「一緒にいてよ。僕と一緒にここで遊ぼう?」
少年が笑って手を差し伸べる。
少女は俯き、ただ首を振った。
夕暮れに染まる教室には、二人以外に姿はない。
誰の声もしない。何の音もない。
二人だけの空間。
「ここにいて。僕と一緒に、ずっと」
少年は笑う。少女は俯いたまま。
二人の視線が合うことはない。
その日も、普段と何も変わらない朝だった。
穏やかな秋晴れの青空。暖かな陽射しと、冷えた空気。
何も変わらない。強いて言えば、その日の風はやけに湿っていたように感じられたことくらいだ。
「おはよう!」
「おはよう」
笑顔で駆け寄る少女に、少年ははにかんで答える。
両親が親友同士で家も近い二人は、気づけばいつも一緒にいた。
それが当たり前だった。そしてそれはこの先も変わらず続いていくのだと、当たり前のように信じていた。
「ねぇ、宿題やった?」
「終わってるけど……また忘れたの?」
「ごめん!だって難しくて」
両手を合わせ拝む少女に少年は、溜息を吐きながらも笑う。
いつもの光景。何も変わらない一幕だった。
「次はちゃんと一人で終わらせるから」
「はいはい。そういって毎回終わらないのは誰だっけ?」
「――わたしです」
しゅんと項垂れる少女の頭を、少年は優しく撫でる。
頭を上げた少女に笑いかけ、その手を引いて歩き出した。
「じゃあ、早く学校に行かないとね」
「やったぁ!ありがとう」
「どういたしまして」
笑い合いながら学校に向かう二人の背を、道行く人が微笑ましく見守る。
悲しいほどに。笑顔の溢れるような朝だった。
その日。何があったのか。少年は自身の身に起きたことを、正しく理解できなかった。
轟音。振動。悲鳴。混乱と痛み。
気づけば、辺りは土と瓦礫に埋もれ、黒い煙が充満していた。倒れ伏す少女の側で、土の中から突き出た手が少年自身のものであると気づいた時、彼は自分が死んだことに気づいた。
恐る恐る近づいた少女が胸が僅かに上下しているのを見て、安堵する。だが充満する黒い煙と遠くで見えだした赤い炎が、ここに留まることの危険さを告げている。少女を連れて逃げようにも、少年の透ける手は少女をすり抜けて届くことはなかった。
辺りに生者の気配はない。絶望的な状況に少年が唇を噛みしめた時、少女の瞼が僅かに震えた。
ゆっくりと少女の瞼が開かれていく。少年の見守る前で、ぼんやりとした目が次第に焦点を結び、その目が驚愕で見開かれた。
「あ……あ……」
少女の目は一点に注がれている。土の中から突き出た少年の腕。まるで少女を突き飛ばした後、土砂に埋もれたようなそれを見続けたまま、微動だにしない。
近づく炎に焦りを覚えて、少年が少女の肩に手を伸ばす。
その手はやはりすり抜けたが、その思いが通じたのか、少女はふらつきながらも立ち上がった。
辺りを見回す。教室の惨状を認めて、少女の目から光が消えていく。
ぱりん、と。
儚い音を立てて、少女の心が砕けた音が聞こえた気がした。
その後、助けられた少女は、しかし目覚める様子はなく眠り続けている。
体には異常はみられない。おそらく心の問題だろうと医者は言う。
無理もない。誰しもがそう思った。
前触れもなく土砂崩れが起きた。山を切り開いて建っていた少女たちの通う学校は、殆どが土砂で埋まってしまった。生徒や教師の殆どが土砂に埋まり、無事だったのはほんの僅か。当時校庭で授業を受けていた数人の生徒と教師、そして少女だけだった。
管に繋がれ、眠り続ける少女の頬に少年は触れる。すり抜ける手と沈んでいく意識。
次に目を開けた時、少年は少女の夢の中にいた。
割れた硝子。ひしゃげた柱。
赤く染まる土に埋まる教室の中。
少女は今も、あの日の悪夢に囚われている。
「ねぇ」
土の中から突き出た手を隠すように、少年は少女に前に立ち微笑んだ。
虚ろに座り込み、首に巻き付く紐を引いていた少女の目が僅かに開かれる。
紐から手を離し、少年から逃れるように俯いた。
「遊ぼうよ」
少女の肩が震えている。はらりと落ちた紐が跡形もなく消え、少女の周りがほんの僅かに在りし日の教室の姿を取り戻す。
変わりに少年の周りは一層赤黒く染まり、どろりとした何かが足下を埋め尽くした。
静かに燃え上がる炎が、空を夕焼けに変えていく。
あの日の悪夢の再現が、少女と少女を閉じ込める怪異の構図に成り代わった。
少女は、正しく少年を認識できていない。俯いた視線は少年の顔を見ず、だからこそこの均衡が保たれている。
すべてを正しく認識してしまえば、少女は今度こそ躊躇わず首の紐を引くのだろう。
「一緒にいてよ。僕と一緒にここで遊ぼう?」
少年が笑って手を差し伸べる。
少女は俯き、ただ首を振った。
夕暮れに染まる教室には、二人以外に姿はない。
誰の声もしない。何の音もない。
二人だけの空間。
「ここにいて。僕と一緒に、ずっと」
少年は笑う。少女は俯いたまま。
二人の視線が合うことはない。
どうかそのまま。少年は笑顔の裏で、只管に願う。
顔を上げないで。気づかないで。
炎が空を赤く染める、時が止まったままの教室。
生きているものの気配がない世界。
少女が顔を上げない限り、夕陽を模した炎よりも赤く染まった教室に気づかない限り、それが崩れることはない。
どうか顔を上げないでと、心の内で繰り返す。
「このままずっと、二人だけで」
少女を怯えさせることに苦しみながらも、彼女のために少年は、怪異を演じ続ける。
20250923 『僕と一緒に』
9/25/2025, 3:43:29 AM