どこか遠くで、雷が鳴った。
顔を上げる。空を睨んでも、稲光は見えない。
「大丈夫だよ」
地面に絵を描いている友人が、顔も上げずに笑って言う。
「今のは雷じゃないよ。神さまの声だ」
「かみさま?」
絵を描くことに飽きたのか、木の枝を放り出して友人は顔を上げる。
にんまりとした笑みを浮かべ、後ろの社に視線を向けて指を差した。
「怒っている時に、ごろごろと鳴るんだよ。悪いことをした人を連れていく時とか、皆が良くないことをしている時とか」
「連れていかれちゃうの?連れて行かれたらどうなるの?」
「さあ?連れて行かれたことなんてないから、分からないよ……でも、うちの村は大丈夫。悪い人なんていないから」
雷が鳴っている。
山の向こうへ視線を向けた。
隣の村で、誰かが連れて行かれているのだろうか。連れていかれるような、悪い人がいたのだろうか。
悪いこと。眉を寄せて考える。
自分は大丈夫だろうか。今朝は、こっそりにんじんを残してしまった。昨日は片付けをすぐにしなかった。
その前は、と、次々と悪いことが思い浮かんで、じわりと視界が滲んだ。
「わたし……良い子じゃない」
「大丈夫だって。神さまが怒るような悪いことはね、線を越えた時だよ。鳥居をくぐってはいけない夜に何度もくぐるとか。お祭りでやらないといけないことを、ちゃんとやらないとか……そういう悪いこと」
「にんじん残すのは?お片付けもすぐにできなかったのも、悪いことじゃない?」
思いつく悪いことを挙げれば、友人は声をあげて笑う。
近づいて頬を両手で包み込み、親指で目尻に溜まった涙を拭ってくれた。
「そんな小さなことなんて、神さまは見てないよ」
大丈夫、と繰り返して、友人は頭を撫でてくる。友人の言葉にほっとしながら、それでも落ち着かない気持ちがぐるぐると胸の中で渦を巻いた。
「そんなに怖いなら、今日はもうお家に帰ろうか。お家には守ってくれる神さまがいるから、怖くはないでしょう?」
「そのかみさまは、怒らないの?」
「怒るよ。でも、悪いことをした時だけ……子供はお父さんやお母さんたちに怒られるから、怒られることはほとんどないよ」
不安はまだ消えない。
空を見上げる。どんよりと曇った空が、少しだけ色を濃くしているように見えた。
その空に光は見えない。雷の音だけが鳴り続けている。
「帰ろう。また明日ね」
そう言って差し出された手を、そっと握る。
温かな手。ほぅと息を吐いて、手を引かれるまま歩き出す。
「怖くないよ、大丈夫。この村に悪い人はいないから」
歌うように友人が繰り返す。
悪い、悪くないの境が曖昧なまま、友人の言葉を信じてただ頷いた。
遠くで雷が響いている。
数年ぶりに訪れた村は、すでに朽ちかけ村の形を留めてはいなかった。
道も家々も、ほとんどが草木に呑まれてしまっている。誰の気配もせず、聞こえるのは蝉時雨と遠雷の音だけ。
空を見上げれば、晴れた空が広がっている。稲光は少しも見えない。
ただ音だけが響いている。友人の言った神の怒る声が、あの夜からずっと続いているのだろう。
思い出す。あの夜のことを。
火が焚かれ、祭囃子が鳴り響き、村中が集まった祭の夜。
色とりどりの提灯。香ばしい匂いのする屋台。子供たちは笑い駆け回る。
この夜だけは、遅くまで祭に参加しても怒られることはなかった。だから村の子供は皆、祭に参加していた。
自分も、友人も。
楽しげな音に重なるように、雷の音が遠くで鳴った。
空を見ても、見えるのは月や星の明かりだけ。空を走る一瞬の稲光は見えず、音だけが続いていた。
「大丈夫。この村に悪い人はいないから」
友人は笑う。自分の反応が可笑しいと言わんばかりに、楽しげに。
「本当に怖がりだね」
揶揄うようにそう言われても、不安は消えなかった。音が響く度に不安は大きくなり、怖くて仕方がなかった。
結局、祭の途中で両親と家に帰り、そのまま久しぶりに両親と一緒の布団で眠りについた。
雷はずっと鳴り響いている。少しずつ近づいてくる。
怖くてしがみつく自分に、両親も友人のように笑っていた。あれは祭の太鼓の音だと宥められたが、どうしても雷の音にしか聞こえなかった。
夜ごと続いた音が、やはり雷の音だと知ったのは翌朝のことだ。
隣に住む人が、血相を変えて駆け込んできた。
――祭に参加していた人が、皆消えてしまった。
泣き叫び訴える声に、途端に家の中は慌ただしくなった。
神の怒りに触れた。祭の手順を誤ったのか、それとも誰かが禁忌を犯したのか。
険しい顔で、隣の人と共に外へ出て行く父。母に抱きしめられながら、その背を見送った。
結局村に残ったのは、祭に参加していなかった僅かな人ばかりで、消えた人々は誰一人戻っては来なかった。
残った人は皆、逃げるように村を出た。自分達も、家を手放し引っ越した。
家を出る時も、雷は鳴り続けていた。
比較的歩きやすい道を選んで辿り着いたのは、祭のあった神社だった。
朽ちかけた村とは異なり、鳥居を挟んだ向こう側は朽ちている様子はない。
鳥居を潜り抜けようとして、立ち止まる。
――鳥居をくぐりぬけてはいけない夜に、何度も……。
友人の声を思い出す。
今は昼間だ。夜ではないし、あの時は祭があって特別だったはずだ。
そうは思うが、足が竦んで動かない。
鳥居の向こう側と、こちら側。なぜ様相が違うのか。
今も遠くで鳴り続けている雷。
強く目を閉じ、頭を振った。
帰ろう。そして、この村のことは忘れてしまおう。
友人のことも、忘れて――。
「来てくれたんだ」
聞き覚えのある声に、目を開けた。
鳥居の向こう側で、友人が笑っている。あの祭の夜と変わらぬ姿で、こちらに近づいてくる。
「待ってたんだよ」
鳥居の前で立ち止まり、手を差し出す。
あの日のまま、何も変わらない。いつものように、臆病だった自分の手を引こうとしている。
どこかで、雷の音が鳴った。
「どうして……」
掠れた声が漏れる。
「どうして、いなくなったの……みんな、どうして……」
「いなくなった?」
溢れ落ちる疑問の言葉に、友人は首を傾げた。
そして笑う。可笑しくて仕方ないように。
あの日、雷を怖がる自分を笑ったように、楽しげに。
「違うよ。みんな、ここにいる。祭を楽しんでいるんだよ」
そんなはずは、と続けるはずの言葉は、声にならなかった。
友人の背後で、いくつもの影が蠢いている。影は揺らぎ、人の形を取って近づいてくる。
「おいでよ。一緒に遊ぼう?みんなここにいるから、寂しくはないよ。怖いものも、いつものように追い払ってあげる――だから、おいで?」
一歩。足が前に出る。
友人の笑みが深くなり、おいでと繰り返す。その囁きに、また一歩足が前に出た。
差し出す手を取ろうと、腕が持ち上がる。
友人の手と手が重なる、その瞬間――。
雷の音が鳴り響いた。
はっとして、後退る。重ねようとした手を抱いて、震える唇を開いた。
「――やだ」
微かな拒絶の言葉に、友人の顔から笑みが消える。
「いや。いきたくない」
首を振る。込み上げる涙で滲む友人を見つめながら、必死でいやだと繰り返した。
「そっか」
ぽつりと、小さな呟き。
涙を拭い見た友人は、いつものような笑みを浮かべていた。
「じゃあ、今はいいや……来ればきっと楽しいのにね。残念」
霧が立つように、友人の輪郭が薄れていく。
「またね」
声だけを残して、友人の姿は跡形もなく消えていった。
雷はまだ、どこか遠くで鳴り響いている。
家に戻ってから数日が過ぎた。
村からは遠く離れた場所。村とは違い神との距離が遠い場所だというのに、ふとした瞬間に耳を澄ませてしまう。
――またね。
友人の最後の言葉が離れない。
雷の音がする度、神社の鳥居を見かける度に、小さな浴衣姿の影を探してしまう。
不意に、遠くで雷が鳴った。
空を見上げても、雲ひとつない青が広がるだけで稲光は見えない。
雷の音が、耳の奥で反響する。
「おいで」
雷の音に混じり、友人の囁きが聞こえた気がして振り返る。
だが忙しなく行き交う人々の中に、友人の姿はない。
小さく息を吐く。気のせいだと自分に言い聞かせて、前を向いた。
瞬間、音が消えた。
目の前には、あの村の鳥居。
その向こう側。遠くで、友人が手を振っているのが見えた。
「おいで。もう怖くも、寂しくもないよ」
誘う声は、どこまでも甘く。惹かれるように、足が友人の元へと向かう。
強く目を閉じた。
足が止まる。友人の声は聞こえない。
「怖いよ……」
思わず溢れた呟きに、楽しげな笑い声が重なった。
耳元に吐息が触れる。優しく、残酷に友人の声が囁く。
「またね」
目を開けると、そこに友人の姿はなかった。
道を行く人々が、立ち尽くす自分を避けていく。賑やかな喧騒が、戻ってくる。
それでも、雷の音は消えない。
友人の声を孕んだ遠雷が、いつまでも響き渡っていた。
20250823 『遠雷』
8/25/2025, 3:49:57 AM