sairo

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山奥の、誰も知らない屋敷。
そこが少女の世界のすべてだった。

少女の足は動かない。
何が原因となったのか、それとも始めからそうだったのか。少女はもう覚えてはいなかった。それほど永くを、このお屋敷で過ごしてきた。

「――ねぇ」
「ん?なぁに」

おずおずと声をかける妹に、少女は優しく言葉を返す。
妹、としているが、少女との間に血縁関係はない。ある日、屋敷の庭で傷だらけで蹲っていた所を、少女が屋敷の中に招き入れた。傷の手当をし、食べ物を与え、寄り添って眠った。
多くを語らない妹は、それでも少女を慕い従順であった。
少女もまた、自身を妹に語らない。語る記憶の殆どは抜け落ち、告げられるものはなかったからだ。
互いの殆どを知らない中で、それでも二人は屋敷で共に暮らしていた。
数年を過ぎれば、共に在ることが当たり前となり。
そうして二人は姉妹になった。

口籠もる妹に少女は優しく微笑みかけ、そっとその肩を抱き寄せる。そっと頭を撫でれば、妹の強張る体から次第に力が抜けていった。
目を合わせる。迷うように揺れる妹の目が少女の目を見て、僅かに歪んだ。

「私……私、ね……」

少女は何も言わない。
ただ静かに妹の決意を聞いている。

「また……踊りたい。今度はちゃんと、最後までおつとめを果たすから。だから……」

揺れる目が、まっすぐに少女に向けられた。

「だからお姉ちゃん――かみさま、帰ってきて。もう一度だけ、飛んで」

少女の目が僅かに見開かれる。
妹は強い目をして立ち上がり、何も言えないでいる少女の前で、静かに舞い出した。
神楽。神に捧げられる舞。人々の祈り、願いを形にしたもの。
妹の舞は、人々のためのものではなかった。
少女を思い、捧げられている。再び飛び立てるように、少女の傷が癒えるように。祈り、願い、舞っていた。
舞い続ける妹を見つめる少女の目から、一筋涙が溢れ落ちた。
忘れていた、忘れようとしていた記憶が思い起こされ、少女を苛む。だがその痛みも、妹の舞が優しく包み込み癒やしていく。

「――ごめんなさい」

すべて、思い出した。

かつて、少女はとある小さな村の守り神だった。
穏やかに人々を見守り、人々のために尽くしてきた。
少女は人を愛していた。愛する人に応えられることが誇りだった。
ただ一度。過ちを犯す前までは。

その年の巫女は、他とは違っていた。
雅楽の音が豊穣を祈る。健やかに、穏やかに過ごせるようにと、願いを乗せて厳かに響き渡る。
だが巫女は。神楽を舞う巫女は、神である少女を思い舞っていた。
平穏であることを、自由に空を飛べることを祈り、願っていた。
神楽を見て、祈りを聞いて、少女は巫女がほしくなった。

そして気づけば、巫女を隠していた。


思い出してしまった。
巫女を屋敷に取り込んだこと。自身が怖ろしくなり、すべてを忘れてこの屋敷に閉じこもったこと。
舞い続ける妹が、あの日の巫女に重なる。巫女によく似たその横顔に、胸が苦しくなる。
妹の傷から伝わった負の思い。巫女が消え、少女もまた隠れたことで、その後の巫女の血族は神を誘惑したとして扱われていたのだろう。
ぐらり、と妹の体が大きく傾いだ。その小さな体が倒れ込む前に、少女は翼を広げ妹の元まで飛んだ。

「ごめん。ごめんなさい」
「おねえ、ちゃん……?」

妹の体を強く抱きしめ少女は謝罪の言葉を繰り返し、泣き続けた。



「ごめんなさい」

静かな妹の言葉に、少女は驚き顔を上げた。

「私の先祖が神様を苦しめて、ごめんなさい」
「違うっ!それは違うの」

首を振って、強く否定する。
苦しんでいるのは、巫女の方だ。屋敷に取り込まれ、二度と人として生きることはできない。

「私が悪いの。私だけを思って神楽を舞う巫女が欲しくなった。衝動を抑えることができなかった。全部私のせい」

それに、と少女は妹を抱く腕に力を込める。
きっとこの手を離せない。少女だけの特別、神への供物を手放せるはずなどなかった。


「ごめんね」
「かみさま?」
「その呼び方は嫌かな。お姉ちゃんがいい」

首を傾げる妹の体を、少女の背の翼が包み込んでいく。泣きながら笑い、次第に虚ろになる妹の目を手で覆った。

「一緒に村に戻ろうか。巫女としてでなく、妹として私の側にいて、一緒に飛んで」

左の翼が妹に融けていく。
力が抜け凭れかかる妹の背に、融けた翼が現れ出す。

「――お姉ちゃん」

小さな呟きに、少女は笑う。
止められない涙を流し続けながら、妹の言葉を肯定した。
妹の目を覆う手を離す。されるがままの妹の右手に自らの左手を繋ぎ、残った右の翼を広げた。

「行こうか。一緒に飛び立つよ」

妹の翼がゆっくりと広がっていく。
少女の翼が羽ばたき、起こした風が障子戸を、窓を開け放つ。
ふわりと少女の体が浮き上がる。手を引かれ、拙い動きで妹の翼が羽ばたいた。
一際強い風が、二人を囲うように巻き起こる。
外へと駆け抜けていく風が収まった後。

遠く空の向こうで、片翼の二羽の鳥が寄り添いながら飛んでいった。





その村には、片翼を持つ姉妹神が祀られている。
祭の夜。神楽殿から見上げた空に、寄り添い飛び立つ二柱の姿が見られたのならば、願いは叶えられるのだという。
故に村人は皆、祈りを込めて神楽を舞う。
眠らぬ夜を、二柱の神は見つめる。
互いに寄り添い翼を広げ、静かに山の向こうへと飛び立っていった。



20250821 『君と飛び立つ』

8/23/2025, 9:16:14 AM