「花火を見に行こうか」
不意に現れた彼に手を引かれ、夜道を二人歩いていく。
道中、誰ともすれ違わない。虫の声もしない、しんと静まり返った周囲に首を傾げた。
「今日、花火なんてあったっけ?」
「特別な花火だからな。知ってる奴は殆どいないよ」
彼は笑う。繋がれた手は離されることなく、歩いていく。
向かう先は、二人だけの秘密の場所だろう。
小高い丘の上。花火を見る時は、いつもそこで見ていた。
アスファルトの道路を外れ、小道に入る。木々の合間を抜けて、やがて目的の丘の上に着いた。
空が鮮やかに彩られ、どぉんと低い音が響く。
光と音がほぼ同時だったことに驚き、目を瞬いた。
「どこで花火を打ち上げているの?」
普段花火を打ち上げる河原からこの丘までは距離がある。
だからいつも花火が見え、一呼吸してから音がしていたはずだ。
「今日は特別なんだよ」
彼は笑うだけで、詳しくは語ろうとしない。
手を引き、いつもの場所に腰を下ろした。
手は繋いだまま。肩を寄せ合い、打ち上がる花火を見上げた。
夜空に大輪の花が咲く。
咲く音が鼓膜だけでなく、全身を震わせる。
「――どんなに喧嘩をしても、花火の時はこうして必ず二人で見ていたよな」
ぽつりと呟く彼に、花火を見たまま小さく頷いた。
「だって、花火は二人で見るって約束したから」
「そういえば、そうだったな。初めてここに連れてきた時にお前は泣くほど感激して、約束したんだっけか」
くすくすと、隣から笑い声が聞こえる。
花火の音にも消されなかったそれに、思わず眉が寄る。けれど初めて出会った時の彼の強引さを思い出し、笑みが溢れ落ちる。
母の後ろに隠れていた自分の手を引いて、無理矢理に連れ出した。怖くて泣く自分を宥めようと必死になりながら、それでも手は離さず戻りもしなかった。
結局丘まで連れられて、そのまま二人で花火を見た。あの時も、最後まで手は繋いだままだった。
「懐かしいな……実はさ、一目惚れだったんだ。俺を見てほしい。笑ってほしいって、必死だった」
「知ってる。顔真っ赤だったし、手も汗まみれだし……第一印象は、怖い人で最悪だった」
「だよなぁ。初対面でいきなり攫っちまったもんなぁ。こうして今も隣にいてくれることが、本当に奇跡だよ」
「私もそう思う。でも花火があったから、怖い人でなくて、いい人にはなったし。それからずっと優しかったからね」
昔話に花が咲く。
初対面こそ最低ではあったが、その後の彼はいつでも優しかった。
困っている時に必ず現れる、まるでヒーローのような人。
彼の差し出す手を取るのは、当然だった。
花火が打ち上がる。
夜空に鮮やかな花が咲き乱れる。
いつまで経っても終わる気配を見せない花火に、そっと横目で彼を見た。
「どうした?」
視線に気づき、彼がこちらを見る。
穏やかな微笑み。優しい眼差し。
いつもと変わらない彼が、隣にいる。
「花火、いつまで続くの?」
「いつまでも」
手は繋いだまま。
「特別だから、終わりなんてないよ」
手を引かれ、彼の胸に倒れ込む。
抱きしめられて、小さく体が震えた。
「ごめんな。置いていって」
静かな声が降る。
聞きたくないと思っても、片手は繋がれ、自由な手も彼の服を握り締め動かない。
「帰って来れなくて、本当にごめん」
繋ぐ手に力が籠もる。
冷たい手だ。抱きしめる腕も冷たく、彼の胸からは何の音もしない。
聞こえるのは、花火の音。どぉんと打ち上がり、ぱらぱらと散っていく。その音だけ。
「どうする?」
問いかけられ、意味が分からず困惑する。
強く抱きしめられて、息が詰まる。けれど彼は気にすることなく、耳元に唇を寄せ囁いた。
「このままずっと、手を繋いで。終わらない花火を見ていようか」
穏やかに、残酷に。
彼は誘う。何より求めていた言葉を告げ、答えを委ねている。
なんて酷い選択をさせるのだろう。いつものように手を引いて、奪っていってくれればいいのに。
そう思いながら、小さく息を吐く。
ゆっくりと顔を上げて、彼の目を見た。
「手を離すわ。先に進むって、そう決めたから」
例え一人きりでも。立ち止まらないと、あの日の彼の前で決めたのだから。
その選択に、彼は目を細めて頷いた。
「それでいい」
笑顔でありながら、その目は涙で濡れている。抱きしめる腕の力はさらに強くなり、繋ぐ手は離れないようにと指を絡められた。
矛盾する彼の行動が可笑しくて、笑みが溢れる。彼のように泣きながら、それでも服を掴む手をそっと離した。
「今日をきっと忘れない。前に進むけどあなたを忘れられないから、私はこの先誰とも恋はしないわ」
「俺が最初で最後の恋ってわけか。じゃあ、愛は?」
顔を近づけ、彼は囁く。
強い眼差しに、呆れながら告げた。
「愛は、まだよく分からない……分からないから、奪ってしまえば?」
そっと目を閉じる。
唇に熱を感じて、体はこんなにも冷たいのに可笑しなものだと笑いそうになる。
花火の音が激しくなる。終わらぬはずの花火が、終わりを告げるように盛大に打ち上がる。
手は離れない。抱きしめる腕の力も緩むことはない。
「側にいる。ずっとお前だけの側に」
囁かれた言葉に耐えきれず、声を上げて笑った。
最後の花火が打ち上がる音が、一際大きく鳴り響く。
夏の終わりを惜しむように、いつまでも聞こえていた。
アラームの音で目が覚めた。
腕を伸ばし、アラームを止める。そのまま起き上がり、大きく伸びをした。
夢を見ていた気がする。
星のように静かに煌めく、小さくて温かな夢だった。
思い出せないことを、少しだけ惜しむ。
苦笑して、気分を切り替えようとベッドから抜け出し、カーテンを開けた。
快晴。目を細めて澄み切った青空を見上げた。
そっと窓を開けてみる。途端に吹き込む風が髪を揺すり、服の裾を捲る。手首に巻かれた包帯を撫でて、部屋の中へと入り込んだ。
「あぁ、うん。大丈夫……もう大丈夫だよ。立ち止まったりなんてしない」
部屋の小物を揺らす風に向けて、するりと言葉が出た。
思わず苦笑する。忘れないと言いながら、すぐに忘れてしまうとは。
一時でも忘れたことを謝るように、手を伸ばした。
「思い出した。ちゃんと思い出せたから、心配しないで。もう忘れたりしないから」
優しく裾を揺らす風が、外へ出る様子はない。
心配性だなと思い、だがすぐにそうさせているのは自分なのだと申し訳なくなる。
「大丈夫だって。側にいてくれるんでしょう?なら、もう二度と立ち止まったりしない……前を向いて歩けるから」
あの花火の夜の記憶があれば、前を向ける。
自分は一人ではないのだと、信じられるから。
約束、と差し出した小指に絡みつく風に、ありがとうと囁いた。
20250820 『きっと忘れない』
なぜ泣くの?
それは当然、悲しいからですよ。
裏切られ、傷つけられて、悲しくて堪らないから泣くのです。
嬉しいから泣く?
ごく一部の、恵まれた方の特権でしょうね。
少なくとも、私は悲しみ以外で泣いたことはありません。
あぁ、たまに苦痛に泣くこともありますが。
それ以外の感情で、泣くはずなどないのです。
そこで声は途切れ、停止ボタンを押した。
いつの間にか鞄の中に紛れていた、古いカセットテープ。
おそらくは、実家に帰省した時に紛れてしまったのだろう。
ラベルには何も書かれていない。何が吹き込まれているのか分からないことが、好奇心を掻き立てた。
ひとつ息を吐く。
わざわざデッキを手に入れたというのに、肝心の中身は知らない女性の一人語り。期待が大きかったこともあり、その分落胆も大きかった。
カセットテープを、デッキごと押し入れに仕舞い込む。
気分を切り替えるため、鞄を手に出かけることにした。
数日後。部屋の片付けをしていると、押し入れの中からカセットデッキが転がり出てきた。
デッキを手に取り、中のカセットテープを見て思い出す。
何の面白みもなかったカセットテープ。淡々とした女性の声が脳裏を過り、眉が寄る。
処分してしまおうか。
売りに出すという選択肢もあるが、これ以上テープのために時間を浪費したくない。
そう思い、デッキを手に立ち上がった時だった。
「――私は、裏切られたのです」
デッキから、あの女性の声が聞こえた。
偶然、再生ボタンを押してしまったらしい。
泣く理由を聞かれ答えていたはずの声は、裏切られたことに対する恨み言へと変わっていた。
抑揚の薄い、淡々とした口調が怖ろしい。
怖くなり、急いでデッキの停止ボタンを押した。
「私は、あなたを許さない」
ボタンを押す直前、聞こえた声に肩が揺れる。
今まで聞こえていた、ノイズ混じりの不明瞭な声ではなかった。
すぐ側で直接告げられたかのような、そんな明瞭な声だった。
不意に背筋が寒くなる。
後ろに誰かがいる。そんな気配がして、体が硬直する。
勇気を振り絞り振り向いても、誰もいない。当たり前のことに安堵して、同時に酷く怖ろしかった。
手の中のデッキに視線を落とす。
捨てるのすら、怖ろしい。元は実家にあったのだから、戻すべきだ。次の休みに戻しに行こう。
そう判断して手近にあった紙袋を掴み、中にデッキを入れる。机の脇に押しやり、出来る限り視界に入れないようにしながら、片付けに専念した。
その夜。
ふと目が覚めた。
辺りはしんと静まりかえっている。いつもなら聞こえる時計の音も、外を走る車の音も聞こえない。
体を起こそうとして、しかし指先ひとつ動かせないことに気づいた。
金縛り。途端に何かの気配がして、心臓が大きく跳ねた。
誰かがいる。すぐ側で、寝ている自分の顔を覗き込んでいる。
そんな気がして、閉じた瞼に力が籠もる。目を開けたくない。見てしまうのが怖ろしい。
だが意識とは裏腹に閉じた瞼から力が抜け、ゆっくりと開いていく。目の前の誰かを確認しようと、視線が上を向く。
「――っ」
暗がりの中、誰かがこちらを見ていた。
長い髪が、顔にかかる。逆さまの顔が、静かに近づいてくる。
じじ、とカセットテープのノイズが聞こえた。女性の声が聞こえ始める。
「悲しいから泣くのです」
テープの音声に合わせて、誰かの唇が動く。暗闇に慣れてきた目が、誰かの姿を認識する。
「悲しい。苦しい。それ以外の感情で、泣くはずなど……」
息を呑み、目を見開いた。
覗き込むその目から、視線を逸らせない。
「あなたを、許さない」
表情の抜け落ちた、能面のようなその顔は。
自分の顔だった。
朝が来て、我慢できずに会社に連絡し、休む旨を伝えた。
次の休みなど待っていられない。すぐにでもカセットテープを手放したかった。
車に乗り込み、実家へと向かう。
助手席に置いた紙袋から、また音が聞こえるのではないか。そんな恐怖に耐えながら、震える手でハンドルを握り締めた。
連絡もせずに訪れたため、実家には姪しかいなかった。
「どうしたの?忘れ物?」
首を傾げる姪に、笑って誤魔化しながら家へと入る。
カセットテープは、両親の部屋にでも置いておけばいい。
早く解放されたい。その思いで部屋へ向かおうとした自分を、姪の無邪気な声が呼び止めた。
「ねぇ……なぜ、泣いているの?」
思わず立ち止まる。
振り向けば、視界の先の姪の姿がやけに滲んでいた。
ゆっくりと目元を拭う。濡れた感覚と僅かに明瞭になった視界に、自分が泣いていたことに気づいた。
「なぜ泣いているの?」
再度姪に問われ、答えに戸惑う。
なぜ泣いているかなど、自分でも分からない。
――私は、悲しみ以外で泣いたことなど……
頭の中で、女性の声が繰り返している。淡々とした、けれども悲しい声が離れない。
「――悲しいから」
泣きながら、それだけを答えた。
「そっか。悲しいの」
小さく呟いて、姪はそっと手を握る。
そのままリビングに連れられて、椅子に座らされた。
紙袋を取られ、中からカセットデッキを取り出される。呆然とする自分の前で、姪はデッキからテープを取り出すと、くるりと裏返し、デッキに入れた。
「――いやだ……まって……」
止める間もなく、再生ボタンが押される。
ノイズと、続いて声が聞こえてきた。
「――なぜ泣くのって?」
だがそれは、あの女性の声ではなかった。
「あの子が笑わないから」
柔らかな声が語る。
約束を破ってしまった。一緒に卒業する、側にいるという約束を守れなかった。
あの子の側にいても、気づいてもらえない。慰めることができず、一人泣くあの子を見ていることしかできないのが悲しい。
「あの子が悲しいと、私も悲しい。あの子が泣くから、私も泣くの」
そこで、声は途切れた。
「なぜ泣くの?」
姪が尋ねる。
流れる涙を拭い、答えた。
「寂しいから」
姪は――彼女は、その答えに悲しく笑った。
「ごめんね。約束したのに」
首を振る。
彼女は何も悪くない。悪いのは、弱かった自分なのだから。
「ごめんなさい……気づけなくて……自分勝手に恨んでしまって。本当にごめんなさい」
彼女に手を伸ばす。
拒絶されてもおかしくはない。けれども彼女はその手を取って、ごめんねと囁いた。
「次こそ、一緒にいようね」
その言葉に強く頷いた。
霞んでいく彼女が差し出す小指に、自分の小指を絡めて約束する。
「必ず……約束」
微笑む彼女が残した小指の熱が、いつまでも引かなかった。
20250819 『なぜ泣くの?と聞かれたから』
谷間にあるその場所は、秘境の宿として長く人々に愛されていた。
四季折々に咲く花々。木々の騒めきや川のせせらぎ。鳥の囀りや、虫の羽音。
広大な景色は美しく、聞こえる自然の音もまた心地が良い。
奥まった場所に位置するため、その道中は長く険しい。宿に至る道は複雑で、訪れる客はほとんどいない。
それでも決して客の途絶えない、美しい宿だった。
その宿では、一人の少女が働いていた。
薄紅の着物を着た、齢十七程の少女。その目は紺の布に覆われ、少女が盲目であることを示していた。
「いらっしゃいませ。また訪れて頂けて、とても嬉しいです」
不思議なことに、盲目である少女は誰よりも早く訪れた客に気づく。訪れた客人すべてを記憶しているようで、声をかける前にこうして言い当てる。
「足音で分かります。誰一人、同じ音を立てる方はおりませんから」
何故分かるのか。そう問えば、決まって少女はこう答える。
歩幅、歩調。足の運びの些細な違いを、少女は盲目であるが故に繊細に聞き分け、認識しているのだろう。
宿に訪れる客は、この盲目の少女の語りを楽しみにしている者が多かった。
少女の唇から紡がれる、ここではないどこかの話。妖しく美しいそれは、聞き入る者すべてを魅了した。
「――社の外に鳴り響くは太鼓の音か。あるいは遠雷の音なのか……」
その夜も、少女は広間に座り語る。
山神の嫁取りの話。少女の言葉に合わせ、遠く微かに雷の音が鳴った。
その日宿に訪れた客は一人きり。何度か訪れたことのある若者は、語る少女に視線を向け密かに首を傾げた。
少女の隣に、もう一人少女がいた。
水浅黄の着物を纏い、物音一つ立てず盲目の少女の隣に寄り添っている。
以前訪れた際にはいなかった、静かな少女。彼女は誰なのか、語り終えた少女に近づき、声をかけた。
「君の隣にいた子は誰だい?」
客人の問いに、少女は首を振って否定する。
「誰もおりませんよ。足音がしませんでしたから」
そんなはずは、と言いかけ客人は口を噤む。
いつの間にか、あの静かな少女は広間から姿を消していた。
「足音がしないのであれば、そこには誰もいないはずです。この宿は特に足音が響きますので」
確かにそうだ。
この宿は古く、板張りの廊下は音が響く。広間もまた、歩けば軋んだ木の音が鳴った。
家鳴りのする場所で、音もなく姿を消せるものはいるはずがない。いるとすれば、と想像を巡らせ、客人はふるりと肩を震わせそれ以上を考えることを止めた。
それでも二日目、三日目と、あの水浅黄の着物を着た静かな少女を、客人は見た。足音は一つも残さない。気づけば盲目の少女の隣に佇み、ふと視線を逸らした瞬間には、その姿が消える。
「如何いたしましたか?」
「――いや、何でもないよ」
首を傾げる少女に、笑いながら首を振る。
足音がしないのならば、そこには誰もいないことと同じ。
音のない少女が怖ろしい訳ではなかった。だがしかし、音がない意味を考える度に口が重くなる。
客人は結局、音のない少女について尋ねることがないまま、盲目の少女に見送られ宿を離れた。
ある満月の夜。
盲目の少女は一人縁側に座り、外の音を聞いていた。
吹き込む風が風鈴を鳴らす。少女の髪を着物の裾を揺らし、室内へ入り込む。
気づけば盲目の少女の隣に、水浅黄の着物を着た少女が立っていた。
迷うように瞳を揺らし、やがて意を決して盲目の少女の隣に膝をつく。床板を軋ませることも、衣擦れの音すらも立てず、腕を伸ばし盲目の少女の頬に手を触れさせる。
盲目の少女の肩が、小さく震えた。だが声を上げることはなく、触れる手に自らの手を重ね包み込む。
「やはり、貴女がいたのですね」
返る言葉はない。
「皆様が教えて下さいました。私の隣に、同じ年の瀬の少女がいるのだと」
言葉の代わりに、静かな少女は頷いた。
包む手と手を繋ぎ、軽く引く。
それだけで意図を理解したのだろう。盲目の少女は淡く微笑んで首を振る。
「私は、帰り道を失いました。帰ることは叶いません。ですから、貴女は一人でお帰りなさい」
その言葉に、静かな少女は激しく首を振る。
繋いでいた手を離し、盲目の少女の目を覆う紺の布を取り去った。
「っ、何を……」
頬を包み込み、顔を寄せる。閉じた右の瞼にそっと唇を寄せた。
触れた唇の熱に、盲目の少女の瞼が震えた。唇が離れていくのを追うように、そっと瞼が開いていく。
光を宿した右目。その代償に、見つめる目の前の少女の右目は、光を失い澱んでいた。
感情のままに何かを言いかけ、けれども泣きながら微笑む目の前の静かな少女の姿に何も言えずに息を吐く。
言葉の代わりに、右手を少女の震えぬ喉に触れさせた。
「――ぁ」
「地上で生きるのは大変だというのに、本当に寂しがりなのですから」
触れる喉が震えるのを指先で感じ、そっと手を離す。
「一日おきに声を貸しましょう。この右目のお礼に」
盲目の少女の声が、掠れ小さくなっていく。
涙を流しながら抱きつく少女の声が紡がれる。
「ずっと、逢いたかった」
しゃくり上げながら思いを告げる。離れたくないと、腕に力を込めた。
「声……ありがとう。隣でまた歌えるの、とっても嬉しい」
微笑んで奏でる旋律が、夜の静寂に解けていった。
谷間にあるその宿は、人々に愛され続けている。
特に客人を楽しませているのは、宿で働く二人の少女による語りや歌だ。
左目を布で覆い薄紅の着物を着た少女は、心躍るような物語を紡ぎ。
右目を布で覆い水浅黄の着物を着た少女は、心揺さぶる歌を紡ぐ。
一日おきに紡がれる語りや歌。聞いた者を虜にして、宿は山の奥にありながらも賑わいを見せている。
少女達は寄り添い、今宵もまた客人のために言葉を紡ぐ。
けれども少女達の足音を聞いた者は、誰一人いない。
20250818 『足音』
「いらっしゃい」
祖母の温かな声に出迎えられて、家の中へと招かれる。
「久しぶり。大きくなったなぁ」
祖父が笑う。
それに会釈をして、靴を脱ぎ玄関を上がった。
夏休みの後半は、いつも祖父母の家に一週間滞在する。
毎年同じ台詞を繰り返す祖父母は変わらない。ここに来るまで見てきた村の様子も、おそらくは家の中も変わらないのだろう。
「お邪魔します」
小さく呟いて、いつものように部屋へと向かう。
祖父母の家に訪れる度毎年利用する部屋は、やはり祖父母と同じく変わりはなかった。
部屋に入り、横になる。自分の家では嗅ぐことのないい草の匂いがして、深く息を吸い込んだ。
夕飯までは時間がある。
さてどうしようかと横を向いた時、目に入った古いラジオが気になった。
体を起こし、手に取って電源を入れる。つまみを回すが、どの番組も僅かに音が聞こえるのみだ。
諦めて電源を落とそうとした時、ノイズが途切れた。耳を澄ますと、微かに古い歌が聞こえてくる。
「――聞こえていますか」
歌の合間に、はっきりとした女の声が囁いた。それきり、声も歌も聞こえなくなり、溜息を吐いてラジオの電源を落とす。
ラジオを戻し、窓へと近づいた。
窓を開ければ、涼しげな風が吹き込んでくる。
目を細めて空を見上げ、澄んだ空気を吸い込んだ。
心地の良い風に吹かれながら、庭先へと視線を落とす。
広い庭。祖父が手入れを行っているだろう松などの木々を眺め、その近くの畑を眺める。
トマトやナス、キュウリ。トウモロコシやカボチャなど、様々な野菜を視界に入れて控えめに腹が鳴る。
苦笑して、その側に咲くひまわりの花へと視線を移した。十本ほどのひまわりが大輪の花を咲かせている。だがその違和感に、眉を潜めた。
太陽とは真逆を向いている。皆一様に、太陽ではない方向に向けて咲いていた。
ひまわりが、こちらを見て咲いていた。
緩く頭を振って、窓を閉める。
きっとそれは自分の気のせいだろう。
数日が過ぎた。
今年も同じように、祖父母の家で過ごしている。
縁側でスイカを食べ、畑を手伝い、暇になれば周囲を散策する。
いつもと変わらない。
「明日はお祭りだからね。浴衣を出しておこうか」
「今日じゃないの?昨日、同じことを言っていたけど」
首を傾げて聞き返す。
祖母は昨日、全く同じ言葉を告げていなかっただろうか。
しかし祖母は穏やかに笑うだけで、何も言わない。
「去年よりもまた大きくなったからな。お前の父ちゃんの浴衣が入ればいいんだがな」
居間でテレビを見ていた祖父が、昨日と同じ台詞を繰り返す。
「大丈夫ですよ。あの子には大きかった浴衣を残してありますから。それを出しましょうね」
同じ台詞。同じ口調。笑い方さえ同じ調子で、二人の会話が続いていく。
その違和感に耐えられず、適当に誤魔化し部屋に戻った。
一人になって、溜息を吐く。
祖父母の様子を思い出しながら、手慰みにラジオの電源を入れる。
つまみを回しても、何も聞こえない。砂のようなノイズを聞きながら、気持ちを落ち着かせていく。
不意に、ノイズが途切れた。微かに古い歌が流れて、静かに誰かの吐息が混じる。
「――どこにいるのですか」
女の声。それきり沈黙し、やがて歌もノイズに掻き消される。
電源を落としてラジオを戻す。
そう言えば、今日見たテレビの内容は昨日とまったく同じだったことを、今更ながらに気づいた。
気分を変えるために、窓を開けた。吹き込んだ風の冷たさに、ほぅと吐息を溢し何気なく庭に視線を向ける。
目に入ったそれに硬直する。
大輪のひまわり。背が伸び、数を増やして咲いていた。
その花の向きは、やはりすべてこちらを向いていた。
「明日はお祭りだからね。浴衣を出しておこうか」
あれから何日が過ぎたのだろう。
同じ台詞。変わらない番組。いくら繰り返しても、次の日は訪れない。
「去年よりもまた大きくなったからな。お前の父ちゃんの浴衣が入ればいいんだがな」
そっと居間を出た。
きっと二人は気づかない。同じ台詞を繰り返し続けている。
部屋に戻る気にもなれず、外へと出た。
強い陽射しと、冷えた風。
誰もいない小道を抜けて、当てもなく歩いていく。
しかしすぐに、その足は止まった。
一面のひまわり畑。
昨日までは田んぼだったはずのその場所に、ひまわりの花が無数に咲いている。
風に花が揺れている。自分と同じ背丈の花が、ゆらゆらと。
その花はすべて、太陽ではなくこちらを向いていた。
息を呑み見つめるひまわり畑の奥。小さな人影が見えた。
夏着物を着た女。髪を上げ、俯いている。
女がゆっくりと顔を上げる。はらりと一筋髪が流れ落ち、女の顔が見えてくる。
咄嗟に目を閉じた。深呼吸をして、そっと目を開ける。
女の姿はどこにもない。無数に咲き乱れるひまわりも消え、青々と茂る稲穂が風に揺れているだけだった。
踵を返して、家へと駆け出した。
乱暴に玄関扉を開け、転がるように中へと入る。
ぴしゃりと扉を閉め、靴を脱ぎ散らかしながら部屋へと駆け込んだ。
畳みに倒れ込む。荒い呼吸を落ち着かせて、仰向けに寝転んだ。
不意に、触ってもいないラジオがついた。
しばらくノイズを吐き出して、何回か聞いた古い歌を流し出す。
そして、歌が止む。躊躇うような誰かの吐息が溢れ、息を呑む音がした。
「――いつまでも、お待ちしております」
女の声でそう告げて、沈黙する。
ラジオの電源が落ちて、ざわりと風が吹き込んだ。
視線を向ければ、窓が開いていた。
その窓の端で黄色が揺れている。
吹き込んだ風が、花弁を運ぶ。黄色い花弁。窓から視線を逸らせない自分の上に降り注ぐ。
窓の外で、いくつものひまわりの花がこちらを見て咲いていた。
同じ朝。同じ台詞。同じ番組。
繰り返す同じ日から、逃げ出すように外へ出た。
家の外はひまわりに囲まれている。
田んぼや畑。隣家さえ、ひまわり畑に変わっていた。
ざわざわとひまわりが揺れる。見下ろす目線で、こちらを向いて咲いている。
僅かな隙間を見つけ、駆け出した。
どこまで行っても変わらない。視界を埋める黄色が、離れない。
息が切れ、足が縺れる。ふらつく自分をひまわりが見下ろしている。そう思うと、立ち止まることができず、苦しさを誤魔化し必死に走る。
不意に、開けた場所に出た。
思わず立ち止まる。吹き出す汗と涙で滲む視界を拭い、前を見る。
中心に、いつか見た女が立っていた。
夏着物。薄い色。帯は落ち着いた紺。
顔を上げ、女は真っ直ぐにこちらを見つめている。
その綺麗な唇から、静かに言葉が紡がれた。
「いつまでも、おかえりをお待ちしております」
ラジオを同じ声。美しい、愛おしい声音。
違う、と咄嗟に否定する。
彼女が待っているのは自分ではない。
違うのだと否定しても、じわりと広がる何かが、胸の奥で肯く。
ようやく帰って来れた。長いこと一人にさせてしまったのだと、自分の中の何かが悔やむ。
自分の意思に反して、ふらつく足が前に出た。土を踏み締め、一歩ずつ近づいていく。
ひまわりがこちらを見ている。自分と彼女の再会を見届けている。
「おかえりなさいませ」
彼女が微笑む。
その瞬間に、彼女を否定する思いが砕けて消えた。
「あぁ、ずっとここで待っていてくれたのか」
言葉が溢れ落ちる。
彼女の華奢な肩を引き寄せ、強く抱きしめた。
懐かしい香り。陽と水と、土の匂いを吸い込む。
足下で、根が絡む音がした。
「いらっしゃい」
温かな声に出迎えられ、荷物を抱えた若者が家の中へと入っていく。
「久しぶり。大きくなったなぁ」
笑顔で告げられた言葉に、恥ずかしげに笑う。靴を脱ぎ会釈をして、促されるままに奥へと向かう。
その背を追い、庭のひまわりが一斉に顔を向けた。
蝉時雨が響く。
テレビは同じ番組を流し、人々は何も気づかず同じ台詞を繰り返す。
ラジオから古い歌が流れてくる。ノイズ混じりに、かつての日々を何度も歌い上げる。
枯れないひまわりが、ただ一人を向いて咲く。
夏は終わらない。
何度でも、繰り返す。
20250817 『終わらない夏』
蝉時雨が離れない。
どれだけ歩き続けただろうか。
焼けたアスファルト。舗装されていない細道。田んぼの畦道。
雑木林を抜け、遮るもののない田畑を過ぎても蝉の声が付き纏う。
見上げる空は、陰ることのなく高く昇ったままの陽が煌めいている。遠く見えた入道雲は凍ったように動こうとはしない。
あれからどれだけ時間が経ったのだろう。
墓参りの帰り。
いつもより、蝉の声が大きく聞こえた。耳を塞いでも聞こえてくる。
鼓膜を震わせ、脳を揺すり、次第に鳴き声が泣き声に変わるように感じられ。
気づけば無心で駆け出していた。
蝉時雨はどこまでもついてくる。
家路へとついていたはずが、知らない道を歩いていた。
誰もいない田舎道。強い陽射しは、けれども暑さを感じない。
遠く朧気に逃げ水が見え、その揺らぎに一瞬、誰かの姿を見た気がした。
蝉の鳴き声が響く。
立ち止まりかけた足に力を込め、歩き続ける。
立ち止まる訳にはいかない。立ち止まってしまえば、また蝉が空から落ちてくるのだから。
その時の光景を思い出し、肩がふるりと震えた。
ぼとり、と落ちた蝉。仰向けで、時折力なく足を動かして、踠いていた。
ぼとり、ぼたりと蝉が落ち、地面を黒く埋めていく。
そして、一斉に泣き出すのだ。
辺りに響く蝉時雨と、落ちた蝉の鳴き声。
反響し、広がって。それは人の呻き声に成り代わっていく。耐えきれず、必死で逃げ出した。落ちた蝉を踏み潰すことすら厭わぬほどに、怖ろしくてたまらなかった。
どこへ行けばいいのかも分からず、ただ歩き続ける。
土の道を辿り、陰らぬ陽と蝉時雨を連れて進んでいく。
進む先に、何かの煌めきが見えた。
逃げ水とは違う。近づく度に煌めきは輪郭を持ち、それは我が家へと形作っていく。
懐かしさすら感じられる我が家。あと少しだと、疲れた体をむち打って、重い足を引きずり歩く。
ぼとり。
行く道の前に蝉が落ちる。
ぼとり、ぼたり。
蝉が空から落ちてくる。頭に、肩に降り積もり、払われて地を埋めていく。
耳元で蝉が鳴く。誰かの呻きが脳を揺らす。
耳を塞いでも消えない。声が、呻きが聞こえてくる。
――おい。
――おぉい。
声が呼ぶ。
降り積もる蝉の重さに思わず膝をついた。
固いはずの地面は柔らかく、ずぶりと体を沈めていく。
逃げだそうと土を掻いても、端から崩れ落ちていく。疲れた体では、沈む体を引き上げることなどできなかった。
沈んでいく。地の中に。だが暗いはずの地の底は明るく、焼けた朱が広がっていた。
目を見開いた。沈み続ける体を動かして、空を見上げる。
陰らぬ陽。青い空と白い雲。
誰かの目。
ひっと掠れた悲鳴が漏れる。
巨大な目がひとつ、空に浮かんでいた。
見下ろす目が瞬く度に、目尻から黒が落ちてくる。
まるで涙のように、目から零れ落ちた蝉が降る。
――あぁ。
誰かの嘆きが聞こえる。口のない目の代わりに、蝉が一斉に鳴き出す。
目を逸らすこともできず、体は沈む。
蝉時雨を、誰かの声を聞きながら、朱い地の底へと落ちていく。
――違う。
誰かが囁いた。
地の底ではないと。空へ落ちていくのだと、蝉が鳴く。
――あぁ、そうか。
泣きながら、土を掻く指を離した。
目を閉じる。何もかもを諦めて、体を沈めていく。
朱い色。どこか遠くの空へ、落ちていくのだろう。
――かえりたい。
――かえりたい。かえらせて。
誰かが泣く。
それともそれは、蜩の声だろうか。
ふと、帰れなかった家を思う。
誰もいない家。とても大切な、自分の居場所。
帰りたいと、呟いた。
けれども、それは。
蝉の声となって、夕暮れの空に空しく響いた。
夕暮れの帰り道を、子供たちが笑いながら駆けていく。
不意に一人が立ち止まる。皆立ち止まり、道の先に落ちているそれに視線を落とした。
腹を見せ、力なく地面に転がる一匹の蝉。
子供たちが見つめる中で、じりじりと鳴き出した。
「うわっ。死んでんのかと思ったら、鳴き出したぞ」
「セミ爆弾ってやつだろ。聞いたことあるぜ」
「じゃあこいつ、そろそろ死ぬんだ。あっけないな」
遠巻きに蝉を眺め、子供たちは笑う。
陽が陰り、空が朱から紺に色を変え始める。空を見上げる子供たちの記憶には、目の前の蝉など欠片も残らない。
「早く帰ろうぜ」
「俺んち、ばあちゃんが送り火を焚いてくれてるからさ。その火で花火をしないか?」
「いいな、それ!じゃあ、帰ったらお前ん家に集合な}
「よっしゃあ!俺、この前使った花火の残り、全部持ってくから!すっげえでっかいの、まだ取ってあるんだ」
「俺も、俺も!やっぱとっておきは、送り火の時にやるのが一番だよな」
はしゃぐ声。じゃあな、と互いに声をかけて家へと帰っていく。
じりじりと、蝉が鳴く。かなかなと、蜩の声が響く。
日が暮れる。家々や街灯に明かりが灯り始める。
蜩の声は消え、虫が鳴き始める。
地に落ちた蝉は動かない。微かな鳴き声を上げ続け、やがてその声すら途絶えていく。
夜が訪れる。
あちらこちらで火が焚かれ、人々は楽しげに談笑する。
送り火。盆の終わり。
花火を手に、子供たちがはしゃぎ遊んでいる。
その火の意味を知らず、楽しげに笑い合う。
蝉は鳴かない。
その終わりを誰も気に留めない。
蝉のように誰にも気づかれず、夏が過ぎていく。
ゆっくりと、静かに、
夏が、終わっていく。
20250816 『遠くの空へ』