あれからいくつか季節が過ぎた。
彼との関係は変わらない。社で過ごす穏やかな時間も、夢の中での甘い時間も、変わらず続いている。
彼の悲しみに、気づかない振りをしながら。
知ってはいけない。正体を口にしてはいけない。
彼は何度も懇願する。共にいるために、別れの時が訪れることのないように。
けれど同時に、彼は悲しげに空を舞う黒い影を見つめる。社から見える外に視線を向けて、切なげに目を細めている。
故郷を、そして仲間を思う彼を見る度、このままでいいのかと自分の中の何かが囁く。
彼を縛っているのは、社ではなく本当は自分ではないだろうか。告げることのできないこの思いが、彼に何も知るなと言わせているのではないか。
「どうかこのまま。何も知らないままで、私と共にいてください」
背後から抱き締められながら繰り返される言葉に、何も言わずに空を見上げた。
遠く、茜色の空を優雅に飛び交ういくつもの影。
抱き締める腕に力が籠もっていくのを感じながら、今日もまた何も言い出せずに目を伏せた。
それを見つけたのは、彼と出会った日のような秋の初め、雨上がりのことだった。
濡れる石畳の脇、茂る草に覆い隠されるようにして、何かが見えている。気になって草を掻き分け覗くと、それは小さな石碑のようだった。
苔むし朽ちかけた石碑に触れながら、読める文字を探して目を凝らす。汚れを指で拭えばその瞬間、脳裏をいくつもの言葉が過ぎていく。
異国から訪れたモノ。
破壊の化身。それは巨大で、禍々しく、怖ろしい。
多くの人々が命を賭して、社に封じた。
その名を呼べば封は解かれ、再び災厄が訪れる。
過ぎる一つの名前に、息を呑んだ。
石碑から手を離し、頭を抑えた。
頭が痛い。いくつもの言葉が、渦を巻いているようだ。
ふらつきながら家路に就く。ゆっくりと石段を降りながら、思うのは彼のことだった。
夢の中。
いつものように彼に抱かれながら、草原に二人立ち尽くす。
見上げる空には、いつもと同じいくつもの影。
異なるのは、草原の先。遠くに空を飛ぶ影と同じ大きな影がひとつ、こちらを静かに見据えていた。
「――Procella」
震える声。影の名らしきものを紡ぎ、微かに嗚咽が溢れ落ちる。
それは石碑から流れ込んだあの名前の響きに、どこか似ている気がした。
「何も聞かないでください。どうか……」
振り返ろうとする体を強く抱き竦め、彼は願う。
その声の響きはとても悲しい。呼んだ影への恋しさに揺れている。
何も言えない自分の中の何かが囁いた。
彼を解放すべきだ。彼は自分の思いに縛られている。
昼間見た石碑を思い出す。
異国。破壊。災厄。
今の彼からは想像もつかない。しかし、違うとはっきり言葉にできないくらいには、自分は彼を知らなすぎた。
ならばこのままでいいのではないだろうか。自分のためだけではなく、人々のために。
言い訳のように、囁く言葉を否定する。
「どうか、許してください」
嗚咽に紛れ、呟かれた彼の言葉に肩を震わせた。
それは誰への謝罪なのだろうか。草原の先にいる影にか。それとも、彼自身にか。
懺悔にも似た響きに、自分の浅はかさを恥ずかしく思う。
彼と共にいるための理由を並べ立て、彼の思いなど見て見ぬ振りをして。
何かが嘲りを含んで、さらに囁いた。
彼を苦しめているのは自分の存在だ。自分がいるから彼は一人きりで縛られ続ける。故郷にも帰れず、仲間や愛しいモノにも会えず。
彼を悲しませているのは、他でもない自分自身なのだ、と。
唇を噛みしめ、俯いた。
囁きを否定できず、それでも何も言い出すことはできなかった。
澄み切った青空に薄い雲が流れていく、そんな秋晴れの午後。
いつものように社の中へと入り、彼の前に座る。緩やかに金色の眼を細めた彼が何かを言う前に、話があるのだと告げる。
「どのようなお話でしょうか」
金色が陰る。穏やかでありながら悲しみを帯びた声音に、決意が揺らぎそうになる。
「ずっと言い出せなかったことがあるの」
両手を握り締め、彼の眼を見据えた。逸らしてはいけない。逸らした瞬間に、きっと何も言えなくなってしまうから。
少しの沈黙。静かに息を吸って、微笑みを浮かべる。
「私、あなたのことが好き」
彼の眼が見開かれ、息を呑む音が聞こえた。
「あなたを、愛している」
ここで口を閉ざせば、まだ彼と一緒にいられる。
弱い自分がそっと囁いた。聞こえない振りをして、さらにきつく両手を握り締める。
「だから、あなたには自由でいてほしい。私に縛られていてほしくないの」
「っ、それは」
「――あびどす」
Avidus。
正しい言葉の響きではないだろう。けれど彼には伝わったようだ。
「どうして……何故、その名を……!」
「遠い異国の空を舞う竜。どうか故郷へお帰りください」
ざわり。社の中で風が渦を巻いた。
彼の見開かれた眼が歪む。ばきり、ばきりと、何かの音がして、彼の姿が膨れ大きくなっていく。
彼の大きさに耐えられなくなった社が崩れていく。割れた壁の隙間から光が差し込み、彼の姿を露わにしていく。
鈍く煌めく鱗。鋭い牙や爪。長い尾と、大きな翼。
何度も夢で見た、あの茜空よりも赤い色をした竜が、そこにいた。
大地を振動させるような、力強い咆哮。がらがらと音を立てて、彼を縛り付けていた社は跡形もなく崩壊した。
「愚かな人間。愛を囁いた唇で別れを告げるなど、許せるものか」
怒りを宿した金色の眼に見据えられ、思わず肩が震える。
竜の腕に体を掴まれる。今までの彼からは想像もつかないほどに荒々しく、乱暴に。
爪先が肌に食い込み、その痛みに顔を顰める。それを彼は酷薄に嗤った。
「哀れだな。俺を解放すると言いながら、解放されたかったのか?だが、貴様は俺のものだ」
彼の顔が近づく。爪が食い込み滲む血の匂いを嗅ぎ、舌先が傷口を抉る。痛みに声を上げれば、彼はさも愉快だと言わんばかりに眼を細めた。
「――あぁ、そうだ」
不意に、彼が顔を上げる。その視線が街の方角へと向けられていることに、背筋が粟立った。
「俺を封じた忌々しい人間共に、報いなければな」
「駄目っ!」
彼の言葉を遮るように声を上げた。身を捩ったことでさらに深く爪が食い込むが、止まる訳にはいかない。
「俺に指図するつもりか」
苛立ちを隠そうともしない冷たい声音。
以前の彼との差異に苦しさを覚えながらも、その金色の瞳を見返した。
「あなたに、人を傷つけることはさせない」
「貴様に何ができる。この手の中から、どうやって俺を止めると?」
鼻で笑いながら、彼は握る手に力を込めた。
骨が軋むような痛みに、声が上がる。滲み出す視界で、それでも彼を見続けた。
確かに彼の言う通りだ。こうして彼の手の中で、痛みに泣くことしかできない自分にできることなどないのだろう。
それでも言葉を交わせば、彼は理解してくれるのかもしれない。そう期待してしまうほどには、穏やかで優しい彼を信じていた。
「お願い。人を傷つけるのは止めて。このままあなたの故郷に帰って」
どうか、と願いを込めて告げれば、彼の眼が鋭さを増した。長い尾が地面を強く打つ。感じる振動に、思わず身を強張らせた。
「気に入らんな」
彼の声はどこまでも冷たい。
「貴様は俺のものだ。俺以外を思うことは、一時でも許しはしない」
体が宙に浮く。体を掴む彼の手が持ち上がったからだ。
彼の眼前まで持ち上げられ、不快に歪む眼が強く自分を睨む。牙を剥き出しにして、怒りを露わにする。
「俺のことだけを考えろ。この体も、命も、貴様を構成するすべてが俺の所有物だと理解するんだ」
溢れ落ちた涙を、彼の舌が拭う。吐息が頬にかかり、その熱さに眼を閉じた。
「この結末は、貴様が招いたことだ。精々己の軽率さを恨めばいい」
残酷なほど甘い声が頭の中に響く。
その声を最後に、意識は黒く塗り潰された。
次に目覚めた時、そこは闇の中だった。
目を開けているのか閉じているのか。それすらも分からなくなりそうな、真っ暗闇。触れる壁は湿った生暖かさを孕み、鼓動を刻むように微かに振動しているのが感じられた。
「――?」
彼を呼ぼうとして口を開くが、声は出ない。喉に手を当て何度か試したが、吐息一つ音にはならなかった。
込み上げる不安に、彼を探して手探りで歩く。泥の中のような粘ついた地面に何度も足を取られ、体がふらつく。嫌な場所だ。早くここから出て、彼に会いたい。
とても静かだ。足音一つ聞こえず、辺りは塗り潰したかのように少しの輪郭も浮かばせない。
自分は今、どこにいるのだろうか。
彼は近くにいるのだろうか。
いくつもの疑問が浮かび、答えが出せぬままに過ぎていく。何も見えず、聞こえないこの状況に、可笑しくなってしまいそうだ。
不意に、足を掴まれたような感覚がして、そのまま地面に倒れ込む。
痛みはない。弾力のある柔らかな地面は、しかし次の瞬間に音もなくうねり出した。
「――!」
四肢を絡め取られ、地面の中へと呑み込まれていく。いくら暴れても、抜け出すことはできない。ゆっくりと、だが確実に体が沈み込んでいく。
肌に触れる地面の感触に顔を顰めた。夢の中で、彼に背後から抱き竦められている時に感じたそれよりも高い熱。じわりと体の内側に入り込み、すべてを解かしていく錯覚に恐怖を感じて体が震え出す。
「――っ!」
無駄だと知りながらも、何度も声の出せない喉で彼を呼び続けた。
彼の姿が見えない。声が聞こえない。
彼のいない絶望に、心が壊れていく音が聞こえた気がした。
泣きながら名を呼び続ける女の声を聞きながら、竜は恍惚とした笑みを浮かべた。
「そうだ、それでいい。俺のことだけを思い、泣き叫べ」
そっと自らの腹を撫でさする。
先ほどまでの激情は凪ぎ、あるのは女への愛しさと、望郷の思いだけだ。
見上げる空は、青から赤へと色を変え始めている。
翼を広げ、風を起こす。それは荒れ狂う風となって、社の残骸や周囲の木々をなぎ倒した。
竜の動きが伝わったのだろう。か細い女の悲鳴に、竜は再び宥めるように腹を撫でる。次第にすすり泣きに変わっていく声に愛を囁きかけ、だがそれが言葉になる前に竜は静かに口を閉ざした。
竜の眼が僅かに陰る。
女にはもう、竜の言葉は届かない。終ぞ思いを伝えられなかったことに気づき、竜は密かに嘆息した。
「俺を手放す貴様が悪い」
愛の代わりに口をついて出た言葉は、子供の言い訳のように空しく響く。
後悔はない。
元々本能が強い種ではあるが、竜は一際欲が強かった。
貪欲であり、常に何かを渇望する。封じられたことで穏やかになってはいたが、その本質は変わらない。
永い時を孤独に縛られていたある日、訪れた一筋の光。優しく暖かく照らすそれを竜は心から愛し、欲しいと願った。
「愛などと、見え透いた嘘で俺を騙そうなどと」
女の言葉を思い出し、竜の眼に仄暗い光が灯る。
女に愛を告げられた時、竜は歓喜に胸が震えた。だがそれは女の続く言葉に、憎悪にも似た怒りに塗り潰されてしまった。
竜は本能で生きるモノだ。弱肉強食。弱きにかける慈悲などはない。
故に、竜には女の献身が理解できなかった。
ただ女が愛を告げた時に、言葉を返していたのなら。叶わないもしもを、竜は思う。
もしも己も愛していると告げたのならば。夢の中ではなく現実で、正面から女を抱けていたのだろうか。苦痛に歪む顔ではなく、女の微笑みが見られたのだろうか。
「今更だ。どんな過程を得たにしろ、貴様は俺のものなのだから」
自嘲染みた笑みを浮かべる。
もう一度腹を撫でてから、空を見上げた。遠い故郷へ帰るために、大きく羽ばたく。
「――Procella」
愛しげに名を呼ぶ。
それは故郷の空を舞う同胞の名か。
それとも、名も知らぬ女のための新たな名か。
風が巻き起こる。周囲を薙ぐ風が竜の翼を震わせる。一際大きく羽ばたいて、竜の体は空高く舞い上がった。
故郷を目指し、竜は雄々しく飛んでいく。
その眼から蕩々と流れ落ちる涙に、竜は気づくことはなかった。
20250904 『言い出せなかった「」』
9/6/2025, 9:32:55 AM