sairo

Open App

「いかないでぇ!」

泣きながら、大きな背にしがみつく。
出発の朝。この瞬間が何よりも嫌いだ。

「ちゃんと帰ってくるよ」

眉を下げて、兄は困ったように微笑う。

「ほら、お兄ちゃんを困らせないの」

溜息を吐きながら、母が無理矢理に引き離す。温もりがなくなって、益々寂しさが込み上げた。
脇目も振らずに泣きじゃくる。上手く呼吸ができずにくらくらする頭で、それでも兄に向けて必死に手を伸ばした。

「困ったね」

優しい声が囁いた。伸ばす手を包まれ、しゃくり上げながら兄を見つめる。
行かないでくれるのだろうか。期待を込めて、兄の言葉の続きを待った。

「一週間したら帰ってくるよ。約束する。ちゃんと帰ってきて、誕生日をお祝いするから、良い子で待てるよね?」

涙を拭われ、視線を合わせて兄は言う。期待とは真逆の言葉。でも、差し出す小指に仕方なく指を絡めた。

「指切りげんまん――」

絡めた小指を軽く揺すられて、ふてくされながらも約束を交わす。
兄は約束を絶対に破らない。今までもそうだった。だから今度の約束も守られると信じて、指を切る。

「うそついたら、おにいちゃんと口をきかないからね!」
「それは嫌だなぁ……だから絶対に帰るよ」

指切りをした手が頭を撫でる。
一週間。七日。
遠い先を思い、また涙が溢れてくる。涙を拭おうとする手から逃げるように、母の背中に隠れて兄を見送った。

「いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
「――いってらっしゃい」

遠ざかる兄の背中が見えなくなるまで、見えなくなってからもしばらく玄関で立ち尽くす。
兄はちゃんと帰ってくる。帰って来て、誕生日を祝ってくれる。
そう信じて、兄の無事の帰りを神に祈った。


けれど――。
一週間が過ぎても、一ヶ月が過ぎても、兄は帰ってはこなかった。

沖で嵐があったらしい。兄の乗った船も、戻ることはなかった。
その知らせを正しく理解できたのは、何年も経ってからだった。





昨日から降り続く雨は、風を引き連れ勢いを増している。
きぃ、と音が聞こえて、溜息を吐いた。
重怠い体で、勝手口へと向かう。

「いい加減、直せばいいのに」

愚痴を溢しながら、風に揺れ雨を室内に招き入れている勝手口の扉を固く閉めた。古い扉は随分と前から鍵が壊れ、閉め方が甘いとこうしてすぐに開いてしまう。その度に直したいと両親は言うものの、直される様子はない。
古い家だ。直すべき所は多くあり、ひとつひとつ直してなどいられないのだろう。

「雨なんか嫌いだ」

小さく呟いた。
正確には、雨も風も嫌いだ。晴れ渡る空も、朝も海も、何もかもが嫌いだった。
溜息を吐きながら、部屋に戻るため歩き出す。
台所を出た瞬間、不意に何か音が聞こえた気がした。

「――何?」

辺りを見渡しても、音の出所は分からない。耳を澄ませても、打ち付ける雨風に紛れてよく聞こえない。
だが微かに何か聞こえる。無機質な、電子音。電話の切れた音にも似ている、そんな低めの音。

「何なの。まったく……」

頭を振って、足早に部屋に戻る。
電話も嫌いだ。耳を澄ませてまで聞いていたくない。
部屋の中。ベッドに入り、シーツを頭まで被る。
耳を塞いで、目を閉じた。

世界は嫌いなものばかりだ。
眉間の皺は刻まれたまま、消えることはない。

段々と落ちていく意識の外側で、微かに音が聞こえ続けていた。



次の日になっても、音は消えることはなかった。
正確には、昨日よりも音は強く聞こえている。ツーという音と、トンという音。どこか聞き覚えのあるそれは、思い出せそうで思い出せない。

「――あぁ、もう!嫌になる」

頭を振るが音は消えない。思い出せない歯がゆさに、眉間の皺が深くなる。
ざぁっと外で音がした。弱まっていた雨が、また強さを取り戻したようだ。
窓に近づき、打ち付ける大粒の滴を一瞥してカーテンを閉める。
体が重い。気圧の影響か、痛み始めたこめかみを押さえながらベッドに倒れ込んだ。
音が聞こえる。舌打ちして耳を塞ぐも、音は止まない。
頭の中で響いているのだ。ふとそんなことが思い浮かぶ。
やはり、世界は嫌いなもので溢れかえっている。
苛立つ気持ちのまま、その日はよく眠れなかった。



音が響く。
はっきりと聞こえるようになり、あることに気づいた。
音はある一定の規則で繰り返されている。

「――あ」

そこでようやく思い出した。
まだ兄がいた幼い頃、勉強の傍らに教えてもらったもの。

「モールス信号だ」

呟いて、ベッドから体を起こす。ふらつきながらも、奥の部屋へと向かった。

そこは、兄の部屋だ。兄が出て行ったままの状態で残された部屋は寒々としていて、ここ数年足を踏み入れていなかった。
定期的に母が掃除する以外に、誰も足を踏み入れない場所。何年も経つのに、潮の匂いがふわりと漂う。

「確か、本棚に……」

兄の気配はまだ色濃く残っている。けれども兄はいない。そのことから思考を逸らすように、本棚へと向かう。綺麗に整頓されていたため、目的の本はすぐに見つかった。
本を取り、足早に部屋を出る。自室に戻り、聞こえる音を当てはめていく。

「・-・・、-・---、-・--・……か、え、る?」

首を傾げた。
「かえる」と繰り返す音。帰るなのか、それとも返るなのかは分からない。
何故頭の中に響いているのかも分からなかった。
眉間に皺が寄る。本を片付ける気にもならず、ベッドへと倒れ込んだ。
目を閉じる。聞こえるのは、頭の中の信号と、雨風の音。

そして、戸を叩く音。

「――誰?こんな時間に」

諦めるだろうと思い待っていたが、音が止む気配はない。
溜息を吐いて、体を起こす。軋む体と痛む頭に顔を顰めながら、ゆっくりと玄関へと歩いていく。

「誰ですか」

何故呼び鈴を鳴らさないのか。そう思ったが、数ヶ月前から音が鳴らなくなったことを思い出す。
声をかけても、戸を叩く音は止まない。雨風の音で聞こえていないのだろうか。
舌打ちをして、玄関戸に近づく。鍵を開けようとして、ふと違和感に気づいた。

ドン、ザー、ドン、ドン。

聞き覚えのあるリズム。頭の中のそれと重なり、音が大きく聞こえ出す。
戸を叩いているのではない。信号を打っているのだ。

「――誰、ですか」

ゆっくりと後退りながら、もう一度声をかける。
音は止まない。声は返らない。

頭が痛い。さらに重くなる体を引き摺るように、玄関から離れていく。
戸の鍵は閉まったままだ。声をかけてしまったが、反応はなかった。このまま部屋に戻って、朝が来るまで待っていれば、いずれ止むのかもしれない。
そう思い、もう一歩後退った時だった。

背中に何かが当たる。冷たく、濡れた自分よりも大きな何か。
振り返るよりも先に、背後から伸びた腕に抱き竦められた。

「――ただいま」

ひび割れた声。でも聞き間違えるはずなどない。
体を抱く腕に視線を落とす。濡れた服の裾からぽたぽたと滴が落ちている。
その服に見覚えがあった。思わず呻きにも似た声が上がる。

「お……にい、ちゃん……」

掠れた声で呼べば、返事の代わりに抱き竦める腕に力が込められた。

いつの間にか、戸や頭の中で響く信号は聞こえなくなっている。ならば、あの信号を打ったのは、兄なのだろう。
どうして、と静かになった戸を見ながら考える。戸に鍵はかかっている。目の前で開いてもいない。
風の音に紛れて、小さくきぃ、という音が聞こえた。鍵の壊れた、勝手口の扉。それが答えだった。
強い潮の匂いに目眩がする。今更何故、兄が帰って来たのか。それを尋ねたくても、もう何も言葉が出てこない。

「――とう」

不意に兄が何かを呟いた。雨風に掻き消されるほど、微かな声音。耳を澄まして、兄の声を拾い上げる。

「お誕生日、おめでとう」

ひゅっと息を呑む。
それは遠い日の約束。帰って来て誕生日を祝う。
待ち続けて、結局叶わなかった願いだ。
息が苦しい。しゃくり上げる度に、呼吸が上手くできなくなる。
兄の濡れた体に体温を奪われ、体が震え出す。体に力が入らず、崩れ落ちる体を包むように抱き寄せられた。
昔、寒さに震えていた時には、こうして兄が抱き締めてくれていた。かつては温もりを感じていたはずなのに、兄からは冷たさしか感じない。
それが悲しくて、そうまでして帰ってきてくれたことが嬉しくて堪らない。霞み出した思考で、ぼんやりと思った。
世界は嫌なものばかり。痛くて、苦しくて、悲しい。
ふと、先ほどまで響いていた信号を思い出す。

トン、ツー、トン、トン。
ツー、トン、ツー、ツー、ツー。
ツー、トン、ツー、ツー、トン。

頭の中で繰り返して、無意識に口を開いた。

「――還る」

呟いたとほぼ同時に、兄の手が視界を覆う。真っ暗な世界に何故か安堵して、体の力を抜いた。



目を開ける。
知らない場所。仄暗く、冷たいここは、どこかの船の中のようだった。

「おいで」

辺りを見渡していれば、兄が来て手を引かれた。
おとなしくついて行く。歩いているというより、漂っているような感覚が落ち着かない。

「ここだよ」

兄に連れられて入ったのは、どこかの小部屋。本の中で見たことのあるモールス信号を打つ機械に、ここが兄の仕事場だったのかとようやく気づいた。
手を離した兄が、机に近づき引き出しを開ける。中に入っていた、四角い封筒を取り出し、渡される。
促されて封を開ける。中から取り出したカードを見て、じわりと涙が込み上げる。

「ずっと渡せなかったからね。最期に渡せてよかった」

可愛らしい犬や猫の絵柄が描かれたバースディカード。開くと、電子音がバースディソングを奏で出す。
止められなくなった涙を拭われる。眉間に寄ったままの皺を指で伸ばして、兄は微笑む。

「よく頑張ったね。偉いよ」

出せない声の代わりに何度も頷いた。
そうだ。頑張ったのだ。ずっと、嫌いなもので溢れかえる世界の中で一人耐えてきたのだ。
気づけば、ずっと感じていた体の重さも頭の痛みも感じなかった。兄に伸ばされた眉間の皺が、再び刻まれることもない。
腕を伸ばせば、兄が優しく抱き締めてくれる。昔のような大きな体。自分の体が幼くなっていく。

「もういいよ……おやすみ」

そっと囁かれて、兄に凭れ目を閉じる。
何年も浮かべることのなかった笑顔が、自然と浮かんだ。





赤い目をしながら、それでも女は気丈に訪れる弔問客に挨拶を返す。

「この度は、力及ばず申し訳ありません」

そう言って香典袋を渡す男に、女は僅かに顔を綻ばせた。

「先生。来て下さってありがとうございます」
「いえ。私は娘さんに何もできなかった。本当に申し訳ない」

頭を下げる男に、女は慌てて両手を振る。
顔を上げてほしいと頼み込まれ、男は静かに頭を上げる。

「先生には感謝しています。先生がいなければ、あの子はここまで生きることができませんでしたから」
「ですがそれは、ただ苦しみを長引かせるだけだった……あの子には本当に酷いことをした。きっと恨んでいるでしょうね」

そう言って男は悲しく笑う。
とんでもないと首を振る女は、目に涙を浮かべながら黒と白の鯨幕の向こう側を見つめる。
その向こう側では、喪主である夫が弔問客の相手をしていることだろう。泣きたいのを堪え娘の遺影の前で、女のように気丈に振る舞っているのだ。
顰めた顔で映る娘の遺影を思い出し、先生、と女はぽつりと呟いた。

「先生。あの子は確かに、苦しんだのでしょう。ですが最期はとても穏やかだった。眉間の皺が消えて、微笑んで眠るあの子を見たのは、本当に久しぶりでした」

穏やかに語る女とは対照的に、男の表情は曇り出す。

「正直、あの最期は不可解なことばかりなのです。娘さんの状態は安定していたはずだった。来月には退院できるはずだったのです」

娘の状態を思い出しながら、男は告げる。
娘は僅かな時間で息を引き取った。バイタルに変化はなく、巡回していた看護師も変わりはないと証言している。
一瞬のことだ。酸素飽和度を示す値が、九十五から一気に一桁へと下がった。遅れて心電図が心停止を告げ、男が駆けつけた時には既に何をしても手遅れの状態だったのだ。

「そう、でしたね……えぇ、そうでした。苦しそうなあの子を見ていたから忘れていたけど、状態はよかったのでしたっけ」

それならばきっと。
女は一筋涙を溢す。口元は淡く微笑みを湛えて、何かを思うように、遠く見える海を見つめて呟いた。

「あの子の苦しみを見かねて、あの子の兄が連れていったのかもしれません……お兄ちゃんは一回り以上年の離れたあの子のことを、私たち以上に愛し、大切にしていましたから」

微かに船の汽笛が聞こえる。
その音を聞きながら、女は深々と男に頭を下げた。



20250905 『信号』

9/7/2025, 9:18:59 AM