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8/12/2025, 9:30:34 AM

荒れた未舗装の道は、それでも人が通れる程には整えられていた。
その不自然さに、楓《かえで》は眉を寄せる。歩きながらも警戒を強め、周囲に視線を巡らせた。

「随分と静かだけど、歓迎されているってことかな」
「だろうな。じゃなきゃ、百年も前に廃れた土地に続く道が、こんなにも綺麗な訳がない」

楓のことばに、冬玄《かずとら》は不快だと言わんばかりに吐き捨てる。無言で歩き続ける燈里《あかり》を横目で見ながら、忌々しげに舌打ちをする。
集落へ続く道を歩き始めてからしばらくして、燈里は再び意識を何かに呑まれた。冬玄や楓の言葉に反応を見せず、ただ道の先を見据えて歩き続けている。
冬玄と繋いだ手は振り解かれることはなく、無理に先へ進む様子はない。それ故に様子を見ていたが、やはり引き戻すべきかと冬玄が燈里に声をかけようとした時だった。

「――あの子の両親はね。元々は麓に住んでいたんですって。けれど何かの事件に巻き込まれて、ここまで逃げてきたみたいなの」

不意に燈里が口を開く。

「皆ね、我が儘だったのよ。優しい振りをして受け入れて……皆がやりたがらなかった嫌なことを、全部押しつけた。それでいて、使えなくなったら、簡単に冷たくしたの」
「燈里?」

訝しげに冬玄が声をかけるが、燈里は止まらない。
虚ろな目が前を見据え、足を止めずに言葉を――誰かの過去を語り続ける。

「夜、皆がこっそり話していたのを聞いたの。ハカモリの子供は使えない。麓に棄てて新しいハカモリを連れてこないと、って。でも、棄てるにしても誰も触りたくなくて、近づきたくもなくて、そのまま死んでしまえば、って皆が口を揃えて言ってた……本当に酷いの。子供なんだから、大人の仕事ができなくて当たり前なのに」

少し先を行っていた楓が振り返り、燈里の元まで戻ると、そっと燈里と手を繋ぐ。
その表情に険しさはない。ただ静かに燈里の口から紡がれる誰かの過去を聞き、燈里のすべてが呑み込まれないように寄り添った。

「優しさなんてね、結局は皆にとって取引にようなものだった。特になるなら優しくして、ならないなら冷たくする……皆、自分勝手」

歌うように囁いて、燈里はくすくすと笑い声を上げた。

「――なら、私も自分勝手でいいよね。遊んじゃいけない。話しちゃいけない……そんな言いつけ。いい子で守る必要なんてどこにもないよね」

燈里の言葉に、冬玄も楓も何も言わなかった。
肯定や否定をした所で、燈里には届かない。
遠く過ぎていった過去にはどんな言葉も意味はないと、言葉の代わりに二人はそれぞれ燈里の手を強く握った。

不意に道が揺らめき、先の光景を歪ませる。
背後から冷えた風が強く吹き抜け、楓は思わず鼻で笑った。

「早く来いってさ……どうする?」
「行くしかないだろう。燈里を疲れさせずにすんだと思えばいい」

無感情に呟いて、冬玄は燈里へ視線を向ける。変わらず前だけを見て進む燈里に僅かに表情を曇らせ、名を呼ぶ代わりに寄り添った。

「――行かないと」

道の先に視線を向けて、燈里はぽつりと呟いた。

「冬玄」
「あぁ、分かってる」

冬玄と楓は互いに目配せし、頷き合う。
進む燈里を庇うように、歪む道の先へと足を踏み入れた。

ぐにゃり、と地面が揺らぐ感覚。
景色が歪み、音が消えた。
冷えた風が辺りの熱を奪っていく。陽を陰らせて、沈めていく。
一呼吸の後、道の先の景色は一変した。

暗い道の先に、朽ちた家々がいくつもその屍を晒している。
草木は枯れ、命あるものの気配は何一つ感じられない。
進み続けようとする燈里の手を、冬玄と楓はそれぞれ引いて止めた。

「これ以上は駄目だよ、燈里」

低く呟く楓の表情は、険しく鋭い。
目を凝らせば、集落には暗がりに紛れて黒い靄が立ち込めていた。
逆らうことなく立ち止まった燈里は、集落の奥へと視線を向けた。

「――あの子がいる」

燈里の言葉に、冬玄と楓は集落の奥へと視線を向けた。

「柵?」

集落とその奥とを隔てるように、長く竹柵が張り巡らされている。
その向こう側に、小さな人影があった。
髑髏を抱いた少年が、人の絶えた集落を無言で見つめている。しばらく立ち尽くしていたが、やがて音もなく踵を返し、木々の向こう側へと去って行った。

「あの子はね。お墓から動かないの」

少年が去っても視線を向けたままで、燈里は呟いた。
集落に立ち込めていた黒い靄が、少しずつ薄れ消えていく。
吹き抜ける風が木々を揺らし、遠くで微かに虫の声が聞こえ出す。
完全に靄が消えたのを見て、燈里はゆっくりと集落の奥へと向かい歩き出した。
冬玄と楓は、今度は引き留めることなくそれに続く。
崩れ落ちた家。草木に埋もれた田畑。
誰かが踏み荒らした道を辿るように、柵へと近づいて行く。

「柵はね。あの子や、あの子の家族がこちら側に来ないように作られたんだって」

柵は年月で朽ちかけていた。だがそれより目を引いたのは、無慈悲に壊された一部。
辺りに散らばるゴミの数々が、最近になって柵が壊されたことを物語っていた。

「行かないと。あの子が待ってる」

静かに繰り返されるその言葉が、風に乗って奥へと消えていく。
それは淡々としながらもどこか寂しさを含んで、木々をざわりと揺らめかせた。



20250810 『やさしさなんて』

8/11/2025, 5:03:43 AM

杉林の中に、その石塔はひっそりと立っていた。

――疫痢病歿者供養之塔《えきりびょうぼつしゃくようのとう》

苔むした石に刻まれた文字と、裏の数多の名。
かつて、この先にあった小さな集落。そこに住んでいた人々の供養塔が、集落から離れた麓に建てられている。
その事実が、集落の末路を静かに物語っていた。

無言で石塔を見つめ、冬玄《かずとら》は思案する。
一度戻るべきなのだろう。穢れはこの先の集落から流れている。
だがそれを知った燈里《あかり》は、集落に行くことを望むはずだ。自身の身に起きたことだからと、危険な場所でも迷わず進んでいく。
それが冬玄は怖ろしかった。
燈里を思い、冬玄は力なく笑う。
燈里の怒りに触れることを覚悟の上で、石塔の先。未舗装の道へと足を踏み出そうとした。

「――っ!?」

近づく気配に、冬玄の動きが止まる。
弾かれたように振り返り、二人の姿を認めて目を見張った。

「お前ら……なんでここに」
「状況が思っていたよりも、良くなかったんだよ」

肩を竦めて、楓《かえで》は燈里と強く手を繋いだままに言葉を返す。軽い口調ながらも、その表情はとても険しい。

「燈里……?」

側に歩み寄ってきた二人を見て、冬玄は違和感に気づく。
燈里と視線が合わない。冬玄に気づいていないかのように、その目は集落へ続く道へと向けられていた。
不意に風が吹き抜けた。
道の奥から吹く風はどこか生暖かく、得体の知れない不気味さを孕みながら街の方へと流れていった。

「――行かないと」

流れた風に目を細め、燈里が小さく呟いた。
風に逆らうように、ゆっくりと歩き出す。楓に手を繋がれているためにすぐにその足は止まるが、燈里は手を引き先へと進もうと踠く。

「駄目だよ、燈里」
「いやだ。だって……だって呼んでる。あの子がずっと待っている。この風はお墓の風だもの」

燈里の声に呼応するように、風向きが変わった。
生暖かさは消え、冷たく凍てついた風が道の先へと誘うように強く吹き抜ける。
風に揺すられ、道の奥から木々の騒めく音がする。ざわりざわりと低く響く音は、まるで人々の囁く声にも聞こえた。

「ほら、お墓の風だ。私が来たことを感じて、呼んでいるんだ」
「燈里っ!」

強く名を呼び、楓は手を引くが燈里は嫌だと声を首を振る。
行かないと、と繰り返す燈里に、冬玄は怪訝に眉を潜めた。

「どういうことだ。何が起こってる?」
「燈里の中に入り込んだ穢れの欠片が戻りたがっているんだよ。断片過ぎて分からないけど、約束に引かれている」

振り解かれないように燈里の手を強く掴みながら、楓は冬玄に短く告げた。

「燈里の名を呼べ。冬玄」

楓の言葉が終わらないうちに、冬玄は燈里と向き合い頬を包む。
目を合わせて、強く思いを込めて燈里を呼んだ。

「燈里」
「――ぁ」

冬玄に名を呼ばれ、燈里の目が瞬いた。
楓がそっと手を離す。
自由になった手が道の先へと延ばされる。けれど何かを迷い彷徨って、その手はやがて力なく垂れ下がった。

「戻ってこい、燈里」

再び呼ばれ、燈里の肩が小さく震える。
風が止んだ。木々の騒めきも消え、静寂が訪れる。

無音。
燈里の目が揺らぐ。一筋滴を溢して、どこか虚ろだった目に光が灯る。
目の前の冬玄を認識し、燈里は困惑しながらもふわりと微笑んだ。

「冬玄」

頬を包む冬玄の手に触れ、眉を下げる。
触れる手を掴み、冬玄は燈里を引き寄せた。

「もう、大丈夫だな?」

泣きそうな呟きに、燈里は微笑んだまま小さく首を傾げて見せる。

「多分?まだよく分かってないけど」

そう言いながら、燈里は視線を巡らせる。
鬱蒼と生い茂る杉林。未舗装の道。石塔。
そこに書かれた文字に、僅かに燈里の表情が暗くなった。

「随分と古い供養塔だ。何人も死んだらしいし、もしかしたら最後の方は野ざらしだったのかもしれないね」

石塔を確認していた楓が、無感情に呟いた。

「だろうな。集落は大分離れてるのに、穢れがはっきりと感じられる……無遠慮に踏み荒らした人間共は自業自得だが、巻き添えを食らったこっちはたまったもんじゃない」

嘆息して、冬玄は改めて燈里を見た。
光を宿す目。その輝きに密かに安堵しながら、冬玄は楓へと視線を移した。

「燈里にぶつかった人間が通う学校は、今は無人だった。原因不明の病が広がっているらしい。そこで穢れが出た分けでもないってのに、伝播の勢いが強いな。だが時期に落ち着くだろう」
「じゃあ、やっぱり大元を絶たないとか」

石塔から離れ、楓は道の前に立つ。険を帯びた目を道の先へ向け、低く唸りにも似た声を上げる。

「僕としては、燈里にはこれ以上踏み入れてほしくないんだけどな」
「俺だってそうだ……でも燈里は行くんだろう?」

答えを知りながら、冬玄は燈里を見据えた。
その目を見返して、燈里は強く頷く。

「冬玄も楓も止めるだろうけど、私は一緒に行くよ。自分のことだもの……それに、もう置いていかれたくない」
「――仕方ないな」

意志を曲げない燈里に、冬玄は苦笑する。
軽く頭を撫でて、手を繋ぎ直した。

「俺や楓から絶対に離れるなよ」
「分かってる」

繋いだ手に力を込めて、燈里は道の先へと足を向ける。
冬玄もまた、燈里に寄り添うようにして、ゆっくりと歩き出した。

二人の少し先を、楓が先行する。
ふわり、と風が吹いた。
道の先から吹く柔らかな風。甘ったるい匂いを漂わせ、手招くように静かに吹いている。

「嫌な風だ。死の匂いがこびりついて、酷く不快な感じ」

顔を顰め、楓が吐き捨てる。
墓地から吹く死の風。集落を絶えさせた疫痢。
長い時を経ても消えない、死の穢れ。

――またね。

風に乗って、声が届く。
そんな気がして、燈里は小さく身を震わせた。



20250809 『風を感じて』

8/9/2025, 9:47:09 AM

深く、どこまでも落ちていく。
目を開けているのか、それとも閉じているのか分からない暗闇。冷たく重い何かが全身に絡みつき、指先ひとつ動かすことができない。
湿った土の匂いがした。それならば、この絡みつく何かは土か、あるいは水なのか。
不意に、甘く焦げた香のような匂いがした。酷く懐かしく、それでいて切ない思いが胸を焦がす。
遠くで笛の音が聞こえた。誰かが鉦を叩く音が、笛の音と重なり響き合う。

暗闇の中、微かに何かが見えた。いくつもの影が揺らいで、過ぎていく。
気づけば、どこかの葬式の列に立っていた。
白い布に包まれた顔。棺の蓋を釘で打ち付ける音。
深く暗い穴に、棺が下ろされていく。
視界の端で小さな影が揺らいだ。視線を向ければ、そこには背の低い、まだあどけなさが残る少年の姿があった。
誰からも視線を向けられず、誰にも視線を向けることなく。ただ静かに、無感情に棺が埋められていくのを見つめていた。

大人達に気づかれぬよう、こっそりと少年に近づいた。けれどもそれを察してか、少年はこちらに背を向け去ってしまう。
諦めきれなくて、少年を追いかけた。辺りは次第に色をなくし、やがては少年以外何も見えなくなる。
甘く苦い、香の匂いが漂う。伸ばした手の異様な小ささに、ようやく気づく。
それでも足は止まらない。少年の背を追い続ける。

――またね。

どこからか、声が聞こえた。
恥ずかしそうに、けれどとても嬉しそうに。言葉を噛みしめるような、そんな小さな声。
思わず足を止めた。去って行く少年の背を、呆然と見つめる。

――いかないで。

耳元で、声が囁いた。
小さく、微かに。伝えられない思いが、耐えきれずに零れ落ちてしまったかのような声だった。

不意に少年が立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
表情の抜け落ちた顔。痩せて土にまみれた手足。
その腕に抱かれているものを認めて、息を呑んだ。
それは小さな髑髏だった。少年と同じ年頃の、あるいは少年よりも幼い小さな骨。
ぽっかりと開いた眼窩から、黒い煙が溢れ出している。重く澱んだその煙は地面を漂い、足下に絡みつく。冷たい痛みを伴って、足から腰、腕と全身が絡め取られていく。
呼吸が苦しい。息を吸えば煙が体の内側に入り込み、肺を喉を灼き、臓腑を腐らせていくかのようだ。
意識が揺らぐ。いつの間にか少年の姿はなく、また何も見えない暗闇が、どこまでも広がっていた。

――燈里《あかり》。

名を呼ばれて、僅かに意識が鮮明になる。
自分を導く、北の星。彼が呼んでいる。
見上げた空から、いくつもの白い結晶が降り注ぐ。頭に四肢に降り積もり、絡みついた澱みを連れて、雪は儚く溶けていく。
呼吸が楽になり、体は自由を取り戻す。改めて見た腕は小さな子供のものではなく、自分のそれだった。

――おいで。

彼が呼んでいる。
暗闇の中でも、どこへ行けばいいのか迷うことはない。
北の星は動かない。自分の心にある羅針盤の針は、常に彼を指し示している。
一歩、足を踏み出した。足下の暗闇が溶けて消え、土と骨に塗れた大地が露わになる。
地面を見ないように、顔を上げて歩き出す。寂れた墓標が立つだけの墓地を抜けて、声が聞こえる光の方へと向かっていく。

――またねっ!

背後で声がした。先ほど聞こえた声とは違う、楽しげな子供の声。

――燈里。

思わず振り返りそうになる自分を、彼の声が止める。
前に向き直り、ただ彼の声だけを求めて歩き出した。
光が強くなる。思わず目を閉じて立ち止まり。

強く、腕を引かれて目が覚めた。



「燈里」

冬玄《かずとら》の呼ぶ声に反応し、燈里はゆっくりと目を覚ました。
まだ完全に覚醒してはいないのだろう。焦点の定まらない目が、不安に揺れて冬玄を探していた。

「冬玄?」
「大丈夫だ。ここにいる」

縋るものを求めて伸ばされた手を取り、冬玄はここにいると示すかのようにゆっくりと繋ぐ。大丈夫だと繰り返せば、強張っていた燈里の体から次第に力が抜けていく。

「もう一度眠るといい。今度は余計な夢も見ないだろう」
「――うん」

優しく囁けば燈里はふわりと微笑んで、そっと瞼が落ちていく。しばらくすれば規則正しい寝息が聞こえ、冬玄は小さく息を吐いた。

「穢れはすべて祓われたみたいだね」

ベッドサイドで香を焚いていた楓《かえで》の表情が幾分か和らぐ。香炉の火を落として、それにしても、と呟いた。

「燈里にぶつかったっていうその生徒。どこでこんな穢れを貰ってきたんだか」

呆れたような口調でありながら、その目は鋭さを孕んでいる。

「冬玄」
「なんだ、楓」

名を呼ばれて、冬玄は楓へと向き直った。
楓もまた真っ直ぐに冬玄を見つめ、口を開く。

「燈里が縁《えにし》を結ばれた。原因を何とかしないと、また同じことの繰り返しだよ。いくら禊ぎや祓いをしても、切りがない」
「――そうか」

低く呟いて冬玄は燈里へと視線を移す。慈しむように頬を撫でて、静かに立ち上がった。

「どこに行くんだい?」
「あの生徒は触穢だろうから、本人に接触しても意味がない。なら、学校の方を探す」

そう言って、冬玄は部屋の外へと向かう。
楓は何も言わない。それをありがたく思いながら、冬玄は楓に頭を下げた。

「ある程度情報が集まったら戻ってくる……それまで、燈里を頼む」
「言われなくても分かっているよ」

冬玄の頼みを、楓は当然だと笑う。
それに笑みを返して、冬玄は部屋を出て行った。



20250807 『心の羅針盤』





無音。
耳が痛くなるほどの静寂。虫の声や、風の音。身動ぐ時の衣擦れの音すら聞こえない。
ここはどこなのだろうか。
白く霞む景色は、すべての輪郭を曖昧にさせている。
ふっと、息を吐いた。その微かな音すら耳には届かない。
ゆっくりを視線を巡らせる。
何も分からない。白以外が見えない。

不意に、目の前の景色が揺らいだ。
白以外の色が揺らぎ、浮かび上がる。
遠くに、小さな影。こちらに背を向け去って行く。

思わずその背を追いかけた。
やはり足音はしなかった。静寂が支配する白の空間で、唯一色のある影を必死で追った。
けれども、思うように進めない。影との距離が縮まらない。
何故だろうかと考えて、何気なく視線を落とす。
小さな赤い靴を履いた細い足。歩く度にふわりと広がる桃色のスカート。
地面が近い。子供の目線だと、ようやく気づいた。


影が立ち止まる。
こちらを振り返るあの子の表情は、乏しいながらも柔らかだ。
少しだけ眉を下げて笑う。

「また来たの」

無音の空間で、その声はやけにはっきりと聞こえた。
待っていてくれることに嬉しくなって、あの子の元まで駆け出した。

白の空間で、二人並んで歩き出す。
手は繋がない。触れることは駄目なことなのだと言っていた。
その理由は教えられなかった。それでもいいかと、あまり気にも留めなかった。

白が染まっていく。
青に染まって、次第に赤へと色を変えていく。
帰る時間がきてしまった。
振り返り、歩いてきた道を引き返す。
何かを言いかけ止めるあの子に、手を振った。

「またねっ!」

また、明日。
一方的な言葉は、あの子のくしゃりとした笑みで、約束になった。

「――またね」

小さな呟き。
満たされた思いで、跳ねるように駆け出した。



次の瞬間、世界が真っ黒に染まった。
目を閉じていても、開いていても変わらない黒。
そもそも目を開けているのかすら分からないほど、感覚が曖昧だった。
手足が動かない。動いているという感覚がない。
黒の世界の中。木と土の匂いがして、そのあまりの強さにくらりと世界が揺れた。


遠くで何か音がした。
声ではない。土を掘る音。
かたん、と何かの音が聞こえ、黒の世界に一筋白が紛れ込む。
その白を遮るように、誰かの影がかかった。
何かを言っている。だがそれは、言葉として耳には届かない。
ゆっくりと影の手が伸ばされる。
頬に触れ、そのまま後ろに手を滑らせて――。



そこで、燈里《あかり》は目が覚めた。
薄暗い部屋。甘く苦い、香の匂い。
それに混じり土と木の匂いがする気がして、燈里は深く息を吸い込んだ。
ゆっくりと吐き出す。それを何度か繰り返して、次第に意識は覚醒してきたのだろう。まだ虚ろだった燈里の目が、焦点を結ぶ。

「起きたの?」
「楓《かえで》……?」

燈里が目覚めたことに気づいた楓が、テーブルライトをつける。
仄かな光が、周囲をぼんやりと浮かび上がらせる。
見慣れた室内の光景に、燈里は目を瞬き楓を見た。

「楓」
「駄目だよ」

燈里が何かを言う前に、楓は静かに首を振る。

「あれは、夢じゃない……行かないと」
「行かせられない。駄目だよ、燈里」

起き上がろうとする燈里を押し止め、楓は険しい表情で駄目だと繰り返す。
嫌々と首を振り泣く燈里の頭を撫でながら、言い聞かせるように囁いた。

「燈里が見ていたのは、ただの夢だよ。もう一度寝てしまえばすぐに忘れてしまうような、そんな些細な夢さ」
「違うっ!夢じゃない。あの子は本当にいたの。またねって、約束をしたのに……なんで皆、駄目だって言うの?会っちゃ駄目なんて、どうしてそんな酷いことを言うのっ!?」
「燈里!」

楓を振り払い、燈里はベッドから転がり落ちるようにして抜け出した。すぐに立ち上がろうとするが、穢れに中てられ衰弱していた体はふらつき、すぐに膝をつく。

「燈里」

それでも、這ってでも外へと向かおうとする燈里を見て、楓は小さく息を吐き、その背に抱きついた。

「会いたいの?」
「会わなきゃ。またねって、約束したんだから……あの子が待ってる」

床に爪を立てて前へ進もうとする燈里の手を取り、軽く引く。振り返る燈里と目を合わせ、楓は悲しく笑った。

「分かった……でもその前に、冬玄《かずとら》の所に行こうか」
「かずとら……?」

涙に濡れる目を瞬いて、燈里が小さく呟いた。
幼い子供のようなたどたどしさで、冬玄の名を呼ぶ。何度も繰り返して、燈里の目がはっきりと楓を見つめた。

「――楓?」
「そうだよ。おはよう、燈里」
「おはよう……?」

燈里の目が楓を見て、部屋を見渡す。見慣れた自室を認めて、困惑したように眉を寄せた。

「冬玄は?それにあの子……あぁ、いや。そうじゃない」

頭を抑えて首を振る。
現実の記憶と夢の中の記憶が混ざり合い、燈里は呻くように声を上げた。

「大丈夫だよ。まぁ、ちょっと困ったことにはなってるけどね」

燈里の背を撫でながら、楓は密かに安堵の息を吐いた。しかし燈里の様子に油断はできないと、真剣な眼差しで、燈里に告げた。

「二日前、燈里にぶつかった人間がいたことを覚えているかい?その人間が少々厄介な穢れを燈里に移してね……つまり、触穢に接したんだよ」

楓の言葉に、燈里は記憶を辿る。
一瞬だけすれ違った人影を思い出し、夢の記憶と照らし合わせて顔を顰めた。

「学生は夏休みだもんね。肝試しにでも行ったのかな」
「その人間か、別の誰かから穢れが伝播したのかは分からない。でも誰かが墓地に足を踏み入れた。それも、かなり古い……おそらくは土葬されていた墓地に入ったのは確実だ」

墓地の言葉に、燈里は思わず目を伏せた。
夢で見た少年が抱いていた小さな髑髏。その眼窩から漏れ出す黒の煙を思い出す。
触れたものすべてを浸食するかのようなあの黒が、穢れなのだろう。

「穢れ……死穢、か」
「そうだよ。しかも、さらに厄介なことに、その死穢と縁が結ばれている」
「縁?」

意味が分からず、燈里は困惑する。
穢れと縁が結ばれる。それではまるで、死穢が人ではないか。
あり得ないと否定しながらも、燈里の脳裏に髑髏を抱いた少年が浮かぶ。少年ならばあるいは、と思いながら夢で聞いた声を思い出した。

――またね。

些細な約束に、行かなければという衝動が沸き上がる。
理由の分からないその衝動に戸惑い楓を見れば、悲しい笑みを返された。

「縁を結ばれている限り、また燈里は穢れに晒される。今、冬玄が情報を集めてくれてはいるけれど、燈里の方が保たないだろうね」
「どういうこと?」

燈里の疑問に楓は敢えて答えず、代わりに手を差し出す。

「冬玄の所へ行こうか。燈里がまた引かれて、重なってしまう前に、こちらから動いた方がいい」

燈里の脳裏を少年が過ぎていく。
思い出せないもう一人を感じながら、それでもまずは動かなければと、燈里は楓の手を取った。



20250808 『夢じゃない』

8/8/2025, 8:47:05 AM

夕暮れの校舎内は、ひっそりと静まりかえっている。
耳を澄ませば、遠く蝉の声に混じり、蜩の鳴き声が聞こえた。
青から赤へと色を変えていく空。陽が陰っていても、肌に纏わり付くような暑さは少しも和らぐ様子がない。
かたん、と引いた椅子が音を立てる。普段ならば気にもならない音が、教室内に響いて小さく息を呑んだ。
部活で残っていたはずの他の生徒達も皆帰ってしまったのだろう。この時期活動が盛んな運動部は、屋内以外の活動を禁じられている。屋内活動だとしても、大分前に下校時間が来てしまっていた。
熱中症対策。先生達はそう言うものの、本当は別の理由があることは殆どの生徒が知っていた。

――校舎内に一人でいる時に、後ろから知らない誰かに声をかけられても振り返ってはいけない。

夏休みが始まってしばらくして、広がり始めた暗黙のルール。
誰が言い出したのかは分からない。最初は誰しもがそのルールを笑い、気にも留めなかった。

机の中から置き忘れたノートを取り出す。取りに戻ることを迷って、結局取りに来たノートがあったことに安堵の溜息が出た。
少し乱暴に椅子を戻して、ちらりと窓の外を見る。
赤く染まり沈んでいく陽が、とても怖ろしいもののように思えて、慌てて視線を逸らす。

――振り返ってしまえば、憑かれてしまう。

誰も気にしないルールが、守らなければいけないものに変わったのは、噂が流れ出してからだ。
何に憑かれるのかは分からない。ただ、噂が広がり始めてから、明らかに部活に参加する生徒の数が減っていた。
憑かれてしまうと、数日以内に原因不明の高熱が出る。実際に何人も病院に運ばれたらしいと、友人達から話を聞いた。

――校舎内に一人でいると……。

ふるりと肩を震わせて、手にしたノートを急いで鞄に詰める。
忘れ物をしなければ、と何度も後悔しながら、鞄を手にして足早に教室を出た。
窓から夕陽が差し込んで、廊下を赤く染めている。今にも何かが現れそうな雰囲気に足が竦みそうになった。

――後ろから声をかけられても……。

噂を思い出す。このまま校舎にいれば、声をかけられるかもしれないと思うと、止まっていた足がゆっくりと動き出した。

とても静かだ。
先生達は残っているはずなのに、音も声も聞こえない。
自分の歩く音だけが廊下に反射して、心細さに泣きたくなった。
微かに聞こえていた蝉や蜩の声が止んだ。少しの沈黙の後に、先ほどよりも大きく泣き出した。
自然と足が速くなる。後ろを気にしないようにするほど、後ろが気になって仕方がない。
そんなことを思いながら、昇降口で靴を履き替え、外に出ようとした時だった。

「――またね」

小さく、誰かの声が聞こえた。
後ろから。知らない子供の声が。

「――っ!?」

体が強張る。
今すぐにここから逃げ出したいのに、足が少しも動かない。
声変わりのまだの、幼い少年のような声だった。
恥ずかしそうで、それでいて嬉しさをかくしきれない。
そんな柔らかい響きに、怖さと同時に切なくなった。
誰が誰に伝えようとしているのだろう。体が動かないことに、少しだけ安堵する。
今体が動いてしまったのなら、後ろを振り返って誰かを確認したくなるのだろうから。

じとりと、熱気が肌に纏わり付く。
唯一動かせる視線で辺りを見た。何も変わらない、いつもの昇降口。誰かが置き忘れた傘。夕陽を反射して煌めく埃。
視線を落とせば後ろの窓から差し込んだ赤い陽の光が、影を伸ばしていることに気づく。
自分の影が、昇降口から外へと伸びている。
その隣。重なるように伸びた小さな影があった。
すぐ後ろにいる。何かをするでもなく、ただ立っている。
僅かに視線を動かせば、土に濡れた裸足の足が見えた気がした。
咄嗟に目を閉じる。何も見ていないと、呪文のように心の中で繰り返して、動かない足に力をいれた。

「また、ね……」

ぽつりと声がした。
すぐ後ろ。耳元で。
泣くのを耐えているかのような、静かな声。感情を押し殺して、無機質に響く。
けれど僅かに震えているのがはっきりと感じられて、声にならない悲鳴が漏れた。
その瞬間。あれだけ動かなかった体が、動いた。
逃げなければ。その思いで目を開ける。必死で足を動かして、昇降口を抜けて校庭へと飛び出した。
校門まで一気に駆け抜ける。今にも影が追いついてきそうで、下は見れなかった。

「っ、はぁ……」

校門を抜け、荒い息を吐く。呼吸を整えながら、ふと先ほどの声を思い出して。
気づけば、校舎へと視線を向けていた。

「――ぁ」

昇降口の前。
無表情に佇む、小さな少年と目が合った。
ぼろぼろのサイズの合っていない服。無造作に伸びた髪。
その手足は細く白く。土にまみれて汚れている。
距離があるのに、はっきりと見える。
感情が抜け落ちたかのような表情。その腕に――。

ひっと、短く悲鳴が漏れる。
大切そうに抱え持つ、土に汚れた白は。

少年と同じくらいの、小さな髑髏だった。





脇目も振らず、一人の生徒が暗くなった道を駆け抜けていた。

「――痛っ」
「大丈夫か?」

途中、道を行く女にぶつかるが、気にする余裕もなく走り去る。女の側にいた男が心配そうに声をかけるが、その表情はすぐに険しいものへと変わる。
生徒が去って行った方向へと視線を向けるものの、既にその姿はない。

「あの野郎っ!」
「大丈夫。別に怪我もしてないし、きっと急いでたんだよ」

男の腕に触れながら女は微笑むものの、先ほどまでとは明らかに様子が異なっていた。
浅い呼吸。顔色は悪く、足下もふらついている。
力が入らなくなったのだろう。崩れ落ちそうになる女の体を男は抱き留める。

「あ、あれ?おかしいな、別に調子は悪くないはずなんだけど」
「穢れに中てられたんだから当然だ」

女を抱き上げて、男は険しい顔のまま踵を返した。

「え、冬玄《かずとら》?」
「帰るぞ……早く、禊ぎをしないと」

そう告げて、男――冬玄は小さく舌打ちをする。

――またね。

微かに、子供の声が聞こえた気がした。



20250806 『またね』

8/7/2025, 6:32:00 AM

「風になりたい」

ごろりと横になりながら、吹き抜ける風を羨んで言葉が出る。

「今度は風か。その前は魚だっけ」

くすくすと笑いながら、声がする。寝転がったまま視線を向ければ、彼女が苦笑しながらこちらを見下ろしていた。

「最近、暑くなってきたからねぇ」

そう言って、彼女は手にしていた瓶をこちらに手渡す。
既に栓の抜かれた、サイダーの瓶。起き上がって受け取って、冷えた瓶をしばらく眺めた。
いくつもの小さな気泡が上がって、そして弾けて消えていく。その儚さに、小さく吐息が零れた。

「泡になりたい」

思わず呟いた声は、自分でも驚くほどに覇気がなかった。

「どうしたの?何かあった」

彼女の笑みが消えて、心配そうに眉を下げる。
それに何でもないと首を振って、誤魔化すようにサイダーに口を付けた。
口の中で気泡が弾ける感覚に、再び泡になりたいと呟きそうになり、溜息を吐く。益々心配そうにこちらを見つめる彼女に力なく笑って、小さく呟いた。

「ちょっとね。ここに来る前の夢を見ていたの」

まだ何も知らない子供だった時の夢。
幼馴染みと、無邪気に将来の夢を語っていたあの時。柔らかく微笑む幼馴染みに、懐かしさと切なさが込み上げた。

「ここに来たこと、後悔してるの?」

そう問われて、首を振る。
後悔はしていない。技術が認められたこと、自分で選択したことに後悔はない。
ただ、幼馴染みに対しては、ひとつだけ小さな後悔に似た思いはあった。

「さよならくらい、言えばよかったかなって……戻りたいなんて思わないし、明日になれば忘れることもできるけど」

幼馴染みとは、また明日と別れてそれきりだった。
ちゃんと別れを告げていれば、きっとこんなにも切ない思いを抱えることはなかっただろう。

「大丈夫。すぐに忘れられる……私の織る布のように、色をなくして輪郭さえも分からなくなる」

サイダーを飲み干して、立ち上がる。
そろそろ戻らなければ。ちょうど玄関から鈴の音が聞こえて、座敷へと向かう。
来訪者。織物を求めて訪れる者達にどこか申し訳なさを感じて、足取りが重くなる。

「貴女のせいじゃないわ」

隣を歩く彼女が言う。

「貴女の織物の技術は素晴らしいもの。私の紡いだ糸を、最高の形で仕上げてくれる……ただ染め手がいないから、完成しないの」
「うん、分かってる。大丈夫だよ」

大丈夫と、自分に言い聞かせるように繰り返し、座敷に入る。
すでに面布を着けた来訪者が待っているのを一瞥して、奥から一枚の織物を取り出した。
真っ白な絹織物。それに織り込まれた模様など、誰にも分かりはしないのだろう。

「――こちらをどうぞ」

嘆息しそうになるのを堪えながら、織物を来訪者へと手渡す。
恭しく受け取って、来訪者は織物を広げ――。
白く透明な、泡沫の夢の中へと消えていった。

「貴女のせいじゃないわ」

彼女が宥めるように背を撫でる。
それに何度目かの大丈夫を返して、笑ってみせた。

「ありがとう……そろそろ戻らないとね」

呟いて座敷を出る。
幼馴染みとの記憶の切なさと、白の糸だけで織った布のもどかしさと。
飲み干したサイダーの気泡のように弾けて消えればいいのにと、密かに唇を噛みしめた。





その日訪れた来訪者は、他の者達とどこか何かが異なっているように感じた。

「こちらをどうぞ」

違和感を感じながらも、いつものように織物を手渡す。
こちらから目を逸らさず受け取った来訪者は、織物を一瞥し、再びこちらに向き直った。

「白いな」

初めて指摘され、思わず手を握りしめる。
来訪者は変わらず真っ直ぐにこちらを見つめ、視線を逸らすことを許さない。面布越しでありながらはっきりと感じられる強い視線に、そっと息を呑んだ。

「これでは求める夢を見せることなどできないだろう」

静かな声が容赦のない言葉を紡ぐ。
そんなこと、自分がいつも感じていたことだ。
どんなに良質な糸だろうと、白糸だけでは模様が織れない。だからといって安易に染めてしまえば、糸自体を駄目にしてしまう。
夢を――それも予知夢と言われる類いの夢を織る自分には、それは致命的だった。けれども、どうしようもできないことでもあった。

「それはっ――」

隣にいた彼女が何かを言いかける。けれどそれを手で制して、来訪者は織物へと視線を落とし軽く撫でる。

「絹糸も、織り方も申し分ない。ただ色だけが足りない」

そう告げて、来訪者は顔を上げる。
ゆっくりと面布に手を伸ばして、それを取った。

「――ぁ」

隠されていた顔が露わになる。
知らない男の人。けれどもどこか懐かしい面影に、胸が苦しくなった。

「俺が糸を染める。ここに来る前は、ずっとそうだったように、お前の織る糸はすべて」

強い眼差しに、いつか見た夢を思い出した。
幼馴染みが染めた糸はどれも色鮮やかで、思い描いたものをそのままに織ることができた。
けれど幼馴染みは常に色に飢えていた。表現できる色の限界を求めて、努力を怠らない人だった。

「ここまで至るのに、思ったよりも時間がかかってしまった。だがこれでお前の求める色は、寸分違わず染め上げることができる」

微笑む幼馴染みの手の中の織物が、じわりと色を持ち始める。色鮮やかに煌めくそれは、一部だけでも何を表しているのかがよく分かる。
故郷の夜祭の風景だ。花火と提灯の灯り、そして神楽。
あの頃求めて、再現できなかった織物の柄がようやく完成したのだ。

「素敵ね……懐かしいな。故郷のお祭も、こんな感じだった」

織物を覗き込んで、彼女が切なげに目を細める。
声をかけるべきかを悩んでいると、こちらを見た彼女が眼を輝かせて微笑んだ。

「染め手がようやく来てくれた。これでようやくお役目を全うできるね」
「そうだね……やっと、求めるものが織れるんだ」

彼女の言葉に、幼馴染みを見る。強く頷く幼馴染みに、遅れて染め手という意味を理解して、鼓動が速くなっていく。
夜祭を再現した織物が、静かに空中に溶けていく。
泡沫の夢は弾けて消えず、ただひとつの現実を残して去っていった。





一人縁側に座り、空を見上げていた。

「今度は何になりたいの?」

サイダーの瓶を手にした彼女がこちらに歩み寄り、楽しそうに問いかける。二つある内の一つの瓶を手渡して、隣に座ってサイダーを飲んだ。

「また、泡にでもなりたい?」

笑って首を振る。

「泡になって弾けて消えるより、泡沫の夢を皆に見せたいな」

今はそれができるのだから。
鮮やかに染め上がった絹糸を思い出して、笑みが浮かぶ。
ふわふわとした気持ちで、サイダーに口を付けた。

「そうね。私も、糸の紡ぎ甲斐があってとても嬉しいわ。彼には感謝しないとね」

彼女が笑う。
サイダーを飲みながら、確かにと強く同意した。
りん、と鈴の音が聞こえた。どうやらまた来訪者が現れたらしい。

「行かなきゃ」

急いでサイダーを飲み干して、立ち上がる。

「いってらっしゃい」

軽く手を振る彼女に別れを告げて、歩き出す。以前と違って座敷に向かう足は軽やかだ。

座敷に入り、待っていた来訪者へと、求める織物を差し出す。

「こちらをどうぞ」

緻密な模様の描かれた織物が来訪者の手に渡り、広げた瞬間。
極彩色の景色を纏いながら、来訪者は泡沫の夢へと誘われていった。



20250805 『泡になりたい』

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