ベッドの中。サイドテーブルの時計を手に、頭までタオルケットをかぶり秒針を眺めていた。
こちこちと、秒針が時を刻んでいく。心の中でその数を数えながら、息を潜めて時を待った。
五十七、五十八、五十九。
――六十。
その瞬間に、遠くで聞こえていたたくさんの声が遠ざかる。薫っていた線香の匂いが薄くなり、消えていく。
そして何も聞こえなくなって、ようやくタオルケットの中から顔を出し、ひとつ息を吐いた。
手の中の時計は、午前零時を過ぎている。
ようやく、長かった八月が終わったのだ。
朝目が覚めて、カーテンを開け外を見た。
庭に祖母の姿はない。少しだけそれを寂しく思いながら、窓から離れ身支度を整えていく。
九月になって、見えていた死者はまた見えなくなった。死者のいるべき場所に戻ったのか、それとも見えなくなっただけなのかは分からない。
そもそも何故、夏の間だけ死者が見えているのか、それすらも分からなかった。
唯一分かるのは、その切っ掛けが彼だということ。
五年前に亡くなった、五歳年上の幼馴染み。梅雨明けの、暑い日に彼を見たのが最初だった。
緩く頭を振って、意識を切り替える。
今日から九月になったのだ。彼もまた見えなくなってしまったはずだ。
そう思うと、胸がつきりと痛んだ。五年経ち、変わり果てた姿を見ても、私の彼へ対する思いは消えてなくならない。
泣きたくなって、慌ててさっきよりも強く頭を振った。
忘れなければ。彼と違い、わたしは生きているのだから。
夏の間現れる彼に惑わされてはいけない。記憶の中の彼とはまったく異なる言動を取る死者の形をした何かは、おそらく彼ではないのだ。
強く、何度も自分自身に言い聞かせる。それでも胸の痛みはなくならない。
諦めて、息を吐く。
俯きがちに部屋を出た。
学校が終わったら、あの場所に行こう。
今年もまた、同じように過ごすことを決めた。
夕暮れ時。薄暗い街外れの道を一人歩いていく。
その先の、長く廃墟となっている家の前で足を止めた。
閉じた門扉越しに中を見る。
門から玄関までの途中で、彼は亡くなっていたらしい。
手を合わせて目を閉じる。こうして九月になり、彼の亡くなった場所の前で手を合わせるのも、今年で四回目だ。
彼の墓はない。葬式を済ませた後、彼の骨は海に撒かれたらしい。
だから墓参りの代わりに、彼の最期の場所で手を合わせる。彼が見えなくなった後、寂しくなって来てしまう。
また来年も、同じなのだろう。夏が連れてくる彼に会って、彼を拒んで。
それでいて彼が見えなくなったら、この場所で彼を偲ぶ。
不毛だな、と自嘲する。いつになれば、彼を諦められるのだろうか。
不意に、遠くで夕焼け小焼けの音楽が流れ出す。
五時を告げるチャイムだ。そろそろ帰らなければいけない。
名残惜しさに気づかない振りをして目を開ける。最後にもう一度門扉の向こうに視線を向けて、踵を返した。
「まだ帰るなよ。駄目だろ、チャイムが終わるまでここにいないと」
耳元で彼の声がした。それと同時に背後から伸びた手に腕を掴まれ、強く引かれた。
「――え。なん、で……どうして……?」
体制を崩し、門扉に倒れ込んだ体を抱き留められる。背後から回された青白い腕に、息を呑んだ。
かたかたと体が震える。引き剥がそうとしても、腰に回った腕の力は少しも緩まない。
踠く度にがちゃがちゃと、背中にあたる門が耳障りな音を立てる。
門の向こう側に、彼がいる。
「やっと来てくれた。俺が死んだ日、死んだ時間。そして死んだ場所に、お前が来た」
「そんなっ……違う、だって……今日は九月で……!」
そんなはずはない。彼が死んだ日は今日ではないと、首を振る。
彼が死んだのは五年前。八月三十一日の午後五時だ。
他でもない、彼がそう言っていた。
赤い女。背中の痛み。引き摺られた先の廃墟の姿。
遠くで聞こえるチャイムの音が、彼が聞いた最後の音だと、夏の間に現れる彼が、何度も語っていたはずなのに。
「本当に?」
後ろの彼が、くつくつと喉を鳴らして嗤う。
楽しげに、嬉しくて堪らないといったように、高揚した声が耳を擽る。
「鞄の中。スマホがあるだろ?……確認すればいい」
優しく促されて、震える指で鞄を開ける。中から、スマホを取りだして、その画面に映し出されたものに目を見張った。
――八月三十一日、午後五時。
力が抜ける。手にしていた鞄やスマホを地面に落としても、それを気にする余裕などなかった。
「なんで……そんな、嘘……」
確かに今日は九月のはずだった。
学校に行き、授業を受けた。その日見た日付は、いつだって九月一日を示していた。
それなのに。
「お袋がさ。ようやく折れてくれたんだ」
腰に絡みつく腕が静かに離れていく。
逃げるならば今だと思うのに、体に力が入らない。
腕を離されて、支えを失った体が崩れ落ちていく。そのまま動けずにいる後ろで、きぃと門が開く軋んだ音がした。
背後から伸ばされた指が、溢れる涙を拭う。そして伸ばされた腕に強く抱き締められた。
「夏の間、何度もお袋の夢枕にたったんだけど、中々頷いてくれなくて、時間がかかっちまった。でもお前に年を越される前に、間に合って本当によかった」
彼は何を言っているのだろう。
少しも理解できない内容。今が八月三十一日に戻っている理由。
頭がくらくらする。
「すぐに連れ出してもよかった。でもせっかくならお前から来てほしかったから、少し細工をしてみたんだ」
驚いただろ、と彼は笑う。悪意のある笑い方ではない。昔の、生きてた頃の彼のような無邪気さで、背後から耳元に唇を寄せた。
「正直、来るかどうかは賭けだったけど、やっぱりお前は来てくれた……お前だけが、俺を思って手を合わせてくれる」
抱き着く腕が強くなる。
「俺にはお前だけだ。だからお袋に何度も頼み込んで、絵馬を描いてもらった……お前と永遠に一緒にいられるように願いを込めた、特別な絵馬を」
「なに……意味、分かんない……やめて、お願い……」
首を振る。
一緒にいられるはずはない。それを、彼は一番よく知っているのに。
これ以上は聞きたくない。彼の言う特別な絵馬がなんなのか知ってしまったら、もう二度と戻れない。
そんな恐怖に、ただやめてほしいと何度も懇願した。
「やめない。やめたところで、もう後戻りもできない。だって、これからは、夏だけじゃない。いつまでも一緒にいるんだから」
彼に腕を引かれ、立ち上がる。けれど足が震えて、すぐに崩れ落ちそうになった。
「あぁ、驚きすぎて腰が抜けちゃったのか。可愛い」
支えられ、そのまま抱き上げられる。
視線が交わる。虚ろで白濁した、死者の目ではない。生きていた頃と変わらない柔らかな、それでいてその奥に昏い何かを宿した目。
まるで獲物を前にした獣のよう。
視線を逸らすことも、瞬くことも忘れて、その目をただ見つめていた。
「あなたは……」
掠れた声で呟いた。
首を傾げて、彼が顔を寄せる。近くなる目に呑み込まれそうな気がして、呼吸が上手くできない。
「あなたは、何……?」
視界が端から、じわじわと黒く染まっていく。
遠くなる意識で喘ぐように尋ねれば、彼はきょとんと目を瞬いた。
唇の端が上がる。強い目を歪めて彼は笑う。
「――執着」
静かに囁いて、歩き出す。
廃墟から、街から遠ざかり、赤く染まった暗がりを進んでいく。
遠くで聞こえる、歪んだ夕焼け小焼けのメロディー。何度も繰り返され、終わりのない午後五時を告げている。
「お前の、俺を思って流した涙。それを見ていた俺の、触れたいっていう欲。気づいてほしい気持ちが膨れて歪んで、それがお前への執着になった。あの廃墟はそういう場所なんだ……お前が欲しくて堪らなくなって、報われない苦しさから解放してほしくて……冥婚っていう卑怯な方法まで使って手に入れた……後悔なんてしてないし、俺は今、すごく幸せだけどさ……ごめんな」
彼は笑う。
その顔は笑っているはずなのに、泣いているように見えた。
20250831 『8月31日、午後5時』
河原で楽しそうに弟妹たちが遊んでいる。
弟妹が生まれて、三月が過ぎた。最初は目も開いていなかった小さな狸は、今では時々狸の耳と尾をつけた人らしき姿を取れるまで成長している。
母はまだ、部屋から出られない。元々人だった母が三匹の狸を産むのは体への負担が強いのだと、父が言っていた。
だからこうして弟妹の面倒を見るのは、姉であるわたしの役目だ。遊び相手から食事の世話まで、大変なことは多い。それでも、屋敷の皆と協力しながらやんちゃな三匹の相手をするのは、それ以上に楽しく幸せなことだった。
少し離れた場所に座り、遊ぶ弟妹を眺める。
弟妹の世話をするのに、ひとつも不満はない。けれどこうして離れて一人でいると、考えてしまうのは彼女のことだ。
学校でできた、初めての大切な友達。夏休みが始まる直前に学校を休んでから、ずっと会えていない。
彼女は今何をしているのだろう。作った秘密を守り通せば彼女の秘密も教えてくれるという約束を、まだ覚えてくれているだろうか。
それともわたしのことなど、すっかり忘れてしまっているのだろうか。
込み上げる不安に、耳と尾が下がる。父は当分学校に行くなというけれど、それは夏休みが明けても続くのだろうか。
あと三日で夏休みが終わる。屋敷の誰かが取ってきてくれた夏休みの宿題は、すでに終わってしまっている。ただ、それを持って学校に行けるのか、それは分からない。
「ねぇねっ!」
末の弟に呼ばれて、はっとして顔を上げた。
弟妹のいる方へ視線を向けると、三匹の狸に混じって何かがいる。
白い狐。四本の尾を持つ、美しい神使。
思わず息を呑んだ。
「え?なんで……」
四本の尾で弟妹をあやしながら、神使がこちらに視線を向ける。すべて見透かすような金の眼に見つめられ、体が硬直する。
きゃっきゃと、はしゃぐ弟妹の声が遠い。罰当たりだ、止めさせなければと思うのに、体は少しも言うことを聞いてくれない。
こちらを見据えたまま、神使が一歩距離を詰める。長い尾が揺れ、弟妹が楽しそうに笑う。
もう一歩。神使が近づいて――。
後ろから伸びた腕に、眼を塞がれ抱きかかえられた。
「それ以上、オレの娘に近づくな」
険を帯びた父の声。安心すると同時に、疑問が込み上げる。
父が神使を警戒する理由が分からない。
「ととさま?」
「少し黙ってろ、常盤《ときわ》」
ぴしゃりと、固い声で言われ、毛並みが逆立つ。
「若苗《わかなえ》、若葉《わかば》、若芽《わかめ》。戻ってこい」
父の言葉に、弟妹から不満の声が上がる。それでも父の様子に、おとなしく三匹が近づいてくる音がした。
「ここはオレの縄張りだ。神使といえどこれ以上理由なく、この地に留まることは許さない」
父が声を上げる。ぴりついた空気に呑まれ、落ち着かない。
弟妹の泣く声が聞こえた。父の纏う空気が怖いのだろう。けどいつもならば一番に気づいてくれるはずの父は、一向に弟妹の泣き声に気づこうとしない。
今日の父は、やはりどこかおかしい。
「――刑部《ぎょうぶ》」
涼やかな声がした。
聞き馴染んだ、静かな声音。
どうして、と思うより早く、人の姿になって父の腕から抜け出した。
「常盤っ!」
「どうして?……え、どういうこと?」
父の伸ばす手をすり抜けて、神使がいた場所に佇む彼女の元へ駆け寄りそのまま抱きついた。
「え?神使は?なんでいるの?わたしのこと覚えてくれてたの?」
「取りあえず落ち着こうか。ちゃんと答えてあげるから、まずは刑部を何とかしないと、君の弟妹が可哀想だ」
背を撫でられながらそう言われ、慌てて振り返る。
怖い顔をしている父。その父の足下で、怯えて縮こまる小さな狸が三匹。
どうしようかと悩んでいれば、彼女がそっと耳打ちした。
その内容に目を瞬く。大丈夫なのかと彼女を見るも、それ以上は何も言わずに頷くだけ。
不安はあるものの父に向き直り、彼女に教えられた言葉を告げた。
「弟妹をいじめるととさまなんて大嫌い!わたし、もう二度とととさまと口をきかないからっ!」
父の表情が変わる。驚きと焦りで目が見開かれ、くしゃりと歪んで、泣きそうな顔になった。
「わたし、将来は狸以外と結婚して、家を出ていく。そして――」
「と、常盤……それ以上は止めてくれ。父様が悪かったから、な?父様、もう怒ったりしないし、神使のことも許すから。だから大嫌いとか、口をきかないとか、家を出て行くとか、酷いことを言わないでくれ……!」
父の懇願に、目を瞬く。
本当に効果があるとは思っていなかった。
彼女を見ると、困ったような笑っているような表情で、肩を竦められる。背を押されて、父の元へ近寄った。
「ねぇねっ!」
「こわかったよぅ!」
「ととさま、こわい。ねぇね、ととさま、やだ」
「うん。怖かったね。大丈夫だからね」
途端に駆け寄る弟妹を宥めながら、父を睨み上げる。うっと言葉に詰まった父は、泣きじゃくる弟妹を見つめて、すまんと小さく呟いた。
「刑部。すぐにかっとなるのは、悪いことだ。しばらくは子供たちから避けられても、仕方がないよ」
「っ、元はと言えば、オマエのせいだろうが……!」
忌々しいと言わんばかりに、父は彼女を睨み付ける。
今日の父は、本当に変だ。
「ととさまは、神使に怒ってたんじゃないの?というか、彼女と知り合いなの?」
疑問を口にすれば、眉を寄せた父が驚いた顔をする。彼女を一瞥し、わたしを見て、益々眉を寄せた。
「気づいていないのか。コレはあの神使だぞ」
「――え?」
驚き彼女がいた方を見れば、そこには彼女ではなく神使の姿。
呆然と見つめているわたしの目の前で、神使の姿が揺らいで一瞬で彼女の姿になる。
「これが、とっておきの秘密。弟妹ができたって秘密を守ってみせたから、特別に教えてあげる」
くすり、と彼女が微笑む。
秘密。彼女の言葉に、一呼吸遅れて鼓動が高鳴った。
秘密を守れたこと。秘密を教えてもらったこと。嬉しくて、気恥ずかしい。
落ち着かなくて狸の姿に戻ると、意味もなくその場をぐるぐると回り出した。
「要件はそれだけか。なら、さっさと帰れ」
「相変わらずだね。刑部」
機嫌の悪い父が、追い払うように彼女を手で払う仕草をする。それに何かを言う前に、彼女は苦笑して何かを取り出すと、父に向かって放り投げた。
「贄の子、産後の肥立ちが悪いんだろう?それを飲んで栄養のあるものを食べれば、一月しない内に回復するよ」
「贄じゃねぇ。オレの妻だ…………だが、感謝する」
盛大に顔を顰める父の姿は、初めて見る。
お互い知り合いのような雰囲気があるから、昔何かあったのかもしれない。
少しだけ不安になるけれど、最初の張り詰めた空気は感じない。
ならば大丈夫かと、もう一度くるりとその場で回る。ようやく落ち着きだして座れば、不意に体が宙に浮いた。
「それじゃ、行こうか」
振り返れば、わたしを抱き上げて彼女が告げる。どこに、とは思うけれど、彼女と一緒にいられるならそれでもいいやと、身を預けた。
「おい待て。オレの娘を連れ去ろうとするんじゃねぇ」
低く唸り声を上げる父に、大丈夫だと尾を揺らして答える。
彼女はわたしの大切な友達だ。昔、父と何があったのかは分からないけれど、攫われる訳ではない。
「心配性だね。別に取って食べる訳じゃないんだから……君じゃあるまいに」
「うるせぇよ……常盤、戻ってこい。神使だとしても、狐なんて所詮は性悪な奴らばかりだ。傷つく前に、ソイツとは縁を切れ」
離れろと手を伸ばす父をするりと交わし、彼女は呆れたように息を吐く。
「そろそろ子離れしたらどうかな。いつまでも娘にべったりは、嫌われる原因になりやすいよ」
「余計なお世話だ。それに、常盤はまだ二つになったばかりだぞ。半分は人間の血が入っているんだから、まだまだ独り立ちできる年じゃないだろうが」
「――え?」
父の言葉に、彼女の目を瞬かせてこちらを見る。
それに尾を振って本当だと伝えれば、何かを考えるように悩んで、再び歩き出した。
「それなら、余計に外に出ないと。夏はもう終わるけど、忘れていったものも多い。それを探しに行こう……刑部。学校が始まるまでこの子を預かるから、君は子育てに専念するといい。このままずっと避けられるのは、君だって嫌だろう?」
追いかけようとする父が、彼女の言葉に止まる。確かに弟妹たちは、父を怖がっていた。このままだと、ずっと離ればなれになってしまうかもしれない。
現に今、近づこうとする父に、弟妹は皆怯えて毛が逆立っている。それに傷ついて慌てて機嫌を取り始めた父を見ながら、彼女に問いかける。
「夏の忘れ物って何?」
「それを探しに行くんだよ。蝉。向日葵。太陽……たくさんある。この三日間。楽しめなかった夏を目一杯楽しもう」
ね、と彼女に言われ、尾を振り大きく頷いた。
夏の忘れ物を探しに、彼女と一緒に三日間を楽しむ。
心躍る響きに、胸が高鳴る。
待ちきれなくて、急かすように彼女の腕に顔を擦り寄せた。
20250901 『夏の忘れ物を探しに』
9/2/2025, 9:38:17 AM