霧の中を、女が一人歩いていた。
足下は酷く覚束ない。手を伸ばし、霧の向こう側を探るように前へと進んでいる。
霧は深く、女が向かう先は僅かにも見えはしない。ただ烏とも違う低い鳥の声が、時折不気味に響くのみだった。
「もう一歩、あと一歩だけ……」
繰り返す譫言。夢見のように辿々しい。
また一歩足が進む。ゆっくりとだが確実に、霧の中へ女の体が呑み込まれていく。
不意にその腕を、少女の手が掴んだ。
「おねえさん」
鈴の音を転がしたかのような、澄んだ声音が女を呼ぶ。
「この先には、何もないよ。だから戻ろう?」
「でも……」
少女の言葉に、女は逡巡する。
少女を見つめ、その目が泣きそうに揺らいだ。
「行かないと……もう一歩だけって、声がするから」
見えない霧の向こうへと女は視線を向ける。少女もまた女と同じ方向を一瞥し、静かに問いかけた。
「それは誰の声?」
「彼の声よ。ほら、聞こえている。ずっと私を呼んでいるの……だから行かないと」
迷いのない女の答えに、少女は首を傾げる。
耳を澄ませるが、聞こえるのは鳥の鳴く声だけだ。
「本当に?」
問いを重ねれば、女は言葉に詰まる。
彷徨う視線。霧の先と少女の間で迷うように揺れ動く。
女の戦慄く唇がゆっくりと動く。だがそれは声にはならず、吐息だけが溢れ落ちていった。
鳥が鳴く。低い声が霧の向こう側から響いてくる。女の肩が震え、少女に掴まれたままの手を霧の向こうへと伸ばす。
「呼んでるの……もう一歩だけ、前に進めって呼んでる」
呼んでると繰り返しながらも、女の足は動かない。掴まれた腕を振り解くでもなく、縋る目をして少女を見つめた。
少女は黙したまま、女を見据える。女の言葉を肯定するでもなく、否定する訳でもない。
沈黙。時折聞こえる鳥の声だけが、場の静寂を乱していく。
「おねえさん」
少女が呼ぶ。女の目を見つめ、ふわりと微笑む。
「戻ろう、おねえさん」
静かな声に、女の頬を滴が伝い落ちた。
不意に霧が揺らぎ、道の先を微かに浮かばせた。
影が揺れ動く。それは巨大な黒の鳥の形をしていた。
「――あぁ」
女の目が鳥を認め、唇から嘆くような声が漏れる。
「あの鳥はね、おねえさんの思いを鳴くんだよ。もう一度呼んでほしいって、そう思っていれば鳥が代わりに鳴いてくれるの」
鳥が鳴く。その声は女を呼ぶのだろう。鳥を見つめる女の目から、はらはらと止めどなく涙が零れ落ちていく。
耐えきれなくなったのか、女はその場に崩れ落ちる。顔を覆い、嗚咽を溢す女の背を、少女はそっとさする。
しかしその目は鋭く、晴れていく霧が露わにする道の先を睨み付けた。
道の先は途中で途切れていた。黒い水を湛えた、池のような何かが広がっている。
その水面から、音もなく何かが浮かび上がる。
青白い男の顔。無表情にこちらを凝視し、ひび割れた唇が静かに開いていく。
「もう一歩。もう一歩だけ、こっちに」
歪な声が響く。男の未練が、女を呼び寄せ続ける。
男を睨み付けたまま、少女は女の背をさする。声だけは穏やかに、女に告げる。
「戻ろう、おねえさん」
女は泣きながら、小さく頷いた。
男の頭が揺れ動き、黒い波紋を広げていく。ゆっくりとこちらに近づくが、それでも黒い水から離れられないのだろう。水面から浮かぶ折れた指が縁を掻くが、水の中から這い上がる様子はない。
男の唇が再び開いていく。
「もう一歩……」
鳥が鳴いた。男の言葉を掻き消すように。
再び立ち込める霧が、男を覆い隠していく。
泣きながらも女が顔を上げた時には、男の姿は影すらも見えない深い霧の中に沈んでいた。
「――ありがとう」
鳥を見上げ、女が小さく呟く。それに応えて鳴く鳥は静かに飛び立ち、霧の向こう側へと消えていく。
それを見送って立ち上がる女の手を、少女はそっと繋ぐ。
軽く引けば、女は名残惜しげに霧の向こうを見つめながらも、振り返り元来た道を歩き出した。
途中で少女が手を離しても、立ち止まる様子はない。
その足取りは力強く。振り返ることは二度となかった。
遠ざかる女の背を見つめ、鳥は静かに鳴き声を上げた。
「もう振り切れたみたい」
鳥の止まる木の根元。凭れた少女が微笑み鳥を見上げる。
だがその笑みは不意に陰り、立ち込める深い霧の向こうへと憂う視線を向ける。
「おねえさんは大丈夫だけど……あっちはどうなのかな?諦めてくれればいいのだけれど」
黒い水の中に漂う男を差しているのだろう。死してなお、恋う者を呼び続けるその執念は、男が漂っていた水のように黒い。
女の先を憂う少女に、鳥は短く鳴いた。翼を広げ少女の元まで降り立つと、華奢な体を翼で包み込む。
「ありがとう」
淡く微笑みを浮かべ、少女は鳥の首に腕を回す。温かな体に擦り寄り、小さく吐息を溢した。
鳥は目を細めながら、少女を見つめ。愛を囀り、甘く声を上げる。
「少しだけ、どちらの気持ちも分かるかもしれない……一人になったら寂しくなって、もう一度だけでも呼んでほしいって思うし……一緒にいて欲しいって呼びたくなるから」
ごめんね、と囁く少女の声はか細く、儚い。
その声を掻き消すように、鳥は強く鳴く。
そんな未来は永遠に来ないのだと伝えるように、少女の頬に嘴を擦り寄せた。
20250825 『もう一度だけ、』
8/27/2025, 3:55:49 AM