sairo

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蝉時雨が離れない。

どれだけ歩き続けただろうか。
焼けたアスファルト。舗装されていない細道。田んぼの畦道。
雑木林を抜け、遮るもののない田畑を過ぎても蝉の声が付き纏う。
見上げる空は、陰ることのなく高く昇ったままの陽が煌めいている。遠く見えた入道雲は凍ったように動こうとはしない。

あれからどれだけ時間が経ったのだろう。
墓参りの帰り。
いつもより、蝉の声が大きく聞こえた。耳を塞いでも聞こえてくる。
鼓膜を震わせ、脳を揺すり、次第に鳴き声が泣き声に変わるように感じられ。
気づけば無心で駆け出していた。

蝉時雨はどこまでもついてくる。
家路へとついていたはずが、知らない道を歩いていた。
誰もいない田舎道。強い陽射しは、けれども暑さを感じない。
遠く朧気に逃げ水が見え、その揺らぎに一瞬、誰かの姿を見た気がした。
蝉の鳴き声が響く。
立ち止まりかけた足に力を込め、歩き続ける。
立ち止まる訳にはいかない。立ち止まってしまえば、また蝉が空から落ちてくるのだから。
その時の光景を思い出し、肩がふるりと震えた。

ぼとり、と落ちた蝉。仰向けで、時折力なく足を動かして、踠いていた。
ぼとり、ぼたりと蝉が落ち、地面を黒く埋めていく。
そして、一斉に泣き出すのだ。
辺りに響く蝉時雨と、落ちた蝉の鳴き声。
反響し、広がって。それは人の呻き声に成り代わっていく。耐えきれず、必死で逃げ出した。落ちた蝉を踏み潰すことすら厭わぬほどに、怖ろしくてたまらなかった。

どこへ行けばいいのかも分からず、ただ歩き続ける。
土の道を辿り、陰らぬ陽と蝉時雨を連れて進んでいく。
進む先に、何かの煌めきが見えた。
逃げ水とは違う。近づく度に煌めきは輪郭を持ち、それは我が家へと形作っていく。
懐かしさすら感じられる我が家。あと少しだと、疲れた体をむち打って、重い足を引きずり歩く。

ぼとり。
行く道の前に蝉が落ちる。
ぼとり、ぼたり。
蝉が空から落ちてくる。頭に、肩に降り積もり、払われて地を埋めていく。
耳元で蝉が鳴く。誰かの呻きが脳を揺らす。
耳を塞いでも消えない。声が、呻きが聞こえてくる。

――おい。
――おぉい。

声が呼ぶ。
降り積もる蝉の重さに思わず膝をついた。
固いはずの地面は柔らかく、ずぶりと体を沈めていく。
逃げだそうと土を掻いても、端から崩れ落ちていく。疲れた体では、沈む体を引き上げることなどできなかった。
沈んでいく。地の中に。だが暗いはずの地の底は明るく、焼けた朱が広がっていた。
目を見開いた。沈み続ける体を動かして、空を見上げる。
陰らぬ陽。青い空と白い雲。

誰かの目。

ひっと掠れた悲鳴が漏れる。
巨大な目がひとつ、空に浮かんでいた。
見下ろす目が瞬く度に、目尻から黒が落ちてくる。
まるで涙のように、目から零れ落ちた蝉が降る。

――あぁ。

誰かの嘆きが聞こえる。口のない目の代わりに、蝉が一斉に鳴き出す。
目を逸らすこともできず、体は沈む。
蝉時雨を、誰かの声を聞きながら、朱い地の底へと落ちていく。

――違う。

誰かが囁いた。
地の底ではないと。空へ落ちていくのだと、蝉が鳴く。

――あぁ、そうか。

泣きながら、土を掻く指を離した。
目を閉じる。何もかもを諦めて、体を沈めていく。
朱い色。どこか遠くの空へ、落ちていくのだろう。

――かえりたい。
――かえりたい。かえらせて。

誰かが泣く。
それともそれは、蜩の声だろうか。
ふと、帰れなかった家を思う。
誰もいない家。とても大切な、自分の居場所。

帰りたいと、呟いた。
けれども、それは。

蝉の声となって、夕暮れの空に空しく響いた。





夕暮れの帰り道を、子供たちが笑いながら駆けていく。
不意に一人が立ち止まる。皆立ち止まり、道の先に落ちているそれに視線を落とした。
腹を見せ、力なく地面に転がる一匹の蝉。
子供たちが見つめる中で、じりじりと鳴き出した。

「うわっ。死んでんのかと思ったら、鳴き出したぞ」
「セミ爆弾ってやつだろ。聞いたことあるぜ」
「じゃあこいつ、そろそろ死ぬんだ。あっけないな」

遠巻きに蝉を眺め、子供たちは笑う。
陽が陰り、空が朱から紺に色を変え始める。空を見上げる子供たちの記憶には、目の前の蝉など欠片も残らない。

「早く帰ろうぜ」
「俺んち、ばあちゃんが送り火を焚いてくれてるからさ。その火で花火をしないか?」
「いいな、それ!じゃあ、帰ったらお前ん家に集合な}
「よっしゃあ!俺、この前使った花火の残り、全部持ってくから!すっげえでっかいの、まだ取ってあるんだ」
「俺も、俺も!やっぱとっておきは、送り火の時にやるのが一番だよな」

はしゃぐ声。じゃあな、と互いに声をかけて家へと帰っていく。

じりじりと、蝉が鳴く。かなかなと、蜩の声が響く。
日が暮れる。家々や街灯に明かりが灯り始める。
蜩の声は消え、虫が鳴き始める。
地に落ちた蝉は動かない。微かな鳴き声を上げ続け、やがてその声すら途絶えていく。

夜が訪れる。
あちらこちらで火が焚かれ、人々は楽しげに談笑する。
送り火。盆の終わり。
花火を手に、子供たちがはしゃぎ遊んでいる。
その火の意味を知らず、楽しげに笑い合う。

蝉は鳴かない。
その終わりを誰も気に留めない。

蝉のように誰にも気づかれず、夏が過ぎていく。
ゆっくりと、静かに、

夏が、終わっていく。



20250816 『遠くの空へ』

8/18/2025, 9:47:26 AM