仏壇に手を合わせ、燈里《あかり》は静かに目を閉じた。
蝋燭の炎が揺れ、線香の煙が燻る。
仏間には燈里以外誰もいない。故人との語らいの妨げにならぬよう、冬玄《かずとら》も楓《かえで》も少し前に席を外していた。
小さく息を吐き、燈里はゆっくりと目を開ける。位牌と、その脇に置かれた透き通る翅と白い石を見つめ、僅かに表情を曇らせた。
少年が眠りについた後、辺りは再び荒れ果てた墓地へと戻っていた。
少年の姿はどこにもない。ただ一枚の翅をその場に残して、少年は常世へと飛び立ったのだろう。
その翅と、寄り添うように置かれた白い三つの石を、燈里は持ち帰った。集落の麓にある供養塔に名が刻まれていない少年とその両親、そして少女を、見える形で供養したかった。
「――これでよかったのかな」
込み上げる不安が、言葉として溢れ落ちる。
縁もゆかりもない燈里の家で形だけの供養をすることが、果たして本当に彼らのためになるのか。偽善的な独りよがりではないのかと、墓地から戻り数日経った今、どうしても考えてしまう。
もっと別の、最良の方法があるのではないか。少年の両親は、元は麓に住んでいたという。調べれば少年の血縁が見つかるかもしれない。
そう思いながらも、燈里は動けないでいる。それすらも偽善的な行為のようで、侭ならない思いにそっと目を伏せた。
「また悩んでるのか」
戻ってきた冬玄が、項垂れる燈里を見て息を吐いた。
燈里の側に歩み寄り腰を下ろすと、力強く燈里の頭を撫でる。
「悩むくらいなら捨てちまえ。お前は巻き込まれた側なんだぞ。本来ならば、縁が切れた時点で手を引いても構わないはずだったんだ」
「それは……そうだけど……」
眉を下げ口籠もる燈里に、冬玄はそれ以上何も言えず、さらに強く頭を撫でる。
気分の良いものではないのだろう。穢れにより苦しんだというのに、その原因に寄り添い心を砕いている。
その優しさが、今は特に憎らしいとさえ感じられ、冬玄は密かに嘆息した。
「燈里は優しい良い子だからね。そんなに嫉妬するんじゃないよ」
遅れて戻ってきた楓が、燈里の頭を撫で続ける手を掴みながら呆れて言う。
乱れた燈里の髪を手櫛で整えながら、仏壇の翅と石を見て、気持ちは分かるけれどと心の内で付け加えた。
「大丈夫。あの墓地から出られた今、ここが嫌ならとっくにどこかへ姿を消しているはずだ。こうしてここに在るってことは、燈里の家が気に入ったんだよ」
「――そうかな。そうだといいけど」
力なく笑い、仏壇に視線を向ける。
蝋燭の炎で煌めく翅を見て、ふと漠然とした疑問が込み上げた。
「どうして、集落の人はあの墓地を怖れたんだろう。死穢を畏れるっていっても、それは余所から墓守を立てて、柵で隔てるほどなのかな」
「そうだねぇ……」
眉を寄せる燈里に、楓は記憶を辿る。
集落で見たものや、墓地で見たもの。供養塔に刻まれた年号。
墓地に漂うモノを思い出し、集落の欠落を指摘する。
「あの墓地は穢れの溜まり場だった。でもそれは多分、集落の人間が何もしなかった結果なんじゃないかな」
「どういうこと?」
「墓地はあっても、寺社はなかった。葬式をした気配もない。死んだら棺に入れて、墓穴に埋めるだけ……そういうことかな」
「あそこの人間には、弔いの感情が欠けていた。供養塔も、集落の人間が建てたというより、話を聞いた外の人間が寺社に通して建てたんだろうな」
死者を祀らない。
それはつまり、御霊を鎮めないということだ。
死者を忌み怖れ、ただ隔離する。
ならば、あの集落の最後は成るべくして成った結末なのだろう。
「それがすべての答えじゃない。所詮は答えのひとつだけどね。それより――」
燈里の髪を整え終えて、楓は立ち上がる。
「そんな湿っぽい話はそろそろ仕舞いにして、ご飯にしようか」
「――そうだね」
楓の後に続くように、燈里も立ち上がろうとして。
不意に、線香の煙が大きく揺らいだ。
「っ、燈里!?」
バランスを崩し傾ぐ燈里の体を、冬玄は咄嗟に受け止める。
だが受け止めきれず、そのまま燈里を抱き込む形で畳の上に倒れ込んだ。
「っ!!?」
蝋梅の香りが、鼻腔を擽る。
唇に、熱が触れた。
それが何かを理解するより先に、燈里は凍り付いたように動きを止めた。
「あ……燈里?」
気遣うような、それでいて上擦った声音で、冬玄は燈里を呼ぶ。
燈里は動かない。じわじわと頬を染め、耳まで赤くしたまま、目を見開いて固まっている。
そっと燈里の腰を抱き、冬玄は起き上がった。表情こそは変わらないが、その耳は燈里のそれと同じように赤い。
気まずい沈黙が流れる。
ぎこちない二人の一部始終を見届けた楓は仏壇を一瞥し、二人を見つめ呟いた。
「つまり……さっさと契ってしまえってことかな」
楓の言葉に重なるように、どこからかくすくすと笑い声がした。
ゆっくりと目を瞬き、燈里は仏壇に視線を向ける。
翅の隣に、白い石は二つ。
「まだ精霊馬もないし、迎え火を焚いていなかったのに……せっかちだねぇ」
燈里の足下に転がる白い石を拾い上げ、仏壇に戻しながら、楓は呆れて笑う。
「契る……私、が……?」
「ちょうど盂蘭盆だし、形だけでも行うかい?」
楓の提案に、燈里が声にならない悲鳴を上げた。咄嗟に縋った腕が冬玄のものだと気づき、耐えきれなくなった思いが滴となって溢れ落ちる。
「燈里、落ち着け……大丈夫だ。本当に契ったりはしないから」
宥めるように優しく背を撫で、冬玄は告げる。
その無慈悲な言葉に、燈里はさらに瞳を揺らし、泣きながら冬玄を睨みつけた。
「――っ、冬玄の馬鹿!最低っ!!」
叫んで、よろめきながらも立ち上がり、仏間を飛び出した。
呆然とその背を見送って、冬玄は眉を下げ楓に視線を向ける。
「これは……俺が悪い、のか?」
「君以外に誰がいるっていうんだい」
頭に手を当て、楓は深く溜息を吐く。
気まずげに視線を逸らし、燈里を追いかけ仏間を出る冬玄の背を見遣り、眉を顰めた。
「なんであんなに面倒くさいんだ。折角背中を押してもらったってのに、気の利いた台詞ひとつ言えやしない」
頭を振りながら、楓は縁側に続く障子戸に手をかけ開いた。
縁側の隅で肩を落としている燈里を招き入れ、閉める。
「よしよし。あれは馬鹿だからね。どうせ何も考えていないんだ。気にする必要はないよ」
燈里の背を撫で、座らせる。
おとなしく座る燈里の髪を、慰めるように風が優しく揺らした。
「落ち着いたら、一緒にご飯を食べようね。それからお風呂に入って、寝よう。今日はもう、あいつと口をきかなくていいから」
小さく頷く燈里の周りを風が舞う。
くるくると回る風に合わせて、線香の煙が揺れるのを見ながら、燈里はようやく微笑んだ。
「うん。そうする」
小さく告げて、揺れる煙を見て目を細める。
「ありがとう。急に背中を押されて驚いたけど、嬉しかった」
煙が揺れる。
円を描いて、縁側へと流れていく。
――またね。
声が聞こえた気がして、燈里は息を呑んだ。
ふわりと微笑み、立ち上がる。縁側に続く障子戸を開き、庭へ続く窓を開け放った。
「またね」
呟く燈里の横を、風が過ぎていく。
くすくすと笑う二人分の声を響かせ、夕暮れの向こう側へと消えていった。
20250814 『!マークでは足りない感情』
8/17/2025, 9:26:08 AM