sairo

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一冊のノートを前に、悩んでいた。
部屋の掃除をしている時に、偶然見つけたノート。どこにでも売られているようなそれ、いなくなった友人が最後に会った時に読んでいたものだ。
真剣な眼差しで、時に笑みを見せながら読んでいた友人を思い出す。何が書いてあるのか尋ねても、教えてはくれなかった。
ノートの表紙を指でなぞり、気持ちを落ち着かせるため深呼吸をする。
友人はいない。このノートを読んでいた次の日に、いなくなってしまった。
何故いなくなったのか、どこに行ったのか。誰も知らず、手がかりもない。
時間が経つにつれて、誰の記憶からも友人が消えていく。一ヶ月経つ今、覚えているのは自分だけだった。

「――よし」

覚悟を決めて、表紙に手をかけた。
このノートを読めば何か分かるかもしれない。期待と不安を胸に、ゆっくりと表紙をめくった。

――今日から新しい一年が始まる。あの子と行った神社でした願い事は、今年も二人一緒にいられますように、だ。

丁寧な字で書かれた文章は、誰かの日記のようだった。
誰の日記なのだろうか。少し後ろめたい気持ちになりながら、ページをめくった。



ノートにはささやかな思い出が、大切に愛おしむように書かれている。
日記の主は、あの子のことがとても好きなのだろう。文章から察せられるくらい、あの子との思い出が書き連ねられている。
雪遊び。花見。夏祭り。紅葉狩り。
一年を通して、いつも一緒にいた。そのひとつひとつの思い出を閉じ込めるようにして、日記は綴られていた。

これは友人の日記だ。読んでいる途中から、ふと気づく。
日記に書かれているいくつかの思い出の中に、記憶を掠めるものがあった。
例えば、暑い日に買ったアイスを、袋から開けてしまった時に落として泣いていたあの子。代わりに日記の主が持っていたアイスをあげようとするも断られ、最後には二人で一緒に食べたこと。
幼い頃、日記に書かれているように、友人と買ったアイスを落としてしまったことがあった。優しい友人はアイスをくれようとしたけれど、それは嫌だと受け取らなかった。
だから一口ずつ、半分こにしながら一緒に食べたのを覚えている。
思い出して、途端に胸が苦しくなった。
今ここにいない友人を思い出して寂しくなりながら、またページをめくった。



最初は日々の温かな思い出を書き綴っていた日記は、次第に様相を変えていく。

――あの子が他の誰かと遊びに行ってしまった。いつもの場所でずっと待っていたのに、あの子は結局来なかった。
――あの子が知らない誰かと笑っている。私のことには、少しも気づいてくれない。

成長し、距離ができたことを悲しく思う気持ちが書き連ねられている。
少しも気づかなかった。友人は何も言わなかったから。
約束をしていなかった時も、友人はずっと自分のことを待ってくれていたのか。

――私の世界にはあの子だけなのに、あの子の世界はどんどん広がっていく。私以外を受け入れてしまう。いつか私はあの子の世界から追い出されて、そのまま消えてしまうのかもしれない。

これが友人がいなくなった原因なのだろうか。
そんなつもりはなかった。友人を忘れることなんて一度もなかったはずなのに。

――その前に、ずっと一緒にいられる方法を見つけないと。

息を呑んだ。
そのページの最後に書かれた文字は、それまで書かれていた文字よりも力強く歪だ。
この先を読むのが怖い。ここでノートを閉じて、他の皆のように忘れてしまいたい。
込み上げた思いに、慌てて首を振る。
友人に寂しい思いをさせて、それに気づかないでいたのは自分だ。そして友人を覚えているのも、自分だけ。
このまま忘れてしまったら、自分が友人を消してしまうことになる。
そう自分に言い聞かせて、震える指でページをめくった。



頭が痛い。
文字を読み進める度、友人の歪さが自分の中に入り込んでくる錯覚に、目眩がする。

――永遠が見つからない。
――あの子を閉じ込めるだけでは、永遠にならない。
――離れないように互いを繋いでも、生きている限り終わりは必ずくる。
――永遠を見つけないと。

今すぐにノートを閉じてしまいたい。これ以上読み進めたくないのに、視線はノートの文字から逸らせない。
見たくない文字を読み進め、その内容を脳が受け入れていく。ページをめくる手は止まらず、友人の狂気はどんどんと歪に膨らんでいく。

――何を犠牲にしたら、あの子の世界は私だけになる?
――あの子と遊んだ誰か。話した誰か。家族もぜんぶいなくなれば、あの子の側にいるのは私だけ。
――あの子と私以外が全部なくなれば、世界は二人だけになる。

日記は終わらない。ページをいくらめくっても、終わりが見えてこない。
自分の意思とは無関係に、また指がページをめくる。
そこに書かれた文に、ひっと張り付いた悲鳴が上がった。

――ようやく見つけた。これで永遠が完成する。
――あとは、あの子がこれを最後まで読んでくれるだけ。

指が次のページをめくろうと動きだす。
これ以上は駄目だ。本当に戻れなくなってしまう。
必死に力を入れれば、指はページに触れたまま動きを止めた。それに少しだけ安堵して、ページから指を離そうとさらに力を込める。

「駄目だよ」

不意に後ろから声が聞こえた。

「ページをめくって。ちゃんと最後まで読み終えて」

優しい声音で友人が耳元で囁く。
それに従うように、指がページにかけられた。

「や……いや。お願い……許してっ……!」

どんなに力を入れても、止まらない。
ゆっくりとページがめくられていく。

最後のページ。
滲む視界の中でも、その短い文ははっきりと見えた。


――これで、ずっといっしょ。

その意味を理解した瞬間。文字が蠢きだした。
知らない文字を、模様を描き、淡い光を放ち出す。模様の中心が水面のように揺らめいて、何かを映し始めた。

「さあ、行こう」

友人に促され、揺らぐ模様の中心に手を触れさせた。

「――あぁ」

嫌だと拒む意識が、薄れていく。
友人以外のすべてが消える。今まで築き上げていた世界が、音もなく崩れ去ってしまう。
溢れ落ちる涙を、後ろから伸びた指が拭う。くすくすと笑う声が鼓膜を揺する。
そっと目を伏せた。ノートに触れる手が端から解け、文字となって沈んでいくのを、これ以上見ていたくはなかった。
どうすればよかったのだろう。僅かに残された意識で考える。
友人の変化に気づいていたら、何か変わっていたのか。それとも友人から遠く離れていれば、このノートを読もうと思わなければ。

「これでいつまでも一緒にいられる。めでたしめでたし、だね」

けれど何を思おうと、すべて手遅れ。

「そうだね。ずっと一緒にいよう……今までごめん」

呟いて、体の力を抜いた。
四肢が、胴が、解けていく。すべて文字になってノートに揺らぐ水面を漂い、深く沈んでいく。

どんな形であれ、友人と一緒にいられるなら、それはとても幸せなことじゃないか。
微笑んだ瞬間。自分の体はすべて文字になり、ノートの底へと沈んでいく。


そして、一人の狂気を綴ったノートは音もなく閉じ、そのまま解けるように消えていった。



20250902 『ページをめくる』

9/3/2025, 11:37:50 PM