遠くに、揺らぐ街が見えた。
鮮やかな色彩。煉瓦の家々。石畳の道が奥へと続いている。
異国の街並みは、見知らぬはずであるのにどこか懐かしい。
誘われるように近づけば、途端に街は周囲に解けて消えていく。
後には焼けたアスファルトの道しかなく、名残のように逃げ水が遠くに煌めいていた。
決して届かない街並みを思い、小さく息を吐く。
何度目だろうか。向かう先に滲む街並みを見かけ、追いかけては消えていくのを繰り返したのは。
気づかない振りをするのは簡単だ。目を逸らせばいい。
分かってはいても、追いかけるのを止められない。
あの街には、きっと今も幼馴染みがいるのだろうから。
幼い頃、古い絵本に描かれた街並みに憧れた。
石畳の道。煉瓦の家。高い塔に、大きな城。
いつかこんな街で暮らしてみたいと、幼馴染みに何度も語った。
「ちょっと、難しいかな」
眉を寄せ難しい顔をした幼馴染みが、絵本から視線を逸らさず呟く。
「酷い!なんでそんなこと言うの」
幼馴染みの手から絵本を取り上げ胸に抱きしめる。夢を否定され泣きそうになれば、幼馴染みは眉を寄せたまま絵本を指差した。
「だって複雑だし。それに、こんなに広いのは大変だ」
迷子になるとでも言いたいのか。
涙目で睨み付ける。すると幼馴染みは、小さく溜息を吐いて笑った。
「難しいんだけどな」
そう言って後ろを向く。指で弧を描けば、幼馴染みの周りの空気が微かに揺らぐのを感じた。
揺らぐ空気が形を変えていく。色を纏い、大きく広がって、それは次第に絵本の中の街並みを形作っていく。
「凄い……!」
「でも駄目だ。大きいし複雑だしで、形を整えるので精一杯」
歓声を上げる自分とは対照的に、幼馴染みの声は不満げだ。
よく見れば、確かに家の壁はさざ波のように揺れ動き、所々でほつれている。
けれどもそれすら気にならないほどに、街は煌めいて見えた。絵本を抱く腕に力を込めて、高鳴る胸の鼓動のままに一歩、街へと近づいた。
「駄目」
近づく足を幼馴染みの声が止める。
視線を向ければ、幼馴染みはこちらを向いて首を振った。どうしてと食い下がろうとするのを察してか、幼馴染みの手が宥めるように頭を撫でる。
「まだ不安定だから、近づけばすぐに消えてしまうよ」
ここから見ているだけ。
少しだけ気分が沈むが、幼馴染みは大丈夫だと笑う。
撫でていた手を離して、揺らぐ街に向けて歩き出した。
「少し待ってて。しっかり作り上げてくるから」
それだけを告げて、幼馴染みは街の中へと消えていく。
しかし、どれだけ待っても幼馴染みは戻ってはこなかった。
揺らぐ街も日暮れと共に霞み消えて、寂しさに泣きながら一人家路に就いたのを覚えている。
あれから数年が経つ。
幼馴染みはまだ戻らない。
時折現れる街の幻だけが幼馴染みとを繋ぐ縁に思えて、今日もまた街の幻を追いかけている。
その日、見えた街はいつもと違っていた。
朧気に揺らいでいたはずの街並みは、輪郭をはっきりとさせている。
石畳や煉瓦のひとつひとつの形すら、離れているこの場所からも見えている。
街の中心部にある高い塔が時計台だったのだと、初めて知った。
胸が騒めく。
惹かれるように、一歩足を踏み出した。
街は揺らがない。
一歩、また一歩と、街へと近づく。
消えない街。根を下ろした大樹のように、静かにそこに佇んでいる。
「――呼んでる?」
小さな呟きが、やけに大きく感じられた。
とても静かだ。いつもならば聞こえる蝉時雨も、車の音も聞こえない。
思わず立ち止まる。後ろを振り返り、逡巡する。
後ろには見慣れたアスファルトの道。遠く霞む、馴染んだ住宅街。
一歩だけ、足を引き戻す。アスファルトから立ち上る熱気が、この先が現実だと告げていた。
戻るべきか、進むべきか。
もう一度、街を見つめ、込み上げる切なさに胸を押さえた。
街が呼んでいる。その感覚が抜けない。引き返す足が進まない。
――少し待ってて。
不意に幼馴染みの声が、脳裏を過ぎる。
忘れかけていた懐かしい響きのそれに、気づけば足を踏み出していた。
今度は途中で立ち止まらずに、街の門へと辿り着く。
見上げる程に大きな門に足が止まりかけるが、そのまま潜り抜けていく。
その瞬間、空気が変わった。
刺すような暑さはなく、冷えた風が体の熱を奪っていく。
ざらりとした石畳の感触。陽に照らされ、煉瓦が鮮やかさを増している。
昔憧れた、絵本の中の街並み。擦り切れるほどに読み返したあの絵と、何一つ変わらない風景。
そっと壁に手を触れる。冷たい石の感覚に、しかしどこか違和感を感じた。
ざらつく石とは違うもの。目を凝らせば、一瞬だけ虹色に煌めく大きな鱗が見えた。
「――っ!?」
慌てて手を離す。
辺りを見回すが、他に誰の姿も見えない。
それでも何かを感じる。
伸びた影の輪郭に重なる揺らぎ。風が運ぶ匂いに混じるもの。静けさに紛れる微かな振動。
じり、と足が後ろに下がった。
街に呑まれる。街の模った何かに、取り込まれようとしている。
そんな不安に、街を出ようと振り返った。
「どうしたの?」
聞こえた声に、足が止まる。
懐かしい声音。記憶のそれと、寸分変わらないその響き。
「ちょうど迎えに行こうと思ってたけど、待ちきれなかった?」
鼓動が速くなる。
俯く視界に伸びる人影が見え、息を呑んだ。
「まだ少し不安定だけど、ようやく形にはなったんだ」
手が触れる。
指を絡めて繋がれ、その冷たさに肩が震えた。
手を引かれ、逆らうことができずにゆっくりと振り返る。
「どうかな?気に入った?」
あの日、街に消えていった幼馴染みが、変わらぬ姿のままで微笑んでいた。
体が震える。
滲み出す視界の端で、街が蠢く。
鼓動のように壁が脈打ち、石畳が足に絡みついた。
「いや。やだ、離して……帰るから、お願いっ……!」
掠れた懇願に、幼馴染みは首を傾げた。
「なぜ?この街に憧れていたんだろう?なら、ずっとここで暮らせばいい」
不思議で仕方ないというように、幼馴染みは困惑を顔に浮かべる。
頭を撫でようと手を伸ばし、あぁと納得したように頷いた。
「人間の成長は早いのを忘れていた。ただでさえ怖がりなのに、これじゃあ怖がらせるだけか」
伸ばしかけた手を引いてその手を見つめ、こちらを見上げる。
頭を撫でる代わりに込み上げる涙を拭い、幼馴染みは何かを思案しながら周囲を見渡した。
蠢く街を見つめ、小さく溜息を吐く。
「これ以上は、駄目かな。形を変えようとするとすぐに綻ぶ……それよりは、夢を見ながら忘れてしまった方がいいか」
小さな呟きと共に、足下の石畳が波紋のように広がった。
街全体が揺らぎ、石畳の中から何かが浮かび上がってくる。
それは大きな蛤だった。
「なに……怖い……」
「大丈夫。怖いモノではないよ。優しい夢を見せてくれるから」
静かに殻が開いていく。
逃げだそうと足に力を込めても、絡みつく石畳は解けない。
嫌だと首を振っても、幼馴染みは大丈夫と繰り返すだけだ。
殻の隙間から、静かに影が這い出てくる。次々に這い出る影は腕に、足に絡みつく。
「離して!やだ……いやぁ……!」
繋がれた手が離れていく。足を縫い止めていた石畳が解けていく。
留めるものを失い、体が蛤の中へ引き摺り込まれる。
「夢の中で、すべて忘れていくといい。その間に、街を仕上げておくから」
閉じていく世界の中。
最後に見えたのは、虹色に煌めく鱗を持つ龍の姿だった。
「どうしたの?」
立ち止まる自分に、幼馴染みが声をかける。
その声に、形になりかけていた何かが跡形もなく解けていくのを感じた。
「やっぱり、二人だけの鬼事は無理があるって気づいた?」
「違うよ!ただ……」
言いかけて、口を噤む。
やはり、何も思い出せない。解けてしまった何かが、もう一度形を作ることはなかった。
俯く自分の側に、幼馴染みが近寄る。いつものように頭を撫でられて、胸の中に僅かに灯り出した不安が消えていく。
そっと、頭を撫でる幼馴染みの手を取った。
「捕まえた」
顔を上げて笑ってみせれば、幼馴染みが呆れたように溜息を吐く。
「それは反則なんじゃないの」
そう言って肩を竦めながらも、ゆっくりと数を数え始める。
幼馴染みの優しさが嬉しくて、笑いながら街の奥へと駆け出した。
「次は隠れ鬼ね!だから百数えてよ」
「はいはい。あんまり遠くに行かないでね」
最初から数を数え直す幼馴染みの声が遠くなる。
どこへ隠れようか考えながら、空を見上げた。
煌めく陽が陰る様子はない。広がる異国の街並みを、優しく照らしている。
この見知らぬ街には、怖いものなどどこにもない。
自分のために、幼馴染みが作り上げてくれた街。
時折感じていた違和感は、もう感じない。
大蛤の内側で眠り続ける少女を思い、一匹の蛟は緩く笑みを浮かべた。
あどけなさの残る少年の姿を取り、蛤の殻に触れて目を閉じる。
ややあって目を開けた蛟は、そっと安堵の息を吐いた。
「落ち着いているようで何よりだ。まだ違和感として残るものはあるようだけど、それもすぐになくなるだろうな」
触れた殻を撫でれば、応えるように蛤の殻の隙間から白い靄が静かに吐き出される。
ゆるりと立ち上る靄は風に乗り、街全体を薄く覆う。蠢く石畳や揺らぐ家々に染み込み、曖昧な輪郭を正していく。
その様を見て、蛟は目を細めた。
「素質があるな。細かい所はどうしても粗が出ていたけど、これなら完全に仕上がりそうだ」
くすりと笑みを溢し、殻を撫でる。内側で眠る少女の髪を撫でるように、優しく愛おしげに。
「目覚めたら、二人で作り上げた街でも一緒に遊ぼうか。……それまで、ゆっくりおやすみ」
その時を思いながら、蛟は殻に唇を触れさせる。
月明かりを反射して、虹色の鱗が煌めいた。
その地には、時折不思議な街が現れるらしい。
異国の色を強く湛えた、見知らぬ街。遠目では色鮮やかに、だが近づけば忽ち霞み消えてしまうという。
蜃気楼。
だがその街を実際に見た者はなく、季節も関係なく、街は忽然と現れ消えていく。
決して辿り着けない、不思議な街の幻。
いつからかその街の幻は、こう噂されるようになった。
――その街は、夢の吐息でできている。
今日もまた、その街は七色の煌めきを宿しながら遠くで揺らいでいる。
20250824 『見知らぬ街』
8/26/2025, 9:06:57 AM