杉林の中に、その石塔はひっそりと立っていた。
――疫痢病歿者供養之塔《えきりびょうぼつしゃくようのとう》
苔むした石に刻まれた文字と、裏の数多の名。
かつて、この先にあった小さな集落。そこに住んでいた人々の供養塔が、集落から離れた麓に建てられている。
その事実が、集落の末路を静かに物語っていた。
無言で石塔を見つめ、冬玄《かずとら》は思案する。
一度戻るべきなのだろう。穢れはこの先の集落から流れている。
だがそれを知った燈里《あかり》は、集落に行くことを望むはずだ。自身の身に起きたことだからと、危険な場所でも迷わず進んでいく。
それが冬玄は怖ろしかった。
燈里を思い、冬玄は力なく笑う。
燈里の怒りに触れることを覚悟の上で、石塔の先。未舗装の道へと足を踏み出そうとした。
「――っ!?」
近づく気配に、冬玄の動きが止まる。
弾かれたように振り返り、二人の姿を認めて目を見張った。
「お前ら……なんでここに」
「状況が思っていたよりも、良くなかったんだよ」
肩を竦めて、楓《かえで》は燈里と強く手を繋いだままに言葉を返す。軽い口調ながらも、その表情はとても険しい。
「燈里……?」
側に歩み寄ってきた二人を見て、冬玄は違和感に気づく。
燈里と視線が合わない。冬玄に気づいていないかのように、その目は集落へ続く道へと向けられていた。
不意に風が吹き抜けた。
道の奥から吹く風はどこか生暖かく、得体の知れない不気味さを孕みながら街の方へと流れていった。
「――行かないと」
流れた風に目を細め、燈里が小さく呟いた。
風に逆らうように、ゆっくりと歩き出す。楓に手を繋がれているためにすぐにその足は止まるが、燈里は手を引き先へと進もうと踠く。
「駄目だよ、燈里」
「いやだ。だって……だって呼んでる。あの子がずっと待っている。この風はお墓の風だもの」
燈里の声に呼応するように、風向きが変わった。
生暖かさは消え、冷たく凍てついた風が道の先へと誘うように強く吹き抜ける。
風に揺すられ、道の奥から木々の騒めく音がする。ざわりざわりと低く響く音は、まるで人々の囁く声にも聞こえた。
「ほら、お墓の風だ。私が来たことを感じて、呼んでいるんだ」
「燈里っ!」
強く名を呼び、楓は手を引くが燈里は嫌だと声を首を振る。
行かないと、と繰り返す燈里に、冬玄は怪訝に眉を潜めた。
「どういうことだ。何が起こってる?」
「燈里の中に入り込んだ穢れの欠片が戻りたがっているんだよ。断片過ぎて分からないけど、約束に引かれている」
振り解かれないように燈里の手を強く掴みながら、楓は冬玄に短く告げた。
「燈里の名を呼べ。冬玄」
楓の言葉が終わらないうちに、冬玄は燈里と向き合い頬を包む。
目を合わせて、強く思いを込めて燈里を呼んだ。
「燈里」
「――ぁ」
冬玄に名を呼ばれ、燈里の目が瞬いた。
楓がそっと手を離す。
自由になった手が道の先へと延ばされる。けれど何かを迷い彷徨って、その手はやがて力なく垂れ下がった。
「戻ってこい、燈里」
再び呼ばれ、燈里の肩が小さく震える。
風が止んだ。木々の騒めきも消え、静寂が訪れる。
無音。
燈里の目が揺らぐ。一筋滴を溢して、どこか虚ろだった目に光が灯る。
目の前の冬玄を認識し、燈里は困惑しながらもふわりと微笑んだ。
「冬玄」
頬を包む冬玄の手に触れ、眉を下げる。
触れる手を掴み、冬玄は燈里を引き寄せた。
「もう、大丈夫だな?」
泣きそうな呟きに、燈里は微笑んだまま小さく首を傾げて見せる。
「多分?まだよく分かってないけど」
そう言いながら、燈里は視線を巡らせる。
鬱蒼と生い茂る杉林。未舗装の道。石塔。
そこに書かれた文字に、僅かに燈里の表情が暗くなった。
「随分と古い供養塔だ。何人も死んだらしいし、もしかしたら最後の方は野ざらしだったのかもしれないね」
石塔を確認していた楓が、無感情に呟いた。
「だろうな。集落は大分離れてるのに、穢れがはっきりと感じられる……無遠慮に踏み荒らした人間共は自業自得だが、巻き添えを食らったこっちはたまったもんじゃない」
嘆息して、冬玄は改めて燈里を見た。
光を宿す目。その輝きに密かに安堵しながら、冬玄は楓へと視線を移した。
「燈里にぶつかった人間が通う学校は、今は無人だった。原因不明の病が広がっているらしい。そこで穢れが出た分けでもないってのに、伝播の勢いが強いな。だが時期に落ち着くだろう」
「じゃあ、やっぱり大元を絶たないとか」
石塔から離れ、楓は道の前に立つ。険を帯びた目を道の先へ向け、低く唸りにも似た声を上げる。
「僕としては、燈里にはこれ以上踏み入れてほしくないんだけどな」
「俺だってそうだ……でも燈里は行くんだろう?」
答えを知りながら、冬玄は燈里を見据えた。
その目を見返して、燈里は強く頷く。
「冬玄も楓も止めるだろうけど、私は一緒に行くよ。自分のことだもの……それに、もう置いていかれたくない」
「――仕方ないな」
意志を曲げない燈里に、冬玄は苦笑する。
軽く頭を撫でて、手を繋ぎ直した。
「俺や楓から絶対に離れるなよ」
「分かってる」
繋いだ手に力を込めて、燈里は道の先へと足を向ける。
冬玄もまた、燈里に寄り添うようにして、ゆっくりと歩き出した。
二人の少し先を、楓が先行する。
ふわり、と風が吹いた。
道の先から吹く柔らかな風。甘ったるい匂いを漂わせ、手招くように静かに吹いている。
「嫌な風だ。死の匂いがこびりついて、酷く不快な感じ」
顔を顰め、楓が吐き捨てる。
墓地から吹く死の風。集落を絶えさせた疫痢。
長い時を経ても消えない、死の穢れ。
――またね。
風に乗って、声が届く。
そんな気がして、燈里は小さく身を震わせた。
20250809 『風を感じて』
8/11/2025, 5:03:43 AM