sairo

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厚い雲が覆う空を見上げ、溜息を吐く。
雨が降りそうで降らない。どっちつかずな天気に、気分が重くなる。
もう一度溜息を吐いてから、鞄の中に折りたたみ傘を入れ、外へ出た。
じっとりと湿った空気が肌に纏わり付く。振り払うように足を速めれば、道の先に黒い影が佇んでいるのが見えた。あぁ、まただ。何度目かの邂逅に、密かに息を呑む。俯き少しだけ足を緩めながら、その横を通り過ぎようとした。

「――水瓶」

聞こえた声に、思わず立ち止まる。
見たくはないと思うのに、体は意思に反して顔を上げる。擦り切れた、黒のローブを纏った誰かが指を差す方向へと視線を向けた。
厚く黒い雲が広がる中で、一カ所だけが妙に明るい。
太陽が近いからなのか、まるでスクリーンのようなのっぺりとした白の雲の中心。何かを模ったような雲があった。
水瓶。誰かが告げた言葉が浮かぶ。
水瓶が傾き、中の水が零れていく。受け止めるはずの水瓶はなく、地面に零れ落ちていく。
もう戻せない。受け入れて先に進まなければ。何故かそう思った。

「均整は崩れた。嘆きは意味を持たず、振り返ることはただの愚行だ」

無機質な声音が告げる。抽象的な言葉に意味を求めて視線を向ければ、すでにその姿はどこにもない。
もう一度見上げた空にも水瓶の形は見えず、仕方がないと眉を寄せて歩き出した。



あれが一体誰なのか、全く分からない。
曇りの日に現れる、黒いローブを纏った人物。誰かといる時には姿を見せない、人なのかも分からない何か。
最初は、占いめいた言葉を話した。どうすればいいのか、何をしてはいけないかを、抽象的な言葉で語っていた。
最初はただ戸惑うばかりで、指差す先に何も見えなかった。
それが変わったのは、一ヶ月が過ぎた辺りだ。
指差す先に、形が見えた。それは段々と形を明確にし、告げる言葉と同じものが見えるようになっていった。
その頃から、紡ぐ言葉が少なくなった。ただ事実を述べている。それが何を意味しているのか、どうすればいいのか、分からなくなった。
しかし、次第に頭の中に言葉が浮かぶようになった。雲を見て、直感的に言葉が浮かぶ。それに呼応するかのように、紡がれる言葉は益々少なく、抽象的になっていった。
まるで言葉を通して自分の中に入り込み、解けてしまっているようだ。
薄ら寒いものを感じて、肩を震わせる。
言葉は本当になる。従えば危機を逃れ、幸運を得ることができる。それに喜ぶよりも、恐怖が勝った。
会いたくない。聞きたくないと思っても、あのローブの人物は曇りの日に現れる。一人になるほんの僅かな瞬間に、雲を差し示し言葉を紡いでいく。
見たくない、聞きたくないと思うのに、足を止め指し示す方向を見上げる自分自身が、とても怖ろしかった。



気づけば、知らない場所でひとり、立ち尽くしていた。
目の前には砂漠が広がっている。人の気配はない。
立ち尽くす自分の横を、乾いた風が通り過ぎる。砂を巻き上げ、すべてを砂の下に覆い隠そうとしている。
ふと、気づく。自分の足もとに、何かがあった。
膝をつき、砂を払う。切り出された石の残骸。硝子の破片。
かつてそこに、人の営みがあったのだという名残が残っていた。

「――あぁ」

その瞬間、理解した。故郷は失われたのだと。
空を仰ぐ。煌めく陽が雲に覆われ始めているのが見えた。

――死神の鎌。

振り下ろされる鎌がもたらす終焉。永遠など、どこにも存在しない。

「終焉があり、再生がある。故郷を失い流浪の身となれど、言葉まで失われた訳ではない」

振り返れば、そこに黒いローブを纏った誰かがいた。
目深に被ったフードを外す。褐色の肌。強い意思を秘めた瞳。
気づけば、膝を折っていた。

「我らの血を継ぐ者。空に吉凶を視る力を宿す子。力を怖れず、驕らず、言葉を紡ぎ続けよ」
「でも……」

言い淀む。求められていない未来を紡ぐことに、意味はあるのだろうか。不用意に告げて、疎まれるのは怖かった。

「沈黙し、静観することは悪ではない。だがその結果を悔やむな。後悔に意味はなく、自身の根源を歪ませかねない」

静かな声が告げる。
唇を噛みしめ、強く手を握り締めた。
何も知らないままでいたかったという思いを見透かされているようで、視線から逃れて俯いた。

「絶えず注がれる水を受け止める瓶は溢れ、意味を成さなくなった。己が運命を受け入れよ。立ち止まらず、進み続けろ」

どうして自分なのかと、嘆いた所で何も変わらない。
分かっていても、進めない。目を瞑り、耳を塞いで、何も知らない振りをしていたかった。
臆病な自分の頭に、そっと何かが触れる。
顔を上げれば、暖かな手が頭を撫でていく。額に触れる手が恐怖を溶かしていくようで、小さく息を吐いた。

「我らの血は、故郷が失われたことで広がった。この先出会うこともあるだろう」

同じように、吉凶を視ることができる者に。

不意に、意識が揺らいだ。力が抜けて、瞼が閉じていく。
地面の感覚が曖昧になり、触れる熱が解けていく。

「我らは共に在る。いかなる時も、その影に宿る」

意識が沈んで、何も聞こえなくなった。





曇りの空に、緩やかに回転を続ける車輪を視た。
何かが新しく始まる予感に、強く手を握り締める。

「大丈夫。悪い感じじゃない」

確かめるように影を見れば、穏やかに揺れている。それに安堵して、前を向いた。
立ち止まらずに歩く。振り返ることもしない。

血に刻まれた遠い故郷を思いながら、ただ前に進み続けた。



20250922 『cloudy』

9/23/2025, 11:25:55 PM