sairo

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素足で濡れた地面を踏み締める。
濡れた土はぬかるみ、肌に纏わり付く。何度も足を取られそうになりながらも、先へと進み続けた。
足が沈む。水を多量に含んだ土が泥となり、これ以上進むことを拒んでいる。そんな気がして、思わず眉を顰めた。
沈む足を引き抜き、前に出す。一歩、また一歩と、遅々としながらも確実に前へと進む。
目指す先は、まだ見えない。



「諦めてしまえばいいのに」

不意に声がした。

「苦労しながら目指す場所には、もう何もないんだと知ってるはずだ」

無感情な声が、風に乗って静かに告げる。
分かっている。心の内で呟いて、それでもまた一歩足を踏み出した。
草ひとつ生えない大地。記憶の中の光景とは似ても似つかない。
おそらくは目指す先も同じようなものなのだろう。

「強情なのは相変わらずか。ならば好きにするといい」

微かな溜息の音と共に、一陣の風が背中を押した。
それきり声は沈黙する。
苦笑して、足を踏み出す。
沈むはずの足は、だが沈むことはない。
まるで雲の上を歩いているかのような、柔らかで不思議な感覚。踏み締めた足から伝わる温もりに、浮かべた笑みが涙に変わった。
一筋流れ落ちた滴を拭い、前を向く。変わらず何もない先を見据えて、ゆっくりと歩き出した。



足が止まる。
辿り着いた先に広がる光景に、思わず息を呑んだ。
地面の中から僅かに覗く瓦屋根。焼けた電柱の先端。崩れ落ちた二階建ての家の残骸。
分かっていたはずだった。すべてを知って、それでもここに帰ってくることを決めたのは自分だった。
それでも広がる惨状に、胸が苦しくなる。目を逸らし、今すぐ引き返してしまいたい衝動に、歯を食いしばり必死に耐えることしかできない。
呆然と立ち尽くす自分の横を、風が過ぎていく。風の向かう先に視線を向ければ、枯れた森が目についた。

「――あぁ」

枯木の合間から煤けた朱が見え、声を漏らす。
ふらつく足取りで、その朱い鳥居に向けて歩き出した。



「途中で引き返せばよかっただろうに」

声が聞こえた。
無感情の中に僅かに哀れみを含んで、声が囁く。

「ここにはもう、何もない。かつてのお前が愛したものはすべて焼け、土の下だ」

告げられた言葉に俯けば、風は優しく頬を撫でていく。
耐えられず足が止まりかけるが、風はそれを許さない。

「ただの悪夢だと忘れてしまえば、幸せに生きれたはずだ。それを忘れずここまで来たのだから、引き返せないことは覚悟していただろう」

風に背を押され促されて、俯く顔を上げて鳥居に近づく。
鳥居の向こう側。懐かしい人影を認めて、風に抗うように立ち止まった。
揺らぐ人影が、境界を越えて足を踏み入れるのを待っている。
一歩、足を踏み出した。もう一歩、また一歩と鳥居に近づいていく。
土の感覚が変わった。柔らかさではなく、固く濡れた土の感触が、触れる足から伝わってくる。
ゆっくりと、鳥居を潜り抜ける。
瞬間。景色が変わった。
枯れ果てた木々は青々と茂り、風に吹かれ葉を揺する。地面は剥き出しの土から石畳に変わり、ひやりとした石の冷たさに小さく肩が震えた。

「おかえり」

鳥居の先で待っていた彼が、声をかける。

「あの子の所へ行こうか」

差し出される手を取ろうと腕を上げかけ、何気なく落とした視線に入ったそれを見て止める。
綺麗な石畳と、泥に汚れた自分の素足。
このまま歩けば、石畳を汚してしまう。

「お前は変わらず、変な所で臆病だ。今更、そんな少しの汚れを気にしてどうする」

小さな溜息と共に、手を繋がれ引かれる。
そのまま歩き出し、抗うこともできずに彼に手を引かれるままに続いた。



石畳が続くの先に見えたのは、小さな社。
懐かしい記憶が過ぎていく。彼女が待っていると思うと、胸がざわついた。

「あの子は壊れてしまったが……お前が帰って来たと知れば喜ぶだろう」

迷いなく彼が、社の戸を開け放つ。
履き物を脱いで社に上がる彼を見て、このまま上がってもいいのだろうかと迷う。
足の泥は道中に乾き落ちてはいたが、それでも素足のままで外を歩いていたことには変わりない。
せめて足を拭うべきかと、身を屈めた時だった。

「――来た」

社の奥から、声が聞こえた。
彼の声ではない。ひび割れ、ざらついた歪な声。
視線を向けた瞬間。社の奥から白い縄のようなものが伸びてきた。
逃げる間もなく胴に絡みつかれ、社の奥へと引き摺り込まれる。
声を上げる間もない。無抵抗な体は幾重にも何かに巻き付かれ、身動きひとつ取れなくなった。
ずず、と何かを引き摺る音。社の入口から入り込む光が、最奥に佇む主の姿を浮かばせる。

「やっと……来てくれた」

白い大蛇。
赤い目を揺らがせ、頬に頭を擦り寄せる。

「皆、いなくなった。良い人間も、悪い人間も全部……でも、あなたは帰って来てくれた」

声に喜色を滲ませて、大蛇――彼女はさらにぐるりと自身の胴を巻き付ける。離れることを怖れるように。
ふと視界の隅で、何かが煌めいた。
視線を向ける。光を反射するそれを認めて、息を呑んだ。

「今度こそ、一緒にいよう。前のあなたは呑んでしまったけど、やっぱり触れていたいの」

砕けた手鏡。母から受け継いだ、かつての自分のもの。
最後まで肌身離さず持っていたはずのそれ。近くに散らばる赤黒く染まった布端に、そっと目を逸らす。

「そうだな。触れていれば、孤独に狂うこともない。生きているのならば、また始めることもできる……自らの意思で戻ってきたのだから、そのまま受け入れるべきだ」

彼の声がする。毒のように甘美で残酷な言葉を、優しく囁く。
彼の言葉に彼女が喜びの声を上げた。時折覗く舌先が首筋に触れ、こそばゆさに身動ぐ。
その僅かな動きすら許さないと、巻き付く胴が体を締め上げる。眉を寄せ小さく呻くが、力が緩むことはない。

壊れてしまった。
社に入る前の、彼の言葉を思い出す。
本来の大蛇の姿を厭い、人の姿を取ることが殆どだったはずの彼女。
控えめで優しい彼女は、もうどこにもいないのだ。

「ずっと一緒。もう二度と、離したりはしない」

彼女の囁きが、鼓膜を揺する。

「――うん。今度こそ、ずっと一緒にいて。二度と離さないで」

願うように呟いて、静かに目を閉じる。
冷たい毒が、体中に巡っていく。
ゆっくりと訪れる微睡みに、意識を沈めていく。

「――ごめんなさい」

小さく呟いた。
砕けた鏡。血濡れた服の切れ端。
神聖な場所を穢したこと。彼女を壊したこと。

「謝らないで。私は今、とても幸せなの。もう我慢しなくていいのだもの」
「謝る必要はない。こうして戻ることを期待してお前の記憶を残したのは、私なのだから」

彼女達が笑っている。
村で祀られていた神とその眷属の社が、静かに閉じていく。

「おやすみなさい。私の、可愛い子」

甘い囁きと広がる闇。
彼女に凭れ、もう一度だけごめんなさいと呟いた。



20250826 『素足のままで』

8/28/2025, 9:42:50 AM