sairo

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「――あれ?」

見慣れぬ鳥居を前にして、思わは戻る前に、雨に降られてしまうだろう。
眉を寄せて目の前の鳥居を見つめた。石段を上がった先を覗うことはできないが、社か何か雨を凌げる建物があるかもしれない。
僅かな期待を胸に、雨から逃げるように鳥居を潜り抜け、石段を駆け上がった。



石段を上がった先には小さな社があった。
長く手入れをされていないのだろう。朽ちかけた社に、足が止まる。
ぽつり。肩に触れた冷たい感覚に、はっとして空を見上げた。
ぽつりぽつりと、灰色の空から振る雨が顔を濡らす。

「仕方ない、か」

幸いなことに、雨の勢いはそれほど強くはない。朽ちかけてはいても、雨を凌ぐことはできるだろう。
そう判断して早足で社に近づくと、暗い中へと足を踏み入れた。



「――おや、珍しい」

入口に座り止まない雨を見ていると、不意に奥から声が聞こえた。
ぎくり、と体が強張る。こんな朽ちかけの社に自分以外の存在がいることが信じられず、怖ろしさに肩を震わせた。

「あぁ、そう警戒なさらないでください。私はただの抜け殻。社に縛られ、外に出ることの叶わぬモノです。ここに足を踏み入れた者を害したことは、一度もありません」

振り返れば、奥の暗がりに金色の光が二つ煌めいていた。時折瞬くそれが声をかけた誰かの瞳だと気づき、狼狽える。

「そこにいては、吹き込む風と雨で体が冷えてしまうでしょう……どうぞこちらへ。雨が上がるまでの間、お休みください」

穏やかな声音に、強張る体から力が抜けていく。
そろり、と奥へと足を踏み出した。明かりのない社は薄暗い。外から見た時には、中も荒れているのかと思っていたが、不思議と雨漏りも床の痛みもみられなかった。
暗がりの灯る誰かの金色の瞳を前に、腰を下ろす。聞きたいことはあるが、瞳を見ていると言葉が何一つ出てこない。
雨の音が社に響く。
目の前の誰かも何も言わず、けれどその沈黙に何故か心地良さを感じていた。
低い声からして、目の前にいるのは男の人だろう。彼は一体何者なのか。縛られているとはどういう意味か。
雨の音を聞きながら、いくつもの疑問が込み上げるが、相変わらず言葉は出てこない。

「何も、知ろうとなさらないで下さい」

その疑問を見透かしたように、彼は言う。

「どうか何も知らずに……雨が上がるまでの僅かな時を、共に過ごさせてください」
「寂しいの?」

憂いを帯びた彼の声音に、自然と声が出た。灯る瞳が驚いたように見開かれ、そして静かに細められていく。

「――えぇ、そうですね。永い間、ここにひとりきりでおりました。それも運命と受け入れておりましたが、私は寂しいのでしょうね」

自嘲するような吐息。
すべてを諦めているような、静かな声だった。

ふと、雨の音が消えていることに気づく。入口を見れば、僅かに見える空に青空が見え始めていた。

「雨が上がりましたね。お気を付けてお帰りなさい」
「えっと……ありがとう」

促されて、彼に背を向けて外へと向かう。
見上げる空に、もう少し雨が続いてくれればと、八つ当たりじみたことを思った。

「こちらこそ。久方振りに楽しい時間を過ごせました」

優しい声に振り返る。
金色の瞳は、変わらず仄かに瞬いている。社に縛られているという彼は、その場から動けないのだろうか。

「――また、会いに来るから」

思わず口をついて出た言葉に、彼だけでなく自分も驚いた。
しかし、嫌ではない。彼と過ごした時間はとても穏やかで、離れがたいと思ったことも事実だった。

「それは――」

彼が何かを言う前に外へと駆け出す。
ふわふわとした、夢見心地がいつまでも続いていた。



不思議な出会いの後、言葉通り数日おきにあの社の元へ通っていた。
彼について、変わらず何も分からない。知らないでくれと願われて、敢えて知ろうともしなかった。
ただ、何も語らずその静寂を楽しみ、時折いくつかの言葉を交わす。それだけで満たされた気持ちになった。
彼について知りたい気持ちはある。しかし知ってしまうことで、二度と会えなくなるのは嫌だった。
彼といつまでも一緒にいたい。
いつしか自分は、彼に淡い想いを抱くようになっていた。


ある夜。不思議な夢を見た。
茜空の下、どこまでも広がる草原を歩いていた。
隣には彼がいる。視線を向けなくても、気配で感じられた。
風が流れ、雲が過ぎていく。影が伸びて、見えたものに息を呑んだ。
自分と彼と。二人分の人影。しかし彼の影は時折揺らぎ、別の姿を形作る。
長い尾。大きな翼。
不意に影が差し、空を見上げた。
茜空をいくつもの巨大な何かが飛び交っている。
鳥ではない。物語の中にだけ存在するはずのそれは――。

「言ってはいけません」

口にしかけた言葉は、背後から伸びた指に止められる。

「私の正体を口にすれば、私はあの社から解放される……ですがそれは、あなたとの別れを意味しています。どうかこれ以上、知ろうとなさらないでください」

彼の人差し指が触れたままの唇で、どうしてと声なく呟いた。
解放されるのならば、彼にとってそれは喜ぶべきことだろう。なのに何故、そんなにも悲しい声音で何も言うな、知るなと懇願するのか。

「あなたとの穏やかな時間を、このまま楽しんでいたいのです……故郷への思いを捨てた訳ではない。同胞を忘れた訳でもない……ですが、どうか」

震える声に、口を閉ざす。
彼と共にいたいのは、自分も同じだった。
唇に触れた指が静かに離れ、代わりにそっと抱き締められる。彼に触れられたのは初めてだ。
彼から伝わる体温と鼓動に、次第に頬が熱を持つ。早くなる鼓動を彼に知られるのが恥ずかしくて、今すぐに離れてしまいたい。けれどこのままずっとこうして彼の熱を感じていたい。
相反する感情に、くらりと甘い目眩がした。

伸びた人影は二人分。重なったひとつが、広い草原に伸びていく。
気づけば空を飛んでいた影は見えず、世界に二人だけが取り残されたような気持ちになる。
彼は何も言わない。自分も何も言う気はなかった。
口にしてはいけない、彼の秘密。誰にも知らせることのできない、彼との関係。
きっとこの気持ちは、彼にすら伝えられない。

日が暮れていく。紺に染まり出す空を見ながら、この時が永遠に続いてほしいという願いを、そっと心の奥底に隠した。



20250903 『secret love』

9/5/2025, 12:13:00 AM