sairo

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当てもなく、ただ歩き続けていた。
自分にはもうなにも残されてはいない。行くべき場所はなく、帰る場所は失った。敢えて残るものをあげるとすれば、この体くらいなものだ。
俯きがちに、ふらふらと歩みを進める。
人通りの少ない場所を選んで進み、気づけば見知らぬ場所まで辿り着いた。

不意に足を止めた。
目の前に佇むのは、古びた洋館。本を通してしか見たことのない異国調の建物は、無人なのかひっそりと影を落としていた。
無意識に手が門扉へと伸びる。きぃ、という鈍い音を立てて鉄の扉が開き、小さく肩を震わせた。
慌てて手を下ろし、後退る。何を考えていたのだろう。無人に見えるからといって、中に無断で入ろうなどとは。
頭を振り、洋館に背を向ける。足を踏み出したその時、不意に冷たい風が通り過ぎた。

――きて。

ただ一言。
空耳だったのかもしれない。けれど洋館を振り向けば、窓の端に赤い何かが揺らいでいるのが見えた。
惹かれるように足を踏み出す。
ぎぃと、重苦しい音。
振り返るより先に、背後で門扉が閉じた。



迎えるように開いた玄関扉を抜け、中へと足を踏み入れる。
そこは広い玄関広間だった。
暗がりの奥には、見たこともない大きな階段が伸びている。吹き抜けの高い天井には、煤け鈍く煌めく飾り。確かシャンデリアと言っただろうか。
壁に掛けられたたくさんの肖像画が、こちらを見ている。そんな居心地の悪さに、広間で立ち尽くす。

「――こちらへ」

微かな声がして、視線を向けた。
右手の廊下の奥。閉ざされた扉の隙間から、仄かな灯りと笑い声が漏れていた。

「おいで」

再び声が聞こえ、足が自然と扉へ向かう。取っ手に触れる前に、迎えるように扉はひとりでに開いた。

甘い香りが、鼻腔を擽る。
蝋燭の灯りが揺らぐ。客間らしき中は思いのほか明るく、広々としていた。

深紅の布で覆われた窓。黒檀のように艶やかな床。
広間とは違い壁に掛けられているのは、花々や果実の絵。
それらは重々しさを湛えながらも、どこか華やいだ雰囲気を纏っていた。
部屋の中央には円い卓が据えられ、傍らには優美な椅子が三つ並んでいる。

そこに、三人の女が腰掛けていた。
赤、緑、青――それぞれ色鮮やかなドレスを身に纏い、艶やかな微笑みを浮かべている。
とても美しい人たちだ。あるいは、人ではないのかもしれない。

「ようこそ」
「待っていたわ」
「さあ、こちらへ」

蠱惑的な声音。白くしなやかな指が手招いて、ふらりと体が室内へ入っていく。
三人の前まで歩み寄ると、自然と膝をついた。
赤、緑、青。三色の瞳に見下ろされる。まるで裁きを待つ罪人のようだとぼんやり思いながら、彼女たちの言葉を待った。

「貴女の望みは?」

赤い女が囁く。手を差し伸べ、願いを言えと嗤っている。

「命か、富か、名声か」

緑の女が歌うように言葉を紡ぐ。その甘さに目眩がした。

「さあ、貴女は誰を選ぶのですか?」

静かに青の女が告げる。
差し述べられる三人の手。逡巡し、目を伏せ首を振った。

「何もいらない。望まない」

すべてを失った今、新しい何かを得てもきっと空しいだけだ。
誰の手も取らずにいれば、三人の纏う空気が僅かに変わる。張り詰めた空気に、蜜のような熱が混じった。戸惑いにも似た歓喜が、視線となって肌に絡みつく。そんな錯覚に、密かに息を呑んだ。
立ち上がる気配。顔を上げれば、一瞬蝋燭の揺らぎに合わせて三人の姿が歪んだ気がした。

「それなら、遊びましょう」

赤の女の白い指が、唇に触れる。
その横で緑の女が手を絡め、ほんの僅か爪を立てる。
その瞬間、鈍い痺れが全身に走った。
意識が揺らぎ、思考が定まらない。
促されるままに立ち上がる。ふらつき傾ぐ体を支えられ青の女に凭れれば、頬を包まれ瞼に軽く口づけられた。
意識が、感情が沈んでいく。
心の底で違和感は灯っていたが、表層へ形として浮かべられない。
現実が限りなく薄くなっていく。夢見心地の覚束ない足取りで、三人と共に部屋を出た。



連れられた先は、広い寝室だった。
鏡台を背に椅子に座らされ、緑の女が目の前に膝をつく。

「今よりも美しくしてあげるわ」

妖艶に微笑み、指を重ねる。
鏡台の引き出しを開け、細い瓶を取り出した。
中で揺れる液体は、黒に似た緑色。瓶から筆を引き抜き、手を取って指を広げさせた。
筆が爪先をなぞり、艶やかな暗い緑へと染め上げていく。冷たい感触と草花のような香りの心地良さに、ほぅと吐息が溢れ落ちた。
しかしそれは、次第に緩やかな痺れに変わる。爪先から這い上がり、全身に回り出す。
息苦しさを覚えた瞬間、痺れは鋭い痛みに変わった。

「っ、あ、ぁ……!」

微睡んでいた意識が覚醒する。
沈んでいた感情が、恐怖を伴い警鐘を鳴らし出す。

「や、……め……っ」

だがすでに手遅れだった。
手を引きたくとも、指先ひとつ動かない。
全身を貫く痛みに、呼吸すらままならない。言葉は呻きに変わり、涙として流れ落ちていく。

「苦しいのは最初だけよ。毒が回りきれば、それは極上の甘さになるから」

緑の女が涙を拭い、囁いた。その言葉に従うように、痛みはゆっくりと溶けていく。
激しい痛みは熱となり、体を震わせる。
鼓動が速い。呼吸は荒く、溢れる吐息もまた熱かった。

「綺麗よ。とてもね」

緑に染められた爪が艶やかに煌めく。
体を蝕む痛みはなく、あるのは恍惚とした甘美な熱だけだ。緑の女の言うように、毒が全身に回りきってしまったのだろうか。

霞み始めた意識で爪を見ていれば、緑の女は音もなく立ち上がる。
入れ替わるように青の女が近づいて、体を反転させられ鏡台を向かされた。

白い指が髪を撫でる。
その手には、一本の梳き櫛。静かに髪に差し入れ、梳いていく。

「――あぁ」

髪を梳かれる度に、体を蝕む熱が凪いでいく。痺れが緩やかな眠気に変わり、体が弛緩していくのを感じた。

「良い子ですね……そのままお眠りなさい」

柔らかな声音。密やかな微笑み。
心地良い微睡みに、ゆるりと目を閉じ、そして開いた。
鏡に映るものの変化に、目を見開く。
そこには自分と、三人の女の姿はなかった。
背後の長椅子に腰掛けこちらを見つめる、赤いドレスを纏った骸骨。
その隣で嗤うのは、眼窩に蛇を這わせた緑の女。
髪を梳く青の女の目は縫われ、その肌は死者を思わせる程に青白い。

「――っ」

恐怖に声を上げかけるが、同時に不思議な安堵も込み上げた。
それは、人ならざるものに囚われたことへの諦念だったのかも知れない。

青の女が髪を梳く。
恐怖を、感情を、意識を、先ほどよりも深みへと沈めていく。二度と浮かび上がらないような、奥底へと。
残るのは、穏やかで甘い眠気だけ。

「そう。受け入れなさい。望まぬのならば、貴女のすべてを差し出すのです」

静かな囁き。
閉じた瞼に、口づけを落とされる。
力なく身を委ねれば、褒めるようにそっと髪を撫でられた。


微かな衣擦れの音がする。
肌が外気に触れ、熱を失った体が震え出す。
目を開ければ青の女の姿はなく、赤の女が艶やかな微笑みを浮かべて肩を支えていた。

「おいで」

震える体を赤の女に支えられ、立ち上がる。
爪先が凍てつくように冷えている。だというのに、頬は火照り、溢れる吐息もまた熱を孕んでいた。

「ほら、綺麗になった」

姿見の前まで連れられ、自分の姿を晒される。
気づけば、服が替わっていた。白布を纏ったその身は、まるで死装束のようにも、花嫁衣装のようにも見えた。
そんな自分の肩を抱いて、姿見の中で骸骨が笑う。
自分もまた、その姿を見て笑っていた。

「踊りましょう」

肩を支える手が下り、手を取られる。
冷たい手。熱を求めて震える指先を絡めれば、体は自然に動き出す。
軽やかに床を滑り、舞う。骸骨の腕に抱かれ、旋回する。
いつしか震えは止まり、冷たさも熱も何もかもを感じなくなっていた。
ただ骨の手に導かれるままに、舞い踊る。

外の世界も、過去も、未来も消えていく。
残されたのはただ、死と共に踊り続ける、自分の微笑みだった。





広いダンスホールで、一人舞う。
あれからどれ程の年月が経ったのかは分からない。時折聞こえる誰かの叫びなど、もう気にもならなくなった。
くるり。ステップを踏み、宙を舞う。緑に染められた爪が鮮やかに煌めき、白のドレスがふわりと広がる。
三人の祝福を受けたこの体は、時を刻むことを止めた。朽ちることもなく永遠に留められたままだ。

不意に、ホールの扉が開いた。戻ってきた三人に踊り続ける体を抱き留められる。

「今日の人間はとても酷かったわ。三人すべてを望むのですもの」

緑の女が不快げ眉を寄せ、甘えるように手を取り擦り寄った。

「だからね、一番長く苦しめる毒を与えてあげたわ」
「私は眠りを与えませんでした。最期の時まで、朽ちる自身の体を見ることになりましたね」

青の女が髪を掬い、口づける。表情こそは穏やかだが、その声音は酷く凍てついている。

外の世界では、ここは願いを叶える館として噂になっているらしい。
三人の試練を乗り越え祝福を受ければ、望むものが手に入るのだという。
けれど自分の知る限り、三人から祝福を受けた者はいなかった。三人もまた、誰かに祝福を授けたことはないという。
自分以外には、何も授けてないのだと。

赤の女へと視線を向ける。
変わらず艶やかな微笑みを湛え、こちらを見つめていた。
その姿は次第に揺らぎ、骸骨の姿へと戻る。
気づけば側にいる二人も、本来の姿へと戻っていた。

「踊りましょう」

骸骨が手を差し出す。それにためらいなく手を重ね、笑みを浮かべながら踊り始めた。
音楽などはない。無音のホールで導かれるまま、求められるままに踊り続ける。
骸骨の手を離れ、蛇の手を取る。蛇の牙が首筋を噛み、回り始めた毒の甘美な痺れに酔い痴れた。
蛇の手を離れ、瞼を縫われた女へと凭れかかる。足は止めない。覚束ない足取りで、さらに早くステップを踏み続ける。
タランテラ。終わらない死の舞踏。

瞼に口づけを受けながら、今日もまた死へと至る恍惚を繰り返した。



20250910 『Red,Green,Blue』

9/12/2025, 9:32:12 AM