潮風が吹き抜ける岬の先端に、その灯台は建っていた。
元々白かったであろう壁はくすみ、見上げた先に見える窓もまた曇っていた。
近づくために踏み出したはずの足は、それ以上動こうとはしない。灯台に近づくことを怖れているようで、胸がざわついた。
このまま戻るべきだろうか。灯台に行ったところで、中に入れるはずもないのだから。
ここに来る途中に聞いた話を思い出す。
潮の流れが変わり、船を出しても何も獲れなくなった。そのため人々は海から去り、灯台も役目を終えた。
表向きの歴史だけどと付け足し、内緒話でもするように顔を寄せた話し好きの女性達の笑みが浮かんだ。
――灯台守がね、消えちゃったのよ。それで灯台は攫われた灯台守の帰りを待ち続けているんですって。だから灯台守以外を中へは入れないし、時々夜中に霧笛が鳴るのよ。
――きっと灯台守を呼んでいるのね。私も一度だけ聞いたことがあるわ。
――怖いわよねぇ。
好き勝手に話し、去って行った女性達の勢いまで思い出してしまい、思わず溜息が漏れる。だがその噂話も、すべてがでたらめだと言う訳ではないのだろう。
――そういえば、消えた灯台守もあなたのような色の瞳をしていたらしいわよ。夜の海の色よね。
そっと目を覆う。
家族の中で、自分だけ瞳の色が違う。
真夜中を思わせる、黒に近い青の色。
だが祖父は、この瞳を夜の海の色だと評した。海に選ばれた者の瞳だと。
その理由が気になり、祖父に話を聞いた。最初は何も語らなかった祖父は、最後には悲しい目をして、灯台の話をしてくれた。
祖父の父――曾祖父の瞳の色と同じだということ。
曾祖父は灯台守だったが、ある日忽然と姿を消したこと。
開いているはずの灯台の扉が、なぜか開かなかったこと。
姿を消す前の晩。頻りに外を気にしていたこと。
――随分と怖い顔をしていてなぁ。もしかしたら、海から何かが来ていたのかもしれん。
そう言って項垂れた祖父は、いつもよりも小さく見えた。
ぎぃ、と扉が開く音がした。
灯台に視線を向けると、僅かに扉が開いている。
息を呑んだ。無意識に数歩、後退る。
開かないはずの扉が、ゆっくりと開いていく。隙間から誰かの手が覗き、指が扉の縁にかかる。
今引き返せば、間に合う。戻ることができる。
そんな思いが脳裏を過ぎる。けれどもう、指先ひとつ動かせず、開いていく扉から目を逸らすことすらできない。
扉が開く。
「――っ」
中から現れた青年の姿に、声にならない悲鳴が漏れた。
祖父から見せて貰った白黒の写真に写っていた男性。写真のままの姿の曾祖父が、そこにいた。
自分と同じ夜の海の色をした目が、こちらに向けられる。
「やはり、来ていたのか」
立ち尽くす自分の元へと、曾祖父が近づいてくる。
片目を覆ったままの手を取られ、覗き込まれる。
「しっかりと徴《しるし》が現れているな。扉が開く訳だ」
「徴?何を言って……それにあなたは……?」
疑問に答える代わりに、曾祖父は微笑んだ。
潮の匂いがする。気にならなかったはずの潮騒が、やけに耳につく。
目の前の暗い青から目を逸らせない。
「――おいで」
肩を抱かれ促されれば、動かなかった体は自分の意に反して歩き出す。
微かに震える体とは裏腹に、灯台へと向かう足取りに迷いはなかった。
扉を過ぎた瞬間、冷えた空気が頬を撫でた。
潮の匂いが強くなる。潮騒が反響し、誰かの呼び声のように聞こえた。
触れた壁が冷たく濡れている。手から腕へと伝う滴が、誰かの指先のように感じられて、体が震えた。
立ち竦む背を、曾祖父の手が撫でる。それだけで体は上へと続く階段に向かい、足をかけた。
「――可哀想に」
肩を抱く曾祖父が小さく呟いた。
「どういう、意味……?」
問いかけても、やはり曾祖父は答えない。
喉がひりつく。階段を上る度に強くなっていく潮の匂いに、反響する潮騒に目眩がした。
「materが来ている。求め続けた、filiaが戻ってきたからか」
曾祖父の唇から溢れる異国の言葉に、胸がざわついた。
母。娘。知らないはずの言葉の意味を理解して、苦しくなる。
これ以上進みたくはないはずなのに、足は止まらない。階段を軋ませ、躊躇いもなく上っていく。
「可哀想に」
繰り返される言葉は潮騒を混じり合い、諦めろと告げているかのように響いた。
最後の段を踏み締め灯室に入ると、室内は一瞬で暗く沈んだ。
灯台に入る前までの明るさはどこにもなく、くすんだガラス越しに見える空には、星ひとつ見えない。
目を凝らせば、じっとりと重さを纏ったような霧が立ち込めているのが見えた。
不意に室内が明るくなる。海に差し込む一筋の強い光に、照射灯が点いたのだと気づいた。
霧を抜け海に届く光が、一瞬何かを浮かばせる。しかし、すぐに闇が光を呑み込み、それが何であるのかは分からない。
夜の闇よりも暗い何か。光を呑む、底なしの深い黒に似た青が蠢く。
ぞわり、と背筋を冷たいものが駆け上がる。
「来ているな」
背後から肩を抱く曾祖父が、無感情に呟いた。
逃げ出すことを許さない、冷たい手が体温を奪っていく。
「霧が深い故、光だけでは導けないのだろう……Voca」
曾祖父の囁きに、無言で首を振る。
唇を噛みしめ、必死で声を殺す。今声を上げてしまったのならば、それはあの何かを呼ぶ声になるのだろう。
得体の知れないモノを呼びたくなどはない。受け入れるのが怖ろしい。
「Voca,Cantare」
曾祖父の声が拒絶を許さない。
異国の言葉が、噛みしめた唇を解かせていく。
「受け入れろ。materを呼び寄せるのは、filiaの役目だ」
肩を抱く手に、僅かに力が籠もる。
涙が滲む。だがそれだけだ。
体の自由がきかず、もう首を振ることさえできない。
「Canta. Filia. Voca matrem tuam」
歌え。娘よ。母を呼べ。
唇が開き、喉が震える。
泣きながら高らかに叫んだ声は室内に響き渡り、外へと向かう。
灯台の霧笛と混じり、光の呑まれる先。母の元へと辿り着く。
母が来る。
その言葉だけが胸に残り、他のすべてが遠ざかっていく。
声は止まらない。泣き叫ぶように、歌うように、霧笛と混じり合い夜の海へと響き渡る。
光が、闇に呑まれていく。
夜の青が、瞳の奥に満ちていく。
意識が揺らぐ。深い夜の海に沈んでいく。
少女の笑う声がする。
呼び声に応えるかのように、海の底から歌声が聞こえていた。
20250822 『Midnight Blue』
8/24/2025, 9:16:42 AM