歪む鏡面の向こう側で、静かに夜が広がっていく。
青白い上弦の月。星々の仄かな煌めき。
風が草木を揺すり、駆け抜ける。音はない。静謐が暗い夜を支配し、その神秘さを彩っていた。
小さな木の下で、何かが揺らいだ。ゆっくりと立ち上がり歩き出すその人影は、長い髪を下ろした小柄な女性のもののようであった。
淡い月明かりを頼りに、その人影は丘の上まで進んでいく。その髪を、足下の草を風が気まぐれに揺らしていく。
不意に、遠くから小さな影が駆けてくるのが見えた。丘の上で足を止めた人影の元へと、一心不乱に向かっていく。
その影に気づいて、女性の人影が駆け寄る影へと視線を向けた。風に遊ばれる長い髪を片手で抑え、その訪れを待つ。
そして駆け寄る小さな影は、女性の人影へとその勢いのままで抱きついた。二度と離れたくないとでもいうかのように、強くしがみつく。
その影を、女性の人影はそっと抱きしめ返す。優しく、慈しむように。
星が煌めき、流れていく。
星の降る丘で、二人はいつまでも抱き締めあっていた。
小さく溜息を吐き、鏡から視線を逸らした。
また誰かが、覚めない眠りについたのだろう。その誰かが最期に見る夢、心の中の風景をこうして鏡を通して見てしまうのはいつものことだ。
悪い夢ではなかっただけ良かったのだろう。だがそれでも、他人の心の内を覗き見ていることに落ち着かず、無意識に眉が寄る。
俯きながら少しだけ雑に手を洗い、水を止める。顔を上げた時には、鏡の中に夜の風景が広がっていなかった。
鏡に映ったさえない顔をした自分を見て、溜息が出る。タオルで手を拭きながら、足早に洗面台を離れた。
「眉間に皺が寄ってるな。また誰かの心の覗いたのか」
部屋に戻ればベッドを占領する従兄弟に、にやりと笑みを浮かべながら視線を向けられた。
「――好きで覗いているわけじゃない」
溜息を吐きながらそう愚痴を溢せば、従兄弟は声を上げて笑った。
揶揄い混じりの表情をしながら身を起こし、傍らのペットボトルを投げて寄越す。それを受け取りながら、ベッドを背もたれに座り込んだ。
蓋を開けて、ペッドボトルに口をつける。冷たい水が喉を通り過ぎ、もう一度深く溜息を吐いて項垂れた。
「今度はどんな風景だったんだ?」
問われて、一瞬だけ答えに詰まる。誤魔化すようにペットボトルに口を付け、ぼそりと呟いた。
「夜の……どっかの丘の上で、母子っぽい影だ抱き合ってる場面……駆け寄ってきた子供は、まだ小さかった」
「子供……ってことは、この前運ばれてきた坊主か。母親と違って、一時は持ち直したんだが」
どこか遠くを見つめ、従兄弟は独りごちる。その表情に笑みはない。
無言で見つめていると、視線に気づいた従兄弟がこちらを向いて苦く笑う。腕を伸ばし、乱雑に髪を掻き回した。
「また見えたら教えてくれ。できれば、その夜の風景を朝に変える方法も見つけてくれればいいんだが」
茶化すような口調だが、それが従兄弟の本心なのだろう。
街では今、奇妙な病気が蔓延している。
一言で言えば、眠り続ける病。
ある日を境に眠っている時間が長くなり、最後には何をしても目覚めない。
原因は不明。眠っている以外、体に変化はない。
そんな患者を、従兄弟はずっと診てきた。
「――帰るわ」
小さく呟いて、従兄弟はベッドから降りた。軽く手を振り、外へと向かう。
「久しぶりの休日じゃなかったの?」
「仕方がない。ただでさえ今は人手が足りないんだ」
肩を竦めながらも、従兄弟は部屋を出て行く。
一人残されて、遣る瀬なさに何度目かの溜息を吐いた。
鏡面が歪み、夜が広がっていく。
白い三日月。煌めく無数の星々。
河原で一人立ち尽くす人影は、じっと暗い川の底を見つめている。
またか、と思いながらも、視線は逸らさない。人影や河原、川の中に手がかりを求めて、視線を巡らせていく。
従兄弟のためではないと、誰にでもなく言い訳をする。これ以上、眠り続ける人が増えるのは良くないことだ。それに、何故自分が鏡を通して心の風景を覗き見ることができるのか知りたいというのもある。
しかしどんなに目を凝らしても、分かるものは何もない。
少し迷って、そっと手を鏡面に触れさせた。
「――え?」
指先が、鏡面を越えて沈み込んでいく。水の中に手を入れるような、生ぬるい感覚。抵抗なく手が鏡面に呑み込まれ、その異様な光景に不安が込み上げ手を引いた。
――はずだった。
一瞬の暗転。
何も見えず、目を瞬きながら辺りを見渡した。
腕を伸ばしても、何も触れない。恐る恐る踏み出した足は、洗面台にぶつかることはなかった。
代わりに足の裏に感じたのは、いくつもの固い石の感覚。
虫の声がした。さらさらと水の流れる音がする。
風が冷えた空気を運ぶ。風に乗って、夜の匂いがした。
空を仰ぐ。強く目を閉じ、ゆっくり三数えてから目を開けた。
遠くに霞む三日月。瞬き、時折流れていく星々。
視線を下ろして、前を見た。鏡面を通して見た人影は、変わらず水面を見つめている。
一度深く呼吸をして、足を踏み出した。
ゆっくりと人影に近づいていく。足の裏で、大小様々な石が、からんと音を立てた。
「何を、見ているんですか?」
立ち尽くす影に声をかける。
反応はない。
無駄なことかと、少しだけ落胆しながら、もう一度声をかけてみるかと口を開いた時だった。
「――妻とね、よくこの川に来ていたんだ」
低い男の声が、静かに答えた。
「妻?」
「あぁ。可愛らしくて、しっかりした女性でね。妻としても、母としても立派な……私には勿体ないくらいの、できた人だった」
川を見つめたまま、影は語る。
愛しさの滲む、そんな声音だった。
「盆を過ぎれば、還ってしまうのは分かっていたんだ。そのために精霊馬も用意して、送り火も焚いた……だけどね、やはり寂しくなってしまって。牛の足なら、追いかければ間に合うんじゃないかと……そう思ってしまったんだよ」
乾いた笑い声が響く。
俯く人影から、ぽたりと滴が溢れ落ちたように見えた。
「結局追いつけなくて……それで未練がましく、彼女との思い出に浸りながら、こうして川を見ていたんだ」
そう言って、影は顔を上げた。
かけるべき言葉が見つからない。
影は心から妻を愛していたのだろう。一人残されて、寂しかった。
僅かな逢瀬の時間では物足りず、思わず追いかけてしまうほどに。
胸が痛い。何を言っても気休めにもならないことが、苦しくて堪らない。
痛む胸を押さえながら無言で見つめていれば、影はゆっくりとこちらを振り向いた。
「声をかけてくれてありがとう。おかげで戻ろうという気持ちになれた」
穏やかな声音で影は礼を述べる。立ち尽くす自分の横を通り過ぎ、歩いていく。
帰るのだろうか。目覚めるのかもしれない。
「――あぁ、そうだ」
去って行く背を見送っていれば、不意に影は立ち止まる。
振り返る様子はない。それでもどこか固さの滲んだ声で、一つの忠告を残した。
「声をかけてもらった私が言うことではないのだろうが、君の負担になるなら目を逸らすことも大事だよ。私達のような悲しみを、無関係な君が引き受ける必要はないのだから」
影の言葉の意味が分からず、首を傾げる。
問いかけようとした瞬間。また視界が暗転した。
何も見えない。聞こえない。
風や足下の石の感覚もしなくなり、自分が今立っているのか横になっているのかさえも分からない。
目を閉じる。伸ばした手には、何も触れない。
けれど。
遠くで、誰かが呼んでいる。そんな気がした。
閉じた瞼の向こう側に光を感じて目を開ける。
視界に入るのは、白い天井とカーテン。
「――あれ?」
目を瞬いて、視線を巡らせる。
視線を下ろせば、ベッドに横たわっている自分の体。
その腕に刺さるチューブを見て、混乱する。
腕を伸ばして、ベッドのリモコンを手に取った。リクライニングボタンを押して、状態を起こす。
自分は何故、病院にいるのだろうか。
不意に扉が開けられる音がした。
視線を向ければ、仏頂面をした従兄弟と目が合った。
「起きたか」
つかつかとこちらに歩み寄る従兄弟の目はとても険しい。
淡々とバイタルの確認をし終えると、僅かにではるものの張り詰めた空気が緩んだ。
「お前が洗面所で倒れたとここに運ばれて、かれこれ一週間が経つが……倒れる前に何を見た?」
鋭い目に見据えられ、その迫力に思わずたじろぐ。
倒れて一週間。聞きたいことはあるが、従兄弟の雰囲気が質問に答える以外を許しそうにない。
意味もなく視線を彷徨わせ、覚えている限りを口にした。
「えっと……いつものように、鏡に夜の河原の風景が映って……それで、鏡に触れようとして、そしたら何故か、その夜の河原にいた……?」
「そこで何をした?」
「え?別に……ただちょっと、川を見ている影に……声を、かけただけで……」
しどろもどろになりながら従兄弟に伝えると、従兄弟は重苦しい溜息を吐いた。
乱雑に髪を掻き回され、最後に頭を軽く叩かれる。
「まったく……無茶をするな」
安堵の滲む声音に従兄弟を見れば、その表情には穏やかさが戻っていた。
張り詰めた雰囲気もなくなり、小さく息を吐く。今ならば、何があったのか聞けそうだと口を開きかけるが、従兄弟の手がそれを制した。
「一週間前。お前は洗面台の前で昏睡状態に陥っていた。お前のお袋さんが発見してここに運ばれたが、今まで一度も目覚めることはなかった。眠っている間、バイタルに変化はなかったが……お前はずっと泣いていたな」
従兄弟に目元を拭われ、その指についた滴に目を瞬いた。泣いている。実感がないが、目元に触れれば指先がほんの僅かに濡れる感覚があった。
「あまり深入りをするんじゃない。お前はただでさえ、他人の思いに引き摺られやすいんだ。下手をすれば、二度と戻れなくなるぞ」
「――分かってる」
呆れたように、だが真剣な眼差しで告げられ、気まずさに視線を逸らす。
無茶をした自覚はない。影が何を見ているのかを聞いて、そのまま思い出話を聞いていただけ。
そういえば、と影の言葉を思い出す。
戻ると言っていた。それならば、今頃目覚めているのだろうか。
「ねえ」
逸らしていた視線を戻せば、従兄弟は感情の読めない目をしてこちらを見返した。
「目覚めた人はいる?影は戻るつもりだったみたいだけど」
問いかけても、従兄弟は表情を変えない。
「――さあな」
無感情に呟いて、病室を出て行く。
思わず引き留めようと伸ばしかけた腕を引く。何も言わずにその背を見送れば、扉の前で従兄弟は一度だけこちらを振り返る。
「深入りはするな。他人の心に踏み込むものじゃない」
忠告だけを残し、従兄弟は扉の向こうへ消えていく。
これ以上踏み込ませない、そんな冷たい声だった。
20250829 『心の中の風景は』
8/31/2025, 9:49:26 AM