一歩。燈里《あかり》は、前に出た。
男女の骸もまた、前に出る。少年の元へと近づかせぬように、警戒を露わに立ち塞がる。
それが悲しくて、燈里は口を開いた。だが形にならない思いは何一つ言葉として紡がれない。
ややあって声に出たのは、幼い子供のたった一つの不満だった。
「名前を教えてくれなかったの」
微かな言葉に、男女の骸が反応を見せる。
僅かに後退り、二体の間に隙間ができる。そこから垣間見える少年の目には警戒も拒絶も見えず、ただ呆然と燈里を見つめていた。
「名前を呼んでもくれなかった。寂しかったけど、会いに行くたびに仲良くなれたから我慢してた……いつか名前を呼んでくれる。教えてくれると思ってたから」
少年の肩が、小さく震えた。
震える唇を開き、けれど何も言わずに閉じて。
一瞬だけ、泣くように顔を歪めた。
言葉にならない少年の思いの代わりに、骸が静かに身を退けた。
燈里と少年との間に遮るものはない。
ひとつ息を吐いて、燈里は傍らの冬玄《かずとら》を見上げた。冬玄は言葉の代わりに微笑んで、繋いだ手にそっと力を込める。
「燈里」
楓《かえで》に呼ばれ、視線を向ける。
「返してあげるといいよ。その記憶は、燈里が持っていても意味がないものなのだから」
優しい笑みに、燈里は何も言わずに頷いた。
ゆっくりと足を踏み出す。隣を歩く冬玄の存在を感じながら、少年との距離を縮めていく。
そして穴の手前で立ち止まり、燈里は動かない少年を見つめた。
「行かないと。またね、って約束したんだから、絶対に待ってるはずなの。だから、早く元気になって……あの子の所に行かないと」
燈里の唇から溢れ落ちるいくつもの言葉。少年を思う最後の記憶に、少年は嘆くように小さく吐息を溢した。
燈里と少年を隔てる穴が、音もなく凍っていく。横目で冬玄に視線を向ければ、そっと手を離され背を軽く押された。
一歩、氷の上へと足を踏み出す。厚い氷は僅かにもひび割れず、燈里は少年へと向き直りもう一歩踏み出した。
そして、手を差し出す。
「――っ」
差し出された手に、少年が迷うように瞳を揺らす。
手を伸ばしかけて戸惑い、しかし意を決して燈里の手を取った。
刹那。
声が聞こえた。
怖ず怖ずと、それでも好奇心を隠しきれない少女の声音。
「私、小春《こはる》って言うの。あなたの名前は?」
目を瞬くと、少年の背後で二つの人影が揺れていた。
何も言わずに首を振る影に、もう一人の影は首を傾げ、手を取って軽く引く。
「遊ぼうよ。こんな所に一人でいるより、ずっと楽しいよ!」
手を引く影が薄れていき、次第に少女の姿を取る。
満面の笑みを湛えて、少女は影を誘う。
「行こう!近くに川が流れてるから、そこで水遊びをしようよ。お腹が空いたら木の実を採って、夕暮れまでは一緒に遊ぼう」
ね、と声をかけられて、影は手を引かれるままに歩き出す。
「早く、早く!」
少女に急かされて、影の歩みが速くなる。早足になり、駆け出して、少女と共に墓地の奥へと去って行く。
木々の向こうへ二人が去っていく一瞬。影が少年へと変わり、靄が晴れるように消えていった。
「――ごめんね」
微かな呟きに、はっとして燈里は少年に視線を向けた。
手を離した少年が腕に抱いた少女の頬を撫で、ごめんと繰り返す。
「教えなかったわけじゃないんだよ。君の名前だって、本当は呼びたかった」
俯く少年の表情は見えない。
ただ腕に抱いた少女の頬を、ぽたりと振る滴が濡らしていく。
「ごめん。ちゃんと言えば良かった」
声が震える。
少女の亡骸に向けて、少年は届かない後悔を吐き出した。
「僕には……名前がないんだ」
告げた瞬間に、男女の骸が土になり崩れ落ちた。
少年の腕に抱かれた少女は、髑髏だけを残して砂になり、その変化に燈里は思わず後退る。
「燈里」
冬玄に抱き寄せられ、そのまま少年から距離を取る。
「燈里、どうする?」
問われて、燈里は冬玄へと視線を向けた。
僅かに眉を下げ、真っ直ぐに燈里を見つめて冬玄は囁く。
「このまま帰っても、縁が切れてるから燈里に穢れの影響が現れることは二度とない」
燈里は反射的に首を振った。
視界の端では、墓地が静かに荒れ果てていく。周囲の木々は枯れて、僅かに残っていた供養塔婆さえ、すべて朽ちて黒い乾いた土だけが残る。
「いやだ」
言葉にならない思いが、燈里を苦しめる。
これ以上は関われない。何もできることがないと、燈里の思考は告げる。
同時に、後悔はしないのか、何かできることはないのかと心が問いかけ、帰りたくないと訴える。
それは少年に対する哀れみなのか。それとも少女の記憶の欠片の名残なのか。
自分でも分からない思いに翻弄され、帰りたくはないと燈里は首を振り続けた。
「いやだ、いや」
幼子のように嫌だと繰り返す燈里を、冬玄は窘めるでも宥めるでもなく、優しく見つめ頭を撫でた。
見上げる燈里の濡れた目と視線を合わせ、穏やかに告げる。
「だろうな……なら、選択肢はひとつだ」
ひとつ。
酷く幼い声が、冬玄の言葉を繰り返す。
「燈里、あれに名前を与えろ……そうしたら、後は俺が眠らせてやるから」
冬玄の言葉に、燈里は少年へと視線を向けた。
小さな髑髏を抱き、静かに泣き続けている少年の姿をしばらく見つめ。
「――やる」
燈里は冬玄へと向き直り、はっきりと頷いて見せた。
202508123 『言葉にならないもの』
8/15/2025, 5:27:21 AM