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「名前」

少年を見つめながら、燈里《あかり》は眉を寄せ呟いた。

「名というのは、繋ぎ止めるものだ。人間は生まれ、名を与えられることで現世に正しく認識される」
「どう在るかを示す、短くて一番強い呪い《まじない》だよ。冬玄《かずとら》か、トウゲン様かで在り方が変わる誰かさんがいい例だね」

意地悪く笑う楓《かえで》に、冬玄は顔を顰める。しかし言い返しはせず、代わりに燈里を抱く腕に力を込めた。
燈里は冬玄と楓を見、そして少年に視線を戻して目を細めた。

呪い。在り方。
少年にとっての最良を決めるには、燈里はあまりにも少年を知らなすぎた。
墓地という狭い世界で生きていた少年。燈里が知るのは、少女と遊んだささやかな幸せの記憶と、いくつもの冷たい死の記憶だけだ。

悩む燈里の横を、風が通り過ぎて行く。
髪を揺らし吹く風は、くるりと円を描き、少女の声音を紡ぎ始めた。

「空を飛べたら良いのにね」

届かぬ空に思いを馳せる少女の声に、少年は顔を上げる。
腕の中の髑髏を強く抱きしめ、泣き腫らした澱む目から黒く濁った滴が溢れ落ちていく。

「鳥のように大きくて立派でなくていいの。虫のように小さくて構わない……空を飛んで、ここを抜け出して。意地悪で我が儘な皆のいない所で、二人で幸せに暮らすの」

心から願っているのだろう。静かな声は祈りの言葉にも聞こえ、燈里はそっと目を伏せた。

「空を飛べたらいいのに」

ぽつりと残響を置き、風は吹き抜け去って行く。

「燈里」

冬玄に呼ばれ、燈里はゆっくりと顔を上げた。
覚悟を宿した眼差しで少年を真っ直ぐに見つめ、そして冬玄を見る。

「決めたんだな」

静かに頷く。少年の名を告げようとして、けれどそっと手に触れる温もりに、燈里は目を瞬き視線を移した。

「楓?」

目を閉じ、燈里の手を両手で包み込む楓に声をかける。
やがて目を開けた楓は燈里を見上げ、目を細めて笑ってみせた。

「――いい名前だね」

優しく告げ、楓は手を離す。

「大丈夫。必ず届けるから」

そう言って、楓は数歩下がり視線を落とす。
足下で揺らめく影が形を伴い盛り上がり、楓の前へ翁の面を差し出した。それを取り、楓は躊躇なく面を着ける。

「小春」

冬玄が呼ぶ。楓ではなく、少女の名を。
名を呼ばれ、面を着けた楓の姿が揺らいだ。面を除く全身が影に解け、姿を変えていく。
次に面を着けて立ったその姿は、楓ではなく少女のものだった。

「名付けた後のことは頼んだよ。トウゲン様……いや、シキの北」

少女の声音で戯けて告げられた名に、冬玄は顔を顰めた。

「分かってる。さっさと行け」

感情を押し殺した低い声。小さく笑って、楓は軽い足取りで少年へと近づいた。

「名前を呼びたかった。名前を呼んでほしかった」

歌うような囁きに、少年の目が楓に向けられる。
楓を少女と認識して、ひび割れた唇がこはる、と声なく形作った。

「名前を呼び合えば、もっと近くなれると思ったから。いつかここを抜け出して、一緒にいろんな景色を見て……笑って、泣いて、喧嘩もしたりして。それで最後には、名前を呼んで笑いたいって、ずっと願ってた」

少年の黒に染まった手が伸び、けれども途中で止まって力なく落ちた。

「だから……名前がないというのなら、私があげる」

強く風が吹き抜けた。
ぴしり、と少年の腕の中の髑髏が鳴る。
風の音と、髑髏の音。ふたつが混ざり、楓の言葉に重なって響き合う。
少女の――小春の声音で、少年の名を告げる。

「――蜻蛉《あきつ》」

風が揺らぎ、世界が色を変えた。
月のない夜の紺は、夕陽に焼けた朱へと染め上がる。
虫の声。遠くで烏が鳴いている。
辺りを自由に飛び交うのは、空よりも鮮やかな赤とんぼ。
そこは寂れた墓地ではなく、どこまでも広がる草原だった。

少女がなりたかったもの。少女が最後に見た夕暮れ。
そしておそらく、少年が少女と見たかった景色が、少年に与えられた名と共に広がっていく。

「蜻蛉……蜻蛉」

何度も名を繰り返す少年から、黒が解けて消えていく。
黒に染まっていた四肢も、目も涙も、在りし日の少年の姿へと戻っていく。
ぱりん、と儚い音を立てて髑髏が砕けた。風に乗って欠片が飛んでいく様を、少年は呆然とただ見つめていた。

「認識したな。これなら終わらせることができる……楓、燈里を頼む」

楓の側へと歩み寄った冬玄が、そっと燈里の背を押す。面を外して元の姿に戻った楓は頷き、燈里と手を繋いで後ろへ下がった。
それを見届け、冬玄は少年へと向き直る。影が揺らぎ、現れた楓のそれと似た翁の面を手に取る。
そして一呼吸の後、面を着けた。

「此度の儀はシキとしてではない。だが、終焉の役目は担おう」

少年の周囲を、影が覆う。
地には霜が降り始め、飛んでいた赤とんぼが夕陽の向こうへと去っていく。
音もなく雪が舞い降りた。降り積もる雪は、静かにすべてを眠らせていく。

「蜻蛉――彼の者に眠りを。いずれ来たる、目覚めの春に至るまでの安らぎを」

風が雪を舞い上げ、少年の周りで渦を巻く。少年の手の中へ、透き通る翅を落として消えていく。
緩やかに閉じかけた少年の目が、瞬いた。
眠る前のぼんやりとした目が冬玄に向けられ、そして燈里と楓を見つめて柔らかく笑む。

「ありがとう――おやすみなさい」

小さく呟き、少年はゆっくりと深呼吸をする。
それを最後に目を閉じて、覚めない眠りへと落ちていった。



「蜻蛉っ!」

名を呼ばれ、少年は目を開けた。
夕暮れの下、どこまでも広がる草原の中で一人きり。

「蜻蛉」

風が少年の周りで渦を巻きながら、少女の声音で名を呼んだ。

「――小春?」

落ち着きのない風にそっと囁けば、一際強い風が舞い上がった。
思わず目を閉じる。
くすくす笑う声に再び目を開ければ、少年の目の前には満面の笑みを浮かべた少女が立っていた。

「蜻蛉!」

名を呼びながら、少女は少年へと強く抱きついた。
嬉しくて堪らないのだと、そう思いを込めて少女は繰り返し少年の名を呼び続ける。戸惑うばかりの少年は頬を朱に染めつつ、それでもそっと少女の背に腕を回した。

「小春」

少女のように、名を呼んでみる。益々強く抱きつく少女に、同じ力で抱き返した。
抱き合う二人の周りを、赤とんぼが飛び交う。
それを認めて、少女はようやく抱きつく腕を離して、少年を見た。

「あきつ……素敵な名前。この夕暮れにぴったりね」
「そう、かな」

周りの景色を見ながら、少年は呟いた。
その頬は朱に染まったまま。落ち着きなく、視線を彷徨わせている。

「恥ずかしいの?こんなに綺麗な名前なのに」
「だって……なんだか、もったいない」
「何それ」

可笑しくて堪らないと、少女は声を上げて笑う。
笑いながら少年の名を呼び、くるりと軽やかに回ってみせた。

「ねぇ、ちゃんと見えてる?」

両腕を広げ、少女は空を仰いだ。
夕暮れ。草原。赤とんぼ。
そこにあの墓地はない。逃げ出したくて堪らなかった、あの集落はどこにもないのだ。

「うん、見えてる……君と同じ景色が、ちゃんと見えてるよ」

少年も空を見つめ、微笑んだ。

「よかった……じゃあ、行こうか」

穏やかに呟いて、少女は少年を見つめ、手を差し出す。
少年も少女を見つめ、その手を取って頷いた。
どこへ、とは聞かない。
互いに何も言わず、寄り添いながら歩いて行く。

進む先に人影が見えた。
少年と少女のように寄り添う二つの影を認めて、少年は息を呑む。

「行こう!」

少女は手を引いて、走り出した。
同じように走る少年の視界が、じわりと滲んでいく。

「ねぇ、泣かないで」

少女が囁く。
前を向きながら、願いを口にする。

「あなたが見た景色を見ていたいの。だから、今だけは泣かないでいて」

かつては叶わなかったこと。
墓地と集落と。柵が隔てて、限られた景色しか共有できなかった悲しみを思い出し、少年は滲む目を擦る。

「泣かないよ。僕も、君が見た景色を見ていたい。今だけは同じものを見て、同じものを共有していたいから」

繋ぐ手に力を込めて、少年は笑う。
少女と同じく前を向いて、二人を待つ両親の元へと駆けていく。


夕陽が沈む。
朱から紺へと、空が染まっていく。
影が伸び、寄り添う二人をひとつに重ねて。

はしゃぐ子供の声を置き去りに、永い夜が訪れる。



20250814 『君が見た景色』

8/16/2025, 9:54:09 AM