なぜ泣くの?
それは当然、悲しいからですよ。
裏切られ、傷つけられて、悲しくて堪らないから泣くのです。
嬉しいから泣く?
ごく一部の、恵まれた方の特権でしょうね。
少なくとも、私は悲しみ以外で泣いたことはありません。
あぁ、たまに苦痛に泣くこともありますが。
それ以外の感情で、泣くはずなどないのです。
そこで声は途切れ、停止ボタンを押した。
いつの間にか鞄の中に紛れていた、古いカセットテープ。
おそらくは、実家に帰省した時に紛れてしまったのだろう。
ラベルには何も書かれていない。何が吹き込まれているのか分からないことが、好奇心を掻き立てた。
ひとつ息を吐く。
わざわざデッキを手に入れたというのに、肝心の中身は知らない女性の一人語り。期待が大きかったこともあり、その分落胆も大きかった。
カセットテープを、デッキごと押し入れに仕舞い込む。
気分を切り替えるため、鞄を手に出かけることにした。
数日後。部屋の片付けをしていると、押し入れの中からカセットデッキが転がり出てきた。
デッキを手に取り、中のカセットテープを見て思い出す。
何の面白みもなかったカセットテープ。淡々とした女性の声が脳裏を過り、眉が寄る。
処分してしまおうか。
売りに出すという選択肢もあるが、これ以上テープのために時間を浪費したくない。
そう思い、デッキを手に立ち上がった時だった。
「――私は、裏切られたのです」
デッキから、あの女性の声が聞こえた。
偶然、再生ボタンを押してしまったらしい。
泣く理由を聞かれ答えていたはずの声は、裏切られたことに対する恨み言へと変わっていた。
抑揚の薄い、淡々とした口調が怖ろしい。
怖くなり、急いでデッキの停止ボタンを押した。
「私は、あなたを許さない」
ボタンを押す直前、聞こえた声に肩が揺れる。
今まで聞こえていた、ノイズ混じりの不明瞭な声ではなかった。
すぐ側で直接告げられたかのような、そんな明瞭な声だった。
不意に背筋が寒くなる。
後ろに誰かがいる。そんな気配がして、体が硬直する。
勇気を振り絞り振り向いても、誰もいない。当たり前のことに安堵して、同時に酷く怖ろしかった。
手の中のデッキに視線を落とす。
捨てるのすら、怖ろしい。元は実家にあったのだから、戻すべきだ。次の休みに戻しに行こう。
そう判断して手近にあった紙袋を掴み、中にデッキを入れる。机の脇に押しやり、出来る限り視界に入れないようにしながら、片付けに専念した。
その夜。
ふと目が覚めた。
辺りはしんと静まりかえっている。いつもなら聞こえる時計の音も、外を走る車の音も聞こえない。
体を起こそうとして、しかし指先ひとつ動かせないことに気づいた。
金縛り。途端に何かの気配がして、心臓が大きく跳ねた。
誰かがいる。すぐ側で、寝ている自分の顔を覗き込んでいる。
そんな気がして、閉じた瞼に力が籠もる。目を開けたくない。見てしまうのが怖ろしい。
だが意識とは裏腹に閉じた瞼から力が抜け、ゆっくりと開いていく。目の前の誰かを確認しようと、視線が上を向く。
「――っ」
暗がりの中、誰かがこちらを見ていた。
長い髪が、顔にかかる。逆さまの顔が、静かに近づいてくる。
じじ、とカセットテープのノイズが聞こえた。女性の声が聞こえ始める。
「悲しいから泣くのです」
テープの音声に合わせて、誰かの唇が動く。暗闇に慣れてきた目が、誰かの姿を認識する。
「悲しい。苦しい。それ以外の感情で、泣くはずなど……」
息を呑み、目を見開いた。
覗き込むその目から、視線を逸らせない。
「あなたを、許さない」
表情の抜け落ちた、能面のようなその顔は。
自分の顔だった。
朝が来て、我慢できずに会社に連絡し、休む旨を伝えた。
次の休みなど待っていられない。すぐにでもカセットテープを手放したかった。
車に乗り込み、実家へと向かう。
助手席に置いた紙袋から、また音が聞こえるのではないか。そんな恐怖に耐えながら、震える手でハンドルを握り締めた。
連絡もせずに訪れたため、実家には姪しかいなかった。
「どうしたの?忘れ物?」
首を傾げる姪に、笑って誤魔化しながら家へと入る。
カセットテープは、両親の部屋にでも置いておけばいい。
早く解放されたい。その思いで部屋へ向かおうとした自分を、姪の無邪気な声が呼び止めた。
「ねぇ……なぜ、泣いているの?」
思わず立ち止まる。
振り向けば、視界の先の姪の姿がやけに滲んでいた。
ゆっくりと目元を拭う。濡れた感覚と僅かに明瞭になった視界に、自分が泣いていたことに気づいた。
「なぜ泣いているの?」
再度姪に問われ、答えに戸惑う。
なぜ泣いているかなど、自分でも分からない。
――私は、悲しみ以外で泣いたことなど……
頭の中で、女性の声が繰り返している。淡々とした、けれども悲しい声が離れない。
「――悲しいから」
泣きながら、それだけを答えた。
「そっか。悲しいの」
小さく呟いて、姪はそっと手を握る。
そのままリビングに連れられて、椅子に座らされた。
紙袋を取られ、中からカセットデッキを取り出される。呆然とする自分の前で、姪はデッキからテープを取り出すと、くるりと裏返し、デッキに入れた。
「――いやだ……まって……」
止める間もなく、再生ボタンが押される。
ノイズと、続いて声が聞こえてきた。
「――なぜ泣くのって?」
だがそれは、あの女性の声ではなかった。
「あの子が笑わないから」
柔らかな声が語る。
約束を破ってしまった。一緒に卒業する、側にいるという約束を守れなかった。
あの子の側にいても、気づいてもらえない。慰めることができず、一人泣くあの子を見ていることしかできないのが悲しい。
「あの子が悲しいと、私も悲しい。あの子が泣くから、私も泣くの」
そこで、声は途切れた。
「なぜ泣くの?」
姪が尋ねる。
流れる涙を拭い、答えた。
「寂しいから」
姪は――彼女は、その答えに悲しく笑った。
「ごめんね。約束したのに」
首を振る。
彼女は何も悪くない。悪いのは、弱かった自分なのだから。
「ごめんなさい……気づけなくて……自分勝手に恨んでしまって。本当にごめんなさい」
彼女に手を伸ばす。
拒絶されてもおかしくはない。けれども彼女はその手を取って、ごめんねと囁いた。
「次こそ、一緒にいようね」
その言葉に強く頷いた。
霞んでいく彼女が差し出す小指に、自分の小指を絡めて約束する。
「必ず……約束」
微笑む彼女が残した小指の熱が、いつまでも引かなかった。
20250819 『なぜ泣くの?と聞かれたから』
8/21/2025, 9:23:54 AM