谷間にあるその場所は、秘境の宿として長く人々に愛されていた。
四季折々に咲く花々。木々の騒めきや川のせせらぎ。鳥の囀りや、虫の羽音。
広大な景色は美しく、聞こえる自然の音もまた心地が良い。
奥まった場所に位置するため、その道中は長く険しい。宿に至る道は複雑で、訪れる客はほとんどいない。
それでも決して客の途絶えない、美しい宿だった。
その宿では、一人の少女が働いていた。
薄紅の着物を着た、齢十七程の少女。その目は紺の布に覆われ、少女が盲目であることを示していた。
「いらっしゃいませ。また訪れて頂けて、とても嬉しいです」
不思議なことに、盲目である少女は誰よりも早く訪れた客に気づく。訪れた客人すべてを記憶しているようで、声をかける前にこうして言い当てる。
「足音で分かります。誰一人、同じ音を立てる方はおりませんから」
何故分かるのか。そう問えば、決まって少女はこう答える。
歩幅、歩調。足の運びの些細な違いを、少女は盲目であるが故に繊細に聞き分け、認識しているのだろう。
宿に訪れる客は、この盲目の少女の語りを楽しみにしている者が多かった。
少女の唇から紡がれる、ここではないどこかの話。妖しく美しいそれは、聞き入る者すべてを魅了した。
「――社の外に鳴り響くは太鼓の音か。あるいは遠雷の音なのか……」
その夜も、少女は広間に座り語る。
山神の嫁取りの話。少女の言葉に合わせ、遠く微かに雷の音が鳴った。
その日宿に訪れた客は一人きり。何度か訪れたことのある若者は、語る少女に視線を向け密かに首を傾げた。
少女の隣に、もう一人少女がいた。
水浅黄の着物を纏い、物音一つ立てず盲目の少女の隣に寄り添っている。
以前訪れた際にはいなかった、静かな少女。彼女は誰なのか、語り終えた少女に近づき、声をかけた。
「君の隣にいた子は誰だい?」
客人の問いに、少女は首を振って否定する。
「誰もおりませんよ。足音がしませんでしたから」
そんなはずは、と言いかけ客人は口を噤む。
いつの間にか、あの静かな少女は広間から姿を消していた。
「足音がしないのであれば、そこには誰もいないはずです。この宿は特に足音が響きますので」
確かにそうだ。
この宿は古く、板張りの廊下は音が響く。広間もまた、歩けば軋んだ木の音が鳴った。
家鳴りのする場所で、音もなく姿を消せるものはいるはずがない。いるとすれば、と想像を巡らせ、客人はふるりと肩を震わせそれ以上を考えることを止めた。
それでも二日目、三日目と、あの水浅黄の着物を着た静かな少女を、客人は見た。足音は一つも残さない。気づけば盲目の少女の隣に佇み、ふと視線を逸らした瞬間には、その姿が消える。
「如何いたしましたか?」
「――いや、何でもないよ」
首を傾げる少女に、笑いながら首を振る。
足音がしないのならば、そこには誰もいないことと同じ。
音のない少女が怖ろしい訳ではなかった。だがしかし、音がない意味を考える度に口が重くなる。
客人は結局、音のない少女について尋ねることがないまま、盲目の少女に見送られ宿を離れた。
ある満月の夜。
盲目の少女は一人縁側に座り、外の音を聞いていた。
吹き込む風が風鈴を鳴らす。少女の髪を着物の裾を揺らし、室内へ入り込む。
気づけば盲目の少女の隣に、水浅黄の着物を着た少女が立っていた。
迷うように瞳を揺らし、やがて意を決して盲目の少女の隣に膝をつく。床板を軋ませることも、衣擦れの音すらも立てず、腕を伸ばし盲目の少女の頬に手を触れさせる。
盲目の少女の肩が、小さく震えた。だが声を上げることはなく、触れる手に自らの手を重ね包み込む。
「やはり、貴女がいたのですね」
返る言葉はない。
「皆様が教えて下さいました。私の隣に、同じ年の瀬の少女がいるのだと」
言葉の代わりに、静かな少女は頷いた。
包む手と手を繋ぎ、軽く引く。
それだけで意図を理解したのだろう。盲目の少女は淡く微笑んで首を振る。
「私は、帰り道を失いました。帰ることは叶いません。ですから、貴女は一人でお帰りなさい」
その言葉に、静かな少女は激しく首を振る。
繋いでいた手を離し、盲目の少女の目を覆う紺の布を取り去った。
「っ、何を……」
頬を包み込み、顔を寄せる。閉じた右の瞼にそっと唇を寄せた。
触れた唇の熱に、盲目の少女の瞼が震えた。唇が離れていくのを追うように、そっと瞼が開いていく。
光を宿した右目。その代償に、見つめる目の前の少女の右目は、光を失い澱んでいた。
感情のままに何かを言いかけ、けれども泣きながら微笑む目の前の静かな少女の姿に何も言えずに息を吐く。
言葉の代わりに、右手を少女の震えぬ喉に触れさせた。
「――ぁ」
「地上で生きるのは大変だというのに、本当に寂しがりなのですから」
触れる喉が震えるのを指先で感じ、そっと手を離す。
「一日おきに声を貸しましょう。この右目のお礼に」
盲目の少女の声が、掠れ小さくなっていく。
涙を流しながら抱きつく少女の声が紡がれる。
「ずっと、逢いたかった」
しゃくり上げながら思いを告げる。離れたくないと、腕に力を込めた。
「声……ありがとう。隣でまた歌えるの、とっても嬉しい」
微笑んで奏でる旋律が、夜の静寂に解けていった。
谷間にあるその宿は、人々に愛され続けている。
特に客人を楽しませているのは、宿で働く二人の少女による語りや歌だ。
左目を布で覆い薄紅の着物を着た少女は、心躍るような物語を紡ぎ。
右目を布で覆い水浅黄の着物を着た少女は、心揺さぶる歌を紡ぐ。
一日おきに紡がれる語りや歌。聞いた者を虜にして、宿は山の奥にありながらも賑わいを見せている。
少女達は寄り添い、今宵もまた客人のために言葉を紡ぐ。
けれども少女達の足音を聞いた者は、誰一人いない。
20250818 『足音』
8/20/2025, 7:29:22 AM