sairo

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長かった夜が、台風を連れて去っていった。
空を見上げれば、昨日の重苦しい灰色の雲は欠片もない。どこまでも澄み切った青空が、何も知らない顔をして朝の訪れを告げていた。
視線を下ろし、目の前の庭を見渡す。澄んだ青空とは真逆の惨状に、思わず溜息を吐いた。
折れた枝と泥にまみれた葉が一面を覆い、屋根瓦が数枚、割れて転がっている。どこからか飛ばされてきたのだろうバケツやじょうろが葉に埋まり、隅には見覚えのない看板までもが泥に突き刺さっていた。
庭木が持ちこたえているのが、奇跡だと言えるだろう。周囲の花の茎の殆どが無残に折れてしまっている。
壊れ、折れ、ゴミが散乱している光景は、昨夜の狂気の爪痕を生々しく残していた。

思わず目を逸らしたくなるほどの惨状。だが目を逸らした所で何も変わらないと、手にした袋を開きながら庭に降り立った。

無心でゴミをより分けていく。
瓦、植木鉢、バケツ。
袋に入れられないものは、取りあえず突き刺さっている看板の側に集めた。
木の枝、葉。折れた花。
終わりの見えない作業に、幾度となく気が遠くなりながらも、袋の山を気づいていく。
ビニール袋、猫、チラシ。

「――ん?」

手を止めた。
今、何か違うものが混じっていたような――。
ゴミを入れたばかりの袋を開ける。チラシを掻き分けていけば、しっとりと濡れた真白い猫が現れた。
体を持ち上げて袋から出し、無言で見つめ合う。
随分と綺麗な猫だ。濡れてはいるが毛並みは雪のように白く、青い瞳は空を映したように煌めいている。
飼い猫だろうか。首輪はないが、こんなにも綺麗な猫だ。きっと飼い主がいるに違いない。
それにしても、随分とおとなしい。人慣れをしているにしても、少しは反応があってもよさそうだが。

「そろそろ助ける気になってもらいたいのだが」

声がした。
随分と低く、渋い声だ。それは目の前の綺麗な猫から聞こえた気がした。
目を瞬く。
猫がしゃべるはずはない。気のせいだと思いながら、確認のために口を開いた。

「えっと……今、しゃべらなかった?」
「話したさ。このずぶ濡れで哀れな身を見ても、まったく気にかける様子がないのだから……いい加減に、風邪を引いてしまう」

愚痴を溢し、猫は溜息を吐く。
猫が、しゃべった。
その衝撃に、十秒経って悲鳴を上げかけた時。

「――くしゅんっ!」

猫が大きくくしゃみをした。
渋い声には似合わない程、可愛らしいくしゃみだった。



「いいか。片付けで、疲労が溜まっているだろうことは理解できる。だとしてもだ。ずぶ濡れの哀れな小動物を、あろうことかゴミに捨てるとは、どういう了見なんだい」
「――大変、申し訳ありません」

その後、慌てて家に戻り、タオルとドライヤーを取り出し猫を乾かした。
バスタオル二枚と、三十分以上のドライヤーをかけ、ようやく猫の毛が乾いた後。何故か今、こうして猫にくどくどと文句を言われている。
言っていることは間違いではないため、何も言い返せないのがもどかしい。だとしても、人をさも極悪人か何かのように語るのは如何なものだろうか。

「本当に反省しているのかい?一晩寝たら、忘れてしまうのではないだろうね」
「滅相もございません」

ソファに座る猫とは対照的に、その前で正座をしているのも可笑しいのではないだろうか。
そもそも、人の庭に紛れ込んだのは猫の方で、それを助けた自分は何の非もない気がする。
いくつも込み上げる疑問や不満が顔に出ていたのだろう。
猫は疲れたように溜息を吐いて、やれやれと首を振ってみせる。

「まあいい。どんな仕打ちを受けたとして、最終的に助けてもらったことは事実だ……何か礼をしなくては、いけないな」
「お礼……?」

猫の恩返し。
どこかで聞いたことのある言葉が、脳裏を過ぎていく。

「さて、何が欲しい?金か、能力か、はたまたすべてか……欲深いのは、人間の特徴だからな。欲しいと願うものを言えば良い」
「いや、私は別に……」

何だか、生臭い話しになってきた。
綺麗な外見からは想像もつかないほど、猫の言葉は毒々しい。渋い声も相俟って、そのギャップに目眩がしそうだ。

「謙遜するな。己の本能にただ従えばいいのだよ」

本能に従うのなら、お礼は良いから早く出て行って貰いたい。そうは思うものの、青の瞳に見つめられるとその思いは一言も言葉にはならなかった。
願い事。何か言えば、帰って貰えるだろうか。何かあるかと、必死で思考を巡らせる。

「――あ」
「ようやく、決まったかね」

数分悩んで、思い浮かんだのは外の惨状だった。

「あの……庭の、片付けを……お願いしたい、です」

恐る恐る切り出せば、猫はきょとりと目を瞬かせた。
その表情は大変可愛らしい。思わず抱き締めたくなり、必死で衝動を押さえ込んだ。
とは言え、渋い声を思い出せば、一瞬で衝動は萎んで消えたのだが。

「そんなことでいいのかね?」

訝しげに聞かれ、何度も頭を縦に振る。
庭の片付けに困っているのは確かだ。欲を言えば壊れたものも直して欲しいが、あまり望み過ぎるのはよくないだろう。

したん、と尾が大きく揺れた。

「――明日の朝には、すべて片付けるようにしておこう」

ややあって口を開いた猫は、随分と穏やかな声音でそれだけを告げると、軽く伸びをしてソファから飛び降りた。
しなやかな足取りで玄関へと歩いて行く。慌ててその後を追い、玄関扉を開けた。

「ついでに、昨日の風雨で壊れたものも直しておこう。さーびすというやつだ」

開いた扉から外へ出て、猫は一度だけ振り返る。優しく微笑まれた気がして、息を呑む。

「では、またな」

何か声をかけようとして、それを遮るように猫は告げる。
え、と思った瞬間には、猫はすでに庭の向こう側へと消えていった。

「――また、って言った……?」

呆然と呟く。
猫が再びやってくる。そう思うと、どっと疲れが滲み出て、肩を落とし扉を閉める。

夢だ。きっとそうに違いない。

現実逃避をしつつかけた鍵の音が、やけに大きく聞こえた気がした。



次の日。台風が過ぎ去った後とは思えないほど、元の状態を取り戻した庭と、

「ここは客を、もてなすこともしらんのか」

当然のように部屋のソファでくつろぐ猫を見て、

「やだぁあああっ!」

力の限り叫んだのは、仕方がないことだった。



20250912 『台風が過ぎ去って』

9/14/2025, 7:54:15 AM