sairo

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「風になりたい」

ごろりと横になりながら、吹き抜ける風を羨んで言葉が出る。

「今度は風か。その前は魚だっけ」

くすくすと笑いながら、声がする。寝転がったまま視線を向ければ、彼女が苦笑しながらこちらを見下ろしていた。

「最近、暑くなってきたからねぇ」

そう言って、彼女は手にしていた瓶をこちらに手渡す。
既に栓の抜かれた、サイダーの瓶。起き上がって受け取って、冷えた瓶をしばらく眺めた。
いくつもの小さな気泡が上がって、そして弾けて消えていく。その儚さに、小さく吐息が零れた。

「泡になりたい」

思わず呟いた声は、自分でも驚くほどに覇気がなかった。

「どうしたの?何かあった」

彼女の笑みが消えて、心配そうに眉を下げる。
それに何でもないと首を振って、誤魔化すようにサイダーに口を付けた。
口の中で気泡が弾ける感覚に、再び泡になりたいと呟きそうになり、溜息を吐く。益々心配そうにこちらを見つめる彼女に力なく笑って、小さく呟いた。

「ちょっとね。ここに来る前の夢を見ていたの」

まだ何も知らない子供だった時の夢。
幼馴染みと、無邪気に将来の夢を語っていたあの時。柔らかく微笑む幼馴染みに、懐かしさと切なさが込み上げた。

「ここに来たこと、後悔してるの?」

そう問われて、首を振る。
後悔はしていない。技術が認められたこと、自分で選択したことに後悔はない。
ただ、幼馴染みに対しては、ひとつだけ小さな後悔に似た思いはあった。

「さよならくらい、言えばよかったかなって……戻りたいなんて思わないし、明日になれば忘れることもできるけど」

幼馴染みとは、また明日と別れてそれきりだった。
ちゃんと別れを告げていれば、きっとこんなにも切ない思いを抱えることはなかっただろう。

「大丈夫。すぐに忘れられる……私の織る布のように、色をなくして輪郭さえも分からなくなる」

サイダーを飲み干して、立ち上がる。
そろそろ戻らなければ。ちょうど玄関から鈴の音が聞こえて、座敷へと向かう。
来訪者。織物を求めて訪れる者達にどこか申し訳なさを感じて、足取りが重くなる。

「貴女のせいじゃないわ」

隣を歩く彼女が言う。

「貴女の織物の技術は素晴らしいもの。私の紡いだ糸を、最高の形で仕上げてくれる……ただ染め手がいないから、完成しないの」
「うん、分かってる。大丈夫だよ」

大丈夫と、自分に言い聞かせるように繰り返し、座敷に入る。
すでに面布を着けた来訪者が待っているのを一瞥して、奥から一枚の織物を取り出した。
真っ白な絹織物。それに織り込まれた模様など、誰にも分かりはしないのだろう。

「――こちらをどうぞ」

嘆息しそうになるのを堪えながら、織物を来訪者へと手渡す。
恭しく受け取って、来訪者は織物を広げ――。
白く透明な、泡沫の夢の中へと消えていった。

「貴女のせいじゃないわ」

彼女が宥めるように背を撫でる。
それに何度目かの大丈夫を返して、笑ってみせた。

「ありがとう……そろそろ戻らないとね」

呟いて座敷を出る。
幼馴染みとの記憶の切なさと、白の糸だけで織った布のもどかしさと。
飲み干したサイダーの気泡のように弾けて消えればいいのにと、密かに唇を噛みしめた。





その日訪れた来訪者は、他の者達とどこか何かが異なっているように感じた。

「こちらをどうぞ」

違和感を感じながらも、いつものように織物を手渡す。
こちらから目を逸らさず受け取った来訪者は、織物を一瞥し、再びこちらに向き直った。

「白いな」

初めて指摘され、思わず手を握りしめる。
来訪者は変わらず真っ直ぐにこちらを見つめ、視線を逸らすことを許さない。面布越しでありながらはっきりと感じられる強い視線に、そっと息を呑んだ。

「これでは求める夢を見せることなどできないだろう」

静かな声が容赦のない言葉を紡ぐ。
そんなこと、自分がいつも感じていたことだ。
どんなに良質な糸だろうと、白糸だけでは模様が織れない。だからといって安易に染めてしまえば、糸自体を駄目にしてしまう。
夢を――それも予知夢と言われる類いの夢を織る自分には、それは致命的だった。けれども、どうしようもできないことでもあった。

「それはっ――」

隣にいた彼女が何かを言いかける。けれどそれを手で制して、来訪者は織物へと視線を落とし軽く撫でる。

「絹糸も、織り方も申し分ない。ただ色だけが足りない」

そう告げて、来訪者は顔を上げる。
ゆっくりと面布に手を伸ばして、それを取った。

「――ぁ」

隠されていた顔が露わになる。
知らない男の人。けれどもどこか懐かしい面影に、胸が苦しくなった。

「俺が糸を染める。ここに来る前は、ずっとそうだったように、お前の織る糸はすべて」

強い眼差しに、いつか見た夢を思い出した。
幼馴染みが染めた糸はどれも色鮮やかで、思い描いたものをそのままに織ることができた。
けれど幼馴染みは常に色に飢えていた。表現できる色の限界を求めて、努力を怠らない人だった。

「ここまで至るのに、思ったよりも時間がかかってしまった。だがこれでお前の求める色は、寸分違わず染め上げることができる」

微笑む幼馴染みの手の中の織物が、じわりと色を持ち始める。色鮮やかに煌めくそれは、一部だけでも何を表しているのかがよく分かる。
故郷の夜祭の風景だ。花火と提灯の灯り、そして神楽。
あの頃求めて、再現できなかった織物の柄がようやく完成したのだ。

「素敵ね……懐かしいな。故郷のお祭も、こんな感じだった」

織物を覗き込んで、彼女が切なげに目を細める。
声をかけるべきかを悩んでいると、こちらを見た彼女が眼を輝かせて微笑んだ。

「染め手がようやく来てくれた。これでようやくお役目を全うできるね」
「そうだね……やっと、求めるものが織れるんだ」

彼女の言葉に、幼馴染みを見る。強く頷く幼馴染みに、遅れて染め手という意味を理解して、鼓動が速くなっていく。
夜祭を再現した織物が、静かに空中に溶けていく。
泡沫の夢は弾けて消えず、ただひとつの現実を残して去っていった。





一人縁側に座り、空を見上げていた。

「今度は何になりたいの?」

サイダーの瓶を手にした彼女がこちらに歩み寄り、楽しそうに問いかける。二つある内の一つの瓶を手渡して、隣に座ってサイダーを飲んだ。

「また、泡にでもなりたい?」

笑って首を振る。

「泡になって弾けて消えるより、泡沫の夢を皆に見せたいな」

今はそれができるのだから。
鮮やかに染め上がった絹糸を思い出して、笑みが浮かぶ。
ふわふわとした気持ちで、サイダーに口を付けた。

「そうね。私も、糸の紡ぎ甲斐があってとても嬉しいわ。彼には感謝しないとね」

彼女が笑う。
サイダーを飲みながら、確かにと強く同意した。
りん、と鈴の音が聞こえた。どうやらまた来訪者が現れたらしい。

「行かなきゃ」

急いでサイダーを飲み干して、立ち上がる。

「いってらっしゃい」

軽く手を振る彼女に別れを告げて、歩き出す。以前と違って座敷に向かう足は軽やかだ。

座敷に入り、待っていた来訪者へと、求める織物を差し出す。

「こちらをどうぞ」

緻密な模様の描かれた織物が来訪者の手に渡り、広げた瞬間。
極彩色の景色を纏いながら、来訪者は泡沫の夢へと誘われていった。



20250805 『泡になりたい』

8/7/2025, 6:32:00 AM