sairo

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夕暮れの校舎内は、ひっそりと静まりかえっている。
耳を澄ませば、遠く蝉の声に混じり、蜩の鳴き声が聞こえた。
青から赤へと色を変えていく空。陽が陰っていても、肌に纏わり付くような暑さは少しも和らぐ様子がない。
かたん、と引いた椅子が音を立てる。普段ならば気にもならない音が、教室内に響いて小さく息を呑んだ。
部活で残っていたはずの他の生徒達も皆帰ってしまったのだろう。この時期活動が盛んな運動部は、屋内以外の活動を禁じられている。屋内活動だとしても、大分前に下校時間が来てしまっていた。
熱中症対策。先生達はそう言うものの、本当は別の理由があることは殆どの生徒が知っていた。

――校舎内に一人でいる時に、後ろから知らない誰かに声をかけられても振り返ってはいけない。

夏休みが始まってしばらくして、広がり始めた暗黙のルール。
誰が言い出したのかは分からない。最初は誰しもがそのルールを笑い、気にも留めなかった。

机の中から置き忘れたノートを取り出す。取りに戻ることを迷って、結局取りに来たノートがあったことに安堵の溜息が出た。
少し乱暴に椅子を戻して、ちらりと窓の外を見る。
赤く染まり沈んでいく陽が、とても怖ろしいもののように思えて、慌てて視線を逸らす。

――振り返ってしまえば、憑かれてしまう。

誰も気にしないルールが、守らなければいけないものに変わったのは、噂が流れ出してからだ。
何に憑かれるのかは分からない。ただ、噂が広がり始めてから、明らかに部活に参加する生徒の数が減っていた。
憑かれてしまうと、数日以内に原因不明の高熱が出る。実際に何人も病院に運ばれたらしいと、友人達から話を聞いた。

――校舎内に一人でいると……。

ふるりと肩を震わせて、手にしたノートを急いで鞄に詰める。
忘れ物をしなければ、と何度も後悔しながら、鞄を手にして足早に教室を出た。
窓から夕陽が差し込んで、廊下を赤く染めている。今にも何かが現れそうな雰囲気に足が竦みそうになった。

――後ろから声をかけられても……。

噂を思い出す。このまま校舎にいれば、声をかけられるかもしれないと思うと、止まっていた足がゆっくりと動き出した。

とても静かだ。
先生達は残っているはずなのに、音も声も聞こえない。
自分の歩く音だけが廊下に反射して、心細さに泣きたくなった。
微かに聞こえていた蝉や蜩の声が止んだ。少しの沈黙の後に、先ほどよりも大きく泣き出した。
自然と足が速くなる。後ろを気にしないようにするほど、後ろが気になって仕方がない。
そんなことを思いながら、昇降口で靴を履き替え、外に出ようとした時だった。

「――またね」

小さく、誰かの声が聞こえた。
後ろから。知らない子供の声が。

「――っ!?」

体が強張る。
今すぐにここから逃げ出したいのに、足が少しも動かない。
声変わりのまだの、幼い少年のような声だった。
恥ずかしそうで、それでいて嬉しさをかくしきれない。
そんな柔らかい響きに、怖さと同時に切なくなった。
誰が誰に伝えようとしているのだろう。体が動かないことに、少しだけ安堵する。
今体が動いてしまったのなら、後ろを振り返って誰かを確認したくなるのだろうから。

じとりと、熱気が肌に纏わり付く。
唯一動かせる視線で辺りを見た。何も変わらない、いつもの昇降口。誰かが置き忘れた傘。夕陽を反射して煌めく埃。
視線を落とせば後ろの窓から差し込んだ赤い陽の光が、影を伸ばしていることに気づく。
自分の影が、昇降口から外へと伸びている。
その隣。重なるように伸びた小さな影があった。
すぐ後ろにいる。何かをするでもなく、ただ立っている。
僅かに視線を動かせば、土に濡れた裸足の足が見えた気がした。
咄嗟に目を閉じる。何も見ていないと、呪文のように心の中で繰り返して、動かない足に力をいれた。

「また、ね……」

ぽつりと声がした。
すぐ後ろ。耳元で。
泣くのを耐えているかのような、静かな声。感情を押し殺して、無機質に響く。
けれど僅かに震えているのがはっきりと感じられて、声にならない悲鳴が漏れた。
その瞬間。あれだけ動かなかった体が、動いた。
逃げなければ。その思いで目を開ける。必死で足を動かして、昇降口を抜けて校庭へと飛び出した。
校門まで一気に駆け抜ける。今にも影が追いついてきそうで、下は見れなかった。

「っ、はぁ……」

校門を抜け、荒い息を吐く。呼吸を整えながら、ふと先ほどの声を思い出して。
気づけば、校舎へと視線を向けていた。

「――ぁ」

昇降口の前。
無表情に佇む、小さな少年と目が合った。
ぼろぼろのサイズの合っていない服。無造作に伸びた髪。
その手足は細く白く。土にまみれて汚れている。
距離があるのに、はっきりと見える。
感情が抜け落ちたかのような表情。その腕に――。

ひっと、短く悲鳴が漏れる。
大切そうに抱え持つ、土に汚れた白は。

少年と同じくらいの、小さな髑髏だった。





脇目も振らず、一人の生徒が暗くなった道を駆け抜けていた。

「――痛っ」
「大丈夫か?」

途中、道を行く女にぶつかるが、気にする余裕もなく走り去る。女の側にいた男が心配そうに声をかけるが、その表情はすぐに険しいものへと変わる。
生徒が去って行った方向へと視線を向けるものの、既にその姿はない。

「あの野郎っ!」
「大丈夫。別に怪我もしてないし、きっと急いでたんだよ」

男の腕に触れながら女は微笑むものの、先ほどまでとは明らかに様子が異なっていた。
浅い呼吸。顔色は悪く、足下もふらついている。
力が入らなくなったのだろう。崩れ落ちそうになる女の体を男は抱き留める。

「あ、あれ?おかしいな、別に調子は悪くないはずなんだけど」
「穢れに中てられたんだから当然だ」

女を抱き上げて、男は険しい顔のまま踵を返した。

「え、冬玄《かずとら》?」
「帰るぞ……早く、禊ぎをしないと」

そう告げて、男――冬玄は小さく舌打ちをする。

――またね。

微かに、子供の声が聞こえた気がした。



20250806 『またね』

8/8/2025, 8:47:05 AM