらを見返した。

「目覚めた人はいる?影は戻るつもりだったみたいだけど」

問いかけても、従兄弟は表情を変えない。

「――さあな」

無感情に呟いて、病室を出て行く。
思わず引き留めようと伸ばしかけた腕を引く。何も言わずにその背を見送れば、扉の前で従兄弟は一度だけこちらを振り返る。

「深入りはするな。他人の心に踏み込むものじゃない」

忠告だけを残し、従兄弟は扉の向こうへ消えていく。
これ以上踏み込ませない、そんな冷たい声だった。



20250829 『心の中の風景は』

8/30/2025, 9:52:42 AM

目の前の夏草が一面に広がる光景に、訝しげに眉を寄せる。

「――本当に、ここ?」

聞いていた話とは違う。
そう思い隣を見るが、ここまで案内をしてくれた彼は涼しい顔をして、ここだと肯定する。
さらに眉を寄せながら膝をつき、足下の草を掻き分けた。

「――ぁ」

草を掻き分ける指先が、硬いものに触れる。
摘まみ上げれば、それは砕けた陶器の欠片だった。おそらくは茶碗だったのだろうそれは、ここにかつて人の営みがあったことを示していた。
小さく息を吐き、立ち上がる。リュックを背負い直し、彼を見た。

「ひいばあちゃんのお友達の場所は分かる?それか、ここの墓地の場所」
「こちらだ」

こちらを一瞥して、彼は迷うことなく足を進める。

「ちょっと!待って」

生い茂る夏草を気にも留めず普段通りに進む彼の後を、草を掻き分けながら進んでいく。少しはゆっくり歩いてほしいと声をかけるも、彼は一度も立ち止まることはなかった。



曾祖母の葬儀のあと。
深刻な顔をした父に呼び止められ、仏間で小さな箱を差し出された。

「最期の願いを叶えてほしい」

箱の中身は、曾祖母の骨だという。
故郷に帰りたいと常に話していた曾祖母のために、分骨をしたらしかった。

「了承しろ。案内は俺がする」
「でも……」
「頼むよ。お前が一番、お祖母ちゃんに懐いていただろう?」


隣の彼に言われ、それでも決心がつかないでいれば、さらに父に拝み倒される。普段は声もかけないというのに、現金なことだ。

「お前以外、受け入れる者はないだろう。ここで了承しなければ、彼女の望みは永遠に閉ざされたままだ」

彼にそこまで言われては仕方ない。それに、曾祖母のためになるならば、嫌ではなかった。

「――わかった」

溜息を吐いて、箱を受け取る。
あからさまに安堵の表情を浮かべる父に思う所はあるものの、何も言わずに箱を手に仏間を出た。

「神様の怒りに触れた場所、だっけ?数年後に訪れても、草ひとつ生えてなかったって」

曾祖母の話を思い出しながら、彼に尋ねる。返事は期待していないから、ほぼ独り言のようなものだ。

神の怒りに触れた村。
それが曾祖母の故郷だという。
ある夜、大きな音と共に閃光が村を明るく染め上げた。
赤い空。逃げ惑う人々。空を飛び交う黒い鳥。
幼い曾祖母の記憶に強く刻まれた光景を、彼女は何度も語って聞かせてくれた。
その時の別れ。その悲しみを、後悔を、そしてささやかともいえる願いを聞いて、自分は育った。

彼はいつも、この話の時に何かを言うことはない。ただ曾祖母を見つめ、語り終え悲しく目を伏せる彼女の隣に寄り添うだけ。

「行ってみれば、すべて分かるだろう。お前は幼かった彼女と違うのだから」

珍しく彼から言葉が返ったことに目を瞬く。どういうことかと問いを重ねようとして、止める。
その場に行けば、すべて分かる。そういうことなのだろう。



立ち止まる彼に遅れて追いつき、同じように立ち止まる。

「――ここに埋めればいいの?」

他よりも夏草は生い茂ってはいない場所は、どこかの家の跡地のように見えた。
曾祖母が話していた友人の家だろうか。

「ここに埋まるものを掘り起こせ。瓦礫を避ければすぐに見つかる」

埋める場所への問いかけに彼は首を振り、逆に掘り起こせと言う。
多くは語らない彼に、小さく溜息を吐く。優しかった曾祖母のためだと自分に言い聞かせながら、草を掻き分け黒ずみ朽ちた木々を避けるため手に取った。

「燃やされてる?」

炭化した木片に眉が寄る。
二度と会えなくなった友人を偲び、悲しく笑う曾祖母を思い出した。

「これって……神様の怒りというよりはさ……」

曾祖母の生きた時代を思いながら、言葉を濁す。
元は家の柱だろう残骸を避け、その下から柱とは違う炭化した木片を認めて、胸が苦しくなる。
小さな、片方だけの下駄だったもの。彼が掘り起こせと言ったものはこれだろう。

「あの夜――」

不意に彼が口を開いた。視線を向ければ、晴れ渡る青空を仰いで彼は目を細めていた。

「幼い彼女はあの夜、空に神を見た。黒々とした翼を広げた、異国の神を」
「異国の……神……」

彼と同じように空を見上げる。
赤く染まった空を覆い尽くす、無数の黒く冷たい翼を持った飛行機《神》。
曾祖母を含めた僅かな人々は逃げ延びたが、曾祖母の友人のような多数は、村と共に終を迎えた。
首を振る。下駄を手に立ち上がると、彼はこちらを一瞥し、先ほどよりもゆっくりと歩き出した。

草を掻き分け、彼の後に続く。
焼けて数年も草木が生えなかったという大地。それでも永い時間と共にどこからか運ばれた、あるいは眠っていた種が芽吹き成長する。
かつての悲しみを覆い尽くすように、夏草が生い茂る。

「神とは、無力なモノだ」

呟く言葉は、淡々としているのにどこか悲しげだ。

「彼女は、村の終わりに神を見た。村で祀る神は、最期まで見ることはなかったというのに」

風が吹き抜け、夏草を揺らす。
彼の銀に煌めく毛並みを撫で、かつて神社があっただろう方向へと消えていく。

「命の巡りを見ているだけのモノ。見えぬのも、求めぬのも当然か」

彼は足を止めない。
彼の言葉に対して、何かを言うつもりもなかった。
何を言った所で、彼が望むものではないのだろうから。

夏草茂る村の跡地を進み、やがて開けた場所に出た。
焼けた木の前で、彼が足を止める。その横に並び、膝をついた。
どうすればいいか、敢えて聞く必要はない。枯れた木の根元に新たに生える緑を見ながら、その側の土を掘り返す。
固いと思われた土は思っていたよりも柔らかく、これならば手だけで掘り進められそうだ。
ある程度土を掘り、先ほどの下駄をその中に入れる。背負っていたリュックを下ろし箱を取り出すと、一緒に中に入れ土をかけた。

「おやすみなさい、ひいばあちゃん……お友達と、もう一度会えるといいね」

思わず溢れた声に、彼は何も返さない。
ただ隣に寄り添い、目を細めた。

不意に風が吹き抜ける。夏草を揺すり、音を立てる。
その音に混じり、どこかで笑い声が聞こえた。
顔を上げて振り返る。村へと駆けていく小さな二つの影を認め、息を呑んだ。
視界が滲む。消えていく影を追うように、頬を涙が伝い落ちていく。

「良かった……」

本物か、それとも彼が見せた幻かは分からない。それでも、今だけは本物だと信じていたかった。
彼が鼻先を寄せ、止められない涙を舐める。静かな優しさに、息が苦しくなる。
彼の首に腕を回し、声を上げて泣いた。

「存分に泣くといい。ここには何もない。お前を愛してくれた彼女はいないが、忌避する者もいない。落ち着くまでは……お前が望む限りは側にいよう」

声を出せない代わりに、何度も頷いた。
彼がいる。かつてこの村を愛し、村の終わりを悲しんだ、一柱の真神が側にいてくれる。
一人きりの自分には、それだけが何よりの救いだった。


「消えゆくモノすらその目に映し出す、希有な娘。唯一の理解者である彼女を失い、それでも前に進み続ける、その強い意思を尊重する」

優しい声音。強くしがみつけば、彼からは温かな陽の匂いがした。
深く吸い込んで、目を閉じる。

「――おやすみ、優しい子」

夏草が揺れる。ざわざわと音を立て、不毛の大地をただの草原へと変えていく。
いっそこの胸の痛みも隠してくれればいいのにと、微睡む意識でそんな取り留めのないことを思った。



20250828 『夏草』

8/29/2025, 4:13:10 AM

ポケットの中に入っていたそれに、少年は不思議そうに目を瞬いた。
少年の手の中に収まるそれは、緑色をした小さな石だった。濃い緑の中に、赤茶色の斑点模様が散っている。
ざらりとした表面を撫でながら、少年は首を傾げる。こんな特徴的な石を、少年は自分のポケットの中に入れた覚えがなかった。
石を撫でながら、少年は考える。果たしてこれは、持って帰ってもいいだろうか。覚えはないが、自分のポケットの中に入っていた石だ。ならば、これは自分の持ち物になるのだろう。
そんな幼い思考は、だがすぐに別の思考へと移り変わっていく。
先日喧嘩をした友人のこと。それきり一緒に遊ぶことはおろか、挨拶を交わすこともなかった。
このままではいけない。謝らなければと思いながらも、友人を見る度に決意は揺らぐ。時間が過ぎていくにつれ、気まずさだけが大きくなり、謝る勇気も声をかける勇気さえも出てこなくなった。
手の中の石を、握り締める。手の熱が移ったのか、石はほんのり温もりを宿している。
とくり、と石が脈動した気がした。驚いて手を開くも、石に変わった様子はない。
もう一度石を握り、目を閉じる。深呼吸を繰り返すと、友人に会いたい気持ちが強くなっていく。
謝ろう。自分が悪かったのだから。
意地も気まずさも消えて、残るのは後悔だけだ。
このまま離ればなれになるのは、きっと何よりも怖ろしい。
目を開ける。決意を宿した目をして、少年は力強く頷く。
石をポケットの中に入れ、駆け出した。
友人の元へ、仲直りをするために。



「こんなところにいたのか」

去っていく少年の背を見ながら、男はそっと呟いた。
握る手を解く。その手の中から、先ほど少年がポケットの中にいれていた緑の石が現れた。

「まったく……お節介過ぎるのはいつまで経っても変わらないな。少しは探す方の身になってくれ」

苦笑しながらも、男は優しく石を撫でる。微かな振動を感じて、切なげに目が細まる。
石は何も語らない。石に残るのは、僅かな想いだけだからだ。
誰かのためにという献身と、その誰かのために与える勇気。
その身が失われても尚、男の愛した少女の優しさは変わらず石に残り続けた。
少女はここにいる。ここに在る、それが何もできなかった男のささやかな救いだった。


「――そろそろ帰ろうか」

願うように囁いて、男は静かに歩き出す。
帰るといいながらも、その場所は疾うに失われた。少女を犠牲に太陽を呼び戻そうとした故郷は、太陽の熱に焼かれて消えた。
残ったのは男一人と、少女の思いが宿ったこの石だけ。

少女が残した石と共に、男は当てもなく歩き続ける。それだけが男にできることだった。


不意に一陣の風が吹き抜けた。
男の手の中の石が、強く脈動する。

「なんだ……?」

初めてのことに、男は眉を寄せ立ち止まる。
吹き抜けた先に見えた小さな人影に、目を見張り息を呑んだ。
あの頃と変わらない姿。優しい微笑みと慈愛の眼差し。
駆け寄る在りし日の少女を抱き留めながら、男は一筋の涙を溢した。

「――迎えに、来てくれたのか」

呟く男に、少女はくすくすと笑い声を上げる。

「気づかなかっただけよ。形のある、残りものだけを見てるんですもの。ずっと側にいたのに、全然気づいてくれないのだから」

だから時折、悪戯をしていたのだと少女は笑う。
迷う者の所へと石を運びながら、男が気づいてくれるのを待っていた。石ではなく、いつか自身を見てくれると期待していたのだと、少女は少しばかり拗ねてみせた。

「すまない。俺は、ずっと……」
「鈍感なのは変わらないのね……そういう所が、可愛らしいのだけれど」

悲嘆に暮れる間もなく、少女に言われた可愛いの言葉に男の頬が僅かに赤くなる。僅かに視線を逸らす男の顔を包んで、少女はその頬に唇を触れさせた。

「――っ!?」

益々赤みを増す男を笑い、少女は少しだけ体を離すと男の手を取り繋いだ。導くように手を引いて歩き出す。

「そろそろ行きましょう?」

手を引かれるままに、男は歩き出す。
どこに、とは問わない。死者が還る場所はひとつだけだからだ。
いつの間にか、少女の思いを宿した石が消えていることに気づく。振り向く男に少女は頬を膨らませ、繋いだ手を強く引く。

「私がいるのだから、あれはもう必要ないでしょう?阿野石はもう、自身の意思で必要な人の元へ行くわ。ささやかな勇気を与えに、ね」

石は残り続けるのだと、少女は告げる。
少女の献身を宿した、深い緑の中に血を思わせる赤を散りばめた異国の石。
彼女がいた証が残るのだと知って、男は穏やかに微笑みを浮かべた。
繋いだ手を引き、傾ぐ少女の肩を抱き寄せる。
頬を膨らませ睨むその額に、そっと口付けた。

「なっ!?ちょっと!」
「さっきのお返しだ」

そのまま肩を抱いて、男は歩き出す。
その表情は柔らかく、少女は何も言えずに頬を赤く染めて前を向いた。
互いに何も言わず、ただ寄り添いながら歩いていく。
二人の影はやがてひとつになって、暗がりの向こう側へと消えていった。





「あれ?なんだろ、これ」

ポケットに違和感を感じて、制服姿の少女は手を差し入れた。
中から取り出されたのは、深い緑色をした小さな石。

「いつのまに……」

赤い斑点模様を眺めながら、少女はぼやく。
入れた覚えのない石。けれども嫌な感じはしなかった。
そっと手のひらの中に握り込んでみる。手の熱が移ったのか、ほんのりと温かい。
その温もりに、不意にある人の姿が思い浮かぶ。
同じクラスの少年。静かに本を読む姿を、目で追い始めたのはいつからだっただろうか。
話せば穏やかに応えてくれる少年に、けれど告白する勇気はいつまでたっても起きなかった。
あと半年もすれば、自分達は学校を卒業する。卒業してしまえば、接点はなくなってしまうだろう。
それは嫌だ。そう強く思った。
今まで何度もそう思いながら、でもまだ時間はあると思っていた。けれども今日は何故か、それでは駄目だと強く感じている。

「――よしっ!」

手の中の石を見つめ、少女は強く頷いた。
石をポケットの中に戻し、来た道を駆け戻る。今ならまだ、少年は図書室で本を読んでいるはずだ。
足が軽い。早く会いたいと、さらに速度を上げる。

――何も言わないまま、さよならなんてしたくない。

誰かの声が聞こえた気がした。
後悔の滲むその声音。
その通り、と少女は高らかに同意し、晴れやかに笑った。



20250827 『ここにある』

8/28/2025, 9:42:50 AM

素足で濡れた地面を踏み締める。
濡れた土はぬかるみ、肌に纏わり付く。何度も足を取られそうになりながらも、先へと進み続けた。
足が沈む。水を多量に含んだ土が泥となり、これ以上進むことを拒んでいる。そんな気がして、思わず眉を顰めた。
沈む足を引き抜き、前に出す。一歩、また一歩と、遅々としながらも確実に前へと進む。
目指す先は、まだ見えない。



「諦めてしまえばいいのに」

不意に声がした。

「苦労しながら目指す場所には、もう何もないんだと知ってるはずだ」

無感情な声が、風に乗って静かに告げる。
分かっている。心の内で呟いて、それでもまた一歩足を踏み出した。
草ひとつ生えない大地。記憶の中の光景とは似ても似つかない。
おそらくは目指す先も同じようなものなのだろう。

「強情なのは相変わらずか。ならば好きにするといい」

微かな溜息の音と共に、一陣の風が背中を押した。
それきり声は沈黙する。
苦笑して、足を踏み出す。
沈むはずの足は、だが沈むことはない。
まるで雲の上を歩いているかのような、柔らかで不思議な感覚。踏み締めた足から伝わる温もりに、浮かべた笑みが涙に変わった。
一筋流れ落ちた滴を拭い、前を向く。変わらず何もない先を見据えて、ゆっくりと歩き出した。



足が止まる。
辿り着いた先に広がる光景に、思わず息を呑んだ。
地面の中から僅かに覗く瓦屋根。焼けた電柱の先端。崩れ落ちた二階建ての家の残骸。
分かっていたはずだった。すべてを知って、それでもここに帰ってくることを決めたのは自分だった。
それでも広がる惨状に、胸が苦しくなる。目を逸らし、今すぐ引き返してしまいたい衝動に、歯を食いしばり必死に耐えることしかできない。
呆然と立ち尽くす自分の横を、風が過ぎていく。風の向かう先に視線を向ければ、枯れた森が目についた。

「――あぁ」

枯木の合間から煤けた朱が見え、声を漏らす。
ふらつく足取りで、その朱い鳥居に向けて歩き出した。



「途中で引き返せばよかっただろうに」

声が聞こえた。
無感情の中に僅かに哀れみを含んで、声が囁く。

「ここにはもう、何もない。かつてのお前が愛したものはすべて焼け、土の下だ」

告げられた言葉に俯けば、風は優しく頬を撫でていく。
耐えられず足が止まりかけるが、風はそれを許さない。

「ただの悪夢だと忘れてしまえば、幸せに生きれたはずだ。それを忘れずここまで来たのだから、引き返せないことは覚悟していただろう」

風に背を押され促されて、俯く顔を上げて鳥居に近づく。
鳥居の向こう側。懐かしい人影を認めて、風に抗うように立ち止まった。
揺らぐ人影が、境界を越えて足を踏み入れるのを待っている。
一歩、足を踏み出した。もう一歩、また一歩と鳥居に近づいていく。
土の感覚が変わった。柔らかさではなく、固く濡れた土の感触が、触れる足から伝わってくる。
ゆっくりと、鳥居を潜り抜ける。
瞬間。景色が変わった。
枯れ果てた木々は青々と茂り、風に吹かれ葉を揺する。地面は剥き出しの土から石畳に変わり、ひやりとした石の冷たさに小さく肩が震えた。

「おかえり」

鳥居の先で待っていた彼が、声をかける。

「あの子の所へ行こうか」

差し出される手を取ろうと腕を上げかけ、何気なく落とした視線に入ったそれを見て止める。
綺麗な石畳と、泥に汚れた自分の素足。
このまま歩けば、石畳を汚してしまう。

「お前は変わらず、変な所で臆病だ。今更、そんな少しの汚れを気にしてどうする」

小さな溜息と共に、手を繋がれ引かれる。
そのまま歩き出し、抗うこともできずに彼に手を引かれるままに続いた。



石畳が続くの先に見えたのは、小さな社。
懐かしい記憶が過ぎていく。彼女が待っていると思うと、胸がざわついた。

「あの子は壊れてしまったが……お前が帰って来たと知れば喜ぶだろう」

迷いなく彼が、社の戸を開け放つ。
履き物を脱いで社に上がる彼を見て、このまま上がってもいいのだろうかと迷う。
足の泥は道中に乾き落ちてはいたが、それでも素足のままで外を歩いていたことには変わりない。
せめて足を拭うべきかと、身を屈めた時だった。

「――来た」

社の奥から、声が聞こえた。
彼の声ではない。ひび割れ、ざらついた歪な声。
視線を向けた瞬間。社の奥から白い縄のようなものが伸びてきた。
逃げる間もなく胴に絡みつかれ、社の奥へと引き摺り込まれる。
声を上げる間もない。無抵抗な体は幾重にも何かに巻き付かれ、身動きひとつ取れなくなった。
ずず、と何かを引き摺る音。社の入口から入り込む光が、最奥に佇む主の姿を浮かばせる。

「やっと……来てくれた」

白い大蛇。
赤い目を揺らがせ、頬に頭を擦り寄せる。

「皆、いなくなった。良い人間も、悪い人間も全部……でも、あなたは帰って来てくれた」

声に喜色を滲ませて、大蛇――彼女はさらにぐるりと自身の胴を巻き付ける。離れることを怖れるように。
ふと視界の隅で、何かが煌めいた。
視線を向ける。光を反射するそれを認めて、息を呑んだ。

「今度こそ、一緒にいよう。前のあなたは呑んでしまったけど、やっぱり触れていたいの」

砕けた手鏡。母から受け継いだ、かつての自分のもの。
最後まで肌身離さず持っていたはずのそれ。近くに散らばる赤黒く染まった布端に、そっと目を逸らす。

「そうだな。触れていれば、孤独に狂うこともない。生きているのならば、また始めることもできる……自らの意思で戻ってきたのだから、そのまま受け入れるべきだ」

彼の声がする。毒のように甘美で残酷な言葉を、優しく囁く。
彼の言葉に彼女が喜びの声を上げた。時折覗く舌先が首筋に触れ、こそばゆさに身動ぐ。
その僅かな動きすら許さないと、巻き付く胴が体を締め上げる。眉を寄せ小さく呻くが、力が緩むことはない。

壊れてしまった。
社に入る前の、彼の言葉を思い出す。
本来の大蛇の姿を厭い、人の姿を取ることが殆どだったはずの彼女。
控えめで優しい彼女は、もうどこにもいないのだ。

「ずっと一緒。もう二度と、離したりはしない」

彼女の囁きが、鼓膜を揺する。

「――うん。今度こそ、ずっと一緒にいて。二度と離さないで」

願うように呟いて、静かに目を閉じる。
冷たい毒が、体中に巡っていく。
ゆっくりと訪れる微睡みに、意識を沈めていく。

「――ごめんなさい」

小さく呟いた。
砕けた鏡。血濡れた服の切れ端。
神聖な場所を穢したこと。彼女を壊したこと。

「謝らないで。私は今、とても幸せなの。もう我慢しなくていいのだもの」
「謝る必要はない。こうして戻ることを期待してお前の記憶を残したのは、私なのだから」

彼女達が笑っている。
村で祀られていた神とその眷属の社が、静かに閉じていく。

「おやすみなさい。私の、可愛い子」

甘い囁きと広がる闇。
彼女に凭れ、もう一度だけごめんなさいと呟いた。



20250826 『素足のままで』

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