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8/17/2025, 9:26:08 AM

仏壇に手を合わせ、燈里《あかり》は静かに目を閉じた。
蝋燭の炎が揺れ、線香の煙が燻る。
仏間には燈里以外誰もいない。故人との語らいの妨げにならぬよう、冬玄《かずとら》も楓《かえで》も少し前に席を外していた。
小さく息を吐き、燈里はゆっくりと目を開ける。位牌と、その脇に置かれた透き通る翅と白い石を見つめ、僅かに表情を曇らせた。

少年が眠りについた後、辺りは再び荒れ果てた墓地へと戻っていた。
少年の姿はどこにもない。ただ一枚の翅をその場に残して、少年は常世へと飛び立ったのだろう。
その翅と、寄り添うように置かれた白い三つの石を、燈里は持ち帰った。集落の麓にある供養塔に名が刻まれていない少年とその両親、そして少女を、見える形で供養したかった。

「――これでよかったのかな」

込み上げる不安が、言葉として溢れ落ちる。
縁もゆかりもない燈里の家で形だけの供養をすることが、果たして本当に彼らのためになるのか。偽善的な独りよがりではないのかと、墓地から戻り数日経った今、どうしても考えてしまう。
もっと別の、最良の方法があるのではないか。少年の両親は、元は麓に住んでいたという。調べれば少年の血縁が見つかるかもしれない。
そう思いながらも、燈里は動けないでいる。それすらも偽善的な行為のようで、侭ならない思いにそっと目を伏せた。


「また悩んでるのか」

戻ってきた冬玄が、項垂れる燈里を見て息を吐いた。
燈里の側に歩み寄り腰を下ろすと、力強く燈里の頭を撫でる。

「悩むくらいなら捨てちまえ。お前は巻き込まれた側なんだぞ。本来ならば、縁が切れた時点で手を引いても構わないはずだったんだ」
「それは……そうだけど……」

眉を下げ口籠もる燈里に、冬玄はそれ以上何も言えず、さらに強く頭を撫でる。
気分の良いものではないのだろう。穢れにより苦しんだというのに、その原因に寄り添い心を砕いている。
その優しさが、今は特に憎らしいとさえ感じられ、冬玄は密かに嘆息した。

「燈里は優しい良い子だからね。そんなに嫉妬するんじゃないよ」

遅れて戻ってきた楓が、燈里の頭を撫で続ける手を掴みながら呆れて言う。
乱れた燈里の髪を手櫛で整えながら、仏壇の翅と石を見て、気持ちは分かるけれどと心の内で付け加えた。

「大丈夫。あの墓地から出られた今、ここが嫌ならとっくにどこかへ姿を消しているはずだ。こうしてここに在るってことは、燈里の家が気に入ったんだよ」
「――そうかな。そうだといいけど」

力なく笑い、仏壇に視線を向ける。
蝋燭の炎で煌めく翅を見て、ふと漠然とした疑問が込み上げた。

「どうして、集落の人はあの墓地を怖れたんだろう。死穢を畏れるっていっても、それは余所から墓守を立てて、柵で隔てるほどなのかな」
「そうだねぇ……」

眉を寄せる燈里に、楓は記憶を辿る。
集落で見たものや、墓地で見たもの。供養塔に刻まれた年号。
墓地に漂うモノを思い出し、集落の欠落を指摘する。

「あの墓地は穢れの溜まり場だった。でもそれは多分、集落の人間が何もしなかった結果なんじゃないかな」
「どういうこと?」
「墓地はあっても、寺社はなかった。葬式をした気配もない。死んだら棺に入れて、墓穴に埋めるだけ……そういうことかな」
「あそこの人間には、弔いの感情が欠けていた。供養塔も、集落の人間が建てたというより、話を聞いた外の人間が寺社に通して建てたんだろうな」

死者を祀らない。
それはつまり、御霊を鎮めないということだ。
死者を忌み怖れ、ただ隔離する。
ならば、あの集落の最後は成るべくして成った結末なのだろう。

「それがすべての答えじゃない。所詮は答えのひとつだけどね。それより――」

燈里の髪を整え終えて、楓は立ち上がる。

「そんな湿っぽい話はそろそろ仕舞いにして、ご飯にしようか」
「――そうだね」

楓の後に続くように、燈里も立ち上がろうとして。
不意に、線香の煙が大きく揺らいだ。

「っ、燈里!?」

バランスを崩し傾ぐ燈里の体を、冬玄は咄嗟に受け止める。
だが受け止めきれず、そのまま燈里を抱き込む形で畳の上に倒れ込んだ。

「っ!!?」

蝋梅の香りが、鼻腔を擽る。
唇に、熱が触れた。
それが何かを理解するより先に、燈里は凍り付いたように動きを止めた。

「あ……燈里?」

気遣うような、それでいて上擦った声音で、冬玄は燈里を呼ぶ。
燈里は動かない。じわじわと頬を染め、耳まで赤くしたまま、目を見開いて固まっている。
そっと燈里の腰を抱き、冬玄は起き上がった。表情こそは変わらないが、その耳は燈里のそれと同じように赤い。
気まずい沈黙が流れる。
ぎこちない二人の一部始終を見届けた楓は仏壇を一瞥し、二人を見つめ呟いた。

「つまり……さっさと契ってしまえってことかな」

楓の言葉に重なるように、どこからかくすくすと笑い声がした。
ゆっくりと目を瞬き、燈里は仏壇に視線を向ける。
翅の隣に、白い石は二つ。

「まだ精霊馬もないし、迎え火を焚いていなかったのに……せっかちだねぇ」

燈里の足下に転がる白い石を拾い上げ、仏壇に戻しながら、楓は呆れて笑う。

「契る……私、が……?」
「ちょうど盂蘭盆だし、形だけでも行うかい?」

楓の提案に、燈里が声にならない悲鳴を上げた。咄嗟に縋った腕が冬玄のものだと気づき、耐えきれなくなった思いが滴となって溢れ落ちる。

「燈里、落ち着け……大丈夫だ。本当に契ったりはしないから」

宥めるように優しく背を撫で、冬玄は告げる。
その無慈悲な言葉に、燈里はさらに瞳を揺らし、泣きながら冬玄を睨みつけた。

「――っ、冬玄の馬鹿!最低っ!!」

叫んで、よろめきながらも立ち上がり、仏間を飛び出した。
呆然とその背を見送って、冬玄は眉を下げ楓に視線を向ける。

「これは……俺が悪い、のか?」
「君以外に誰がいるっていうんだい」

頭に手を当て、楓は深く溜息を吐く。
気まずげに視線を逸らし、燈里を追いかけ仏間を出る冬玄の背を見遣り、眉を顰めた。

「なんであんなに面倒くさいんだ。折角背中を押してもらったってのに、気の利いた台詞ひとつ言えやしない」

頭を振りながら、楓は縁側に続く障子戸に手をかけ開いた。
縁側の隅で肩を落としている燈里を招き入れ、閉める。

「よしよし。あれは馬鹿だからね。どうせ何も考えていないんだ。気にする必要はないよ」

燈里の背を撫で、座らせる。
おとなしく座る燈里の髪を、慰めるように風が優しく揺らした。

「落ち着いたら、一緒にご飯を食べようね。それからお風呂に入って、寝よう。今日はもう、あいつと口をきかなくていいから」

小さく頷く燈里の周りを風が舞う。
くるくると回る風に合わせて、線香の煙が揺れるのを見ながら、燈里はようやく微笑んだ。

「うん。そうする」

小さく告げて、揺れる煙を見て目を細める。

「ありがとう。急に背中を押されて驚いたけど、嬉しかった」

煙が揺れる。
円を描いて、縁側へと流れていく。

――またね。

声が聞こえた気がして、燈里は息を呑んだ。
ふわりと微笑み、立ち上がる。縁側に続く障子戸を開き、庭へ続く窓を開け放った。

「またね」

呟く燈里の横を、風が過ぎていく。
くすくすと笑う二人分の声を響かせ、夕暮れの向こう側へと消えていった。



20250814 『!マークでは足りない感情』

8/16/2025, 9:54:09 AM

「名前」

少年を見つめながら、燈里《あかり》は眉を寄せ呟いた。

「名というのは、繋ぎ止めるものだ。人間は生まれ、名を与えられることで現世に正しく認識される」
「どう在るかを示す、短くて一番強い呪い《まじない》だよ。冬玄《かずとら》か、トウゲン様かで在り方が変わる誰かさんがいい例だね」

意地悪く笑う楓《かえで》に、冬玄は顔を顰める。しかし言い返しはせず、代わりに燈里を抱く腕に力を込めた。
燈里は冬玄と楓を見、そして少年に視線を戻して目を細めた。

呪い。在り方。
少年にとっての最良を決めるには、燈里はあまりにも少年を知らなすぎた。
墓地という狭い世界で生きていた少年。燈里が知るのは、少女と遊んだささやかな幸せの記憶と、いくつもの冷たい死の記憶だけだ。

悩む燈里の横を、風が通り過ぎて行く。
髪を揺らし吹く風は、くるりと円を描き、少女の声音を紡ぎ始めた。

「空を飛べたら良いのにね」

届かぬ空に思いを馳せる少女の声に、少年は顔を上げる。
腕の中の髑髏を強く抱きしめ、泣き腫らした澱む目から黒く濁った滴が溢れ落ちていく。

「鳥のように大きくて立派でなくていいの。虫のように小さくて構わない……空を飛んで、ここを抜け出して。意地悪で我が儘な皆のいない所で、二人で幸せに暮らすの」

心から願っているのだろう。静かな声は祈りの言葉にも聞こえ、燈里はそっと目を伏せた。

「空を飛べたらいいのに」

ぽつりと残響を置き、風は吹き抜け去って行く。

「燈里」

冬玄に呼ばれ、燈里はゆっくりと顔を上げた。
覚悟を宿した眼差しで少年を真っ直ぐに見つめ、そして冬玄を見る。

「決めたんだな」

静かに頷く。少年の名を告げようとして、けれどそっと手に触れる温もりに、燈里は目を瞬き視線を移した。

「楓?」

目を閉じ、燈里の手を両手で包み込む楓に声をかける。
やがて目を開けた楓は燈里を見上げ、目を細めて笑ってみせた。

「――いい名前だね」

優しく告げ、楓は手を離す。

「大丈夫。必ず届けるから」

そう言って、楓は数歩下がり視線を落とす。
足下で揺らめく影が形を伴い盛り上がり、楓の前へ翁の面を差し出した。それを取り、楓は躊躇なく面を着ける。

「小春」

冬玄が呼ぶ。楓ではなく、少女の名を。
名を呼ばれ、面を着けた楓の姿が揺らいだ。面を除く全身が影に解け、姿を変えていく。
次に面を着けて立ったその姿は、楓ではなく少女のものだった。

「名付けた後のことは頼んだよ。トウゲン様……いや、シキの北」

少女の声音で戯けて告げられた名に、冬玄は顔を顰めた。

「分かってる。さっさと行け」

感情を押し殺した低い声。小さく笑って、楓は軽い足取りで少年へと近づいた。

「名前を呼びたかった。名前を呼んでほしかった」

歌うような囁きに、少年の目が楓に向けられる。
楓を少女と認識して、ひび割れた唇がこはる、と声なく形作った。

「名前を呼び合えば、もっと近くなれると思ったから。いつかここを抜け出して、一緒にいろんな景色を見て……笑って、泣いて、喧嘩もしたりして。それで最後には、名前を呼んで笑いたいって、ずっと願ってた」

少年の黒に染まった手が伸び、けれども途中で止まって力なく落ちた。

「だから……名前がないというのなら、私があげる」

強く風が吹き抜けた。
ぴしり、と少年の腕の中の髑髏が鳴る。
風の音と、髑髏の音。ふたつが混ざり、楓の言葉に重なって響き合う。
少女の――小春の声音で、少年の名を告げる。

「――蜻蛉《あきつ》」

風が揺らぎ、世界が色を変えた。
月のない夜の紺は、夕陽に焼けた朱へと染め上がる。
虫の声。遠くで烏が鳴いている。
辺りを自由に飛び交うのは、空よりも鮮やかな赤とんぼ。
そこは寂れた墓地ではなく、どこまでも広がる草原だった。

少女がなりたかったもの。少女が最後に見た夕暮れ。
そしておそらく、少年が少女と見たかった景色が、少年に与えられた名と共に広がっていく。

「蜻蛉……蜻蛉」

何度も名を繰り返す少年から、黒が解けて消えていく。
黒に染まっていた四肢も、目も涙も、在りし日の少年の姿へと戻っていく。
ぱりん、と儚い音を立てて髑髏が砕けた。風に乗って欠片が飛んでいく様を、少年は呆然とただ見つめていた。

「認識したな。これなら終わらせることができる……楓、燈里を頼む」

楓の側へと歩み寄った冬玄が、そっと燈里の背を押す。面を外して元の姿に戻った楓は頷き、燈里と手を繋いで後ろへ下がった。
それを見届け、冬玄は少年へと向き直る。影が揺らぎ、現れた楓のそれと似た翁の面を手に取る。
そして一呼吸の後、面を着けた。

「此度の儀はシキとしてではない。だが、終焉の役目は担おう」

少年の周囲を、影が覆う。
地には霜が降り始め、飛んでいた赤とんぼが夕陽の向こうへと去っていく。
音もなく雪が舞い降りた。降り積もる雪は、静かにすべてを眠らせていく。

「蜻蛉――彼の者に眠りを。いずれ来たる、目覚めの春に至るまでの安らぎを」

風が雪を舞い上げ、少年の周りで渦を巻く。少年の手の中へ、透き通る翅を落として消えていく。
緩やかに閉じかけた少年の目が、瞬いた。
眠る前のぼんやりとした目が冬玄に向けられ、そして燈里と楓を見つめて柔らかく笑む。

「ありがとう――おやすみなさい」

小さく呟き、少年はゆっくりと深呼吸をする。
それを最後に目を閉じて、覚めない眠りへと落ちていった。



「蜻蛉っ!」

名を呼ばれ、少年は目を開けた。
夕暮れの下、どこまでも広がる草原の中で一人きり。

「蜻蛉」

風が少年の周りで渦を巻きながら、少女の声音で名を呼んだ。

「――小春?」

落ち着きのない風にそっと囁けば、一際強い風が舞い上がった。
思わず目を閉じる。
くすくす笑う声に再び目を開ければ、少年の目の前には満面の笑みを浮かべた少女が立っていた。

「蜻蛉!」

名を呼びながら、少女は少年へと強く抱きついた。
嬉しくて堪らないのだと、そう思いを込めて少女は繰り返し少年の名を呼び続ける。戸惑うばかりの少年は頬を朱に染めつつ、それでもそっと少女の背に腕を回した。

「小春」

少女のように、名を呼んでみる。益々強く抱きつく少女に、同じ力で抱き返した。
抱き合う二人の周りを、赤とんぼが飛び交う。
それを認めて、少女はようやく抱きつく腕を離して、少年を見た。

「あきつ……素敵な名前。この夕暮れにぴったりね」
「そう、かな」

周りの景色を見ながら、少年は呟いた。
その頬は朱に染まったまま。落ち着きなく、視線を彷徨わせている。

「恥ずかしいの?こんなに綺麗な名前なのに」
「だって……なんだか、もったいない」
「何それ」

可笑しくて堪らないと、少女は声を上げて笑う。
笑いながら少年の名を呼び、くるりと軽やかに回ってみせた。

「ねぇ、ちゃんと見えてる?」

両腕を広げ、少女は空を仰いだ。
夕暮れ。草原。赤とんぼ。
そこにあの墓地はない。逃げ出したくて堪らなかった、あの集落はどこにもないのだ。

「うん、見えてる……君と同じ景色が、ちゃんと見えてるよ」

少年も空を見つめ、微笑んだ。

「よかった……じゃあ、行こうか」

穏やかに呟いて、少女は少年を見つめ、手を差し出す。
少年も少女を見つめ、その手を取って頷いた。
どこへ、とは聞かない。
互いに何も言わず、寄り添いながら歩いて行く。

進む先に人影が見えた。
少年と少女のように寄り添う二つの影を認めて、少年は息を呑む。

「行こう!」

少女は手を引いて、走り出した。
同じように走る少年の視界が、じわりと滲んでいく。

「ねぇ、泣かないで」

少女が囁く。
前を向きながら、願いを口にする。

「あなたが見た景色を見ていたいの。だから、今だけは泣かないでいて」

かつては叶わなかったこと。
墓地と集落と。柵が隔てて、限られた景色しか共有できなかった悲しみを思い出し、少年は滲む目を擦る。

「泣かないよ。僕も、君が見た景色を見ていたい。今だけは同じものを見て、同じものを共有していたいから」

繋ぐ手に力を込めて、少年は笑う。
少女と同じく前を向いて、二人を待つ両親の元へと駆けていく。


夕陽が沈む。
朱から紺へと、空が染まっていく。
影が伸び、寄り添う二人をひとつに重ねて。

はしゃぐ子供の声を置き去りに、永い夜が訪れる。



20250814 『君が見た景色』

8/15/2025, 5:27:21 AM

一歩。燈里《あかり》は、前に出た。
男女の骸もまた、前に出る。少年の元へと近づかせぬように、警戒を露わに立ち塞がる。
それが悲しくて、燈里は口を開いた。だが形にならない思いは何一つ言葉として紡がれない。
ややあって声に出たのは、幼い子供のたった一つの不満だった。

「名前を教えてくれなかったの」

微かな言葉に、男女の骸が反応を見せる。
僅かに後退り、二体の間に隙間ができる。そこから垣間見える少年の目には警戒も拒絶も見えず、ただ呆然と燈里を見つめていた。

「名前を呼んでもくれなかった。寂しかったけど、会いに行くたびに仲良くなれたから我慢してた……いつか名前を呼んでくれる。教えてくれると思ってたから」

少年の肩が、小さく震えた。
震える唇を開き、けれど何も言わずに閉じて。
一瞬だけ、泣くように顔を歪めた。

言葉にならない少年の思いの代わりに、骸が静かに身を退けた。
燈里と少年との間に遮るものはない。
ひとつ息を吐いて、燈里は傍らの冬玄《かずとら》を見上げた。冬玄は言葉の代わりに微笑んで、繋いだ手にそっと力を込める。

「燈里」

楓《かえで》に呼ばれ、視線を向ける。

「返してあげるといいよ。その記憶は、燈里が持っていても意味がないものなのだから」

優しい笑みに、燈里は何も言わずに頷いた。
ゆっくりと足を踏み出す。隣を歩く冬玄の存在を感じながら、少年との距離を縮めていく。
そして穴の手前で立ち止まり、燈里は動かない少年を見つめた。

「行かないと。またね、って約束したんだから、絶対に待ってるはずなの。だから、早く元気になって……あの子の所に行かないと」

燈里の唇から溢れ落ちるいくつもの言葉。少年を思う最後の記憶に、少年は嘆くように小さく吐息を溢した。
燈里と少年を隔てる穴が、音もなく凍っていく。横目で冬玄に視線を向ければ、そっと手を離され背を軽く押された。
一歩、氷の上へと足を踏み出す。厚い氷は僅かにもひび割れず、燈里は少年へと向き直りもう一歩踏み出した。
そして、手を差し出す。

「――っ」

差し出された手に、少年が迷うように瞳を揺らす。
手を伸ばしかけて戸惑い、しかし意を決して燈里の手を取った。

刹那。
声が聞こえた。
怖ず怖ずと、それでも好奇心を隠しきれない少女の声音。

「私、小春《こはる》って言うの。あなたの名前は?」

目を瞬くと、少年の背後で二つの人影が揺れていた。
何も言わずに首を振る影に、もう一人の影は首を傾げ、手を取って軽く引く。

「遊ぼうよ。こんな所に一人でいるより、ずっと楽しいよ!」

手を引く影が薄れていき、次第に少女の姿を取る。
満面の笑みを湛えて、少女は影を誘う。

「行こう!近くに川が流れてるから、そこで水遊びをしようよ。お腹が空いたら木の実を採って、夕暮れまでは一緒に遊ぼう」

ね、と声をかけられて、影は手を引かれるままに歩き出す。
「早く、早く!」

少女に急かされて、影の歩みが速くなる。早足になり、駆け出して、少女と共に墓地の奥へと去って行く。
木々の向こうへ二人が去っていく一瞬。影が少年へと変わり、靄が晴れるように消えていった。

「――ごめんね」

微かな呟きに、はっとして燈里は少年に視線を向けた。
手を離した少年が腕に抱いた少女の頬を撫で、ごめんと繰り返す。

「教えなかったわけじゃないんだよ。君の名前だって、本当は呼びたかった」

俯く少年の表情は見えない。
ただ腕に抱いた少女の頬を、ぽたりと振る滴が濡らしていく。

「ごめん。ちゃんと言えば良かった」

声が震える。
少女の亡骸に向けて、少年は届かない後悔を吐き出した。

「僕には……名前がないんだ」

告げた瞬間に、男女の骸が土になり崩れ落ちた。
少年の腕に抱かれた少女は、髑髏だけを残して砂になり、その変化に燈里は思わず後退る。

「燈里」

冬玄に抱き寄せられ、そのまま少年から距離を取る。

「燈里、どうする?」

問われて、燈里は冬玄へと視線を向けた。
僅かに眉を下げ、真っ直ぐに燈里を見つめて冬玄は囁く。

「このまま帰っても、縁が切れてるから燈里に穢れの影響が現れることは二度とない」

燈里は反射的に首を振った。
視界の端では、墓地が静かに荒れ果てていく。周囲の木々は枯れて、僅かに残っていた供養塔婆さえ、すべて朽ちて黒い乾いた土だけが残る。

「いやだ」

言葉にならない思いが、燈里を苦しめる。
これ以上は関われない。何もできることがないと、燈里の思考は告げる。
同時に、後悔はしないのか、何かできることはないのかと心が問いかけ、帰りたくないと訴える。
それは少年に対する哀れみなのか。それとも少女の記憶の欠片の名残なのか。
自分でも分からない思いに翻弄され、帰りたくはないと燈里は首を振り続けた。

「いやだ、いや」

幼子のように嫌だと繰り返す燈里を、冬玄は窘めるでも宥めるでもなく、優しく見つめ頭を撫でた。
見上げる燈里の濡れた目と視線を合わせ、穏やかに告げる。
「だろうな……なら、選択肢はひとつだ」

ひとつ。
酷く幼い声が、冬玄の言葉を繰り返す。

「燈里、あれに名前を与えろ……そうしたら、後は俺が眠らせてやるから」

冬玄の言葉に、燈里は少年へと視線を向けた。
小さな髑髏を抱き、静かに泣き続けている少年の姿をしばらく見つめ。

「――やる」

燈里は冬玄へと向き直り、はっきりと頷いて見せた。



202508123 『言葉にならないもの』

8/14/2025, 6:57:16 AM

「さて、あれを何とかすればすべて解決するのだけど」

そう言って楓《かえで》は少年を一瞥する。

「あれは、人間だって言えるのかな」
「言えるんなら、俺だって人間の括りになるだろうな」
「どういうこと?」

楓と冬玄《かずとら》の意図が分からず、燈里《あかり》は少年へと視線を向ける。
少女を抱いたまま俯く少年に、変わった様子はない。二人の口調から、生者か死者かの違いは関係ないのだろう。

「あれはね、元は人間だったのだろうけど、今は違う存在に成ってしまったモノだよ」
「死穢を取り込んで、穢れそのものになっちまった……触れるものすべてを浸食する穢れだ。そう簡単に祓えねぇな」

嘆息して、冬玄は楓に視線を向ける。
何も言わずとも理解したのだろう。楓は少年を見据え、冬玄は燈里を伴い数歩下がる。
それを認めて、楓はゆっくりと少年へと近づいた。
一歩、二歩。
少年は俯いたまま。
三歩、四歩。
供養塔婆の残骸が、足下で乾いた音を立てた。
――五歩。
少年が、顔を上げた。
表情の抜け落ちた顔で、楓を見つめている。その虚ろな目を見返して、楓は低く告げた。

「燈里との縁を切らせてもらう」

六歩。
少年に近づいて、手を伸ばした。

「――下がれ!」

冬玄の声とほぼ同時。楓は後ろに飛び退った。
その刹那、楓のいた場所に黒い靄が現れる。
地面から立ち上る靄はゆらりと揺れて、少年を囲うように広がっていく。

「怒らせてしまったみたいだね」

険しい顔をして、それでも楓は戯けて呟いた。
靄の向こう側の少年は、目に怒りを湛えて、強く楓を睨み付けている。
近づけなくなったことで次の手を講じようと、楓の影が揺らめいた。
その時。

少年の背後、土の面が二つ盛り上がる。
重い黒土が音もなく割れ、その隙間から青白い指が突き出た。
細い指が宙を彷徨う。湿った土の匂いを濃くして手が上がり、腕が伸びた。纏わり付く土を落として、やがては頭が現れた。
その異様な光景に、燈里が小さく悲鳴を漏らす。繋いだ手に力が籠もり、冬玄は震える燈里の体を抱き寄せ視界を塞いだ。
眠りを妨げられた死者の体が、土の下から地上へと這い上がってくる。ゆらりと揺れながら立ち上がり、土を落としながら、ゆっくりと少年の前へと出て、三人の視界から少年を隠した。
二体の骸の白濁した目が、三人へ向けられる。

「血族の縁……両親ってわけか。でも死者の意思ではないね」
「穢れの影響だろうよ。親の屍を操るなんさ、酷いもんだな。人形遊びが趣味ってか」

侮蔑が滲む二人の声に、燈里は顔を上げた。
そんなはずはない。
何故か強く否定する思考に疑問を抱きながらも、背後を振り返る。

「燈里、見るな」

冬玄が止めるよりも前に。

「燈里!」

骸と、目が合った。



肌に纏わり付く熱気と、強い陽射しが降り注ぐ晴れた日。
男が一人、穴を掘っていた。
その近くでは幼い子供が、布を巻かれただけの簡素な亡骸に縋り、泣いている。
吹き出し汗を拭いながら、男は無心で穴を掘り続けた。それだけが男にできる唯一のことだった。
やがて男の手が止まり、静かに穴から上がる。いまだ泣きじゃくる子供に痛ましい目を向けながらも、亡骸を抱え穴へと寝かす。
追いすがる子供を引き留め首を振る。泣くことすらできず悲しみに崩れ落ちるその様を、唇を噛みしめて見つめた。
そして男は亡骸を寝かせた穴に土をかける。

静かに埋められていく母の姿を、少年は泣き腫らした紅い目で、見続けた。



日が暮れても、暑さが和らぐことのない、そんな夜更け。
男が一人、穴を掘っていた。
何度も傾ぐ体。覚束ない手つき。その目は殆ど焦点があっていなかった。
その姿を、子供は静かに泣きながら見つめていた。
男の手は止まらない。時折子供へと視線を向けるが、薄く微笑むのみで、何も言わずに穴を掘り続ける。
それが残される子供に対して、男にできる唯一のことだと信じていた。
やがて男の手が止まり、そのまま地に倒れ伏す。それきり僅かにも動かず、呼吸も鼓動さえも止まっていく。
ゆっくりと子供が穴に近づいていく。涙の止まらない目を乱暴に擦り、穴の傍らに膝をつき。

少年は父の亡骸に、そっと土をかけ埋めていった。



蜩が鳴く夕暮れ時。
白い子供用の棺が、穴の中へと下ろされていく。
棺を取り囲む黒い人影は沈黙を保ち、おざなりに土をかけて棺を埋めていく。
その様子を、離れた場所で少年は見つめていた。
烏の鳴き声に、いくつかの人影の肩が揺れる。棺が見えなくなると乱暴に道具を放り投げ、急いで集落の方へと帰っていく。
しばらくして、少年は棺が埋められた場所へと近づいた。
土を丁寧にならして、形を整えていく。そうして墓を綺麗に直した後も、少年はその場から動こうとはしなかった。
蜩が鳴く。蝉時雨が響き渡る。
動かない少年と陽とは異なり、周囲の景色は変わっていく。供養塔婆が増え、盛り上がっただけの土まんじゅうが増えた。
そして倒れ伏す人影が積み上がり、すべての音が消えた。
陽が落ちても、少年はその場を動かない。
棺が埋められた土を撫で、いつしかその指は土を掻いた。
土を掘る。少しずつ棺を掘り返していく。
土に濡れた指の爪が剥がれ、血が滲み出しても止まらない。
やがて土を掘り返し、朽ち始めた棺をこじ開けて。

「また、ね」

少女の亡骸を抱き上げて、少年は小さく呟いた。



「――夏は嫌いなんだって」

不意に呟かれた燈里の言葉に、冬玄や楓が振り向いた。
困惑に目を瞬くも、言葉は止まらない。

「お母さんもお父さんも、夏の暑い日に死んじゃったから。だから、夏は大嫌い」

呟く自身の言葉に、燈里はそっと目を伏せる。
こびりついて離れない、夏の死の記憶に胸が苦しかった。



20250811 『真夏の記憶』

8/13/2025, 8:44:17 AM

鳥の囀り。風に揺れる木々の騒めき。
煌めく陽と、爽やかな青の空が眩しい、そんな穏やかな午後のこと。
木々の合間をすり抜けて、少女が一人駆けていく。
その手には小さな風呂敷の包み。煌めく目をして笑い、ふわりとスカートを翻しながら、奥へと向かっていく。

やがて木々を抜けて、開けた場所に出た。
木々を切り倒して作られたその場所は、おそらくは墓地なのだろう。供養塔婆がいくつも立ち並び、その静けさがかえって空しさを際立たせていた。
墓地の脇、粗末で小さな家から少年が現れる。少女を認め、僅かに眉が下げて呟いた。

「また来たの」
「だって、皆意地悪なんだもの」

困惑する少年を気にも留めず、少女は笑顔で駆け寄る。
手にした風呂敷を半ば押しつけるように渡して、遊ぼう、と声をかけた。

「川に行こうよ。ご飯食べるなら、こんな臭い場所よりずっといいよ」
「でも……」
「大丈夫だよ。皆ここに来たがらないもん。少し離れても誰も気づかないだろうから、怒られたりしないよ」

手を軽く引く少女に、少年は一度迷うように墓地を見渡す。
けれども控えめに腹が鳴り、軽く頬を染めながら少年は無言で頷いた。



小川に足を浸して座り、少年は風呂敷をゆっくりと広げた。
中には笹に包まれた、小さな塩むすびと干し魚。野菜や漬物が少々と、飴玉が一つ。

「怒られない?」

川遊びをする少女に、少年は問う。不安そうな少年とは対照的に、満面の笑みを浮かべて少女は首を振った。

「どうせ誰も気づかないから大丈夫……それより、食べたら一緒に遊ぼうよ!」

手を振る少女に少年はそれ以上何も言えず、一つ溜息を吐くと塩むすびを手に取り齧り付いた。



楽しげな笑い声が響く。
水の跳ねる音。きゃあ、とはしゃぐ少女の声に、控えめながら笑う少年の声が混じる。
陽の光を反射して、水面が煌めく。その合間に小魚の姿が見えて、夢中でそれを追いかけた。

川遊びが終わっても、二人の遊びは続く。
鬼事や虫取り。疲れれば木陰で休み、また遊ぶ。
そうして緩やかに日が暮れ、空が赤く辺りに影が差した頃。

「またね」

見送る少年に手を振って、少女は家へと帰っていく。
小さくなっていくその背を少年は何も言わずに見つめ、しばらくしてからゆっくりと手を上げた。

「――またね」

恥ずかしそうに小さな声で、それでも嬉しさを隠し切れない。そんな柔らかな声だった。
聞こえるはずのない微かな声に、けれど少女は立ち止まる。
振り返る少女は笑顔を浮かべて、大きく手を振り返した。

「またねっ!」

笑顔で別れる二人。
けれど少女の姿が見えなくなって、少年の笑みが陰る。
何かを言いかけて口を閉ざし、俯いて家の中へと入っていく。

その背を追いかけようとして、しかし手を引かれて体が傾いだ。
誰かに手を繋がれている。
それが誰なのか、確かめるために振り返り――。

視界が暗転する。



「燈里《あかり》」

冬玄《かずとら》に呼ばれ、燈里は目を瞬き視線を向ける。

「冬玄……?」

安堵の表情を浮かべる冬玄に、燈里は申し訳なさそうに眉を下げた。

「もう大丈夫……ごめんね」

小さく謝罪すれば、冬玄は軽く笑って首を振る。気にするなと頭を撫でられて、燈里もまた力なく笑みを浮かべた。
不意に、かたりと音がした。
視線を向ければ、楓《かえで》が壊れた竹柵の一部に触れて、何かを確認している。不思議そうな燈里の視線に気づいたのか、楓は振り返り肩を竦めてみせる。

「元々、この一部が扉の役目をして、向こうに行ける作りになってたみたいだね。ただ厳重に閉じられていたから、ここに来た誰かは無理矢理こじ開けて奥に進んだみたいだけど」

軽蔑した顔をして、楓は散乱するゴミに視線を向ける。その視線を追って燈里もゴミへと視線を向け、表情を曇らせた。

「酷い……」
「まぁ、その代償は受けているんだろうけどね」

薄く嗤い、楓は言う。ゴミから柵の奥へと視線を移しながら、燈里に問いかけた。

「たぶん、目的地はこの奥だね……どうする?」

問われて燈里は柵の奥へと視線を向け、そして冬玄を見た。
眉を下げながらも強い目をする燈里に、冬玄は仕方がないと笑う。
それに笑みを返して、燈里は再び柵の先に視線を移し、告げる。

「行かないと……あの子が待ってる」

燈里自身の意思を伴った言葉。
冬玄と楓は頷き、静かに歩き出した。



細い道には、所々にゴミとは違う何かが落ちていた。
鞄か何かについていただろう、ストラップ。鈍く光る小さな鍵。
踏まれ汚れた財布を見て、燈里は怪訝に眉を潜めた。

「これって……」

不意に風が吹き抜け、木々を揺する。
ざわざわと、葉が擦れる音。次第に歪み、それは焦りを含んだ複数の若者の声に成り代わる。

――おい、早くっ。
――なんだよ。何なんだよ、あれ。
――いやだ。死にたくない。

何かから逃げ惑う声が、風と共に三人の横をすり抜けていく。

「馬鹿な奴ら。まぁでも、怖い思いはできたんだからよかったのかもね」
「そうだな。恐怖を求めて、こんな所まで来たんだろうから、本望だろうさ」

楓の言葉に、冬玄が同意する。
燈里は何も言わずに、ただこの先で待っているだろう少年を思い、目を伏せた。

冬玄と楓はそれ以上は何も言わず、誰もが口を閉ざして細道を歩いていく。
そして長い細道の終わり。鬱蒼と茂る木々の先に、墓地はあった。
雑訴すら生えない、枯れた大地。朽ちた供養塔婆の残骸が、辺りに散らばっている。
墓地の入口に、菓子や飲み物の缶が落ちていた。
袋からはみ出したスナック菓子。落ちて中身が零れた缶。
溢れたアイスクリームのカップが、それがゴミとして捨てられたのではないことを示していた。

「思わず落としたのかな?……それにしても、まるでたった今落としたばかりのようだね」
「ここに来る時にすれ違った奴らが落としたんだろうさ」

軽口を言い合いながら、二人の視線は奥へと注がれている。燈里も奥へと視線を向け、座り込む少年の姿に唇を噛みしめた。
足下の菓子の甘い匂いに混じり、土の匂いがする。
少年の前の穴は、掘られたばかりなのだろう。周囲の乾いた固い土とは異なり、黒く湿り気を帯びている。
少年の腕には、少女が抱かれていた。俯き髪を撫で続ける少年とは異なり、少女は僅かにも動かない。

「また、ね……」

風に乗って、微かな声が聞こえた。
泣くのを耐えて感情を押し殺したような。
そんな悲しい声だった。



20250811 『こぼれたアイスクリーム』

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