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深く、どこまでも落ちていく。
目を開けているのか、それとも閉じているのか分からない暗闇。冷たく重い何かが全身に絡みつき、指先ひとつ動かすことができない。
湿った土の匂いがした。それならば、この絡みつく何かは土か、あるいは水なのか。
不意に、甘く焦げた香のような匂いがした。酷く懐かしく、それでいて切ない思いが胸を焦がす。
遠くで笛の音が聞こえた。誰かが鉦を叩く音が、笛の音と重なり響き合う。

暗闇の中、微かに何かが見えた。いくつもの影が揺らいで、過ぎていく。
気づけば、どこかの葬式の列に立っていた。
白い布に包まれた顔。棺の蓋を釘で打ち付ける音。
深く暗い穴に、棺が下ろされていく。
視界の端で小さな影が揺らいだ。視線を向ければ、そこには背の低い、まだあどけなさが残る少年の姿があった。
誰からも視線を向けられず、誰にも視線を向けることなく。ただ静かに、無感情に棺が埋められていくのを見つめていた。

大人達に気づかれぬよう、こっそりと少年に近づいた。けれどもそれを察してか、少年はこちらに背を向け去ってしまう。
諦めきれなくて、少年を追いかけた。辺りは次第に色をなくし、やがては少年以外何も見えなくなる。
甘く苦い、香の匂いが漂う。伸ばした手の異様な小ささに、ようやく気づく。
それでも足は止まらない。少年の背を追い続ける。

――またね。

どこからか、声が聞こえた。
恥ずかしそうに、けれどとても嬉しそうに。言葉を噛みしめるような、そんな小さな声。
思わず足を止めた。去って行く少年の背を、呆然と見つめる。

――いかないで。

耳元で、声が囁いた。
小さく、微かに。伝えられない思いが、耐えきれずに零れ落ちてしまったかのような声だった。

不意に少年が立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
表情の抜け落ちた顔。痩せて土にまみれた手足。
その腕に抱かれているものを認めて、息を呑んだ。
それは小さな髑髏だった。少年と同じ年頃の、あるいは少年よりも幼い小さな骨。
ぽっかりと開いた眼窩から、黒い煙が溢れ出している。重く澱んだその煙は地面を漂い、足下に絡みつく。冷たい痛みを伴って、足から腰、腕と全身が絡め取られていく。
呼吸が苦しい。息を吸えば煙が体の内側に入り込み、肺を喉を灼き、臓腑を腐らせていくかのようだ。
意識が揺らぐ。いつの間にか少年の姿はなく、また何も見えない暗闇が、どこまでも広がっていた。

――燈里《あかり》。

名を呼ばれて、僅かに意識が鮮明になる。
自分を導く、北の星。彼が呼んでいる。
見上げた空から、いくつもの白い結晶が降り注ぐ。頭に四肢に降り積もり、絡みついた澱みを連れて、雪は儚く溶けていく。
呼吸が楽になり、体は自由を取り戻す。改めて見た腕は小さな子供のものではなく、自分のそれだった。

――おいで。

彼が呼んでいる。
暗闇の中でも、どこへ行けばいいのか迷うことはない。
北の星は動かない。自分の心にある羅針盤の針は、常に彼を指し示している。
一歩、足を踏み出した。足下の暗闇が溶けて消え、土と骨に塗れた大地が露わになる。
地面を見ないように、顔を上げて歩き出す。寂れた墓標が立つだけの墓地を抜けて、声が聞こえる光の方へと向かっていく。

――またねっ!

背後で声がした。先ほど聞こえた声とは違う、楽しげな子供の声。

――燈里。

思わず振り返りそうになる自分を、彼の声が止める。
前に向き直り、ただ彼の声だけを求めて歩き出した。
光が強くなる。思わず目を閉じて立ち止まり。

強く、腕を引かれて目が覚めた。



「燈里」

冬玄《かずとら》の呼ぶ声に反応し、燈里はゆっくりと目を覚ました。
まだ完全に覚醒してはいないのだろう。焦点の定まらない目が、不安に揺れて冬玄を探していた。

「冬玄?」
「大丈夫だ。ここにいる」

縋るものを求めて伸ばされた手を取り、冬玄はここにいると示すかのようにゆっくりと繋ぐ。大丈夫だと繰り返せば、強張っていた燈里の体から次第に力が抜けていく。

「もう一度眠るといい。今度は余計な夢も見ないだろう」
「――うん」

優しく囁けば燈里はふわりと微笑んで、そっと瞼が落ちていく。しばらくすれば規則正しい寝息が聞こえ、冬玄は小さく息を吐いた。

「穢れはすべて祓われたみたいだね」

ベッドサイドで香を焚いていた楓《かえで》の表情が幾分か和らぐ。香炉の火を落として、それにしても、と呟いた。

「燈里にぶつかったっていうその生徒。どこでこんな穢れを貰ってきたんだか」

呆れたような口調でありながら、その目は鋭さを孕んでいる。

「冬玄」
「なんだ、楓」

名を呼ばれて、冬玄は楓へと向き直った。
楓もまた真っ直ぐに冬玄を見つめ、口を開く。

「燈里が縁《えにし》を結ばれた。原因を何とかしないと、また同じことの繰り返しだよ。いくら禊ぎや祓いをしても、切りがない」
「――そうか」

低く呟いて冬玄は燈里へと視線を移す。慈しむように頬を撫でて、静かに立ち上がった。

「どこに行くんだい?」
「あの生徒は触穢だろうから、本人に接触しても意味がない。なら、学校の方を探す」

そう言って、冬玄は部屋の外へと向かう。
楓は何も言わない。それをありがたく思いながら、冬玄は楓に頭を下げた。

「ある程度情報が集まったら戻ってくる……それまで、燈里を頼む」
「言われなくても分かっているよ」

冬玄の頼みを、楓は当然だと笑う。
それに笑みを返して、冬玄は部屋を出て行った。



20250807 『心の羅針盤』





無音。
耳が痛くなるほどの静寂。虫の声や、風の音。身動ぐ時の衣擦れの音すら聞こえない。
ここはどこなのだろうか。
白く霞む景色は、すべての輪郭を曖昧にさせている。
ふっと、息を吐いた。その微かな音すら耳には届かない。
ゆっくりを視線を巡らせる。
何も分からない。白以外が見えない。

不意に、目の前の景色が揺らいだ。
白以外の色が揺らぎ、浮かび上がる。
遠くに、小さな影。こちらに背を向け去って行く。

思わずその背を追いかけた。
やはり足音はしなかった。静寂が支配する白の空間で、唯一色のある影を必死で追った。
けれども、思うように進めない。影との距離が縮まらない。
何故だろうかと考えて、何気なく視線を落とす。
小さな赤い靴を履いた細い足。歩く度にふわりと広がる桃色のスカート。
地面が近い。子供の目線だと、ようやく気づいた。


影が立ち止まる。
こちらを振り返るあの子の表情は、乏しいながらも柔らかだ。
少しだけ眉を下げて笑う。

「また来たの」

無音の空間で、その声はやけにはっきりと聞こえた。
待っていてくれることに嬉しくなって、あの子の元まで駆け出した。

白の空間で、二人並んで歩き出す。
手は繋がない。触れることは駄目なことなのだと言っていた。
その理由は教えられなかった。それでもいいかと、あまり気にも留めなかった。

白が染まっていく。
青に染まって、次第に赤へと色を変えていく。
帰る時間がきてしまった。
振り返り、歩いてきた道を引き返す。
何かを言いかけ止めるあの子に、手を振った。

「またねっ!」

また、明日。
一方的な言葉は、あの子のくしゃりとした笑みで、約束になった。

「――またね」

小さな呟き。
満たされた思いで、跳ねるように駆け出した。



次の瞬間、世界が真っ黒に染まった。
目を閉じていても、開いていても変わらない黒。
そもそも目を開けているのかすら分からないほど、感覚が曖昧だった。
手足が動かない。動いているという感覚がない。
黒の世界の中。木と土の匂いがして、そのあまりの強さにくらりと世界が揺れた。


遠くで何か音がした。
声ではない。土を掘る音。
かたん、と何かの音が聞こえ、黒の世界に一筋白が紛れ込む。
その白を遮るように、誰かの影がかかった。
何かを言っている。だがそれは、言葉として耳には届かない。
ゆっくりと影の手が伸ばされる。
頬に触れ、そのまま後ろに手を滑らせて――。



そこで、燈里《あかり》は目が覚めた。
薄暗い部屋。甘く苦い、香の匂い。
それに混じり土と木の匂いがする気がして、燈里は深く息を吸い込んだ。
ゆっくりと吐き出す。それを何度か繰り返して、次第に意識は覚醒してきたのだろう。まだ虚ろだった燈里の目が、焦点を結ぶ。

「起きたの?」
「楓《かえで》……?」

燈里が目覚めたことに気づいた楓が、テーブルライトをつける。
仄かな光が、周囲をぼんやりと浮かび上がらせる。
見慣れた室内の光景に、燈里は目を瞬き楓を見た。

「楓」
「駄目だよ」

燈里が何かを言う前に、楓は静かに首を振る。

「あれは、夢じゃない……行かないと」
「行かせられない。駄目だよ、燈里」

起き上がろうとする燈里を押し止め、楓は険しい表情で駄目だと繰り返す。
嫌々と首を振り泣く燈里の頭を撫でながら、言い聞かせるように囁いた。

「燈里が見ていたのは、ただの夢だよ。もう一度寝てしまえばすぐに忘れてしまうような、そんな些細な夢さ」
「違うっ!夢じゃない。あの子は本当にいたの。またねって、約束をしたのに……なんで皆、駄目だって言うの?会っちゃ駄目なんて、どうしてそんな酷いことを言うのっ!?」
「燈里!」

楓を振り払い、燈里はベッドから転がり落ちるようにして抜け出した。すぐに立ち上がろうとするが、穢れに中てられ衰弱していた体はふらつき、すぐに膝をつく。

「燈里」

それでも、這ってでも外へと向かおうとする燈里を見て、楓は小さく息を吐き、その背に抱きついた。

「会いたいの?」
「会わなきゃ。またねって、約束したんだから……あの子が待ってる」

床に爪を立てて前へ進もうとする燈里の手を取り、軽く引く。振り返る燈里と目を合わせ、楓は悲しく笑った。

「分かった……でもその前に、冬玄《かずとら》の所に行こうか」
「かずとら……?」

涙に濡れる目を瞬いて、燈里が小さく呟いた。
幼い子供のようなたどたどしさで、冬玄の名を呼ぶ。何度も繰り返して、燈里の目がはっきりと楓を見つめた。

「――楓?」
「そうだよ。おはよう、燈里」
「おはよう……?」

燈里の目が楓を見て、部屋を見渡す。見慣れた自室を認めて、困惑したように眉を寄せた。

「冬玄は?それにあの子……あぁ、いや。そうじゃない」

頭を抑えて首を振る。
現実の記憶と夢の中の記憶が混ざり合い、燈里は呻くように声を上げた。

「大丈夫だよ。まぁ、ちょっと困ったことにはなってるけどね」

燈里の背を撫でながら、楓は密かに安堵の息を吐いた。しかし燈里の様子に油断はできないと、真剣な眼差しで、燈里に告げた。

「二日前、燈里にぶつかった人間がいたことを覚えているかい?その人間が少々厄介な穢れを燈里に移してね……つまり、触穢に接したんだよ」

楓の言葉に、燈里は記憶を辿る。
一瞬だけすれ違った人影を思い出し、夢の記憶と照らし合わせて顔を顰めた。

「学生は夏休みだもんね。肝試しにでも行ったのかな」
「その人間か、別の誰かから穢れが伝播したのかは分からない。でも誰かが墓地に足を踏み入れた。それも、かなり古い……おそらくは土葬されていた墓地に入ったのは確実だ」

墓地の言葉に、燈里は思わず目を伏せた。
夢で見た少年が抱いていた小さな髑髏。その眼窩から漏れ出す黒の煙を思い出す。
触れたものすべてを浸食するかのようなあの黒が、穢れなのだろう。

「穢れ……死穢、か」
「そうだよ。しかも、さらに厄介なことに、その死穢と縁が結ばれている」
「縁?」

意味が分からず、燈里は困惑する。
穢れと縁が結ばれる。それではまるで、死穢が人ではないか。
あり得ないと否定しながらも、燈里の脳裏に髑髏を抱いた少年が浮かぶ。少年ならばあるいは、と思いながら夢で聞いた声を思い出した。

――またね。

些細な約束に、行かなければという衝動が沸き上がる。
理由の分からないその衝動に戸惑い楓を見れば、悲しい笑みを返された。

「縁を結ばれている限り、また燈里は穢れに晒される。今、冬玄が情報を集めてくれてはいるけれど、燈里の方が保たないだろうね」
「どういうこと?」

燈里の疑問に楓は敢えて答えず、代わりに手を差し出す。

「冬玄の所へ行こうか。燈里がまた引かれて、重なってしまう前に、こちらから動いた方がいい」

燈里の脳裏を少年が過ぎていく。
思い出せないもう一人を感じながら、それでもまずは動かなければと、燈里は楓の手を取った。



20250808 『夢じゃない』

8/9/2025, 9:47:09 AM