sairo

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8/27/2025, 3:55:49 AM

霧の中を、女が一人歩いていた。
足下は酷く覚束ない。手を伸ばし、霧の向こう側を探るように前へと進んでいる。
霧は深く、女が向かう先は僅かにも見えはしない。ただ烏とも違う低い鳥の声が、時折不気味に響くのみだった。

「もう一歩、あと一歩だけ……」

繰り返す譫言。夢見のように辿々しい。
また一歩足が進む。ゆっくりとだが確実に、霧の中へ女の体が呑み込まれていく。

不意にその腕を、少女の手が掴んだ。

「おねえさん」

鈴の音を転がしたかのような、澄んだ声音が女を呼ぶ。

「この先には、何もないよ。だから戻ろう?」
「でも……」

少女の言葉に、女は逡巡する。
少女を見つめ、その目が泣きそうに揺らいだ。

「行かないと……もう一歩だけって、声がするから」

見えない霧の向こうへと女は視線を向ける。少女もまた女と同じ方向を一瞥し、静かに問いかけた。

「それは誰の声?」
「彼の声よ。ほら、聞こえている。ずっと私を呼んでいるの……だから行かないと」

迷いのない女の答えに、少女は首を傾げる。
耳を澄ませるが、聞こえるのは鳥の鳴く声だけだ。

「本当に?」

問いを重ねれば、女は言葉に詰まる。
彷徨う視線。霧の先と少女の間で迷うように揺れ動く。
女の戦慄く唇がゆっくりと動く。だがそれは声にはならず、吐息だけが溢れ落ちていった。
鳥が鳴く。低い声が霧の向こう側から響いてくる。女の肩が震え、少女に掴まれたままの手を霧の向こうへと伸ばす。

「呼んでるの……もう一歩だけ、前に進めって呼んでる」

呼んでると繰り返しながらも、女の足は動かない。掴まれた腕を振り解くでもなく、縋る目をして少女を見つめた。
少女は黙したまま、女を見据える。女の言葉を肯定するでもなく、否定する訳でもない。
沈黙。時折聞こえる鳥の声だけが、場の静寂を乱していく。

「おねえさん」

少女が呼ぶ。女の目を見つめ、ふわりと微笑む。

「戻ろう、おねえさん」

静かな声に、女の頬を滴が伝い落ちた。

不意に霧が揺らぎ、道の先を微かに浮かばせた。
影が揺れ動く。それは巨大な黒の鳥の形をしていた。

「――あぁ」

女の目が鳥を認め、唇から嘆くような声が漏れる。

「あの鳥はね、おねえさんの思いを鳴くんだよ。もう一度呼んでほしいって、そう思っていれば鳥が代わりに鳴いてくれるの」

鳥が鳴く。その声は女を呼ぶのだろう。鳥を見つめる女の目から、はらはらと止めどなく涙が零れ落ちていく。
耐えきれなくなったのか、女はその場に崩れ落ちる。顔を覆い、嗚咽を溢す女の背を、少女はそっとさする。
しかしその目は鋭く、晴れていく霧が露わにする道の先を睨み付けた。
道の先は途中で途切れていた。黒い水を湛えた、池のような何かが広がっている。
その水面から、音もなく何かが浮かび上がる。
青白い男の顔。無表情にこちらを凝視し、ひび割れた唇が静かに開いていく。

「もう一歩。もう一歩だけ、こっちに」

歪な声が響く。男の未練が、女を呼び寄せ続ける。
男を睨み付けたまま、少女は女の背をさする。声だけは穏やかに、女に告げる。

「戻ろう、おねえさん」

女は泣きながら、小さく頷いた。
男の頭が揺れ動き、黒い波紋を広げていく。ゆっくりとこちらに近づくが、それでも黒い水から離れられないのだろう。水面から浮かぶ折れた指が縁を掻くが、水の中から這い上がる様子はない。
男の唇が再び開いていく。

「もう一歩……」

鳥が鳴いた。男の言葉を掻き消すように。
再び立ち込める霧が、男を覆い隠していく。
泣きながらも女が顔を上げた時には、男の姿は影すらも見えない深い霧の中に沈んでいた。

「――ありがとう」

鳥を見上げ、女が小さく呟く。それに応えて鳴く鳥は静かに飛び立ち、霧の向こう側へと消えていく。
それを見送って立ち上がる女の手を、少女はそっと繋ぐ。
軽く引けば、女は名残惜しげに霧の向こうを見つめながらも、振り返り元来た道を歩き出した。
途中で少女が手を離しても、立ち止まる様子はない。
その足取りは力強く。振り返ることは二度となかった。





遠ざかる女の背を見つめ、鳥は静かに鳴き声を上げた。

「もう振り切れたみたい」

鳥の止まる木の根元。凭れた少女が微笑み鳥を見上げる。
だがその笑みは不意に陰り、立ち込める深い霧の向こうへと憂う視線を向ける。

「おねえさんは大丈夫だけど……あっちはどうなのかな?諦めてくれればいいのだけれど」

黒い水の中に漂う男を差しているのだろう。死してなお、恋う者を呼び続けるその執念は、男が漂っていた水のように黒い。
女の先を憂う少女に、鳥は短く鳴いた。翼を広げ少女の元まで降り立つと、華奢な体を翼で包み込む。

「ありがとう」

淡く微笑みを浮かべ、少女は鳥の首に腕を回す。温かな体に擦り寄り、小さく吐息を溢した。
鳥は目を細めながら、少女を見つめ。愛を囀り、甘く声を上げる。

「少しだけ、どちらの気持ちも分かるかもしれない……一人になったら寂しくなって、もう一度だけでも呼んでほしいって思うし……一緒にいて欲しいって呼びたくなるから」

ごめんね、と囁く少女の声はか細く、儚い。
その声を掻き消すように、鳥は強く鳴く。
そんな未来は永遠に来ないのだと伝えるように、少女の頬に嘴を擦り寄せた。



20250825 『もう一度だけ、』

8/26/2025, 9:06:57 AM

遠くに、揺らぐ街が見えた。
鮮やかな色彩。煉瓦の家々。石畳の道が奥へと続いている。
異国の街並みは、見知らぬはずであるのにどこか懐かしい。
誘われるように近づけば、途端に街は周囲に解けて消えていく。
後には焼けたアスファルトの道しかなく、名残のように逃げ水が遠くに煌めいていた。
決して届かない街並みを思い、小さく息を吐く。
何度目だろうか。向かう先に滲む街並みを見かけ、追いかけては消えていくのを繰り返したのは。
気づかない振りをするのは簡単だ。目を逸らせばいい。
分かってはいても、追いかけるのを止められない。
あの街には、きっと今も幼馴染みがいるのだろうから。



幼い頃、古い絵本に描かれた街並みに憧れた。
石畳の道。煉瓦の家。高い塔に、大きな城。
いつかこんな街で暮らしてみたいと、幼馴染みに何度も語った。

「ちょっと、難しいかな」

眉を寄せ難しい顔をした幼馴染みが、絵本から視線を逸らさず呟く。

「酷い!なんでそんなこと言うの」

幼馴染みの手から絵本を取り上げ胸に抱きしめる。夢を否定され泣きそうになれば、幼馴染みは眉を寄せたまま絵本を指差した。

「だって複雑だし。それに、こんなに広いのは大変だ」

迷子になるとでも言いたいのか。
涙目で睨み付ける。すると幼馴染みは、小さく溜息を吐いて笑った。

「難しいんだけどな」

そう言って後ろを向く。指で弧を描けば、幼馴染みの周りの空気が微かに揺らぐのを感じた。
揺らぐ空気が形を変えていく。色を纏い、大きく広がって、それは次第に絵本の中の街並みを形作っていく。

「凄い……!」
「でも駄目だ。大きいし複雑だしで、形を整えるので精一杯」

歓声を上げる自分とは対照的に、幼馴染みの声は不満げだ。
よく見れば、確かに家の壁はさざ波のように揺れ動き、所々でほつれている。
けれどもそれすら気にならないほどに、街は煌めいて見えた。絵本を抱く腕に力を込めて、高鳴る胸の鼓動のままに一歩、街へと近づいた。

「駄目」

近づく足を幼馴染みの声が止める。
視線を向ければ、幼馴染みはこちらを向いて首を振った。どうしてと食い下がろうとするのを察してか、幼馴染みの手が宥めるように頭を撫でる。

「まだ不安定だから、近づけばすぐに消えてしまうよ」

ここから見ているだけ。
少しだけ気分が沈むが、幼馴染みは大丈夫だと笑う。
撫でていた手を離して、揺らぐ街に向けて歩き出した。

「少し待ってて。しっかり作り上げてくるから」

それだけを告げて、幼馴染みは街の中へと消えていく。
しかし、どれだけ待っても幼馴染みは戻ってはこなかった。
揺らぐ街も日暮れと共に霞み消えて、寂しさに泣きながら一人家路に就いたのを覚えている。

あれから数年が経つ。
幼馴染みはまだ戻らない。

時折現れる街の幻だけが幼馴染みとを繋ぐ縁に思えて、今日もまた街の幻を追いかけている。





その日、見えた街はいつもと違っていた。
朧気に揺らいでいたはずの街並みは、輪郭をはっきりとさせている。
石畳や煉瓦のひとつひとつの形すら、離れているこの場所からも見えている。
街の中心部にある高い塔が時計台だったのだと、初めて知った。

胸が騒めく。
惹かれるように、一歩足を踏み出した。
街は揺らがない。
一歩、また一歩と、街へと近づく。
消えない街。根を下ろした大樹のように、静かにそこに佇んでいる。

「――呼んでる?」

小さな呟きが、やけに大きく感じられた。
とても静かだ。いつもならば聞こえる蝉時雨も、車の音も聞こえない。
思わず立ち止まる。後ろを振り返り、逡巡する。
後ろには見慣れたアスファルトの道。遠く霞む、馴染んだ住宅街。
一歩だけ、足を引き戻す。アスファルトから立ち上る熱気が、この先が現実だと告げていた。
戻るべきか、進むべきか。
もう一度、街を見つめ、込み上げる切なさに胸を押さえた。
街が呼んでいる。その感覚が抜けない。引き返す足が進まない。

――少し待ってて。

不意に幼馴染みの声が、脳裏を過ぎる。
忘れかけていた懐かしい響きのそれに、気づけば足を踏み出していた。

今度は途中で立ち止まらずに、街の門へと辿り着く。
見上げる程に大きな門に足が止まりかけるが、そのまま潜り抜けていく。
その瞬間、空気が変わった。
刺すような暑さはなく、冷えた風が体の熱を奪っていく。
ざらりとした石畳の感触。陽に照らされ、煉瓦が鮮やかさを増している。
昔憧れた、絵本の中の街並み。擦り切れるほどに読み返したあの絵と、何一つ変わらない風景。
そっと壁に手を触れる。冷たい石の感覚に、しかしどこか違和感を感じた。
ざらつく石とは違うもの。目を凝らせば、一瞬だけ虹色に煌めく大きな鱗が見えた。

「――っ!?」

慌てて手を離す。
辺りを見回すが、他に誰の姿も見えない。
それでも何かを感じる。
伸びた影の輪郭に重なる揺らぎ。風が運ぶ匂いに混じるもの。静けさに紛れる微かな振動。
じり、と足が後ろに下がった。
街に呑まれる。街の模った何かに、取り込まれようとしている。

そんな不安に、街を出ようと振り返った。

「どうしたの?」

聞こえた声に、足が止まる。
懐かしい声音。記憶のそれと、寸分変わらないその響き。

「ちょうど迎えに行こうと思ってたけど、待ちきれなかった?」

鼓動が速くなる。
俯く視界に伸びる人影が見え、息を呑んだ。

「まだ少し不安定だけど、ようやく形にはなったんだ」

手が触れる。
指を絡めて繋がれ、その冷たさに肩が震えた。
手を引かれ、逆らうことができずにゆっくりと振り返る。

「どうかな?気に入った?」

あの日、街に消えていった幼馴染みが、変わらぬ姿のままで微笑んでいた。

体が震える。
滲み出す視界の端で、街が蠢く。
鼓動のように壁が脈打ち、石畳が足に絡みついた。

「いや。やだ、離して……帰るから、お願いっ……!」

掠れた懇願に、幼馴染みは首を傾げた。

「なぜ?この街に憧れていたんだろう?なら、ずっとここで暮らせばいい」

不思議で仕方ないというように、幼馴染みは困惑を顔に浮かべる。
頭を撫でようと手を伸ばし、あぁと納得したように頷いた。

「人間の成長は早いのを忘れていた。ただでさえ怖がりなのに、これじゃあ怖がらせるだけか」

伸ばしかけた手を引いてその手を見つめ、こちらを見上げる。
頭を撫でる代わりに込み上げる涙を拭い、幼馴染みは何かを思案しながら周囲を見渡した。
蠢く街を見つめ、小さく溜息を吐く。

「これ以上は、駄目かな。形を変えようとするとすぐに綻ぶ……それよりは、夢を見ながら忘れてしまった方がいいか」

小さな呟きと共に、足下の石畳が波紋のように広がった。
街全体が揺らぎ、石畳の中から何かが浮かび上がってくる。
それは大きな蛤だった。

「なに……怖い……」
「大丈夫。怖いモノではないよ。優しい夢を見せてくれるから」

静かに殻が開いていく。
逃げだそうと足に力を込めても、絡みつく石畳は解けない。
嫌だと首を振っても、幼馴染みは大丈夫と繰り返すだけだ。
殻の隙間から、静かに影が這い出てくる。次々に這い出る影は腕に、足に絡みつく。

「離して!やだ……いやぁ……!」

繋がれた手が離れていく。足を縫い止めていた石畳が解けていく。
留めるものを失い、体が蛤の中へ引き摺り込まれる。

「夢の中で、すべて忘れていくといい。その間に、街を仕上げておくから」

閉じていく世界の中。
最後に見えたのは、虹色に煌めく鱗を持つ龍の姿だった。





「どうしたの?」

立ち止まる自分に、幼馴染みが声をかける。
その声に、形になりかけていた何かが跡形もなく解けていくのを感じた。

「やっぱり、二人だけの鬼事は無理があるって気づいた?」
「違うよ!ただ……」

言いかけて、口を噤む。
やはり、何も思い出せない。解けてしまった何かが、もう一度形を作ることはなかった。
俯く自分の側に、幼馴染みが近寄る。いつものように頭を撫でられて、胸の中に僅かに灯り出した不安が消えていく。
そっと、頭を撫でる幼馴染みの手を取った。

「捕まえた」

顔を上げて笑ってみせれば、幼馴染みが呆れたように溜息を吐く。

「それは反則なんじゃないの」

そう言って肩を竦めながらも、ゆっくりと数を数え始める。
幼馴染みの優しさが嬉しくて、笑いながら街の奥へと駆け出した。

「次は隠れ鬼ね!だから百数えてよ」
「はいはい。あんまり遠くに行かないでね」

最初から数を数え直す幼馴染みの声が遠くなる。
どこへ隠れようか考えながら、空を見上げた。
煌めく陽が陰る様子はない。広がる異国の街並みを、優しく照らしている。
この見知らぬ街には、怖いものなどどこにもない。
自分のために、幼馴染みが作り上げてくれた街。

時折感じていた違和感は、もう感じない。



大蛤の内側で眠り続ける少女を思い、一匹の蛟は緩く笑みを浮かべた。
あどけなさの残る少年の姿を取り、蛤の殻に触れて目を閉じる。
ややあって目を開けた蛟は、そっと安堵の息を吐いた。

「落ち着いているようで何よりだ。まだ違和感として残るものはあるようだけど、それもすぐになくなるだろうな」

触れた殻を撫でれば、応えるように蛤の殻の隙間から白い靄が静かに吐き出される。
ゆるりと立ち上る靄は風に乗り、街全体を薄く覆う。蠢く石畳や揺らぐ家々に染み込み、曖昧な輪郭を正していく。
その様を見て、蛟は目を細めた。

「素質があるな。細かい所はどうしても粗が出ていたけど、これなら完全に仕上がりそうだ」

くすりと笑みを溢し、殻を撫でる。内側で眠る少女の髪を撫でるように、優しく愛おしげに。

「目覚めたら、二人で作り上げた街でも一緒に遊ぼうか。……それまで、ゆっくりおやすみ」

その時を思いながら、蛟は殻に唇を触れさせる。
月明かりを反射して、虹色の鱗が煌めいた。





その地には、時折不思議な街が現れるらしい。
異国の色を強く湛えた、見知らぬ街。遠目では色鮮やかに、だが近づけば忽ち霞み消えてしまうという。

蜃気楼。
だがその街を実際に見た者はなく、季節も関係なく、街は忽然と現れ消えていく。

決して辿り着けない、不思議な街の幻。
いつからかその街の幻は、こう噂されるようになった。

――その街は、夢の吐息でできている。

今日もまた、その街は七色の煌めきを宿しながら遠くで揺らいでいる。



20250824 『見知らぬ街』

8/25/2025, 3:49:57 AM

どこか遠くで、雷が鳴った。
顔を上げる。空を睨んでも、稲光は見えない。

「大丈夫だよ」

地面に絵を描いている友人が、顔も上げずに笑って言う。

「今のは雷じゃないよ。神さまの声だ」
「かみさま?」

絵を描くことに飽きたのか、木の枝を放り出して友人は顔を上げる。
にんまりとした笑みを浮かべ、後ろの社に視線を向けて指を差した。

「怒っている時に、ごろごろと鳴るんだよ。悪いことをした人を連れていく時とか、皆が良くないことをしている時とか」
「連れていかれちゃうの?連れて行かれたらどうなるの?」
「さあ?連れて行かれたことなんてないから、分からないよ……でも、うちの村は大丈夫。悪い人なんていないから」

雷が鳴っている。
山の向こうへ視線を向けた。
隣の村で、誰かが連れて行かれているのだろうか。連れていかれるような、悪い人がいたのだろうか。
悪いこと。眉を寄せて考える。
自分は大丈夫だろうか。今朝は、こっそりにんじんを残してしまった。昨日は片付けをすぐにしなかった。
その前は、と、次々と悪いことが思い浮かんで、じわりと視界が滲んだ。

「わたし……良い子じゃない」
「大丈夫だって。神さまが怒るような悪いことはね、線を越えた時だよ。鳥居をくぐってはいけない夜に何度もくぐるとか。お祭りでやらないといけないことを、ちゃんとやらないとか……そういう悪いこと」
「にんじん残すのは?お片付けもすぐにできなかったのも、悪いことじゃない?」

思いつく悪いことを挙げれば、友人は声をあげて笑う。
近づいて頬を両手で包み込み、親指で目尻に溜まった涙を拭ってくれた。

「そんな小さなことなんて、神さまは見てないよ」

大丈夫、と繰り返して、友人は頭を撫でてくる。友人の言葉にほっとしながら、それでも落ち着かない気持ちがぐるぐると胸の中で渦を巻いた。

「そんなに怖いなら、今日はもうお家に帰ろうか。お家には守ってくれる神さまがいるから、怖くはないでしょう?」
「そのかみさまは、怒らないの?」
「怒るよ。でも、悪いことをした時だけ……子供はお父さんやお母さんたちに怒られるから、怒られることはほとんどないよ」

不安はまだ消えない。
空を見上げる。どんよりと曇った空が、少しだけ色を濃くしているように見えた。
その空に光は見えない。雷の音だけが鳴り続けている。


「帰ろう。また明日ね」

そう言って差し出された手を、そっと握る。
温かな手。ほぅと息を吐いて、手を引かれるまま歩き出す。

「怖くないよ、大丈夫。この村に悪い人はいないから」

歌うように友人が繰り返す。
悪い、悪くないの境が曖昧なまま、友人の言葉を信じてただ頷いた。





遠くで雷が響いている。
数年ぶりに訪れた村は、すでに朽ちかけ村の形を留めてはいなかった。
道も家々も、ほとんどが草木に呑まれてしまっている。誰の気配もせず、聞こえるのは蝉時雨と遠雷の音だけ。
空を見上げれば、晴れた空が広がっている。稲光は少しも見えない。
ただ音だけが響いている。友人の言った神の怒る声が、あの夜からずっと続いているのだろう。



思い出す。あの夜のことを。

火が焚かれ、祭囃子が鳴り響き、村中が集まった祭の夜。
色とりどりの提灯。香ばしい匂いのする屋台。子供たちは笑い駆け回る。
この夜だけは、遅くまで祭に参加しても怒られることはなかった。だから村の子供は皆、祭に参加していた。
自分も、友人も。

楽しげな音に重なるように、雷の音が遠くで鳴った。
空を見ても、見えるのは月や星の明かりだけ。空を走る一瞬の稲光は見えず、音だけが続いていた。

「大丈夫。この村に悪い人はいないから」

友人は笑う。自分の反応が可笑しいと言わんばかりに、楽しげに。

「本当に怖がりだね」

揶揄うようにそう言われても、不安は消えなかった。音が響く度に不安は大きくなり、怖くて仕方がなかった。
結局、祭の途中で両親と家に帰り、そのまま久しぶりに両親と一緒の布団で眠りについた。

雷はずっと鳴り響いている。少しずつ近づいてくる。
怖くてしがみつく自分に、両親も友人のように笑っていた。あれは祭の太鼓の音だと宥められたが、どうしても雷の音にしか聞こえなかった。

夜ごと続いた音が、やはり雷の音だと知ったのは翌朝のことだ。
隣に住む人が、血相を変えて駆け込んできた。

――祭に参加していた人が、皆消えてしまった。

泣き叫び訴える声に、途端に家の中は慌ただしくなった。
神の怒りに触れた。祭の手順を誤ったのか、それとも誰かが禁忌を犯したのか。
険しい顔で、隣の人と共に外へ出て行く父。母に抱きしめられながら、その背を見送った。

結局村に残ったのは、祭に参加していなかった僅かな人ばかりで、消えた人々は誰一人戻っては来なかった。
残った人は皆、逃げるように村を出た。自分達も、家を手放し引っ越した。

家を出る時も、雷は鳴り続けていた。



比較的歩きやすい道を選んで辿り着いたのは、祭のあった神社だった。
朽ちかけた村とは異なり、鳥居を挟んだ向こう側は朽ちている様子はない。
鳥居を潜り抜けようとして、立ち止まる。

――鳥居をくぐりぬけてはいけない夜に、何度も……。

友人の声を思い出す。
今は昼間だ。夜ではないし、あの時は祭があって特別だったはずだ。
そうは思うが、足が竦んで動かない。
鳥居の向こう側と、こちら側。なぜ様相が違うのか。
今も遠くで鳴り続けている雷。
強く目を閉じ、頭を振った。
帰ろう。そして、この村のことは忘れてしまおう。
友人のことも、忘れて――。

「来てくれたんだ」

聞き覚えのある声に、目を開けた。
鳥居の向こう側で、友人が笑っている。あの祭の夜と変わらぬ姿で、こちらに近づいてくる。

「待ってたんだよ」

鳥居の前で立ち止まり、手を差し出す。
あの日のまま、何も変わらない。いつものように、臆病だった自分の手を引こうとしている。
どこかで、雷の音が鳴った。

「どうして……」

掠れた声が漏れる。

「どうして、いなくなったの……みんな、どうして……」
「いなくなった?」

溢れ落ちる疑問の言葉に、友人は首を傾げた。
そして笑う。可笑しくて仕方ないように。
あの日、雷を怖がる自分を笑ったように、楽しげに。

「違うよ。みんな、ここにいる。祭を楽しんでいるんだよ」

そんなはずは、と続けるはずの言葉は、声にならなかった。
友人の背後で、いくつもの影が蠢いている。影は揺らぎ、人の形を取って近づいてくる。

「おいでよ。一緒に遊ぼう?みんなここにいるから、寂しくはないよ。怖いものも、いつものように追い払ってあげる――だから、おいで?」

一歩。足が前に出る。
友人の笑みが深くなり、おいでと繰り返す。その囁きに、また一歩足が前に出た。
差し出す手を取ろうと、腕が持ち上がる。
友人の手と手が重なる、その瞬間――。

雷の音が鳴り響いた。

はっとして、後退る。重ねようとした手を抱いて、震える唇を開いた。

「――やだ」

微かな拒絶の言葉に、友人の顔から笑みが消える。

「いや。いきたくない」

首を振る。込み上げる涙で滲む友人を見つめながら、必死でいやだと繰り返した。

「そっか」

ぽつりと、小さな呟き。
涙を拭い見た友人は、いつものような笑みを浮かべていた。

「じゃあ、今はいいや……来ればきっと楽しいのにね。残念」

霧が立つように、友人の輪郭が薄れていく。

「またね」

声だけを残して、友人の姿は跡形もなく消えていった。


雷はまだ、どこか遠くで鳴り響いている。





家に戻ってから数日が過ぎた。
村からは遠く離れた場所。村とは違い神との距離が遠い場所だというのに、ふとした瞬間に耳を澄ませてしまう。

――またね。

友人の最後の言葉が離れない。
雷の音がする度、神社の鳥居を見かける度に、小さな浴衣姿の影を探してしまう。

不意に、遠くで雷が鳴った。
空を見上げても、雲ひとつない青が広がるだけで稲光は見えない。
雷の音が、耳の奥で反響する。

「おいで」

雷の音に混じり、友人の囁きが聞こえた気がして振り返る。
だが忙しなく行き交う人々の中に、友人の姿はない。
小さく息を吐く。気のせいだと自分に言い聞かせて、前を向いた。
瞬間、音が消えた。
目の前には、あの村の鳥居。
その向こう側。遠くで、友人が手を振っているのが見えた。

「おいで。もう怖くも、寂しくもないよ」

誘う声は、どこまでも甘く。惹かれるように、足が友人の元へと向かう。

強く目を閉じた。
足が止まる。友人の声は聞こえない。

「怖いよ……」

思わず溢れた呟きに、楽しげな笑い声が重なった。
耳元に吐息が触れる。優しく、残酷に友人の声が囁く。

「またね」

目を開けると、そこに友人の姿はなかった。
道を行く人々が、立ち尽くす自分を避けていく。賑やかな喧騒が、戻ってくる。

それでも、雷の音は消えない。
友人の声を孕んだ遠雷が、いつまでも響き渡っていた。



20250823 『遠雷』

8/24/2025, 9:16:42 AM

潮風が吹き抜ける岬の先端に、その灯台は建っていた。
元々白かったであろう壁はくすみ、見上げた先に見える窓もまた曇っていた。
近づくために踏み出したはずの足は、それ以上動こうとはしない。灯台に近づくことを怖れているようで、胸がざわついた。
このまま戻るべきだろうか。灯台に行ったところで、中に入れるはずもないのだから。
ここに来る途中に聞いた話を思い出す。
潮の流れが変わり、船を出しても何も獲れなくなった。そのため人々は海から去り、灯台も役目を終えた。
表向きの歴史だけどと付け足し、内緒話でもするように顔を寄せた話し好きの女性達の笑みが浮かんだ。

――灯台守がね、消えちゃったのよ。それで灯台は攫われた灯台守の帰りを待ち続けているんですって。だから灯台守以外を中へは入れないし、時々夜中に霧笛が鳴るのよ。
――きっと灯台守を呼んでいるのね。私も一度だけ聞いたことがあるわ。
――怖いわよねぇ。

好き勝手に話し、去って行った女性達の勢いまで思い出してしまい、思わず溜息が漏れる。だがその噂話も、すべてがでたらめだと言う訳ではないのだろう。

――そういえば、消えた灯台守もあなたのような色の瞳をしていたらしいわよ。夜の海の色よね。

そっと目を覆う。
家族の中で、自分だけ瞳の色が違う。
真夜中を思わせる、黒に近い青の色。
だが祖父は、この瞳を夜の海の色だと評した。海に選ばれた者の瞳だと。
その理由が気になり、祖父に話を聞いた。最初は何も語らなかった祖父は、最後には悲しい目をして、灯台の話をしてくれた。

祖父の父――曾祖父の瞳の色と同じだということ。
曾祖父は灯台守だったが、ある日忽然と姿を消したこと。
開いているはずの灯台の扉が、なぜか開かなかったこと。
姿を消す前の晩。頻りに外を気にしていたこと。

――随分と怖い顔をしていてなぁ。もしかしたら、海から何かが来ていたのかもしれん。

そう言って項垂れた祖父は、いつもよりも小さく見えた。



ぎぃ、と扉が開く音がした。
灯台に視線を向けると、僅かに扉が開いている。
息を呑んだ。無意識に数歩、後退る。
開かないはずの扉が、ゆっくりと開いていく。隙間から誰かの手が覗き、指が扉の縁にかかる。
今引き返せば、間に合う。戻ることができる。
そんな思いが脳裏を過ぎる。けれどもう、指先ひとつ動かせず、開いていく扉から目を逸らすことすらできない。

扉が開く。

「――っ」

中から現れた青年の姿に、声にならない悲鳴が漏れた。
祖父から見せて貰った白黒の写真に写っていた男性。写真のままの姿の曾祖父が、そこにいた。
自分と同じ夜の海の色をした目が、こちらに向けられる。

「やはり、来ていたのか」

立ち尽くす自分の元へと、曾祖父が近づいてくる。
片目を覆ったままの手を取られ、覗き込まれる。

「しっかりと徴《しるし》が現れているな。扉が開く訳だ」
「徴?何を言って……それにあなたは……?」

疑問に答える代わりに、曾祖父は微笑んだ。
潮の匂いがする。気にならなかったはずの潮騒が、やけに耳につく。
目の前の暗い青から目を逸らせない。

「――おいで」

肩を抱かれ促されれば、動かなかった体は自分の意に反して歩き出す。
微かに震える体とは裏腹に、灯台へと向かう足取りに迷いはなかった。



扉を過ぎた瞬間、冷えた空気が頬を撫でた。
潮の匂いが強くなる。潮騒が反響し、誰かの呼び声のように聞こえた。
触れた壁が冷たく濡れている。手から腕へと伝う滴が、誰かの指先のように感じられて、体が震えた。
立ち竦む背を、曾祖父の手が撫でる。それだけで体は上へと続く階段に向かい、足をかけた。

「――可哀想に」

肩を抱く曾祖父が小さく呟いた。

「どういう、意味……?」

問いかけても、やはり曾祖父は答えない。
喉がひりつく。階段を上る度に強くなっていく潮の匂いに、反響する潮騒に目眩がした。

「materが来ている。求め続けた、filiaが戻ってきたからか」

曾祖父の唇から溢れる異国の言葉に、胸がざわついた。
母。娘。知らないはずの言葉の意味を理解して、苦しくなる。
これ以上進みたくはないはずなのに、足は止まらない。階段を軋ませ、躊躇いもなく上っていく。

「可哀想に」

繰り返される言葉は潮騒を混じり合い、諦めろと告げているかのように響いた。



最後の段を踏み締め灯室に入ると、室内は一瞬で暗く沈んだ。
灯台に入る前までの明るさはどこにもなく、くすんだガラス越しに見える空には、星ひとつ見えない。
目を凝らせば、じっとりと重さを纏ったような霧が立ち込めているのが見えた。

不意に室内が明るくなる。海に差し込む一筋の強い光に、照射灯が点いたのだと気づいた。
霧を抜け海に届く光が、一瞬何かを浮かばせる。しかし、すぐに闇が光を呑み込み、それが何であるのかは分からない。
夜の闇よりも暗い何か。光を呑む、底なしの深い黒に似た青が蠢く。
ぞわり、と背筋を冷たいものが駆け上がる。

「来ているな」

背後から肩を抱く曾祖父が、無感情に呟いた。
逃げ出すことを許さない、冷たい手が体温を奪っていく。

「霧が深い故、光だけでは導けないのだろう……Voca」

曾祖父の囁きに、無言で首を振る。
唇を噛みしめ、必死で声を殺す。今声を上げてしまったのならば、それはあの何かを呼ぶ声になるのだろう。
得体の知れないモノを呼びたくなどはない。受け入れるのが怖ろしい。

「Voca,Cantare」

曾祖父の声が拒絶を許さない。
異国の言葉が、噛みしめた唇を解かせていく。

「受け入れろ。materを呼び寄せるのは、filiaの役目だ」

肩を抱く手に、僅かに力が籠もる。
涙が滲む。だがそれだけだ。
体の自由がきかず、もう首を振ることさえできない。

「Canta. Filia. Voca matrem tuam」

歌え。娘よ。母を呼べ。

唇が開き、喉が震える。
泣きながら高らかに叫んだ声は室内に響き渡り、外へと向かう。
灯台の霧笛と混じり、光の呑まれる先。母の元へと辿り着く。

母が来る。
その言葉だけが胸に残り、他のすべてが遠ざかっていく。
声は止まらない。泣き叫ぶように、歌うように、霧笛と混じり合い夜の海へと響き渡る。

光が、闇に呑まれていく。
夜の青が、瞳の奥に満ちていく。

意識が揺らぐ。深い夜の海に沈んでいく。


少女の笑う声がする。
呼び声に応えるかのように、海の底から歌声が聞こえていた。



20250822 『Midnight Blue』

8/23/2025, 9:16:14 AM

山奥の、誰も知らない屋敷。
そこが少女の世界のすべてだった。

少女の足は動かない。
何が原因となったのか、それとも始めからそうだったのか。少女はもう覚えてはいなかった。それほど永くを、このお屋敷で過ごしてきた。

「――ねぇ」
「ん?なぁに」

おずおずと声をかける妹に、少女は優しく言葉を返す。
妹、としているが、少女との間に血縁関係はない。ある日、屋敷の庭で傷だらけで蹲っていた所を、少女が屋敷の中に招き入れた。傷の手当をし、食べ物を与え、寄り添って眠った。
多くを語らない妹は、それでも少女を慕い従順であった。
少女もまた、自身を妹に語らない。語る記憶の殆どは抜け落ち、告げられるものはなかったからだ。
互いの殆どを知らない中で、それでも二人は屋敷で共に暮らしていた。
数年を過ぎれば、共に在ることが当たり前となり。
そうして二人は姉妹になった。

口籠もる妹に少女は優しく微笑みかけ、そっとその肩を抱き寄せる。そっと頭を撫でれば、妹の強張る体から次第に力が抜けていった。
目を合わせる。迷うように揺れる妹の目が少女の目を見て、僅かに歪んだ。

「私……私、ね……」

少女は何も言わない。
ただ静かに妹の決意を聞いている。

「また……踊りたい。今度はちゃんと、最後までおつとめを果たすから。だから……」

揺れる目が、まっすぐに少女に向けられた。

「だからお姉ちゃん――かみさま、帰ってきて。もう一度だけ、飛んで」

少女の目が僅かに見開かれる。
妹は強い目をして立ち上がり、何も言えないでいる少女の前で、静かに舞い出した。
神楽。神に捧げられる舞。人々の祈り、願いを形にしたもの。
妹の舞は、人々のためのものではなかった。
少女を思い、捧げられている。再び飛び立てるように、少女の傷が癒えるように。祈り、願い、舞っていた。
舞い続ける妹を見つめる少女の目から、一筋涙が溢れ落ちた。
忘れていた、忘れようとしていた記憶が思い起こされ、少女を苛む。だがその痛みも、妹の舞が優しく包み込み癒やしていく。

「――ごめんなさい」

すべて、思い出した。

かつて、少女はとある小さな村の守り神だった。
穏やかに人々を見守り、人々のために尽くしてきた。
少女は人を愛していた。愛する人に応えられることが誇りだった。
ただ一度。過ちを犯す前までは。

その年の巫女は、他とは違っていた。
雅楽の音が豊穣を祈る。健やかに、穏やかに過ごせるようにと、願いを乗せて厳かに響き渡る。
だが巫女は。神楽を舞う巫女は、神である少女を思い舞っていた。
平穏であることを、自由に空を飛べることを祈り、願っていた。
神楽を見て、祈りを聞いて、少女は巫女がほしくなった。

そして気づけば、巫女を隠していた。


思い出してしまった。
巫女を屋敷に取り込んだこと。自身が怖ろしくなり、すべてを忘れてこの屋敷に閉じこもったこと。
舞い続ける妹が、あの日の巫女に重なる。巫女によく似たその横顔に、胸が苦しくなる。
妹の傷から伝わった負の思い。巫女が消え、少女もまた隠れたことで、その後の巫女の血族は神を誘惑したとして扱われていたのだろう。
ぐらり、と妹の体が大きく傾いだ。その小さな体が倒れ込む前に、少女は翼を広げ妹の元まで飛んだ。

「ごめん。ごめんなさい」
「おねえ、ちゃん……?」

妹の体を強く抱きしめ少女は謝罪の言葉を繰り返し、泣き続けた。



「ごめんなさい」

静かな妹の言葉に、少女は驚き顔を上げた。

「私の先祖が神様を苦しめて、ごめんなさい」
「違うっ!それは違うの」

首を振って、強く否定する。
苦しんでいるのは、巫女の方だ。屋敷に取り込まれ、二度と人として生きることはできない。

「私が悪いの。私だけを思って神楽を舞う巫女が欲しくなった。衝動を抑えることができなかった。全部私のせい」

それに、と少女は妹を抱く腕に力を込める。
きっとこの手を離せない。少女だけの特別、神への供物を手放せるはずなどなかった。


「ごめんね」
「かみさま?」
「その呼び方は嫌かな。お姉ちゃんがいい」

首を傾げる妹の体を、少女の背の翼が包み込んでいく。泣きながら笑い、次第に虚ろになる妹の目を手で覆った。

「一緒に村に戻ろうか。巫女としてでなく、妹として私の側にいて、一緒に飛んで」

左の翼が妹に融けていく。
力が抜け凭れかかる妹の背に、融けた翼が現れ出す。

「――お姉ちゃん」

小さな呟きに、少女は笑う。
止められない涙を流し続けながら、妹の言葉を肯定した。
妹の目を覆う手を離す。されるがままの妹の右手に自らの左手を繋ぎ、残った右の翼を広げた。

「行こうか。一緒に飛び立つよ」

妹の翼がゆっくりと広がっていく。
少女の翼が羽ばたき、起こした風が障子戸を、窓を開け放つ。
ふわりと少女の体が浮き上がる。手を引かれ、拙い動きで妹の翼が羽ばたいた。
一際強い風が、二人を囲うように巻き起こる。
外へと駆け抜けていく風が収まった後。

遠く空の向こうで、片翼の二羽の鳥が寄り添いながら飛んでいった。





その村には、片翼を持つ姉妹神が祀られている。
祭の夜。神楽殿から見上げた空に、寄り添い飛び立つ二柱の姿が見られたのならば、願いは叶えられるのだという。
故に村人は皆、祈りを込めて神楽を舞う。
眠らぬ夜を、二柱の神は見つめる。
互いに寄り添い翼を広げ、静かに山の向こうへと飛び立っていった。



20250821 『君と飛び立つ』

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