sairo

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――ずっと一緒。

朱く染まる空の下。伸びた影が指を切る。

――指切りげんまん。嘘ついたら……。

繋いだ小指が、楽しげに揺れて離れていく。
また明日。手を離してひとつがふたりになり。手を振って、影は互いの家路に就いていく。

ざわり。二人の消えた場所を、風が通り抜けていく。
忘れられた木の実がひとつ、風を追いかけ転がった。

幼い頃のささやかな思い出。
笑いながら交わした約束。

あの子の顔が思い出せない。





夏の終わり。
誰もいなくなった生まれ故郷に戻ってきた。
先日。最後の住人がここを出た。人の絶えた故郷は、遠くない先に山に呑み込まれてしまうのだろう。
故郷へ戻ってきた理由は特にはない。強いて言うならば、懐かしい夢を見たからだ。

夕暮れ時。ずっと一緒と指切りを交わした。
相手の顔は影になって、はっきりと見ることができない。指切りげんまんと歌う声も、目覚めた後には残っていなかった。
生い茂る雑草を掻き分け、幼い頃に遊んだ広場へと向かう。
あの子は誰なのだろう。遊ぶ時はいつも二人一緒だった。
一番中の良かった友達。それなのに、思い出せるのは僅かな欠片だけ。
シロツメクサで編んだ花冠。沢で捕れたザリガニ。虫取り網を持って追いかけ回したチョウやトンボ。手や頬を赤くしながら作った雪だるま。
いつも隣にあの子がいた。二人で日が暮れるまで遊び尽くした。
それなのに、思い出せない。思い出せるのは、手を繋いでひとつになった影ばかり。
ここにあの子はいない。それは分かっている。
ただ思い出の場所を回れば、もう少し思い出せるものがあるのではないかと。
そんな淡い期待を胸に、記憶を頼りに思い出の場所を巡った。


広間。沢。雑木林や神社の裏手。
人の手が加えられなくなったことで荒れた場所は、面影ひとつ残ってはいない。
落胆に、思わず溜息が出る。
緩く首を振って、踵を返した。
もうすぐ日が暮れる。寄るが来る前には、戻らなければ。
かなかなと、蜩が鳴いている。影が伸びて、影が濃くなっていく。
空を仰げば、夢で見たような朱く染まった空が広がっていた。

「ずっと一緒」

不意に声がした。幼さの残る子供の声。
立ち止まり辺りを見渡すが、周りに誰かの姿はない。

「約束だよ」

声が笑う。
くすくすと、楽しげな声音が耳元で囁く。

「でも、忘れてもいいよ……君が忘れても、僕は覚えているから。いつまでも、いつまでも……」

動けない指が何かに触れた。冷たい何かが手を繋ぎ、軽く揺すられる。
小さな手。視界の隅で、幼い子供の影が自分の影と重なっているのが見えた。

「――あぁ」

繋いだ手から、只管に懐かしさが込み上げる。欠けていた記憶に真っ黒な影のピースが嵌り、無理矢理完成されていく。

「約束通り、これで一緒だよ」

傾く陽が、影を伸ばす。
幼い頃のように、ふたりの影が手を繋いでひとつになっているのが見えた。

「――ずっと、一緒」

今までも、これからも。
微かに残った思考が、あの子はここにいたのだと告げる。約束通り、ずっと一緒。
離れることは、永遠にない。

「そろそろ帰ろうか。暗くなってしまうと大変だ」

影が繋いだ手を揺する。
それだけで固まっていた体が、ゆっくりと動き出した。
家に帰るのは、自分一人。

けれど。


伸びた影は、ふたりぶん。





「指切りげんまん……」

幼い子供の声が聞こえ、女は視線を向けた。
夕暮れの公園。楽しそうに笑う少女はひとりきり。
だが少女の伸びた影は不自然に歪んで、そこに手を繋ぐもう一人を作り出していた。
急いで視線を逸らす。気づいたことに、気づかれてはいけない。

夏も終わりに近づく頃。女の周囲では、不思議な噂が広がっていた。

――夕暮れに、一人でいる誰かの影が二人分になっていることがある。手を繋いだひとつの影に気づいたことを気づかれれば、自分の影も増えてしまう。

ただの噂だと思っていた。女の周りも、誰一人信じている様子はなかった。
その認識が変わったのは、女の友人の影を見てしまったからだ。

別の友人と話しながら、何気なく視線を向けた先。遠くに見えた友人の影が、不自然に増えていた。
一人でいるのに、影は二人分。手を繋いで、一つになった影が夕暮れに揺らいでいた。


「ずっと一緒だよ」

少女の声が聞こえる。一人きりの少女が、見えない誰かと指切りを交わしているのだろう。

――ずっと一緒。

増えた影を見てしまってから、よく聞くようになった言葉。
幼い少女が、年老いた男が、見えない何かときまって同じ約束を交わしている。
以前は気にも留めなかった他人の会話が、増えた影に気づいた日から気になり始めた。
一緒、と声がする度に体が強張る。周囲の影が、声が女を追い詰めていた。

早くこの場を離れよう。
そう思い、女は少女に背を向け一歩足を踏み出した。

「約束だよ」

不意に誰かの声がした。
すぐ近く。耳元で囁かれた声に、女は硬直する。

「ずっと一緒……君が忘れても、僕はいつまでも覚えていてあげる」

右手に何かが触れる感覚に、女の肩が微かに震えた。
実際には何も触れてはいない。しかしその瞬間から、女の思考がじわりと黒く染まり出していく。
夕陽に伸びた影が揺らぐ。誰かと手を繋いだひとつの影を認めて、女の目から一筋、涙が溢れ落ちた。
だがそれきり。

「――ずっと、一緒だね」

女の唇が歪に弧を描く。
一人、右手を軽く振って、歩いていく。

女はひとりきり。
けれど夕陽に伸びたその影は。


誰かと手を繋いで、ふたりぶん。



20250830 『ふたり』

9/1/2025, 9:27:39 AM