「花火を見に行こうか」
不意に現れた彼に手を引かれ、夜道を二人歩いていく。
道中、誰ともすれ違わない。虫の声もしない、しんと静まり返った周囲に首を傾げた。
「今日、花火なんてあったっけ?」
「特別な花火だからな。知ってる奴は殆どいないよ」
彼は笑う。繋がれた手は離されることなく、歩いていく。
向かう先は、二人だけの秘密の場所だろう。
小高い丘の上。花火を見る時は、いつもそこで見ていた。
アスファルトの道路を外れ、小道に入る。木々の合間を抜けて、やがて目的の丘の上に着いた。
空が鮮やかに彩られ、どぉんと低い音が響く。
光と音がほぼ同時だったことに驚き、目を瞬いた。
「どこで花火を打ち上げているの?」
普段花火を打ち上げる河原からこの丘までは距離がある。
だからいつも花火が見え、一呼吸してから音がしていたはずだ。
「今日は特別なんだよ」
彼は笑うだけで、詳しくは語ろうとしない。
手を引き、いつもの場所に腰を下ろした。
手は繋いだまま。肩を寄せ合い、打ち上がる花火を見上げた。
夜空に大輪の花が咲く。
咲く音が鼓膜だけでなく、全身を震わせる。
「――どんなに喧嘩をしても、花火の時はこうして必ず二人で見ていたよな」
ぽつりと呟く彼に、花火を見たまま小さく頷いた。
「だって、花火は二人で見るって約束したから」
「そういえば、そうだったな。初めてここに連れてきた時にお前は泣くほど感激して、約束したんだっけか」
くすくすと、隣から笑い声が聞こえる。
花火の音にも消されなかったそれに、思わず眉が寄る。けれど初めて出会った時の彼の強引さを思い出し、笑みが溢れ落ちる。
母の後ろに隠れていた自分の手を引いて、無理矢理に連れ出した。怖くて泣く自分を宥めようと必死になりながら、それでも手は離さず戻りもしなかった。
結局丘まで連れられて、そのまま二人で花火を見た。あの時も、最後まで手は繋いだままだった。
「懐かしいな……実はさ、一目惚れだったんだ。俺を見てほしい。笑ってほしいって、必死だった」
「知ってる。顔真っ赤だったし、手も汗まみれだし……第一印象は、怖い人で最悪だった」
「だよなぁ。初対面でいきなり攫っちまったもんなぁ。こうして今も隣にいてくれることが、本当に奇跡だよ」
「私もそう思う。でも花火があったから、怖い人でなくて、いい人にはなったし。それからずっと優しかったからね」
昔話に花が咲く。
初対面こそ最低ではあったが、その後の彼はいつでも優しかった。
困っている時に必ず現れる、まるでヒーローのような人。
彼の差し出す手を取るのは、当然だった。
花火が打ち上がる。
夜空に鮮やかな花が咲き乱れる。
いつまで経っても終わる気配を見せない花火に、そっと横目で彼を見た。
「どうした?」
視線に気づき、彼がこちらを見る。
穏やかな微笑み。優しい眼差し。
いつもと変わらない彼が、隣にいる。
「花火、いつまで続くの?」
「いつまでも」
手は繋いだまま。
「特別だから、終わりなんてないよ」
手を引かれ、彼の胸に倒れ込む。
抱きしめられて、小さく体が震えた。
「ごめんな。置いていって」
静かな声が降る。
聞きたくないと思っても、片手は繋がれ、自由な手も彼の服を握り締め動かない。
「帰って来れなくて、本当にごめん」
繋ぐ手に力が籠もる。
冷たい手だ。抱きしめる腕も冷たく、彼の胸からは何の音もしない。
聞こえるのは、花火の音。どぉんと打ち上がり、ぱらぱらと散っていく。その音だけ。
「どうする?」
問いかけられ、意味が分からず困惑する。
強く抱きしめられて、息が詰まる。けれど彼は気にすることなく、耳元に唇を寄せ囁いた。
「このままずっと、手を繋いで。終わらない花火を見ていようか」
穏やかに、残酷に。
彼は誘う。何より求めていた言葉を告げ、答えを委ねている。
なんて酷い選択をさせるのだろう。いつものように手を引いて、奪っていってくれればいいのに。
そう思いながら、小さく息を吐く。
ゆっくりと顔を上げて、彼の目を見た。
「手を離すわ。先に進むって、そう決めたから」
例え一人きりでも。立ち止まらないと、あの日の彼の前で決めたのだから。
その選択に、彼は目を細めて頷いた。
「それでいい」
笑顔でありながら、その目は涙で濡れている。抱きしめる腕の力はさらに強くなり、繋ぐ手は離れないようにと指を絡められた。
矛盾する彼の行動が可笑しくて、笑みが溢れる。彼のように泣きながら、それでも服を掴む手をそっと離した。
「今日をきっと忘れない。前に進むけどあなたを忘れられないから、私はこの先誰とも恋はしないわ」
「俺が最初で最後の恋ってわけか。じゃあ、愛は?」
顔を近づけ、彼は囁く。
強い眼差しに、呆れながら告げた。
「愛は、まだよく分からない……分からないから、奪ってしまえば?」
そっと目を閉じる。
唇に熱を感じて、体はこんなにも冷たいのに可笑しなものだと笑いそうになる。
花火の音が激しくなる。終わらぬはずの花火が、終わりを告げるように盛大に打ち上がる。
手は離れない。抱きしめる腕の力も緩むことはない。
「側にいる。ずっとお前だけの側に」
囁かれた言葉に耐えきれず、声を上げて笑った。
最後の花火が打ち上がる音が、一際大きく鳴り響く。
夏の終わりを惜しむように、いつまでも聞こえていた。
アラームの音で目が覚めた。
腕を伸ばし、アラームを止める。そのまま起き上がり、大きく伸びをした。
夢を見ていた気がする。
星のように静かに煌めく、小さくて温かな夢だった。
思い出せないことを、少しだけ惜しむ。
苦笑して、気分を切り替えようとベッドから抜け出し、カーテンを開けた。
快晴。目を細めて澄み切った青空を見上げた。
そっと窓を開けてみる。途端に吹き込む風が髪を揺すり、服の裾を捲る。手首に巻かれた包帯を撫でて、部屋の中へと入り込んだ。
「あぁ、うん。大丈夫……もう大丈夫だよ。立ち止まったりなんてしない」
部屋の小物を揺らす風に向けて、するりと言葉が出た。
思わず苦笑する。忘れないと言いながら、すぐに忘れてしまうとは。
一時でも忘れたことを謝るように、手を伸ばした。
「思い出した。ちゃんと思い出せたから、心配しないで。もう忘れたりしないから」
優しく裾を揺らす風が、外へ出る様子はない。
心配性だなと思い、だがすぐにそうさせているのは自分なのだと申し訳なくなる。
「大丈夫だって。側にいてくれるんでしょう?なら、もう二度と立ち止まったりしない……前を向いて歩けるから」
あの花火の夜の記憶があれば、前を向ける。
自分は一人ではないのだと、信じられるから。
約束、と差し出した小指に絡みつく風に、ありがとうと囁いた。
20250820 『きっと忘れない』
8/22/2025, 9:25:03 AM